1998822日〜96日・漂泊の魂 16日間


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By NOZOMI

社会人になって早××年。会社から10日間のリフレッュ休暇を付与される。取得猶予は2年間。99年の春までに取得しなければ、権利消失となる。

10日間の前後に土日を合わせれば、16日間の休暇となる。職場の長より、休みをとるのなら、8月末にしてくれ………と要請があり、海外旅行のチケットもそのあたりから安くなるので、その意向に沿う。
さて、では16日間もの休暇をどのように過ごそうか。小笠原諸島に行って、2週間、ダイビングというのも考えたが、やはりこの休暇は山に、しかもかつて訪れたヨーロッパの山に費やしたい。
7年前、訪れたスイスのツェルマット。氷河急行。3年前、仕事で訪れたフランスのシャモニ。荒天のため、登り損なったモン・ブランに今回、しっかりした準備と計画で臨めば、あるいは………そしてベルニナ急行。エンガディンの谷………。
写真集やガイドブックで見た世界が、以前訪れたことのある地が、強い引力で心を引きつけ始めた。
スイスにもう一度行きたい。あの地にもう一度行きたい。以前訪れなかったところにも足跡をしるしたい………
目的地、期日が決まれば、計画は迅速に立てることができた。

計画開始は4,5月頃だと思う。身近の山仲間を誘ったところ、海外旅行好きな「利き酒迷人」ことY氏が1週間ほど、行動を共にしてくれることになった。「利き酒迷人」氏が同行してくれるのは、前半。従って大きな山―モン・ブランは早めに予定することにする。

さらに「利き酒迷人」氏の話だと、海外のユースホステルは、安価の割に、立派で快適で、かつ規則もそれほどうるさくない、とのこと。
ホテルに泊まっても、山登りばかりしているのであれば、疲れた体を横たえて眠れる環境さえあればいい、外観や内装、ロビーなどがいくら豪華でも、そんなことは何の意味もない。それよりユースホステルで、いろいろな人(国籍も人種も)と出会ったほうが楽しいに違いない。
水道橋の「日本ユースホステル協会」(東京都千代田区三崎町2−20−7
水道橋西口会館 рO3[3288]1417 FAX03[3288]1248)で入会手続きと、フランス、スイスでの宿泊申し込みを早々とすませ、これで泊まる場所は確保できた。

往復の航空券については、海外登山ツアーをコーディネートしている旅行会社数社に見積もりをとってもらった。というのは、最初はモン・ブラン登山にあたってガイドの手配をお願いする可能性があったからだ。しかし、計画を絞り込んでいくうちに、宿泊はユースホステル、ガイドなし………となっていって、旅行会社としても、正直、うまみのある客ではなくなっていったと思う。またモン・ブラン登山以降、ツェルマットに行ったり、エンガディンに行ったりの個人旅行的なアレンジメントには対応できない会社もあったりで、結局、往復航空券が一番格安(
227000 他には「地球フォーラム」の237000円)でもあったアースデスクさん(Tel 03−3586−3380 03−5570−2514 メールアドレス earthdeskns.erch.or.jp 倉岡氏)にお願いすることにした。
アースデスクさんの他に当たった旅行会社は「地球フォーラム」(
Tel 03-3224-2499 Fax 03−3224−2494)「YETI」(Tel 0423−84−6902)、「アドベンチャーロード」(Tel 03−5261−1707 Fax 03−5261−1706 )、「アトラストラック」(Tel 0120−0884829 Fax 03−3341−9200 )、「アミューズトラベル」(Tel 0120−802514)。
「アミューズトラベル」さんは、『ゆっくり登るモン・ブラン』というものを企画していて、興味深かったが、期日が8/17〜8/26、旅行費が888000円で、自由にスイスを回ることもできず、対象外だった。「YETI」は、1997年は、モン・ブランを企画したが、今年はまだやるかどうか未定(6月当時)とのこと。
いろいろ調べていくうちに、海外登山ツアーを企画販売していながら、山の情報が不正確な会社があったりして、そういった中で、一番、信用できそうなのが、「アースデスク」さんだった。
後に私が所属している社会人山岳会の事務局長、
M氏から、アースデスクの倉岡氏とは旧知の仲で、数年前、東京都山岳連盟の遠征で、いっしょにシベリアのポベータにいった、ということを教えてもらった。
ガイドを依頼するかどうかは最後まで結論が出せなかった。
ガイドは一人当たり
50000円かかるのだが、お金の問題というよりは、つまりは天気が悪ければ、ガイドがいようといまいと登れない。天候がよければガイドなしでもなんとか登れるかもしれない。もし体力がなくて、晴天下、ガイドに助けられて、登る事になったとしたら、それは(精神的にも体力的にも)そうとうつらいことになるわけで、そういう思いをしてまで登らなくてもいい……というのが、「利き酒迷人」氏との結論となった。

