僕は決してカッコイイ馬乗りじゃない。「馬乗り」とは何か?馬に乗るだけではなく、馬が言ってる事を理解出来るなら「いい馬乗り」になれるんじゃないかな?
僕は馬にのって障害が飛べるわけでもなく、山を駆け抜けられるほど、うまく馬に乗れるわけじゃない。けれど、馬に乗る事は楽しくて、とても気持ちの良い事だって知ってるさ。
馬というと、普通「競馬」を連想するだろう。僕はそうだった。僕の持っていた馬のイメージは、サラブレット、乗馬クラブ、金持ちの遊び、その程度のものだった。しかし、U.S.への旅で、僕は新しい遊びをみつけた。カヤックとホーストレイルだ。もう10年以上も前の事なんだなぁ。やっと、ここまで来たと、旅を終えて思う。
僕には軽い下肢障害と泌尿器障害がある。ようするに、走れない。歩けるけど良くコケる。排泄が制御出来ないというものだ。カヤックを始めて間もない頃、よく遊びに行く江ノ川で障害者のカヤッカーと出会った。それをきっかけに障害者カヌー協会が主催し、毎年奈良で開催される「パラマウント・チャレンジ・カヌー」に参加する事になった。僕には、その時まで障害者の友人は一人もいなかったのである。そこで、たまたま知り合ったのが、東京に住んでいてカヤックを楽しんでいる人だった。その場では、東京近辺で川を流れることがあったら誘って欲しいと言う事で別れたのだけれど、彼から電話があったのは「障害者乗馬」なるものの誘いだった。同年夏にちょうど乗馬体験を別のところでしていたので、即「いくいく、連れてって!」という感じで遊びに出かけたのである。
連れていかれたのが、山梨県の河口湖I.C.を降りて車で15分程度のところにある「紅葉台木曽馬牧場」である。一目見て、ぜんぜんハイソじゃない牧場だった。安心した。安く馬に乗れそうな雰囲気は、ケチで貧乏な僕にはうれしいものだった。それに、その時の僕には「馬」しか目に入らなかった。すでに僕の中はわくわくドキドキだったのである。
馬が全体的に小さく、胴長短足でサラブレットよりカッコ悪い。これが第一印象だった。しかし、今では断言できる。この日本の風土で育だった日本の馬「在来和種馬」が、僕の目的には一番合っているということ。
よく僕が和種馬を話す時、サラを引き合いに出して説明する。サラブレットはレース場を早く走るために作られた馬で、自動車で言うならF1カーであるのに対し、和種馬は山坂を歩くのに適している四輪駆動のジープと言ったところだろう。馬が雪山で急斜面に尻をつき、前足を踏ん張った姿で滑り降りて行く時、乗っている僕はいつも驚きと興奮を覚えるのだ。こんな快感そうざらにはないぜ。
馬になんて触れたことも、乗ったこともなかった僕が、旅を馬でしたいと考えていた。バイクに荷を乗せた一人旅もするが、15年もすると
流石に飽きてくる。普通なら「馬旅したいな〜」で終わるかもしれない所へ、この「紅葉台木曽馬牧場」に来てしまったものだから、「本当にやっちまったぜ」となるわけ。
この「紅葉台木曽馬牧場」の馬達はとても魅力がある。なぜなら、高い理想と強い意志を持った馬作り人、馬方「菊地幸雄」(Kikuchi Sachio)がいるからである。彼は恐れおおくも、この牧場の牧場主でお偉い方なのだが、少しもそんな素振りを見せないのだ。心憎いオヤジである。
多分、紅葉台木曽馬牧場に来なければ、和種馬に乗る事もなかっただろうし、和鞍に跨がる機会なんて持てなかったと思う。しかし偶然にも、僕はここにやって来た。国道を馬に乗って歩くなら、どんなに遠回りしたって、結局はこの牧場の和種馬に、たどり着く事になっただろうと思う。
この紅葉台木曽馬牧場は観光牧場だ。お客さんを馬に乗せて外乗に行く。特にレッスン等はない。跨がったら、「止め方」「出し方」「曲げ方」を教わる。本当にそれだけ。初めての人が乗っても、制御出来るように馬が作られているからだ。
