楽しい旅

ふらり慶州古代旅

中学の歴史で習った「百済」「高句麗」「任那」そして「新羅」という
国々は、どこか懐かしい響きがある。

京都・太秦の広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像がぼくはとても好
きだが、ソウルオリンピックのとき、いまは取り壊されてしまったが、
旧朝鮮総督府の建物を使った当時の博物館で、うりふたつの半
跏思惟像を見たときの驚きは忘れられない。

そのときから、ぼくはいつか飛鳥・大和時代のふるさとである百済
や新羅を訪れてみたいと思っていた。

たまたま仕事で釜山に出かける事になり、ぼくはこれを機会に「昔
の新羅の都があった慶州に行ってこよう」と思った。

古墳公園

釜山から高速道路をバスで1時間20分。
ソウル周辺は岩山が多く緑したたる樹林が少ないが、
ここはバスの車窓からの眺めがとても穏やかだ。
緑が多くどこか、日本と似た感じがする。

慶州に入ると、ぼくは「これは奈良だ」と思った。
水を湛えた田んぼには緑の稲穂が勢いよく伸びかけている。
その向こうに黒い瓦屋根の田舎家が点在する。
里山の懐かしい風景なのだ。

ぼくの目に小さな、まるでお椀を伏せたようなかわいらしい円墳が
飛び込んできた。なだらかな丘のような小さな古墳は、よく整備さ
れた高麗芝で覆われている。
その向こうにまたひとつ。

そういえば、奈良を歩くと、たとえば西大寺から薬師寺へ向かって
歩くと、こんな風景にぶつかる。
ぼくはちょっと気持ちが高ぶった。

新羅は356年から935年まで都が栄えた。
王朝は600年続いたことになる。日本史でいうと,聖徳太子から源平
の少し前の時代にあたる。

慶州にはユネスコの世界遺産に指定されている地区が2ヶ所ある。
仏国寺と石窟庵である。
韓国政府はかって新羅の都として栄え、仏教美術が花開いたこの地
域を厳しく保存・規制しており、2階以上の建物の建設は認めていない。
煙突や工場もない。

だから、住居の建て替えも大変だ。東西南北を山に囲まれた慶州を
「壁のない博物館」と呼ぶ人もいる。
秋にはマツタケが豊産するという。
今,人口は28万人だが、新羅の時代100万を越す人々が生活した
というから、その繁栄ぶりがしのばれる。

天馬塚

バスが古墳公園に着いた。
入場料は1500ウオン(約150円)。
「大陵苑」と書かれた門を潜ると,松の林が広がっていた。
松の緑が美しく、さやさやと風が渡ってくる。松の林を抜けるとその向
こうはいま芽吹いたばかりの紅葉が続く。
見上げると小さなこどもの手のようなもみじの葉を透かして、日の光が
きらきらとまぶしい。

そんな気持ちの良い小径を歩いていくと,突然,小さな円墳が開ける
のだ。右に左にそしてその奥に,緑のなだらかな古墳が点在している。

「この古墳からは60歳ぐらい、身長170センチの男の人骨と140セ
ンチ、15歳ぐらいの女の子の人骨が見つかりました。
日本では天皇陛下や殿様が亡くなると殉死というのがあったでしょう。
新羅のこの時代には殉葬というのがありました」とガイド。
王族のような貴人が死んだあと、少女を気絶させ、生き埋めにしたの
だという。

古墳公園の中心は「天馬塚」
古墳の中に入って見学することができる。
「天馬塚」と名付けられたのはここから白樺の樹皮に描いた天駆ける
白馬の絵の馬具が見つかったからだという。

剣や鐙(あぶみ)、鏡などの出土品に混じってひときわ豪華なのは純金
の王冠。日本の古墳でおなじみの玉で作った勾玉(まがたま)もある。
ガイドによると、勾玉は人間の胎児をかたどったものだという。

そういえば、ここには小さな勾玉がだんだん成長していって大きくなる10
の勾玉飾りがあった。これは赤ちゃんの成長過程であり、出産までの十
月十日(とつきとうか)を意味しているのだろうか。

1万2000点にのぼる遺物が発掘されたというが、塚の中心に発掘当時
のまま、木槨(もっかく)跡が残されている。それによるとここに埋葬されて
いるのは人骨などから身長2メートルを超す大王だった。
古代の史書によれば、それに該当する大王は22代新羅王。
王のシンボルがあまりに巨大で、全国から王妃探しをしたという言い伝え
が残っているのだそうだ。

3万8000坪にのぼる「大陵苑」には古墳が23あり、ぐるりと石垣で囲ま
れている。付近一帯では古墳が155見つかっている。

実は「天馬塚」は1973年、偶然に見つかった。
石舞台でわかるように日本の古墳は石槨(せっかく)で守られているが、
韓国の古墳は木槨(もっかく)で作られその上に赤ちゃんの頭ぐらいの
石を積んで作っている。