その上で、どうしてもガイドを依頼したくなったら、シャモニで手配しよう、ということにした。(実際は、モン・ブランはたいへん人気のある山で、現地でいきなりガイドを頼んでも1ケ月は待たされる、ということを、シャモニのユースホステルで知り合ったマスダ氏から聞かされた。)
前回、モン・ブランを目指したときは、ガイドを依頼していた。出発当日、雨模様だったのだが、ホテルに迎えにきたガイド氏は、
「出発すると(シャモニの町を出ると)全額。今、中止すれば、半額いただく。日を延ばしてチャンスを待つ場合は、拘束料がかかる」
と説明してくれた。
結局、日程に余裕がなかったので、出発したが、ニー・デーグルの先で、
「嵐の雲が近づいてくる。」
とのガイド氏の言葉で、登山はあきらめて下山となった。

往復航空券の手配、泊まるところの手配、氷河急行の手配、スイスフレキシブルパスの手配その他もろもろの準備は少しずつながらも進行していき、その中で、旅行の概要が固まってきた。
詳細は以下のとおり。

8/22(土)
 成田発 11:40発のJAL405便でパリ・シャルル・ドゴール空港へ。
シャルル・ドゴール空港からエールフランス機に乗り換え、ジュネーブへ。
ジュネーブ泊。

8/23(日)
ジュネーブからバスでシャモニへ。
シャモニ泊。

8/24(月)
エギュー・ディ・ミディに上がりエムブロネル付近にて高所順応。
シャモニ泊。

8/25(火)
モン・ブランに出発。
グーテ小屋に泊。

8/26(水)
モン・ブラン登頂。
シャモニに下山。
シャモニ泊


8/27(木)
シャモニ発。マルティーニ経由でツェルマットへ。
ツェルマット泊。

8/28(金)
ツェルマット泊。

/29(土)
ツェルマット


8/30(日)
ツェルマット泊(この日の朝、「利き酒迷人」氏はツェルマット出発。
ジュネーブに向かい、翌日帰国)。

8/31(月)
ツェルマット発。氷河急行にてサン・モリッツへ。
ポントレジナに移動。ポントレジナ泊。

9/1(火)
ポントレジナ泊。

9/2(水)
ポントレジナ泊。

9/3(木)
ポントレジナ泊。

9/4(金)
ポントレジナ発。チューリッヒに移動。チューリッヒ泊。

9/5(土)
チューリッヒ発。

9/6(日)
成田着。

7月中は勤め先の自然愛好会の石垣島・西表島合宿に参加したりで山から遠ざかっていた。8月になってからは真剣に取り組もうと8月2日は秩父・二子山、8月9日は奥多摩の沢、続いて814日からは所属山岳会の立山合宿に参加したが、これは激しい雨天のため、中止となった。更に出発1週間前の815,16日には富士山山頂で1泊。高所順応を試みる。

しかし仕事のやりくりのほうは、思うように進行せず、また続けて週末、山に行ってたりで荷造りもあまり進行しないでいた。
出発数日前に用意したトランクが荷物に対して小さすぎることがわかり、至急、実家から大きなトランクを借りてくる。
荷物はなんとか、出発前日に最後のこまごましたものを詰めればお終いという状態にできたが、仕事相手からのファックスが出発の前日、金曜日の夜、約束の夜中12時になっても送られてこない。TELするとまだまだかかるという事。最後の荷造りのため、自宅にもどらねばならないので、自宅に送信してもらうことにする。
朝、
6時半には成田空港に向かって自宅を出ようと思っていたので、
6時までに送信してほしい、それ以降だともう見られないから、今度はフランスでなんとか連絡を取れるように考える」
と、相手に言っておいたが、6時直前になっても自宅にファックスが送られてこない。
「これはダメかな〜」
と思っていると、ファックスが入り始めた。
何とかファックスに目を通して、打ち合わせのTELをいれ、これでヤレヤレと思ったら、旅行中の
24日ごろにも国際ファックスで打ち合わせしてほしいとのこと。もともと9月4日にはチューリッヒにて国際ファックスで打ち合わせを約束していたが、24日にも……ということだ。
正直言って
24日は、予定では結構行動している日なのでシンドイことはシンドイが、他の者に打ち合わせを替わってもらうこともできるのに、担当者である私との打ち合わせを希望する相手の気持ちに応えたく、なんとかシャモニでの算段をつけて、打ち合わせすることを約束する。

というわけでとにもかくにも出発の朝に何とか仕事を一段落させて、大きなトランクを引張り、さらに大きなリュックを背負って朝の町を成田空港へ向かった………。

8月22日(土)
何とかたどり着いた成田にて。JALのカウンターで鈴木の荷物が14kgオーバー(エコノミークラスの無料荷物は20kgまで)でいきなり追徴金を請求される。
いつも海外旅行は団体旅行扱いのチケットだったりして、その際は重量オーバーしてもカウンターは大目に見てくれてたのだが、今回はそうではなかった。
キロ当たり5000円請求で77900円!でもいまさらカウンターの前でパッキングをやり直す気力も時間もないし、余分な荷物を小包にしてSAL便で送っても日数がかかってしまう……。事前に少しずつ宿泊先に送付しておけばよかったが、仕事に忙殺されてそういうこともできなかった。
(何しろ成田に向かう時間の直前にまで仕事相手から自宅にFAXが送られていたくらいだから)
こんなところでグチャグチャして「利き酒迷人」さんに迷惑をかけるのもいやだったし、
34kgの荷物は16日間の休暇と登山を快適かつ安全に送るためには必要なものだし………。
ということでどーんとふとっぱらでJALに
77810円 (カードで)払う。
(このことに関しては正しかったと全然ショックは今でも感じていない。)
(クロネコヤマトの国際宅急便を使っても安くなる事は知ってはいたがついつい利用しなかった。それらの方法をとっていれば、おそらく2万円代ですんでいただろう。さらに後にトランク自体の重さを計ったら8kgあった。)
 