何度か数頭で行く外乗散歩に連れて行ってもらった。牧場にいるたった1頭のサラブレット。馬自体の運動のため先導馬として、スタッフのよっちゃんが連れ出した。このサラは障害馬なので普段営業には使わない。畑の中のあぜ道を気持ち良く駆け終え、国道を渡って牧場に戻る時、このサラは道にペイントしてある白線を跳び越えて渡った。また、自分で足を滑らせて馬自身がパニック状態になりかけたことも見た事がある。僕にはとてもこんな馬は乗れないや。とその時、感じたのだった。和種馬であれば、そんなに神経質な馬は少ないと思う。馬に接した事のある人ならすぐに分かると思うが、馬はとても臆病で繊細な動物なのだ。ある程度慣れさせる事はできるかもしれないが、車や道によく立っているのぼり、ひらひらと舞うゴミ等に驚いても不思議はない。しかし、そのつど馬に横っ跳びされたのでは、乗り手はたまったもんじゃない。それらは落馬や事故につながってしまう。
そして馬への乗り降り。僕には踏み台無しで、体高150cm以上の馬に何度も乗り降りを繰り返すのは無理がある。旅に出てから、一日に何度乗り降りを繰り返しただろう。乗り降りだけでも、結構体力を消耗する。それよりも、乗りはじめて跨がり両足をきちんとかけた姿勢になるまでが、一番隙が出来る時なのだ。馬が制御出来ない時に、馬が勝手に動いたら恐い。公道では、いくつでも危険な状況は想像出来るだろう。
和種馬でなくてはならない最大の理由は、粗飼料で動き、タフであることだ。僕自身も和種馬がどの程度、頑強なものなのかは知らなかった。この旅を通して初めて和種馬の限界を見た気がする。そして、サポートや替え馬のいない旅では、栄養価の高い飼料を毎日与える事は出来ない。道草を食べて進むのだ。寝るところだって、雨風を凌げる場所を確保できる日の方が少ないのだから。
そんな辛い旅を、なぜ今ごろ馬にさせなければいけないの?と思われるかも知れない。旅の途中でも、何度か同様な事を人に言われた。僕の想いは複雑なのだ。しかし、一番最初に僕を動かしたこと。「馬で旅がしたい」という僕のエゴが、歩き出すきっかけだった。
長期にわたって馬と旅をする上で、一番興味があった事。それは馬との信頼関係が、どういった形になるかという事だった。一対一、人と馬。一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、それははっきり判るだろう。とても楽しみだ。
相棒の馬「三日月」と、人間の僕。種の違う生き物同士で歩む旅はどんな事が起きるだろうね。寒くなって、道に青草がなくなる前にどこまで行けるかな?まだ旅に出る前、そんな事を三日月と話しながら、雪の降る山道を歩き、僕は一人でドキドキと胸踊らせていたのだった。
【雪中トレーニング】
数カ月の間には、とてもたくさんの事があった。とてもじゃないが、すぐに形できるほど僕の能力は高くはない。(^^; …友人曰く「ぐうたらなだけなんじゃないの?」(^^;;;
でも、帰ってきて誰もが尋ねる「どうだった?」の答えは、ここに載せておこう。
騎乗日誌はA5ノートで3冊もある。写真だって、へたくそだけれど300枚以上も撮った。もう少し時間をください。来年の旅の準備だってあるんだから。(⌒_⌒)
もし、楽しみにこれを読んでくれる人がいるなら。もし、少しでも馬に興味があるのなら、馬に触れて、できるなら乗ってみて欲しい。きちんと作られた乗用のための和種馬がどんなに楽しいか。ちいさくて可愛らしい和種馬は、初めて馬に乗ろうとする人にも安心感を与えてくれる。そして、そんな乗用馬がどんどん減っている事を知って欲しい。大型動物である彼等「馬族」は、へたをするとこの国ではただの肉としてしか、生きる道がないかもしれない。誇り高き「在来和種馬」が、今後も生きて血をつないで行くことができるといいなぁ、と僕は一人物思いにふけるのだ。
この旅に出かけるにあたって、三日月とある契りをかわした。それは、彼女を無事牧場に連れ帰ること。そして旅を終えたら、彼女の血を残すために子供を取ることである。
紅葉台木曽馬牧場には僕のお気に入りの種馬「蘭丸」がいる。彼は数少ない「木曽系和種馬」で4歳のやんちゃ坊主なのだ。僕が接した木曽馬はそう多くないが、動きの良い馬とはなかなか出会えない。別の牧場の木曽馬に乗ったことがあるが、あまりに動かないので、「こんなの馬じゃない。馬の形をしてるだけだ。」とほざいてしまった事がある。しかし、この「蘭丸」は若いからだけじゃない、素晴らしい瞬発力を見せてくれる。僕は、まずスタッフが乗って、疲れてきた「蘭丸」に乗せてもらうのがやっとだった。その「蘭丸」と「三日月」を掛けたら、どんな子馬が産まれるだろうか?
