1999年12月30日の深夜、父は自宅で非常に重度な脳梗塞を発症しました。72歳。年齢だけを聞くと「老人」という感じがしますが、肉体的、精神的にまだ若く、頼まれて専門学校の教壇に非常勤講師として立ち、発症するまで一日10000歩を歩き、スキーも現役でバリバリ滑っていました。外見的にも10歳は若く見え、病気もせず、誰一人として予想できませんでした。ただ、血管関係の疾患で命を失うことが多い家系ではありました。したがって父もそのことには人一倍注意を払っていたようです。それでも発症を防ぎきれなかったところにこの病気の恐ろしさがあります。父も多分「しまった!」と思ったことでしょう。
このページでは発症からの経過と家族の様子を掲載していきます。
| 発症 | 99/12/30(木) |
| 容態悪化 | 99/12/31(金) |
| 一喜一憂 | 00/1/1(土) |
| 誰もが安定、そして回復を確信 | 00/1/2(日) |
| 急変! | 00/1/3(月) |
| 不安は続く | 00/1/4(火) |
| 安定へ? | 00/1/5(水)・6(木) |
| 理解不能? | 00/1/7(金) |
| あわや医療ミス | 00/1/8(土) |
| 安定 | 00/1/9(日)・10(月)・11(火) |
00年1月12日(水)〜2月10日(木)
00年2月11日(金)〜4月1日(土)
| 発熱 | 00/2/11(金)〜15(火) |
| 容態急変 | 00/2/16(水)〜2/18(金) |
| 小康状態? | 00/2/19(土)〜2/21(月) |
| 余命宣告 | 00/2/22(火)〜2/26(土) |
| 死の淵 | 00/2/27(日)〜3/1(水) |
| 危機脱出 | 00/3/2(木)〜3/10(金) |
| 再び小康状態 | 00/3/11(土)〜3/16(木) |
| 下降線 | 00/3/17(金)〜3/25(土) |
| そして・・・ | 00/3/26(日)〜4/1(土) |
| 発症 | 99/12/30(木) |
| 容態悪化 | 99/12/31(金) |
| 一喜一憂 | 00/1/1(土) |
| 誰もが安定、そして回復を確信 | 00/1/2(日) |
| 急変! | 00/1/3(月) |
| 不安は続く | 00/1/4(火) |
| 安定へ? | 00/1/5(水)・6(木) |
| 理解不能? | 00/1/7(金) |
| あわや医療ミス | 00/1/8(土) |
| 安定 | 00/1/9(日)・10(月)・11(火) |
発症1999年12月30日、前日までスキーに行っていた私は午前0時過ぎに布団に入りぐっすりと眠り込んでいた。突然電話が鳴り、隣りで寝ていた妻が受話器をとった。私の両親の家に子供たちを連れて帰省していた義姉からであった。「今は何時なんだろう」と寝ぼけた頭で電話を代わった私の耳に「お父さんの意識がなくて、救急車で運びます。すぐ来てください。」という声が飛び込んできた。時刻は2時半過ぎ。一瞬にして眠気は吹っ飛び、妻とともにおっとり刀で車で20分ほどの実家へ向かった。家に着く直前、携帯電話に搬送先の病院の義姉から連絡があり、姉に第1報を入れた後病院に駆け付けた。 受付で場所を聞き、救急待合のロビーで3時半前に母と義姉に会うことが出来た。父は処置室で、人気のないロビーで突然の事態におろおろしている母が父の異変に気づいた時の話を繰り返すばかりであった。 しばらくして、医師に処置室によばれた。母と義姉、私と妻の4人で処置室に入りCTの写真を見せられた。一見してとくに異常は見られない。しかし医師の診断は次のような最悪のものであった。 「CTではまだ出ていないが、右半身の麻痺などの症状から左側の脳梗塞で間違いないでしょう。