そうして2人は機内の人に…
NOZOMIの席は2階席。「利き酒迷人」氏は私の勤める会社の三浦君と結婚したピアニストの仲道郁代さんと同窓で、ドイツ人と 結婚した???さんご夫婦と隣同士だった。JALの出発が管制塔の指示待ちで1時間以上遅れ、パリ・ドゴール 空港でのスイス航空への乗り換えがかなり時間的にヤバクなる。
ドゴール空港内を走るようにしてスイス航空のカウンターに向かう。
なかなか発車しないスイス航空機へのシャトルバスの中で日本からいっしょだったフランス少年が、「ちょっと荷物、見ていてくれませんか?」
といきなり日本語で話しかけて、バスを降りていった
。(多分何か忘れたのか)
「彼、日本語できるんだ」と、わかった我々。もどってきた彼にさっそく「利き酒迷人」さんが得意のフランス語(と日本語のミックス)で話しかける。彼は17歳で、なんでも10月から日本に音楽(?)の勉強に留学をする予定とのこと。
六本木とかそういうところに行ったことはあるとかなんとか言っていた。
おもしろいので日本で再会するために連絡先を後で聞こうと思っていたが、
な、なんと飛行機に積み込んだ荷物がパリ・ドゴール空港に残ったままで、ジュネーブに 届いていないというトラブルにすっかり失念してしまう。
人間はなんとかスイス航空機に乗れたが荷物は時間がなく、積み替えができなかったとのこと。我々は22日はスイス領のジュネーブ泊だが23日には、近いとはいえ他国(フランス)の山岳地帯のシャモニに移動してしまう。しかも登山に来たのに着の身着のままで、山道具がなくては何もできない。
「利き酒迷人」氏がトラブルカウンターでフランス語で交渉するが、相手側は必ず明日、シャモニの宿まで届ける・・・とのこと、ここは信じるしかない。
フランス少年の荷物も届かず、同じカウンターにいたのだが、それやこれやで、連絡先を聞くことも忘れてしまった。
ジュネーブ空港でリコンファームすることもすっかり忘れて、2人、やや動揺気味にとりあえず雨の中、傘もなく(荷物の中だったので)手荷物だけでジュネーブ市内のユースホステルへ。
ユースそれ自体は近代的なビルで雰囲気は悪くなかったが、荷物のことで意気消沈気味で、雨にも降られて、
ダークなムードだった。

ユースで宿泊の手続き後、夕食をかねて夜のジュネーブの町を散策。レマン湖まで行ってからショーウインドウの時計を値踏みしたり、
「夜の女」を遠くから眺めたりしつつ、適当なレストランに入る。
スパゲテイを注文するがうどんのような太さでまずく、しかも高い(
1500円)。
雨に濡れながらユースに戻り、シャワーを浴びて(ハンカチで体を拭い、ハブラシは「利き酒迷人」氏の予備を借りて)就寝する。

23日(日曜)
天気はやはり小雨模様。シャモニ行きのバスに8:30乗車。急行便のため11時前にはシャモニに着く。
道中、雨模様だったが
シャモニ駅前に着いたころには、ぐんぐん晴れて来、山々が 望できる。駅からとりあえず観光局までの道を行く。途中にフランス山岳会の事務所(日曜日のため閉まっていたが)があって、保険のためや、記念のために入会しようとは思っていたが、年会費15000円に、(金額は事前にわかっていたのに、)急に腰が引けてしまい、入会を見合わせる。(一度入会すれば後は一生ものと知ってはいたが)
さて、パルマ広場からはモン・ブランが見え、意欲が掻き立てられる。

シャモニの町を歩き回り、どうにも気になる荷物について、問い合わせの電話をいれる。するとなんと正午の段階で、まだパリにあるとのこと………こうなったらじたばたしてもしようがない、登山予定日(8月25日)までに 荷物が届かなければそれも運………と割り切り、シャモニの町をうろつく。
ガイド協会の建物の中に貼り出されているメテオ(「メテオ」という言葉が天気予報の意味とは知らなくて、「利き酒迷人」氏にあきれられる。アメリカ映画のタイトルから、てっきり「隕石」のことだと思い込んでいた。)を見ると、しばらく天気はぐずつくが、モン・ブラン登山予定日には、風がつよいながらも晴れるとの予報。
有名な墓地を訪れたり(ガストン・レビュファや中野
融の墓は見つからなかった。以前、訪れたときはすぐ見つけられたので移動したようだ)、エギュー・ド・ミデイへのロープウエイ駅(駅はがらがらで、ロープウェイには並ばないですぐ乗れる状態。翌日の午前中とはえらい違い。またコズミック小屋は閉鎖されていると張り紙があった。日本からのモン・ブラン登山ツアーの中にはコズミック小屋に1泊してモン・ブラン三山縦走というものがあったが、どうするのだろう)、スーパーマーケット(日曜のためこれも閉店)の場所などを確認。
さらにスネルスポーツの神田さんに挨拶しようとしたが日曜日のため休み。