すでに僕の気持ちはパパか、じいちゃんになってる様だ。楽しみでしょうがない。でも、2000年の秋に旅を終えたとしても、種付けは2001年の春になるだろから、気の長い話しである。「三日月」と「蘭丸」の子に跨る日を夢見て、僕は静かに待つのだ。
いまでは何も思い出せないが、牧場に和鞍があったから乗せてもらった。ただ、そんな気楽な感じで、和鞍で騎乗したと思う。初めて和鞍に跨ったとき、10分もまたがっていられなかった。腿の筋肉がつりそうになってしまったからだ。というのも、和鞍は座って騎乗する鞍ではない。戦国時代に騎乗した侍が、大地に立っている時と同様に馬上で刀や槍を振り回していた。その為だと思う、和鐙は足の裏全体が使えるのだ。
【和鞍と和鐙の写真】
前にも述べたが、僕の下肢には障害がある。脚力が弱く、下肢の筋肉は全て俊敏に反応できないという状態だ。和鐙は、洋鞍の鐙みたいに輪になっているわけではないから、体重が鐙にかかっていないと足から鐙が外れてしまう。だから、最初は和鞍で速歩もまともにできなかった。では、何故そんな面倒な鐙に乗り続ける事になったのか?
その前に、僕は流鏑馬が好きだったり、鎧や刀をつけて馬を走らせたりすることに興味があるマニアではない。最初から和鞍や和鐙に興味があったわけではなく、逆に何の興味も持っていなかったのだ。
和鐙に好感を持ったのは、楽だったのが大きな理由だった。それは、僕の脚に関係がある。最初から、旅をする目的で馬に乗りはじめた僕は、当然馬上で過ごす時間は長くなる。洋鐙だと足首にかかる負担は相当なもので、2、3時間馬に乗ったならば、馬から降りたとき、足首が固まった様になって、とても歩き辛い経験があった。それが、和鐙を用いると改善されるのだ。
障害者乗馬が牧場で行なわれているので、やはり下肢に障害がある人に試しに乗ってもらった。彼も足の裏全体を接することができる和鐙は、安定感が増し、安心できると言っていた。和鐙の可能性は障害者乗馬にもあるかもしれない。機会があれば、今後も色々な人に試してもらいたいと思う。
和鐙で急な山坂を通過する時、鐙から足が外れてしまう。これは訓練である程度改善できる見通しがあった。それは、ある一頭の馬のおかげである。彼の名は「遊歩」(あそぶ)、北海道和種、5歳のせん馬。僕が一番最初に、旅に使いたいと手に入れた馬だった。旅に使うため、牧場主の菊地さんが探してくれた馬だ。この「遊歩」は側対歩だったのである。一般的な斜対歩の馬と違って、上下動が少ない。おかげで和鞍初心者の僕でも、何とか速歩くらいなら、和鐙の上で踏んばっていられた。この「遊歩」に和鞍で乗ることで、僕の脚力は向上し、和鐙に慣れて行くことができたのだった。今は牧場を離れることになってしまった「遊歩」であるが、彼がいなかったら僕は決して和鞍に乗れるようにならなかっただろう。「遊歩」との出会いに感謝している。
しかし、まともに和鐙に乗れるようになったわけではない。旅には洋鞍を使うか、和鞍を用いるかはまだ決めていなかった。自分の中で和鞍で行く自信が出来上がってはいなかったものの、和鞍を使う可能性は残しておきたいと考えていた。
まずは三日月に感謝したい。本当にありがとう、三日月。無事牧場に戻って来れたこと。辛いこともたくさんあったけれど、僕にとってはかけがえのない日々だった。そして今もお前が元気でいる事がとてもうれしい。
そして僕達を助けてくれた人々、見守っていてくれたもの全てに感謝しています。ありがとうございました。
僕達がこんな形の旅をすることは、もうないだろう。こんな形というのは、数カ月にわたり、馬一頭に全ての荷を乗せ騎乗者一人と馬一頭だけで歩む旅だ。同行者もいなければ、行く先々に決まった馬の休憩場所もない、本当にあてのない旅だ。これは馬にも人にも辛いものだった。通常なら集団行動する馬がたった一頭で行動しなければならない。そして数多くの外乱によるプレッシャー。辛い旅になる事は、ある程度予期していたことではあるが、馬と自分の限界を見極める意味では、旅は終えたと思う。馬一頭と一人の人間だけのエンデュランスであった。沢山の見知らぬ人々の助けがなければ、絶対に出来なかっただろう。そして、僕達は到達したいと考えていた所までたどり着いたのだ。僕は十分満足している。
いくつもの峠道を歩いた。馬の疲労を考えれば、気持ちの良い草原に出ても駆歩を楽しむ精神的な余裕はない。常に、後のことを考えて行動しなければ、目的地を持つ旅では到達は出来ないだろう。