しかも発症してすぐに完全に意識がなくなるということはごくまれで、かなり太い血管が詰まった可能性が高く搬送されてくる患者が10人いるならば1番目か2番目くらいの重症です。怪我ををした部分が次第に腫れてくるように血管が詰まって血液が行かなくなった部分の脳細胞は死んで腫れてきます。その部分が異常のない方の脳を圧迫してそれが呼吸を司る部位を押したら呼吸が止まる可能性があります。そして、この方の場合はいつ呼吸が止まってもおかしくない状態だと思います。今この瞬間にも止まることがありえます。呼吸が止まった場合の延命処置、具体的には人工呼吸器をつけるかどうかを決めてください。但し、人工呼吸器をつけた場合は植物状態になってもこちらから人工呼吸器を外すことは出来なくなります。今すぐは無理かもしれませんが、なるべく早く連絡してください。発症してから1週間がヤマでそれを過ぎたら良くも悪くも安定するはずです」 私は母が今にも倒れるのではないかと心配になり、肩を抱いて支えた。処置室を出てロビーに戻った母は「落ち着いてしっかりしなくちゃ。しっかりしなくちゃ・・・」と自分を奮い立たせ、「もし、ダメなら苦しませたくない。それでいいよね」と同意を求めてきた。私は「みんな集まってから決めよう」と答え、医師には「基本的には延命処置はしないという方向ですが、家族が到着するまではもたせられるものならもたせてください。」と伝えた。 病室に移された父を見守りながら、命があるうちに姉と兄が到着してくれることを祈った。長い夜が明け、7時半頃姉が到着。8時になるのを待って父の親族に連絡をとった。そして10時頃兄が到着。これで万が一のことがあっても家族全員が「父の死に目に会える」ことになった。それからしばらくして家族そろって、医師に病状の説明を受け、延命処置はしないで欲しいということを伝えた。脈は遅く意識はほとんどない。手術も出来ないのであとは父の容態を見守るほかにない。医師は1月3日にもう一度CTを撮る予定だと話してくれたが、3日まで父の命がもつとは考えられない状態であった。 容態悪化ある程度落ち着いていた容態が午後10時頃から悪くなった。呼吸が頻繁に止まるようになり、血圧も下がりきわめて危険な状態となった。呼吸が止まるたびに「お父さん息をして!」と頬をたたいたりして刺激をして、交代で呼吸を促し、息をするとホッとするという状態が続いた(ただ、あとで医師から刺激はほとんど意味がないということを聞いた)。それとともに「家族の方を呼んだほうが良いと思います」ということで近い親戚や甥に連絡をとった。 31日。1900年代最後の日。午前0時ごろから次第に不整脈が激しくなり心拍数が急激に上がり出した。「不整脈が連続で出始めると危険な兆候」といういことを医師から聞いていたのでこれが最期だと覚悟した。父の手を握りつづける母にも「呼吸が止まったらそれで終わりでいいね」と確認をした。誰もが朝まではもたないだろうと思っていた。 こうした緊迫した状況の中で午前1時ごろ父の意識が回復した。苦しそうな表情で麻痺していない左手を上げる。手を握って欲しいのかと思いかわるがわる手を握るが違うようだ。時間が気になるのかと思い腕時計をつけてみるが違うようだ。妻が「何か書きたいのじゃないかしら」と言うのでペンをもたせてみると父はペンを手にとり何かを書くしぐさをしたのである。「書きたいんだね?」と近くにあった紙を近づけるとそれに精一杯の力を振り絞って何かを書きつけた。不慣れな左手でしかも揺れ動き、しっかりした文字にはならないがその筆順を追っていくと何とか読み取れたのは「ありがとう」または「あいしてる」の文字、それに母の名「よしこ」と「よろしく」であった。そして、さらに何かを書こうとしたがペンをもつ手にに力がなくなり再び意識がなくなってしまった。苦しい中でも周囲への感謝と母への愛情を忘れない父にそこに居合せた誰もが涙した瞬間であった。 その後心拍は極端に乱れ、呼吸が止まる時間が次第に長くなりこれが絶筆かと思われたが、皆の祈りが通じたのか朝方になり突然心拍が平常に戻り安定したのであった。