後2人、時間を決めて別行動。しかし山岳博物館の前でバッタリ再会し(狭い町だけに)、いっしょに展示を見た後、今度は山岳映画「天と地の間に」(ガストン・レビュファ主演)の上映が博物館の別室であったので鑑賞する。(ちょうど博物館50周年ということでいろいろ催しがあったみたいだ)
私は前にテレビで見たことがあったので、不覚にもいねむりをしてしまったが、ときどき目を覚ましてみると、レビュファの超人性が画面に繰り広げられていて唖然とする。(いくら演出があるとはいえ)。特にねらっているモン・ブランのシーンでは滑落したパートナーを反対側の斜面に飛び降りてかんたんに止め、パートナーともども何事もなかったように笑顔を交わしたり、パートナーのザックがえらく小さいのに、スコップの柄だけ、ザックから飛び出していて、あれは何かなーと思っていたら、山頂でへらへらと笑いながらイグルーを作って1泊するあたりは(あまりにも快適そうなので)
あんびりばぼー
「利き酒迷人」氏もえらく感銘(ショック?)を受けたようで、映画のポスターをもらい受けていた。
もともと運がよければ…という気持ちではいたモン・ブラン登頂だったが、映画を見たせいか、かえって不可能の予感の方が高まってしまった。

ユースホステルはシャモニ観光局の前のバスターミナルから発車。レ・ズーシュ行きのバスでペレラン・エコールという停留所だ。
同乗者に中学生くらいの地元の(当然フランス人)少年たちが同乗していて、我々が日本人だとわかったらしく、
「サヨナラ」「スキダヨ」などと知っている日本語を言ってからかいはじめた。
「利き酒迷人」氏がフランス語で話しかけると、フランス語が話せる日本人が珍しいのか、ワーッと我々を取り囲んで、おしゃべりを始めた。悪意があったのではなく、単に好奇心のかたまりなだけなのだろう。
しかし「利き酒迷人」氏の語学力には、本当に敬服する。私は言葉の断片で、会話の内容を推し量ることぐらいしかできなかった。いろいろおしゃべりした後、彼らは途中で下車していったが、
ハートウォーミングな一時を過ごすことができた。
 

だが、降車するべきバス停になっても、運転手(女性)が教えてくれなく、行きすぎたところになったところで、
「あんたら、降りるんじゃなかったのかね?」
的なことを言い出す。
あわてて下車するが、ユースホステルへの地図に載っているところとちがう地点で降ろされたから、そこから先がわからない。適当にうろついて、かなり近くに来ている感じはあるのだが、どうしても詰めきれず、やむなく、犬を散歩させている、地元の人っぽい人に教えてもらった。
山のふもとの町だから、坂が多い。手荷物だけでもあえぎあえぎ坂を登り、たどりついてみると、
おお、なんと立派なユースホステルなのだ
夕方で受付は混み合ってはいたが、建物は広々としていたし、2人部屋もとれた。さらに我々の部屋に行こうとすると、な、なんと我々の荷物がちょうど宅急便で到着したではないか!!国境を越えて、さらに山岳リゾート地のここまで。欧州人(特にスイス人の誠実さ…いくら約束してあったとしても)の心根にまたまた
ハートウォーミングになる

ユースの外に出てみると、広々とした庭では、サッカーやピンポンをやっている少年たち。
さらに広がる芝生では、のんびり昼寝(もう夕方だが、日差しは激しい)をする人。となりの建物(ホテル?)の屋根越しには、エーギュ・ド・ミディ、そしてモン・ブランがストレートに臨める。
「利き酒迷人」氏も感激して、
「もうモン・ブランに登れなくてもいいや」
と言うくらい、ここは景色を眺めているだけでも
ハッピーになれるところだ。
気持ちが浮き立ったのだろう、「利き酒迷人」氏は、
「付近の写真を撮りに行く」
……とユースを後に。
飲んべえの小生は、ビールを買い(外国のユースはタバコも酒も売っていてOKなのだ)、芝生に寝転がって、山のビデオを撮ったり、
双眼鏡で山を眺めたりして、ボーっと過ごす。
夕食は7時から。ユースの夕食は今夜はステーキということで、町に食べに行くのも面倒(ユースはシャモニの町から歩いて30分ほど離れている)だし、期待を込めて、注文する。しかしこれはみごとに期待はずれ。形状はハンバーグのようだが、中は確かにミンチ状ではないからハンバーグではない。何と言っていいか解らないが、とにかく肉ではあったようだ。夕食の値段(スープやサラダ付で1500円)を考えれば、
リーズナブル(?)なのかもしれないが………。

