楽しい旅
1999キャメロンハイランド夢紀行
| 「ぼくが死んだら蝶になって君を見守ってあげる」 「もしそうだったら、どの蝶かわかる?」 「もちろん。大きなとりばねちょうになって 君のまわりをひらひらと舞うのがぼくさ」 「その蝶のふるさとはどこ? わたし訪ねていきたい」 「マレーシアだよ。小さな橋のすぐ傍に温泉が湧き出ていて ぼくはひらひらと舞って君を歓迎してあげる」 「ほんと?」 「遠い日、ぼくは生まれ変わる」 「また、会えるの」 「そうさ、そしてぼくらはまた出会うのさ」 |

アカエリトリバネアゲハを追いかけてマレーシアを旅行したのは
何度目になろうか。ボルネオのキナバル山の麓では走る車の窓
から青空を横切る蝶をチラリと見たが、あれがとりばねあげはだ
ったかどうか,今でもはっきり分からない。走る車の視界からあっ
という間に消えた幻の蝶。あのときの情景は瞼に焼き付いて今も
消えない。
こどものころから幻だったその蝶に出会えたのは,4年前のことだ
った。その年の暮れ、ぼくはクアラルンプールのデパートの社長
に就任した友人を訪ねてマレーシアを旅していた。
ホテルでの大
晦日の楽しい馬鹿騒ぎが終わって新しい年が
始まった最初の日、
ぼくは車を雇って郊外にとりばねちょうを
探し求めるあてもないハ
ッピーニューイヤー
のドライブに出かけた。
小一時間も郊外を走って、くねくねとした山道に差し掛かった
とき,
左手に小さな滝が見えた。
近くは道路工事の掘削で荒れ果ててい
たが、
そこだけは緑が濃く清澄な空気が霞のように漂っていた。
そのとき、滝を横切る黒い、いや黒というよりエメラルド色だろうか、
大きな蝶が目に飛び込んできた。
ぼくは慌てて車を止め、小走りに滝の方に小さな斜面を
駆け下りて
行った。
いた! ! あかえりとりばねあげはだ。
なんということだろうか。一頭が滝をすっと横切ると、
もう一頭がぼく
の方に向かってすうっと滑空してくる。
そしてじゃれるようにぼくの周
りを旋回すると、また滝の方から
別の一頭が舞い降りてきてぼくに
話し掛けてくる。
「ねえ、どこから来たの」
「私たちを見るためにわざわざ日本から来たの」
「ねえねえ、わたしたちそんなにきれい」

とりばねちょうはそんなことを語りかけながら
ぼくの周りを何度も何
度も旋回する。
すっかり安心しきって、もし、ぼくがコレクターだったら
なんて、これっぽっちも心配していない。
初めてとりばねちょうを見た妻も興奮しきって
「あっ、あっ」としか声
が出ない。
「ねえ、きょうはハッピーニューイヤーよ。なんでこんなところにいるの」
やがてぼくはとりばねちょうの会話に引き込まれていくようだった。
幻聴?