居合せたすべての人がほっとして一気に肩の力が抜けたことは言うまでもない。 一喜一憂大晦日はその後は脈も呼吸も安定し、自宅へ帰って交代で休憩することが出来るまでになった。そして2000年の正月を迎えた。ベッドサイドにとりつけてある心電図のモニターも「ピッ、ピッ、ピッ」と1分間45〜55回くらいで規則正しく音を刻み、波形もまあまあで不整脈も出ず、緊張の中にものんびりした気分であった。 午前7時40分、突然モニターの波形が乱れ、心拍数が上がった。医師がかけつけ、不整脈を抑える薬を点滴から注入した。しかし、ほとんど効果は見られない。そのことから「脳からきているものである可能性が高い」ことがわかった。症状は小康状態であっただけでまだ、安定はしていなかったのである。様子を見守るしかない。 次第に脈拍数が増加し、午後1時30分には1分間に140回を越えるようになり、モニターのアラームが鳴りだした。モニターの脈拍数と波形に一喜一憂することになった。 午後3時過ぎ、緊張した空気の中に兄の子供たちが病室にやってきた。父の手からお年玉を渡してもらうことにしていたのである。呼びかけに目を覚ました父はメガネをかけさせてもらうと、お年玉を1人1人にきちんと手渡し、「おじいちゃん。ありがとう」とお礼をいう孫たちの顔を確認するように左手でなでて、頷いてみせた。そして、めがねを外すと、再び眠りに落ちていった。 兄の子供たちのうちの1人が今春小学校に入学する。父からランドセルを買ってもらうことになっていたので兄夫婦は「一刻でも早く父に姿を見せよう」と開いている店を探し、ランドセルを買い、午後5時半頃病室に戻ってきた。呼びかけると父は目を覚まし、メガネをかけさせてもらうとランドセルを背負った孫を見て、「もっと近くに」と手招きをした。頷きながら孫をしっかり見ると今度は、後ろを向かせた。そして、ランドセルの札を手にとって確認すると、開いていたバックルを止めたのであった。それだけすると疲れたのか、メガネをとる仕草をしたのでめがねを外してあげると安心したように眠りこんだ。 午後6時を過ぎると心拍数が次第に落ち着いてきた。午後6時半を回ると心拍数が60回前後で安定し、不整脈も出なくなった。ただ、眠りが浅いようで時々目を覚まし、「ここにいるよ」と呼びかけると頷いてまた眠るという状態が続いた。 誰もが安定、そして回復を確信1月2日は脈拍は55回前後で安定し、不整脈もほとんどなくなっていた。意識が戻っている時間も次第に長くなってきた。 午後1時頃、スナップ写真を撮ることが好きな父が撮影した年末の北海道スキーの写真を現像し、見せた。メガネをかけた父は目の前にかざされたアルバムのページを自分からめくり、うれしそうにしっかり見ていた。多分、父にとって最後のスキーを噛み締めていたのだろう。 父の意識はますますはっきりしてきた。自分がしゃべる力を失い、右半身が麻痺したことをしっかり自覚していた。動かすことが出来る左手を鈍らせず、左手だけでどれだけのことが出来るのか試すように、自分の寝巻きの紐を解くと左手だけで結んでみようとしていた。また、左足を曲げ伸ばしをしようとするのであった。「まだ安定期ではないから、血圧に影響するからダメよ」と母が止めると、一時的にやめるが、注意が自分からそれるのを待って、布団の下でこっそり努力を続けるのであった。本人は隠れてやっているつもりなのだろうが、布団が動くので分かってしまう。無理をしなければいいだろうと見てみぬふりをした。 午後5時半頃から、病室に詰めていた私たち夫婦が席を外し、父と母と2人だけにして買い物に出た。父と母がその時間に何を「話した」のかは分からない。しかし、この時間が父と母にとってもっとも貴重な時間になったはずである。 安定して回復に向かっている。誰もがそう確信した。父は右半身が麻痺し、喋ることができないが、状況を良く理解し、リハビリに対する意欲は旺盛。