ユースには日本人が数人いて、その内、マスダさんという人が、モン・ブランをねらっているということで、向こうの方から、積極的に話しかけてきた。
年は35歳。特に職業を持たずフランスを中心に働いたり、旅したりの暮らしだそうで、もともと登山は日本で多少やってはいたけど、ヨーロッパアルプスにはさほど興味はなかったそうな。
でもやはり、山を目の当たりにすると、登りたくなるそうで、一度、一ケ月前に、ユースで知り合った日本の高校生と、ガイドレスでモン・ブランにアタックしたとのこと。
同行の高校生は強そうに見えたけど、結局、へばったのでグーテ小屋に留まらせ、マスダ氏のみ、頂上を目指したが、強風のため、頂上直前で(これは実はマスダ氏がそう思っただけで実はまだ先があったようだが)引き返してきたとのこと。同行の高校生はそのまま高山病を起こし、小屋から下ることもままならず、結局、ヘリコプターで降ろされたとか………。その高校生は、面白がってフランス山岳会に入会していたので、幸いというか、ヘリコプター代250000円(高い!)はタダになったそうな。しかも下に降りたらすぐピンピンになったとか…。
(マスダ氏はこの高校生のことを腹立たしげに語っていたが、この出来事はこの夏のちょっとしたエピソードだったらしく、翌日訪れたスネルスポーツの神田さんも、話題に出していた。
さらにマスダ氏は、先日、ユースに泊まっていた一日本人男性のことを話題にして、
「今現在、その彼が単独でモン・ブランに行っているが、コズミック小屋が閉まっていて、そっち方面からのトレールがないのに、そのままモン・ブラン三山を縦走してエギュー・ド・ミディに抜ける予定とか、その後はマッターホルンに登るとか言っているが聞いてみたら、ザイルも持っていないということだ。いくらなんでもマッターホルンを単独でザイルなしで登ろうなんてあきれた人だ」
と盛んに「困った日本人」が多いことを嘆いていた。
(その「困った日本人」氏には後に我々も会うことになって、名前をヤマザキ氏といい、ツェルマットのユースでいっしょになった。ヤマザキ氏は、さすがにモン・ブラン三山縦走はムリだったようだが、コースタイムどおりモン・ブランに登ったということで、それを知ったマスダ氏も、
「少し見直した」と憤りもやや収まったようだ。)

さてそのマスダ氏だが、何かと話がしたいらしく、こちらも情報集めに都合がいい……と相手をする。
前回はそんなわけでモン・ブランに結局登れなかったので、すぐにガイドを頼んで再挑戦しようとしたとの事、ところが前述のとおり、モン・ブラン登山は人気が高くて、ガイドは1ケ月後でなければ手配できないということなので、予約した後は、ツェルマットに行って、そこのガイドと共にマッターホルンに登ったとのこと。さすがにマッターホルンは空いていて(なぜ?)ガイドの手配はすぐついたそうだ。マッターホルンの感想はというと、岩登りの技術的には、2,3級で、頂上直前までピッケルも使わなかったし、手袋も寒さのためというよりは、固定ロープで手をすりむかないために使うくらいで寒気はたいしたことはないのだが、とにかくヘルンリ小屋を出発してから登頂下山まで、ずーと岩の傾斜帯で、ふもとまですぱっと切り立って見えていて、恐怖感で神経が休まるところがなくてそれがつらかったそうだ。岩の傾斜帯では恐くて自分でアイゼンをつけられず、ガイド氏につけてもらったと照れくさそうに語っていた。マスダ氏の口ぶりでは、けっこう登山には自信がありそうだったので、そんな氏がきつかったというマッターホルンという山は、やはりなかなかどうして厳しい山なのだろうと、認識を新たにする。

夕食を済ませると8時ごろになっていて、さすがにあたりは暗くなってくる。夕方ころはさんさんと日が差しているのだが、暗くなると一気に空気も冷えてくる。
宿泊者の部屋は別の建物になっていて、そこに共同のシャワーもトイレもある。
アースデスクの倉岡さんに以前、シャモニのユースホステルでは、盗難事件があったのですすめられないとアドバイスされたが、2人部屋(カギはカード式)ならば安全だろう。とにもかくにも荷物は届いたし、2人部屋は確保できたし、しばらくはシャモニ滞在で移動することもないし、景色はいいし………で、この日は気持ちよく眠りにつくことができた。

