はたして、今の自分にわかっているといえることがどれだけあるやろうか。
世間のニュースに対する無関心さがたまに問題になったりして、
自分の意見を言えることをもってよしとするのが当たり前のようになっているけれど、
それってそんなにすごいことか?
最近、自分の意見を言うのはすごい難しいことやなと思うようになった。
そんな簡単に意見なんかいわれへんよ。
冷静に考えてたら。
自分がいかに浅い知識で物を言ってるか、
偏った情報をもとに物を判断してるか、
そんなことを考えてたら、
自分の考えてること、行動してることのすべてがうそくさく思えて、
がんじがらめになってきた。
考えれば考えるほど、俺はなんにもわかってへんし、
なんにもできてへん。
過去を振り返って思うのは、
なんにもできてへんくせに出来た気になってた自分、
なんにもわかってへんくせにわかったような気になってた自分がおったなあということぐらいのものだ。
長い時間を経て、
今の自分にわかることは、
自分の好きな人・物を好きと思う気持ちとか、
そういう感情的な部分だけでしかない。
そんな気がする。
まあ、天性のマイナス思考のせいもあるのかもしれないけれども、
こう考えると、あんまり自分の意見とかいえんくなってくるから、
当然人の意見を聞く一方になるわけで、
で、そうすると人がどれだけ適当に意見を言ってるかとか、
そういう細かいことが気になってきて、
なんか醒めてくる。
我ながらなんて俺は嫌な奴なんやろうとか思うけれども、
自分の意見を信じて疑わない人とかある意味うらやましい。
信念を真実のごとく押し付ける奴とか、
表面的な事実を都合よく解釈するだけの奴とか、
またそれらのあげ足を取るだけの奴とか、
うんざりなわけ。
たとえば、
年金問題とかで怒ったりするわけだけども、
政治家が未納だろうが、一般人が未納だろうが、
国民の4割が未納の制度ってことがわかってるんだから、
少なくとも同じ位の割合で政治家が未納でもまったくおかしくないわけで、
流行りでバッシングされてるだけのような議論は、
所詮流行りのレベルだけのものにすぎない気がする。
とこういう風に適当に意見らしきものを書いたりすることは、
割と簡単にできるわけだけれども、
実際は国会でどんな議論が展開されてるかしらんし、
TV局の人がどういうテーマをもって報道にあたっているかもしらんし、
ようは全然なんもしらん。
ということで、
一番正解に近い答えは、
ほとんどの場合
「よーわからん」
に落ちつくんちゃうかなあ。
いかにこれまでの自分が、
「自分らしさ」という曖昧な存在意義に支配されてきたことか。
「自分らしさ」とはなんや?
と聞かれたら、何一つ答えるすべを俺は知らない。
「俺は俺」
という曖昧かつ明白な言葉をほざくのみだ。
なーんもわかっとらん。
なんで、「よーわからん」ことが、
恥ずかしいのかそれがまたよーわからんが、
一般社会において、「よーわからん」と主張し続けることは非常に難しい。
今現在暇だからなのか、
なんのプラスにもならないことを考える。
仕事をするということは、
日々の業務に追われ、上司の悪口を言ったり、自分の夢・目標とのギャップに苦しんだり、
また自由な時間がなくなることではあるけども、
確実に、生きるということに対峙している。
親やその他大勢に甘えることでその対峙から逃れ出し、
「なんにもわかっとらん」ことがわかったわけやけれども、
「それがわかったところで、なんの意味がある?」
という質問に答えるすべも俺は何一つしらん。
そこに残されるものは、
無駄にカロリーを消費あるいは蓄えるだけの俺。
単なる水分とたんぱく質だ。
刺激のない生活をしていると、
人間の脳はだんだんスポンジ状態になっていくらしいのだが、
本格的に、水とタンパクに近づいているのではないだろうか。
散々「よーわからん意見・自己主張について文句を言う」という自己主張を
書いておいて、
「スポンジにならないようにがんばります」ぐらいしか、
締める言葉を思いつかん。
完全に言いっぱなしなわけなので、
「で?」
と聞かれると困る。
答えはただひとつ。
「よーわからん」
2004/06/09
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