最悪の状況は抜けた。彼らにとっては祖父と祖母に当たる私の父と母を愛する甥たちも疲れていたので自宅に帰った。安堵感が病室に広がっていた。病院側もそう見ていた。 夕方、ベッドサイドにあった心電図のモニターが撤去された。私は気楽に病室でホームページを書き始めた。 急変!1月3日。午前0時過ぎ。父の様子に変わりはないので、私が容態を見守ることにして、母は簡易ベッドで、妻は廊下の面会室で仮眠を取っていた。私は父が静かに眠っているので時々父の様子を見ながらベッドサイドでパソコンに向かっていた。 1時を回った頃、突然父が「ウッ!」といううめき声を出した。はっとして父を覗き込むと、口が半開きになり、右目が半眼に開き、黒目は上の方で固定し、ほとんど白目をむいている。「お母さん。お父さんが変!」と叫び、「お父さん!お父さん!」父に呼びかけた。反応はない。すぐにナースコールで看護婦さんに来てもらった。看護婦さんは瞳孔を調べると、「急変!」とナースステーションに急報した。瞳孔が半分開いているらしい。多くの看護婦が駆け付け、手際良く鼻へ管を通しタンの吸引、心電図のモニターをセットし、血圧を測定した。そして当直の医師がかけつけるとその状況を説明した。 状況は刻々と変わり、父は黒目が半分ひっくり返った状態でまばたきすることもなく両目をかっと見開き、苦しそうなうめき声をあげ体を震わすのであった。そして頻繁に長時間呼吸が停止しするようになっていた。母は父の手を握り「お父さん、しっかりして」と言うだけで精一杯である。反応はない。妻は病室内を手早く片付け兄や姉への電話連絡をしてくれていた。 父を診察した医師は「脳梗塞が進行したか、何か他の脳の障害が起きた可能性が高い。今晩中にも呼吸が停止することを覚悟してください」と言った。私は母に「覚悟はいいね?」と念を押した。私も父の苦しむ姿を見る自分の足ががくがく震えていることにそのとき気がついた。 この時、父の心拍数は170回を超え、血圧も270近くまで上がっていた。 病院から15〜20分の実家で寝ていた兄が駆け付けるまでの時間が実に長く感じた。父を一目見た兄も「もうだめだ」と感じたようであった。しかし途中から目に意思が戻り、父は苦しい中で全身を使って頑張った。呼吸をすること自体が辛そうであった。 最も苦しい状況は1時間ほどで脱した。少し落ち着いた頃、1時間以上かけ家に帰っていた姉と甥たちが義兄とともに高速道路を飛ばし駆け付けてきた。 外が少しづつ明るくなってきた。幸運にも父は命を奪われることなく、眠っていた。 9時半から以前の予定通りCT。このCTができるとは全く考えていなかった。何度生命の危機があったことだろう。しかし、脈も100回〜140回くらいを大きく変動し、時折アラームが鳴っている。まだ生命の危機が去ったとは言えず、気が抜けない状態が続いた。 不安は続くCTから帰ってきた父は、左手を上げて何かを訴えようとしているように見えた。以前のように何かをしたいのだと思い、可能性のありそうなもの、ペン、腕時計、髭剃り器、などを示してみたが払いのけ、手を枕元へ持っていった。枕代わりに敷いていたタオルの位置が悪いのかと頭を持ち上げて直そうとするとそのまま左肘を立て起きようとした。制止するが聞き入れず、ベッドの柵に手を掛けさらに起きようとした。まだ安定していないので、起きようとする父を皆が説得しながら押さえて止めたが、父の目の色が一時安定した時の優しい意思のある黒く輝いたものではないことに不安を持った。 脈は100回〜140回を大きく変動していた。 これまでは喉にタンが絡むことはなかったが、時々喉がゴロゴロいうようになり、鼻に入れたチューブから吸引をしてもらわなくてはならなくなった。こうした患者が命を落とす大きな原因がタンが詰まることによる窒息であると医師から聞いていたので、日付が4日に変わってからも夜中に3〜4回ほどナースコールをして吸引をしてもらった。