24日(月曜)
メテオの予報どおり、朝から天気はグズつき気味。ユースの朝食はジュネーブのユースと同じ感じだった。
今日の予定はエーギュ・ド・ミディに上がって高所順応。しかしちょうど今朝、予定では仕事相手からファックスがくることになっている。最初の予定では、
9月に入ってから、スイスのチューリッヒで打ち合わせをする予定だったので、日本からス スへ連絡をとる場合の スイスの国番号は調べて教えてあったがフランスの国番号までは調べておかなかった。(何しろ出発日の朝に、急遽、シャモニでも打ち合わせをすることになったので)
ユースの事務所で聞いても、フランスから各国への番号はわかるが、各国(日本)からフランスへの国番号はわからないとのこと。(そういうものか?)しようがないから日本の職場に電話を入れ、(日本は午後2時ごろのはず)新入社員の
O君にKDDかどこかで日本からフランスへの国識別番号を聞いてもらう。
そうして相手先に電話を入れたところ、なんのことはない、まだ仕事がまとまってなくて、後、数時間かかるとのこと。ここでその数時間を待っていることで、
エーギュ・ド・ミディに上がっての高所順応の予定を変えるわけにもいかず、(「利き酒迷人」氏に迷惑をかけるわけにもいかず、また高所順応しておかないと、その分、モン・ブラン登頂の可能性が減る)とにかくユースへのFAXの送り方を説明して、まとまったら、送っておいてもらうことにする。(しかし今日、予定どおりの行動をすれば、ユースにもどってくるのは午後6時ごろ。日本時間では午前1時になる。先方としては不満そうだったが、そうするしかない)
さて、そういったことをいろいろやって、それでもなんとか予定どおりの時間にユースを出発。駅まで歩いて行って、電車でシャモニへ向かう。
エーギュ・ド・ミディのロープウェイ駅に行くと、ちょうどジュネーブからの観光バスなどが到着する
10時半ごろのため、たくさんの人が並んでおり、45分ほど待たされることになる。これには正直、まいった。
そろそろロープウェイに乗れるかな……というところまで進んだら、ちょうどそこで強風のためロープウェイがストップ。しばらく待ってみるが、自体は好転せず、しばらくシャモニの町を歩いて時間をつぶし、様子を見ることにする。
スネルスポーツの
神田さんにあいさつに行くと、(3年前の記憶どおり)ロック歌手の内田裕也のような風貌で、(これまた3年前と同様に「モン・ブラン登山を甘く見ている日本人が多い」ということをさかんに言う。3年前、神田さんに頼んで、ガイドを手配してもらった。その時、「実は体力に自信がない」とエキスキューズを言うと、言下に、「そういう人はモン・ブランに登る資格ナシ!」と言われてしまった。結局、事実、登れなかったのだが、あの時よりもさらに体力が落ちているであろう今回は果たしてどんなものだろう?)
さらに、例の「高山病高校生」の話も、神田氏から出され、けっこう有名な事件(?)だったんだな……と納得する。
今現在、
9名の登山者が行方不明とのこと。(モン・ブランでなのか、モン・ブラン山群でなのかは聞きそびれたが)気をつけて行くように、ということと、しかし明日、明後日は風は強いだろうが、天気にはなるからチャンスだと言われ、期待する。

しかし、雨はますますひどくなり、ほんとうに回復するとは思えないほど、天気は荒れ気味。

スーパーのそばのレストランで、ちょっとしゃれたコース料理の昼食をとった後、再び、エーギュ・ド・ミディのロープウェイを眺めてみるが、まだ運行中止で、そろそろと下りロープウェイで、上に上がってしまっていた観光客を降ろしている最中だった。「もう少し早く並んでいればよかった」と悔やんだが、(上がるだけ上がってしまえば、歩いてくだればいいのだから)とにかく今日もなにもしないで過ごすのでは身をもてあますので、急遽、ブレバン(2525m)に行くことにした。
ブレバン行きのロープウェイは動いていたし、エーギュ・ド・ミディほど人気がないので、すぐ乗れた。
雨は激しく降り続き、ブレバン頂上では、風も加わってかなり寒い。
シャモニに下る道を雨の中、歩き始める。結局エーギュ・ド・ミディで高所順応できないのであれば、仕事の相手を日本時間の午前
1時まで待たせるのは申し訳ない。私は、「利き酒迷人」氏とはプランプラ(2020m)で別れてロープウェイで先にシャモニに下ることにする。

ものすごいどしゃ降りのシャモニの町で偶然、マスダ氏に出会う。夕方にガイド組合の建物でガイド氏と顔あわせをするとのこと。たとえ明日、天気になっても雨上がりの状態での登山はいやだなあ……とぼやいている。その点はまったく同感で、今回のモン・ブラン登山も不成功に終わる予感がしてきた。
それでもスーパーマーケットで明日からの登山用の食料を買い、テレホンカードを買って(日本へコインで電話するとあっという間にコインがなくなってしまうので)鉄道でユースに戻ることにする。

列車を待っている時に、外国人の女性から、×××方面のプラットホームはこれでいいのか……と話し掛けられる。
それから何とはなしに、雑談をしたが、彼女はアメリカ人で、父親が仕事で今、中国の×××という都市(北京より南、上海より北)にいるそうで、何と、彼女は2日前、モン・ブランにガイドと共に登ったそうだ。
「足が今でも疲れている」と笑っていたが、う〜ん、こういった普通の娘さんが登ったのなら、一応登山を趣味にしている我々が登れないとなると、ちょっと(だいぶ?)恥ずかしいなあ〜、と思ってしまった。
私はプレランの駅で降りたので、彼女とはそれでお別れ。さてユースに着くと仕事相手からの
FAXは既に届いており、(ユースの事務所から17フラン請求された。紙代か?)さっそく打ち合わせのTELをかける。感想をいうだけの打ち合わせなので早くすむかと思ったところが、なんと、22日の早朝、自宅で打ち合わせしたことの内容がどうにも気に入らないのでやり直したいとのこと。さすがに以前のFAXは自宅に置いてきているので、
「ここをこうしたい、あそこをこうしたい。」
……と言われても、正直困ってしまう。なんとか記憶をたどり、適当なアドバイスをして連絡を終えるが、かんたんにすむと思っていた電話がまたまた長電話になってしまった。
電話を掛け終わってすぐに「利き酒迷人」氏がどしゃぶりの中、ユースにもどってくる。夕食は結局、「利き酒迷人」氏が町で買ってきた軽食とワインでなんとなくすませてしまった。