いや確かに話し声が聞こえるのだった。
ぼくと妻はそばの岩
に座って、ただ唖然としていた。
こんなに開発が進んだ郊外の、ちょっと緑が残っただけの
滝のまわりに
こんなにたくさんのあかえりとりばねあげはが
乱舞している。
滝の上の樹
林のどこからか、エメラルド色の蝶は湧き出るように
つぎつぎと舞い降り
てきてぼくにまとわりつくのだ。
これが幻でなくてなんなのだろう。時間を忘れ、呆けたようになったぼくは
岩の上からふわっと中空に飛び立つような幻想に襲われていた。
そうだ。あのとき、ぼくはきっととりばねちょうになっていたのだ。
はっと我に返ると、ぼくの後ろでしびれを切らした運転手が
不思議そうな
顔で見つめていた。
ぼくは今年夏、念願だったキャメロンハイランドに行くことにした。19マイ
ルで是非、とりばねちょうに会ってみたい。
クアラルンプール以来、そんな
思いが日々募るのだが仕事の方が
なかなか許してくれない。あれからもう、
4年もたってしまった。
そしてやっとその日が来たのだ。

クアラルンプールの新しい空港に降り立ったぼくと妻は、
スーツケースがな
かなか出てこないのにイライラしながら、
やっと午後5時過ぎ空港の外に出た。
その足で車を飛ばしてタパー(TAPAH)のREST HOUSEで
遅い夕食をとり、
そこから夜のくねくねした山道を2時間近く、
午後10時ころやっとキャメロン
ハイランドの宿泊地に
決めていたストロベリーパーク・リゾートに到着した。
しかし、1800メートルの高い山の上は意地悪で、毎日、毎日、
細かい雨が
降ってまるで晩秋のような寒さだった。
ぼくはすっかり落ち込んで、蝶など1匹
も現れない
有名なキャメロンハイランドの休暇にがっくりとして、
ゴルフなどに
うつつを抜かしていた。
ぼくはうかつだったのだ。キャメロンハイランドという名前だけを頼りに
ここまで
来たが、肝心の19マイルも7マイルも、ぼくの泊まっている
ホテルから、また、
車でタパーの方に1時間も1時間半も山を
降りたところにあるということを露ほ
ども知らなかったのだ。
ゴルフ場からホテルへ戻るとき、タクシーの運転手に「19マイルを
知っているか」
と聞くと「もちろんだ。おれが明日連れていってやる。
蝶を集めているのか」
「でもこんな雨ではだめだろう」
「なにを言っているんだ。山の上は雨だが、下は晴れて
いる。19マイルよりも7マイルはもっと快晴だ」
やっぱりぼくは馬鹿だったのだ。
ホテルのまわりの天気にばかりとらわれて、マレ ーシア全体が雨季
真っ只中というような考え違いをしていたのだ。車で1時間も走
れば、そこは乾季の快晴の天気が待っているというのだ。
キャメロンハイランドと いう名前に惑わされていたが、キャメロンハイ
ランドと19マイルとでは州も違うとい うではないか。
こんなところに泊まるより、タパーあたりの安ホテルに泊まった方が
よっぽど良かったのだ。

翌朝、ぼくは朝食もそこそこに済ませ、8時に迎えのタクシーをとり
山道を下った。
ホテルの回りは相変わらず深い霧に包まれていたが、
運転手の言う通り30分も走
ると雲が切れ、
薄日が射してきた。さらにくねくねと山道を降りる。
「ここが19マイルだ。でも、もっと山を降りよう」
運転手はどんどんスピードを上げた。1時間半。
心地よい河原のほとりに着いた。KUALA WOHという自然公園だった。
そこで車を降り、小さな吊り橋を渡って河原を歩く。橋を右手に折れて
ほんの100
メートルも行ったところから河原に降りた。
川の至る所から温泉が湧いていて生暖
かい。立ち込める
水蒸気の中でぼくは息を呑んだ。
温かい砂地の上にあかえりとりばねあげはが何頭も群がって吸水している。
10頭
はいるだろうか。3メートルほど離れた別の砂地にもエメラルド色の
翅をきらめかせ
て数頭のとりばねちょうがファミリーを作っている。
小さな川の向こう岸ではキャンプに来た小学生くらいの女の子たちが
明るい歓声を