吸引は苦しいのであろう。看護婦さんの手を左手で払いのけようとするので、押さえているのだが、咳き込み苦悶の表情なので見ている方も辛い。 9時半頃主治医の回診があった。血液検査の結果、自発呼吸でも酸素は十分ということで酸素のチューブを外すことになった。父につながれた管が1つ減った。 10時頃、言語療法の担当の方が2人で来室した。今後の言語のリハビリの予定を立てるつもりだったようだが、2日までの様子を聞いていたようで、父が寝ているばかりで予想外に状態が良くないため、経過観察をして、食べる訓練ができるようになるのを待つことになった。 言語療法士が退室すると、入れ替わるように心臓の検査をするために技師が大きな機械とともに来室した。付き添いを室外に出し、15分ほどかけて検査をしていった。父は静かに眠っていたようである。 脈はやはり不安定で、1分間100〜130回ほどを変動していた。しかし、一時のように140回を越えてアラームが鳴るようなことは少なくなった。それに不思議なことにアラームにも慣れ、以前ならアラームが鳴ると心配でしばらくはモニターから目が離せなかったが、「また鳴ってる、少しくらい鳴っても死にはしないよ」くらいの感覚になっていた。そして、夕方からは心拍数が100回を超えることも少なくなり、安定してきた。ただ、逆に心拍数が下がり、波形が極端に小さくなってしまい、今にも心臓が止まってしまうのではないかと思われるような状態が現れるようになっていた。不整脈よりも心配であった。 安定へ?1月5日の深夜1時頃、静かに寝ていた父の喉の奥がゴロゴロいい出し、息が詰まるようになってきたのでナースコールをして吸引してもらったのだが、やり方が少し乱暴だったせいもあるのか、少し出血し、吸引後の方が苦しそうな状態になってしまった。その反省で、タンの吸引もよほど苦しそうにならない限りお願いしないことにした。 9時ごろ主治医の回診があり、少し落ち着いてきたので感染防止のため尿のバルーンと鼻のチューブを外す予定であること。7日にCTを撮影し、夕方に説明する予定であること。今後の栄養補給について、鼻からチューブを使うか、胃に直接穴をあけるかして流動食を注入することになるだろうということの説明を受けた。そして、10時20分にバルーンと鼻のチューブが外されたのであった。父につながっている管は点滴だけとなった。 父はまだ眠っていることが多かったが、時々、こちらの問いかけに反応するような気配が見られるようになった。心拍は安定してきて、気になるほどではなくなってきた。 尿のバルーンを外したが、排尿の意識がないようで、時間をみて導尿をすることになった。睡眠中は心拍は安定しているが、無呼吸になるときが多く付き添っている方はついつい気になってしまう。 1月6日は心拍数も波形もほぼ安定し、目が覚めている時間が多くなってきた。ただ、問いかけてもあまり反応がなく、時々頷くこともあるが、理解して頷いているのかどうかはわからない感じであった。尿は相変わらず自発的に出来ず、定期的に導尿をした。 10時頃理学療法士が来て麻痺している右手と右足を動かしていってくれた。かつては脳卒中の患者はいつまでも安静状態に置かれリハビリをはじめるのが遅かったようだが、今は少しでも早くリハビリをする方がその後の回復に大きな効果があるということで早く始めるのである。 理解不能?1月7日、父は深夜から目を覚まし、起きあがろうとした。「まだ夜だから寝ていようね」と押さえるとしばらくして起きあがることをやめ、左手で寝巻きの帯を結ぶ動作をした。そしてこのパターンを繰り返した。2回目の発作が起きる前は帯を結ぶことに関して、明らかに自分でリハビリという意思があったが、「帯は結ぶものだ」という潜在的な意識で行っているだけのように思えた。さらに6時ごろからは強い力で左手でベッドの右側の柵をつかみ、体を乗り出そうとするのであった。何度も制止したのだが聞いてくれなかった。 