夜になってさしもの雨も小降りになる。モン・ブランに登れるかどうかはわからぬがとにかく行けるところまで行こう、体調、天気いろいろな条件によって、テート・ルース小屋泊りで往復、あるいはグーテ小屋泊まりで往復でもいい……という気持ちで山支度を終え、就寝する。

25日(火曜)
まぶしいほどの快晴!! やはり天気予報は的中!!
こうなったら(?)出発しない理由がない。朝食後、駅のそばのシャモニ・バス停でレ・ズーシュ行きのバスに乗る予定。ところが、バス停に向かう途中で、レ・ズーシュ行きのバスに追い越される。ユースで時間は調べておいたので、あっけにとられるが、バス停についてみると、またすぐにレ・ズーシュ行きのバスがやってきた。ユースの時刻表には載っていなかったわけで、なぜかわからないながらも、バスに乗り込む。(8:15)
やってきたバスにすぐ乗り込んだためにレ・ズーシュには予定よりも早く着いてしまい、ベルビュー行きのロープウエイはまだ運行していなかった。
運行開始を待っているうちに、だんだんと登山者が集まってくる。車でやってくるグループもいる。モン・ブランに登るためには今日中にグーテ小屋まで上がらなくてはならぬ。そのためにはベルビューを何時に通る登山電車に乗らなくてはならない。そのためにはベルビュー行きのこのロープウエイに何時までに乗らなくてはならない……と大体、決まっているらしく、登山者はほぼ同様の計画で同様の行動をとっている。その中にイギリスからやってきたというグループがいて、なかなか精強そうな連中だった。装備がものすごく、テント泊まりのかっこうをしている。我々が、
「今日はグーテ小屋泊まり」
というと、
「予約したのか?」
と聞いてくる。
「していない」
と答えると、なんと、彼らは、事前に小屋に電話したら、
「フル(いっぱい)」といわれたのでテントを担いで登るのだとのこと。
その情報に正直我々はあせったが、なんとかなるだろう、小屋の隅にでも寝せてもらえるだろう、まさか追い出したりはしまい……と勉めて楽観的に考える。
ベルビュー到着。そこから歩いて5分ほどの登山電車の
ベルビュー駅へ。駅に貼り出してある時刻表はまたしてもシャモニで調べたものとは違っている。どうなっているのだろう。
天気はギラギラするほどの快晴。昨日のあのひどい雨も、強い日差しと、空気が乾燥しているせいだろう、乾いてしまっていてまったくなごりを感じさせない。
その内、マスダ氏もガイドと共にやってくる。

やがて登ってきた登山電車に乗り込む。(10:05)登山電車が高度を上げるにつれ、すばらしい景色が広がっていく。3年前は今にも降りそうな天気だっただけに、今回、快晴というせいで、かくも鮮やかな景色になるのかと感動する。
車内で初老の男性が「利き酒迷人」氏に話しかける。この老人も以前、モン・ブランに登ったことがあるそうだ。何でも今は足をけがしていて今回は
氷河のハイキングをするとのこと。
さて登山電車は
ニー・デーグルの駅が終点(2386m)。モン・ブランを目指す登山者は、のんびりすることなく、さっさと登り始める。(10:26)
我々は「マイペース、マイペース」とどんどん抜かれても気にせず、歩き続ける。前回、天候悪化で引き返したところ(遭難碑らしきものがある少し先)を過ぎ、未知(?)の領域へ。
やがて氷河が見えて、テート・ルース(3167m)小屋に着く(12:20)。(正確には小屋は登山道から離れているので、小屋には立ち寄らなかった)
時間的には、コースタイム通りなので結構抜かれたりもしたが、一安心。昼食をとり、氷河を流れる水で喉を潤す。(がぶのみすると胃に良くないのは知っているので、適当に。でも冷たくっておいしく感じられる)
休憩後、出発。(13:00)それから少々氷河の上を横断するのだが、ここでプラスチック靴に履き替える。(このためこれから続く岩稜登りに多少、不自由する)
クロワールのトラバースはそれほど恐怖ではなかった。しかしそれから先の、グーテ小屋までの登りがめちゃくちゃきつい。
それまではほぼ同じペースだった「利き酒迷人」氏にどんどん引き離されはじめる。岩稜を時にはクサリや鉄クイにつかまって登るのだが、既に高度は
3000メートル以上。日本で一番高い岩場が北岳ということを考えれば、3000メートルを越えたところでの岩稜登り(岩登りではない)はつらい。息が切れ て、息が切れてどうしても休む時間が長くなる。
もうそこに小屋が見えているのにどうしてもピッチが上がらない。私以上にへばっている者や、途中から引き返すパーティーも出始める。
「利き酒迷人」氏も時々待ってくれたりしていたが、結局、私より
30分ほど早く小屋に着く。私もやがてようやく小屋に到着(16:56)。日の長さが幸いした。
ところが、落ち着いて下を眺めるとはるか下のほうから上がってくる連中がまだ結構いる。さっきまでの苦しみを思うとほんとうに「ご苦労さん」だ。もともと呼吸系が弱いとは自覚していたが、荒い呼吸のため、ノドをやられてしまい、ひどい咳が出続けて止まらない。きたない話だが、せきこんだら、
ヒルのような大きさと質感のタンが2つ、飛び出した。その内、肺が痛むのを感じるようになり、「肺炎」の言葉が頭に浮かぶ。例の「高校生」にはなりたくないが、さて、どうなることやら。
それでもミナラルウオーターをがぶ飲みして喉を潤していると、少しずつ、楽になってきたので一安心。