気持ちの良い遊歩道では、一緒に歩いて景色を楽しみ、草原では駆歩をして楽しむ。そして、子供達にも馬に触れてもらい、この大型動物に興味を持つきっかけを作りたい。そんな気持ちに余裕の持てる旅を、今度は三日月と共にしたいと考えている。どちらにしろ、僕達はまた旅立つのだ。(^^)

2.騎楽 #17「放浪記」 (04/28/1999〜08/15/1999)
東京障害者乗馬協会機関誌「騎楽」No.17
いもほり号 より抜粋
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4月28日 相変わらず木曽馬牧場で準備に追われている。三日月も安定していて、すばらしい相棒になった。僕専用の和鞍もやっと完成し、昨日初乗りをして、これから鞍をなじませるために、また五湖台通いが始まる。 5月 5日 和鞍も完成して、残るはあぶみの板ひきだけ。これが終われば荷を三日月の背に乗せられるかテストして、外泊してみようかと考えている。最近は牧場でもシュラフとビビーで寝ているが、結構寒い。一番の心配は僕の体力で、三日月は何の心配もない。一日も早く旅立ちたいと、心踊る毎日だ。 5月11日 昨晩、泊まりで外乗に行った。五湖台で迎える朝は気持ちよかった。 5月12日 いよいよ今日、出発。 5月13日 一宮町にある「ももの里温泉」で入浴。三日月は良い子にして待っていた。入浴と食事で計一時間、初めて三日月を置いて離れたけれど、これで不安がなくなった。三日月の元に戻ると、鳴いて呼んでくれる。ボボボボッて。 5月16日 金峰山2599mを目指して柳平で泊まる。途中、何も食べられなくて腹減り音頭を歌いながら進み、初めて屋根の下で眠る。 5月17日 山梨と長野の県境、大弛峠を抜ける。さすがに2500m級の道には雪が残っており、ハードだった。野営地で夕方、鹿を見かける。 5月19日 八千穂村の気持ちの良い公園で泊まる。北海道から転居してきたという家族が訪れる。子供達は三日月に乗り、とても楽しそうだった。 5月23日 望月町馬事公苑で泊、屋内馬場に三日月を放し、僕も馬場の真ん中で寝る。深夜、僕の足元で横になっている三日月を見た。 5月24、25日 望月町、個人で馬を飼っているお宅で2泊させてもらい、日本の軍隊鞍を見せてもらったりした。 5月30日 国道292で群馬県(草津)から長野へ抜けた。白根山2160m越えはものすごい道で、途中三日月も僕もパニックになる。二人とも何も食えないまま力尽きて眠る。 6月10日 6月8日に丸池ホテルを出発。結局8泊させていただいて、三日月も僕も元気になった。とりあえず歩き出すことができたわけだが、今回ほど馬好きの人達に助けられた事はない。本当に三日月が壊れ、僕もボロボロに疲れていたので、今までの旅では最大の危機だった。 6月13日 僕と三日月は一時、紅葉台に戻ることにした。僕の作った鞍下が小さいため、長旅では不適当であったらしく、三日月の腰から下肢にかけての筋肉が炎症を起こしてしまったからだ。それに加えて僕が自分の足で歩こうとしなかったこと。この二つの原因で三日月を壊してしまった。 6月14日 菊地さんに馬運車で迎えにきてもらった。 7月16日 再び元気になった三日月と、木島平村の農林高校にいる。新しい鞍下のテストも始まる。今日は馬鈴に会い、高2の馬方と再会。旅の再出発は明日。 7月27日 7月22日に新潟県に入ったものの、ほとんど進んでいない。三日月が再度太ももの筋肉痛を訴え始めたのだ。そのため、歩くことが多く、僕も両足の小指のマメがつぶれた。 8月15日 三日月のツメと蹄鉄の戦いが終わり、僕の腰はぼろぼろだ。とりあえず鉄はツメにひっついている感じ。はじめての削蹄は大失敗。三日月は何とか歩いてくれる。あと10日程で新潟脱出。 |

3.騎楽 #18「放浪記」 (08/22/1999〜10/14/1999)
東京障害者乗馬協会機関誌「騎楽」No.18
よせなべ号 より抜粋