脈はほぼ正常に戻り、強い鼓動になったが、もう1つ大きな問題が明確になってきた。排尿が出来ないのである。バルーンを外してまずはオムツの中におしっこが出せるかどうか見てみるのだが、それが全く出せず、尿意もないようなのである。定期的に導尿をすると大量に尿は出る。10時半ごろに回診に来てくれた医師(主治医ではない)は尿が出ないことを聞くと「排尿障害が出るはずはないのだが・・・」と不思議がった。 11時から3回目のCTがあった。午後2時ごろには理学療法士が来て手と足を動かしていってくれた。動かしながら「痛い?」と聞いても「痛くない?」と聞いてもともに頷き、言葉はまだわからないようであった。 リハビリは神妙に受けていたが、療法士が去るとやはり、左手を使って柵を乗り越えようとした。目を離すと柵を乗り越えようとしたり、点滴や心電図の電極を引っ張ったりするので常に誰かが注意していないとダメで、気が抜けない。 午後5時からCTの説明があった。発症した12月30日のものと1月3日の2回目、そして今回の3回のCTの写真をを並べて説明してくれた。医者が「年齢からしても非常にしっかりしている脳」という1回目のCT、大きな影の出ている2回目、腫れが少しずつ引きかけているのが分かる3回目。何度見ても大きな梗塞である。主治医の話では左側の脳の中央部分が黒くなってしまっていて、言語野が完全に食われてしまっているということであった。 言語野は右利きの人の場合はほとんどが左の脳にある。左利きや両手利きの人は右にあることも多いようだが、父は右利きである。言語野が完全にやられてしまっているということはしゃべることができないということだけではない。相手が言っている単語が分からないつまり聞いて理解することが出来ない。ということなのである。ただ、言語野は左にだけあるのではなく、右にもあり、それがどれだけ左をフォローするかが問題になる。若い段階での梗塞では脳も適応能力があり、かなり回復するようだが70歳を超えるとほとんど回復は不可能になるようである。今後1ヵ月の間にどれだけ回復するかがカギで1ヵ月を過ぎても回復しないようなら、それ以降は急激な回復は見込めないということであった。しかし、救いは腫れが確実に引き始めていて呼吸困難になったりして急激に死に至る可能性はほとんどなくなったということであった。 命はとりとめた。それが実感できた。父が言うことを聞いてくれないのも理解できた。ただ、急性期を過ぎ、「これからは介護で長期戦になることを覚悟しなくてはならないな、どうなるのだろう」とぼんやりとした不安も感じたのも事実である。 この日、深夜の看護を姉と今年成人式を迎える甥に任せ、私と妻は夕方に自宅に帰り、父の発症以来始めて自宅で夕食をとり、普通の時間帯(夜)に寝ることが出来たのであった。しかし、この夜病室ではまた一騒動あったのである。 あわや医療ミス父の体内時計は昼と夜がまだはっきりしていないらしく、夜中でも意識がはっきりすることがあれば、昼間でも深い眠りにつくことがあった。目が覚めるとベッドの柵を乗り越えようとしたり、点滴や心電図の電極を引っ張ってしまうので、気を緩めることが出来ない。 CTの説明の時にその話をしたところ、主治医が付き添いの負担のことも考えて鎮静剤(睡眠導入剤?)を注射するか、夜の間左手を拘束具で拘束しておくことも可能なので考えてみましょうということになった。しかしできればなるべくそうした事態にはしたくなかった。そこで夜間の付き添いが11日以降は出来ないので、それまでに父に理解してもらう努力をして、それでもダメならお願いするつもりであった。 ところがこちらの意に反し、医師が気をきかせてくれたのかこの日の午後10時に鎮静剤を注射したのである。そしてそのまま父は眠りに落ちたのであった。 姉と甥の記録によれば、1月8日の0時ごろ定期の導尿。このあたりから様子がおかしくなってきた。