上げている。男の子が数人、岩の上からドボンと
川に飛び込んだ。
そんな喧騒にも
拘わらずとりばねちょうたちは翅を小刻みに振るわせ
、悠然と吸水を続けている。
ぼくが1メートル位のところに近付いて吸水中の蝶たちを覗き込んでも、
とりばねちょ
うは逃げる素振りさえ見せない。
ぼくと妻は河原に座り込んで蝶たちを眺め続けた。
これは天国ではないのか。
ここでも安心しきった蝶たちがぼくにじゃれついてくる。
旋回してぼくから50センチくらいのところまで近付いては、またふわっと
ターンして戻って行く。河原をひとわたりもつれるように遊んでは、また、
ぼくのところに帰ってくる。
「気持ちいいよ。ねえ、ねえ、遊ぼう」
3頭のあかえりとりばねあげはが吸水から飛び立つと、楽しそうに
ダンスを始めた。
そのときだった。1頭の黒い蝶がその仲間に加わった。
ゆっくり翅を羽ばたくと大きな黄色い鮮やかな色が目に飛び込んできた。
ヘレナキシタアゲハだ。あかえりとりばねあげはとへれなきした
あげははまるで同じ家族のように仲良く遊んでいる。

ふうわりふわふわふんわりこ
河原の水はさらさらと
流れる水は甘くって
ここはぼくらの天国だ
ふわふわふわーりふんわりこ
それにしてもここで遊んでいる子供や家族連れは誰一人としてとりばねちょう
を捕ろうとしない。一緒になって河原で遊んでいる。
ぼくはその河原を少し歩いてみた。吊り橋を今度は逆に左へ、上流に
向かって150メートルほど行く。そこに一本の大きな樹があった。
「あれ、あれ見て」妻が大きな声で叫んだ。
キンモクセイのような花が5メートルぐらい高い梢いっぱいに咲いている。
その花にきしたあげはが5,6頭だろうか、ゆらゆらと揺れながら吸蜜して
いる。ときどき、そこから飛び立つと黄色い下翅がきらっ、きらっと輝いて見
える。小さな橋を挟んで下流はとりばねあげは、上流はきしたあげは。
やっぱりここはぼくが長いこと心の中に
描いていたあの舞台なのだ。
次の日、ぼくは19マイルに出かけた。山の上は相変わらず霧が巻いて
いたが、気持ちだけがあせってまた、8時頃からタクシーを走らせた。
今日は下もちょっと雲が
厚かった。
何の変哲もない19マイルの橋のたもとにある売店のところでタクシーを
止める。
しばらくぶらぶらしてみたが、何もいない。
ぼくは川沿いの踏み跡をジャングルの中に
入っていった。
でも、ブッシュが深くて50メートルも進むとそこから先はもう無理だ。
また、戻って橋のところをぶらぶらする。橋の向こう側は発電会社の小奇麗
な社宅が建ち、ブーゲンビリアの花が咲きこぼれている。谷の奥から出て
きた蝶たちがい かにも立ち寄りそうだ。
売店の裏の斜面のところに捕虫網を持ったこどもたちが何人か
こちらをじっと見て
いる。
網といっても2メートルくらいの棒の先にビニール袋をつけただけの粗末なもの。
これを使ってこどもたちは実に器用に蝶を捕まえる。
こどもたちのいる斜面のところに高床式の家が何軒か建っている。炊事をし
たり、洗濯物を干したり住民たちがかいがいしく生活している。
ためらったあとぼくはその民家に近寄っていった。家と家の間に細い道が
あり、その道はジャングルの方に続いていく。
「ハロー」
「グッド・モーニン」
適当なことを言ってぼくはどんどんその道を進んでいった。制止されるかと思
ったが、住民はニコニコして愛想がいい。
すぐ河原に出て、川沿いの道を崖沿いに歩いて行く。妻の足元が覚束ない。
ここから先はもう無理かなと思ってためらっていると、後ろから
ビニールの網を持った男がつ
いて来た。
ぼくに追いつくと「蝶か」と聞く。頷くと、ついてこいと合図をする。川沿いの険
しい道ともいえない道をすたすたと歩いて、やがてジャングルの道に入って行く。
不安になったぼくは「まだか」と聞くと、「この先にいい蝶のポイントがある。
あと一分ぐらいだ」という。
ぼくと妻は仕方なく黙って5分ほどついていくがまだジャングルの真っ只中だ。
「まだか」