長い年月の間に木槨の部分が崩れ、石積みの古墳は崩壊する。
発見当時、この付近の古墳は崩れ落ち、平らになって、あるものは畑とな
り、あるものはその上に民家が建っていたという。

だから、いまある「天馬塚」も点在する古墳も、日本の仁徳天皇陵や高松
塚古墳のように築造された当時のものではなく、30年前に復元したものだ。

古墳内部に展示されている出土品は本物かと思っていたが、これも全部
ミニチュアで本物は慶州博物館にあると聞き、ぼくはちょっとがっかりした。

古くは「白村江(はくすきのえ)の戦い」、豊臣秀吉の文禄・慶長の役、そし
て朝鮮戦争など幾多の侵略、戦火を経てきた朝鮮半島で歴史的な建造物
が創建当時のまま残っていることが奇跡なのだ。

仏国寺

慶州の中心部から15キロほど、吐含山(トハンサン)の参道を上がってひと
しきり汗をかくと、世界遺産の石窟庵がある。
カシワの木が覆いかぶさるような緑の参道を歩く。
きょうは土曜日とあって韓国人の観光客もかなり多い。
参道のところどころに石垣の名残がある。
大阪城の石垣のような巨石もある。

石垣の間からちょろちょろ動くものが見えた。
近寄って観察するとかわいらしいリスだった。

「この辺は自然がよく保護されているのでリスもよく見かける」という。
そういえばここから仏国寺にかけて、小さな蝶が吹雪のように舞っている。
光線の具合で最初は何かなと思った。
黒っぽくて動きがいかにも軽快で、陽だまりを小刻みに動いては土の上に
とまる。
それはテングチョウであった。
触角と触角の間の顔が長く、天狗の鼻のような感じに見える。

日本でも山道でよく見かけるが、こんな群舞は見たことがない。
それもあちこちでテングチョウの乱舞が見られるのだからびっくりだ。

気持ちのよい散策をしばらく続けると、石段の上に石窟庵が見えてきた。
石段の脇に甘露水と書かれた泉がこんこんと湧き出ている。ちょっと口に
含んでみると、柔らかい甘い甘露水であった。
ここは745メートルの山の頂きにほど近い。
湧き出る水は冷たく、日の光にきらきらと輝いている。

観光客は正面の石段ではなく、左側の山道の石段をさらに登っていく。
ここに新羅仏教美術の代表作と言われる釈迦如来坐像がある。
新羅35代景徳王の時代、751年に建造された。高さ3・26メートル、花
崗岩を丸彫りしたものだという。

穏やかな表情,均整のとれた安定した」体躯、なだらかない衣紋が美しい。
石のドームに覆われ、釈迦如来の周りには十数体の弟子像が囲んでいる。


この石窟は中国やインドなどでよく見られる岩山をくり抜いたのではなく、
彫刻した花崗岩を一枚一枚積み上げてドームを作り,その上に土を盛って
石窟のように演出したのだという。

石窟を出て、境内から眺めるとはるか山並みを越えて広い海が見える。
その向こうは日本で伊勢神宮の方角を向いて建てられているのだという。
その昔,日本からの侵攻に悩み、それを防ぐ意味をこめてこの寺が建造
されたという言い伝えがある。

山道を降り,仏国寺に行く。
相変わらずテングチョウが乱れ飛んでいる。午後になったが参詣の人波は
絶えることがない。

仏国寺は535年の創建で韓国で一番古い古刹。国宝が6つあるのもこの寺
だけだ。1592年の文禄の役で伽藍のほとんどが焼失、最盛時の規模の十
分の一ぐらいになっている。
それだけに往時の華麗さがしのばれる。

丹青の鮮やかな彩色の大雄殿の前の境内には,多宝塔と釈迦塔のふた
つの国宝がある。
花崗岩を巧みに組み合わせたこの石塔は新羅仏教技術の特徴をあます
ところなく伝えている。
極楽殿などに金銅阿弥陀如来坐像、金銅盧舎那仏坐像の二体の国宝が
ある。

どちらも純金,金箔がきらめき鮮やかだ。

韓国の人たちがつぎつぎお参りにくる。

それも一種のしきたりがあるのだという。
日本だと正面の石段を上がって、お賽銭をあげて、そのまま石段を降りてく
るがそれは失礼だ。
韓国の人たちは左側の石段から上がり,お参りをしたあとは仏さまにお尻を
向けたりせず,横向きになって石段を一段一段降りてくる。

お賽銭にもルールがある。
硬貨は使わない。紙幣だけを使う。
新しいお札が手に入るとそれを大事に箪笥の中にしまっておき、お参りの時
に使う。
前の日から身を清め、ニンニクやニラ,肉,お酒はいっさいとらない。

「もちろんセックスもダメ。みなさんはきのう大丈夫ですか。でも、韓国でも最
近の若い人はみんなこんなこと守らないか。アッハハハハ」

ガイドの金さんは愉快そうに笑った。


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