無呼吸状態が長くなり、同時に安定していた心拍数が1分間25〜30回に落ちてしまったのである。危険な状態である。医師と看護婦が駆け付けた。何度も呼びかけたり体をゆすったりして呼吸を促すが眠りが深く反応しない。どうしようもないので心拍数に気を付けながら無呼吸の時間を測りつづけた。このような危険な状態が30分ほど続いた。すると無呼吸状態が25秒程度だったものが次第に10秒〜15秒に落ち着き、脈拍数も回復していったのであった。しかし落ち着いてからも、いつ同じような状態になるかわからないので緊張の解けない看護だったようである。また、1時半頃導尿を止め再びバルーンに戻した。 もともと丈夫で薬をほとんど使わないので、鎮静剤が医師の予想よりも効きすぎてしまったようであった。医師は良かれと思って施してくれた処置だろうが、もし多目に鎮静剤が注射されていたらと思うとぞっとする出来事であった。同時に付き添いがいなくて鎮静剤を注射したことも知らず、万が一のことがあっても「突然死」くらいで処理されても分からないだろうとも思った。 結局この日の父は1日中ぼんやりとした感じでずっと眠りから覚めない様子であったが、夜8時ごろやっと目が覚めた。目を覚ました父は声を出し(といっても言葉ではない)、左手の指を繰り返し順番に折り曲げる運動をした。しかし、まだ薬の影響があるのか、いつまでも起きているわけではなく、9時半に部屋を暗くしたらそのまま眠りについたのであった。 この日と翌日の夜の担当は連休を利用して帰ってきた兄が務めてくれることになった。姉もそうだが、兄も仕事の合間に来て一番きつい深夜担当を代わってくれたので、体力的にも精神的にも疲労がピークに来ていた私と妻には貴重な休養となった。 安定1月9日、深夜は途中で何度も目を覚ましたが、兄が手を握ってあげると落ち着くのかまた眠りにつくということを繰り返した。6時40分に目が覚めたので病室の電気をつけた。 7時ごろ看護婦さんが回ってきて、父の耳元で「おはよう」と呼びかけると、「お・はー」まで発語したように聞こえた。ベッドの上半身部分を少し起こした。 ところで、いつまでもベッドで横にしておくと体がそれに慣れてしまい、上体を起こした時に脳貧血を起こすようになってしまうそうである(廃用症候群による起立性低血圧)。かつては脳卒中患者は脳に変化を与えない方が良いということで動かさずに寝させておき、その結果このような問題が起きたようである。そのため今ではなるべく早く少しづつでも上体を起こし、貧血が起きないようにするようである。そしてベッドが90度近くまで起こせるようになり、30分程度耐える事が出来るようになればなるべく早く車椅子に乗せるのだそうである。 これは兄が買ってきてくれた3冊の本のうちの、『脳卒中の早期リハビリテーション第2版』(医学書院)という本からの知識である。また、『脳卒中後のコミニュケーション障害』(協同医書出版社)という本も大変参考になった。一般的で読みやすいのは『脳が言葉を取り戻すとき・失語症のカルテから』(NHKブックス)で、失語症は重度であってもほとんどの場合は最低限のコミニュケーションがとれるまで回復するという希望をこの時は与えてくれた。 午後1時半ごろお見舞いの方がみえた。あまり父の様子に変化はなかったが、お見舞いの方をじっと見つめていた。 午後2時半頃主治医の回診があった。睡眠導入剤が効きすぎたのでもう使用はしないかと思っていたが、薬の量を調節して使用してみるということであった。そうであるならば深夜の反応をしっかり見ている必要があるので、兄に申し送りをした。 夜9時に部屋を暗くした。父はすんなり眠った。 1月10日。深夜の付き添いは兄であった。以下は兄の記録である。 『1:05少し前から起きていたのだが、目を離したスキに電極むしる。またむしろうとするので手首を固定具で固定。手首をひっぱってみたり、足を曲げてみたりする。睡眠導入剤は使用しなかった様子。 