「もう一分だ」
仕方なくまた従う。
30分ぐらい歩いただろうか。やっと川沿いの地形がパッと明るく開けたいかにも
蝶のポイントのようなところに到着した。先に着いていた男はぼくは振り返ると
ニコッと笑って「これをいま捕ったところだ。おまえにやるよ」と蝶を差し出した。
見るとそれは新鮮なきしたあげはだった。
びっくりして「ほんとか」と受け取ると、今捕った
ばかりというにはちょっと堅く、
どうもそれはきのう捕ったものをぼくにくれたようだった。
自分のポイントがいかに素晴らしいかぼくらに自慢しようと思って、、採集した蝶を
しまっておくビニール袋の中からそっと出したようだった。
ぼくはその好意が涙が出るようにうれしく、胸がキュンとなった。

遅れた妻がやっと着いた。最後の一歩を渡り切れないでいると男は商売道具
の捕虫網を差し出して、「これにつかまれ」と合図した。妻がそれにつかまった
途端、ボキッと音をたて捕虫網が壊れてしまった。
「ああーっ」という妻の悲鳴。
でも、男はニコニコとして一向に意に介さない。黙々と一人で網の修理を
して、「気にするな」というようなことを繰り返した。
そのポイントに男と一一緒に座ってぼくと妻は蝶が現れるのを待った。
「待っていろ。ラジャーブルック(あかえりとりばねあげは)が
いっぱい出てくるから」
男はそう自慢した。毎日ここに朝の10時ころやってきて、昼の1時ころ
帰るという。
「11時から12時が一番いいんだ。ラジャーブルックの天国だ」
3、40分もいたがこの日はちょっと雲が厚過ぎた。残念ながら、別れを
告げてぼくたちは戻ることにした。迷わないように慎重に道をとる。
19マイルにこられたことだけで幸せだった。
ジャングルの小道からまた川沿いの道に出たときだった。
ぼくは頭上に何か黒い影を感じた。ふっと見上げるとそれはキラッと
エメラルド色の翅を一瞬輝かせ、姿を消した。
「そこ、そこよ」
後ろから歩いてきた妻が川に落ちそうになりながら指を指した。なぜか、
そのあと、その蝶はぼくのすぐ近くの木の葉の先に止まったのだ。いか
にも今誕生したばかりのようで、よちよちした足取りで翅を大きく広げている。
「せっかく19マイルに来たんだから、誰か出て行ってやれよと、とりばねちょう
たちが言っているのよ。代表して出てきてくれたのかしら」と妻。
19マイルでほんとにとりばねちょうに出会えるなんて。
ぼくは感激で涙が出そうだった。
そういえば昔こんなことがあった。朝の10時から夜中の3時まで毎日会社
にいて仕事ずくめで休みも取れない日々が3年4ヶ月続いた。
この間ぼくは東京都から一歩も外へ出たことがなかった。そんな仕事が終わり、
5月の連休のあと、ぼくは八ヶ岳の麓に出かけた。
ほんとに久しぶりのことだった。ヒメギフチョウに会いたいと思って出かけた
のだが、その日は天気が悪くとっても寒い日で霰まで降ってきてしまった。
きょうはだめだと思っていたその時、ぼくの目の前にヒメギフがふらふらと飛
んできて、草の上に止まったのだ。
ぼくは不思議な気がして仕方なかった。神がぼくにヒメギフと会わせてやろう
と演出したのだとしか思えなかった。
19マイルの出来事もそれとまさに一緒だった。
クアラルンプールへ戻る日、ぼくは再びKUALA WOHの小さな公園へ立ち
寄った。その日もとりばねちょうやきしたあげははぼくを歓迎してくれた。
「一緒においで。早くおいで」
そう言っているようだった。
| もし、ぼくが死んだら、さらさらと砂のようななったぼくの遺灰を 君の小さな手でひと掬いそっと集めておくれ そして小さな器にぼくの遺灰を入れ その蝶のふるさとの小さな川の小さな砂地に はらはらと撒いてほしい それがぼくのお願いだ |
1999年8月19日 成田発10時30分 MH89
クアラルンプール着 16時35分
車でキャメロンハイランドへ
(20ー23日 ストロベリーパークリゾート滞在)
24日クアラルンプール発11時00分 MH70
成田着19時00分