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8月22日 2泊した大毎を出発。馬好きな親父さんが、差し入れを持って夫婦で見送りに来てくれた。今までいくつのおにぎりと気持ちをもらっただろう。感謝していただく。歩き出して5kmほどで左後肢の鉄交換。全ての釘を抜いて打ち直し、予備釘が残15本。不安は残るが、ちょくちょく点検しながら歩くしかない。 8月28日 雨の中を進む。13時頃YellowPageで見つけた庄内乗馬クラブに入る。初めは断わられたが、結局滞在を許された。馬場にある草を刈り、三日月の餌として与える。 9月4日 庄内乗馬クラブを出発。久しぶりに道を歩く。スプリンクラーの音に反応して速歩が出るが、無口につけた手綱で押さえられた。なるべく三日月のストレスにならないように、今日から二本の手綱で歩いてみる事にした。秋田県入り。 9月7日 ここ2、3日は僕の体調がいまいちで、あまり進めない。今日は本荘市より15km手前の仁賀保町で朝を迎えた。靴に穴が開いて既に1週間。大きな町で買えるだろうと思い、寄り道しないで進んでいたので、いまだに穴が開いたまま。だから馬を引いて歩くより、ついつい乗って進んでしまう。気候はどんどん秋に向かっている。夕方から夜にかけてはとても過ごしやすくなってきた。朝方は寒くてシュラフが必要なくらいだ。 9月10日 山の下りがきつかったのか、三日月は歩く事に嫌気がさしているようだ。アブに悩まされ、速歩が出る。車が少ないので鉄を気にしながら少し走ったら、バランスを崩して首からずり落ちた。僕の身体も結構疲れている事を実感する。馬好きという親父さんが声をかけてきた。泊まりに来いよって。東京から田舎暮しをするために移って来たphoto journalist佐竹南風氏だった。 9月16日 大曲市まで出かけ、防寒具や新しいロープを購入。牧場から送ってもらった新しい蹄鉄を左前、右後につける。手袋をしていなかったので、三日月が足を動かした時に釘が手のひらに刺さり、始めて鉄交換で負傷。 9月17日 南外村の南風さん宅を出発。 9月19日 角館町に着いた。角館高校には馬術部があり、馬場のわきのつなぎ場に泊めて頂く事になった。馬術部の馬達は離れた場所にある厩舎に帰って行く。十分な餌も無いので連泊するのを止めて翌日出発。 9月21日 田沢湖着。小さな公園にクローバーがたくさんあって、三日月には久しぶりにうれしい野営地。でも僕が食事出来るところがない。(T_T)シクシク 9月25日 台風通過中。凄い雨だ。僕と三日月はブナの森に逃げ込んで二泊目。昨晩、遊歩道を塞ぐように大きな木が風でなぎ倒された。三日月が怖がって暴れたが、僕は翌朝まで木が倒れた事には気づかなかった。夕方には雨も風もやみ、静けさが森に戻って来た。 10月3日 歩道が無い道を行く。三日月も最近は引いて歩かれる事にも慣れて、僕の横を歩いたり、道幅の無い時には後ろを歩いたり出来るようになった。夜、持っているものを全て着て寝るが、夜中に寒くて目がさめてしまう。 10月4日 もっと寝ていたかったが、前掻きをして訴える三日月に起こされた。とても勾配の急な発荷峠を下って、やっと十和田湖に出会う。 10月9日 八甲田山の手前、田代平のキャンプ場。三日月だけでなく、僕も辛くなって来た。何日も手足を伸ばして寝る事の出来ないシュラフでの生活に、精神的苦痛を覚えるようになり始めたのだ。 10月12日 田代平の管理人、長谷地さんにお世話になった。連泊することで三日月も僕も元気を取り戻した。青森市内まで約50km、なんとか頑張れそうだ。でも旅が終わってしまうのも少し淋しい気がする。 10月14日 菊地さんが青森市のフェリー乗り場まで、馬運車で迎えに来てくださった。久しぶりに菊地さんの顔を見て、旅が終わった事を実感する。三日月ありがとう。楽しかったよ。 |
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信濃毎日新聞 |
1999年5月25日 |
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津南新聞 |
1999年 7月30日 |
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十日町新聞 |
1999年 8月10日 |
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五泉市民新聞 |
1999年 8月15日 |
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秋田魁新報 |
1999年 9月18日 県南版 |
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朝日新聞 |
1999年 9月18日 夕刊 |
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