7:00起床。看護婦の「おはよう」に反応せず。 7:30頃みかんを握らせたところ落としそうになりながらもきれいにむいてその後口に持っていく。食べさせるわけにもいかず、取り上げる。 点滴の管が気になり、何度も強くつかむ。そのたびにたしなめるが、効果なし。やむなくゆるく手首固定する。』 点滴の管や心電図の電極のコードに関心を持ち、目を離すと、引っ張ったりするので注意をしていたようだが、ついに電極をむしった。電極くらいなら良いが、点滴の管をぬいてしまうと大変なことになるので拘束具も仕方がないところである。拘束具というと患者の虐待のように感じていたのだが、実際に手に巻いてみるとそっと手首を掴まれているような感覚で痛みもなく、状況に応じて使うのも問題はないと思った。 10時半頃、父が左手を上げたので妻が手を握ると、まるで「ガクッ」と意識を失ったように眠りに落ち、そこから2時間ほどいびきをかいて「爆睡状態」に入った。。まさに「爆睡」という感じで心配になるほどよく眠った。昼間にこんなによく寝るのを見るのは久しぶりであった。 父はカラオケが好きで、車の中でもテープをかけ、運転しながら聞いていたそうなので、母に「父が好きだったテープを聞かせてみたらどうだろう」という提案をしてみた。父の反応があれば万万歳なので、病室にテープを持ち込み、テープを聞かせ始めた。テープをかけるとうれしそうで、歌詞は理解できなくとも音楽はわかるようであった。 夜の看護が本日からなしとなった。いつも夜は寝るまで(寝ても)誰かがついていたので、全員帰ってしまうことを察したのか帰るときに父は実に悲しそうして後ろ髪を引かれる思いであった。 1月11日、意識がかなりはっきりしてきた。心配していた点滴のパイプや心電図の電極へのいたずらはしなくなり、睡眠導入剤や拘束具を使わなくても済みそうでほっとした。 この日は10時頃からしばらく眠ったが、完全な睡眠状態ではないようで、呼びかけると眠そうに目を覚ました。なるべく昼間に起こしておかないと夜になって目が冴えてしまい点滴などにいたずらをすると困るので頻繁によびかけて起きている状態を作り出すことにした。 病室で母と妻と私の3人で昼食をとり、午後1時過ぎに病院内にある介護等の相談室でソーシャルワーカーと話しをした。現在入院している病院は急性時の患者に対して完全看護で対応してくれるのだが、長期入院の施設ではなく、安定したら重度の障害が残ったとしても退院を求められる。父の場合はかなり重度の障害が残り完全介護が必要で自立は不可能。しかも排尿障害があり、排尿のためにバル−ンを常に留置している状態になりそうということなので、すぐには自宅には連れて行けないと考えられるため、主治医の勧めで他の施設について聞いてきたのである。ソーシャルワーカーは「まだ症状が固定したわけではなく、これからどう変わるか分からないので、安定して主治医から退院を暗に求められるようになったら動けば良い」とこたえてくれた。転院先に関してはしばらくは様子見である。 午後の回診で排尿障害に関して聞くと、「膀胱から直接穴をあけて出すことになるかもしれない」という話があった。 私も妻も仕事があるので、職場へ向かい、仕事が終わってから病院へ回り、交通手段を持たない母を拾って実家へ送ることになった。職場から病院まで27〜28キロ、車を飛ばして大体45分かかることが分かった。普通に職場を出ることができれば午後10時半前後には病院に着ける。何かあって職場を出るのが遅くなると11時を回ってしまうだろう。 この日は父は母が帰るときは納得しておとなしく送り出してくれた。私はそのまま実家へ泊まった。母は父に翌日聞かせるため、カラオケで好きだった曲を遅くまでテープに録音していた。 父はほぼ安定したようだ。脳卒中の本によると発症から1ヶ月が急速に回復する期間でそれを過ぎると急激な回復はあまり期待できなくなるそうである。これからが勝負である。 |