宿泊のほうはというと、「
ノー・リザベイション(予約してないんだけど)
と言うと、「
OK,OK」と返事するので、一安心。
ところが「
ユー スリープ オン フロア(床に寝てね)
というわけ。でもまあとにかくよかった。

小屋には、単独でここまで登ってきた日本人青年がいて、(その時は日本人は彼だけだった)話し掛けてきた。何でも、会社員だったけど、入社して数年で会社が潰れ、それを機に世界を旅して回っているとのこと。
彼も登頂は不安らしく、天気の情報や、頂上までの様子をさかんに質問してくる。フランクに話してはいるのだが、何か、力の強い日本人パーティーに(できたら)くっついていこうとしているらしく、我々がただのサラリーマン登山者で、それほど力もないとわかると(自分のほうが強いとわかると)、微妙に物言いが替わった気がする。
たとえば、我々はこの登山に備えて、ちょうど1週間前に富士山に1泊しているのだが、その話に対して、
「うん、富士山には自分も登ったことがあるが、最後の登りは自分もきつかった。で、それからずっと自転車で太平洋まで降りたんだけど、ずっと下りだと思っていたら、市街地に登りがあってしんどかったです。」
と語る。
「ん?
すると彼は自転車を富士山に担ぎ上げて、それで『自分』もきつかったと言うのか?」
と彼の話に複雑なものを感じる。また、我々が、
「(モン・ブランの)頂上は明日の予報では風速60キロ(時速)だってさぁ、どうしようか?」
というと、
「そう、でも僕、風速60キロ(時速)って聞いたとき、あ、大したことないって思いました。だって秒速にすると17メートルくらいでしょ?」
と言う。何か、こっちが慎重さからマイナス思考をしているのに、それを知ってか知らずかそういった返事がすぐかえってくるのに、少々不愉快さを覚える。

実は、マスダ氏にしても、この「自転車青年」にしても、就労年齢になっていても、旅行をしている彼らには、ある共通の屈折したものを私は感じてしまった。(100%サラリーマンの私のヒガミもあることは認めつつ)
彼らは本当に旅行が好きで、いわゆる定職を持たず、家庭を持たず、一人での人生を悔いることなく生きているのだろう。でも、同時にそういった生き方を「認めてほしい、わかってほしい」という願望を人一倍強烈に持っているのではないか?
誰だって、自分のことを他人に理解してほしい、さびしい内面は持っている。それは私も同様だ。しかし「認めてほしい、わかってほしい」があまり過ぎるとイヤミに感じられてしまう。
それに比べ、ポントレジナで会った、定職を持たずに、世界を旅しているという25歳のスイス青年は、実にさわやかで、アッパレだった。(彼については後述する)
さてさて、話をモン・ブラン登山にもどして………

以前、モン・ブランに登ったウータン・クラブの
S氏の話では、グーテ小屋の食事はフル・コースとか。期待していたのだが、実際は、まず、各自にスープが出て、後は写真のとおりの肉じゃがみたいな料理とパンのみ。おいしかったし、ボリュームもあったが、フル・コースではない。「利き酒迷人」氏の、
「(
S氏は)スープが出りゃ、フル・コースと思ってんじゃない?
という一言には、笑わされた。
さて、夕食が済んでも日が長いので
8時ごろまで明るい。それをいいことに(?)まだまだ登山者が上がってくる。
気がつかなかったが、いつのまにか小屋の中にマスダ氏がいたので、(マスダ氏はかなりのハイペースで上がっていったはず)あいさつすると、笑みを浮かべて、
「モン・ブラン、登りましたよ」と言う。何の事か、すぐにはわからなかったが、なんと、今日の内に頂上に行ってしまったそうだ。小屋に午後2時(!)に着いたので、ガイドが
「お前なら、今日中に頂上に行ける。どうだ、やるか?」
ともちかけたそうだ。
結局、そのまま歩き続けて、最後はガイドに引っ張られるようにして、(ちょっと高慢そうな彼が正直にそういうのがおかしい)
6時に登頂。頂上は無風状態だったそうだ。そして2時間かけて、今、小屋にもどってきたわけだ。こういったケースはガイド氏も、
「知らない」
とのこと。ともかくも成功を祝福する。
また、先日、ユースに泊まっていた一日本人男性のことを話題にして、
「結局、彼もモン・ブランにコースタイムどおりで登れたそうだ。(さすがにモン・ブラン三山縦走はムリだったそうだが)見直した。」
とのこと。

我々はなんとか小屋まで達したが、ここまでの苦しみは相当なものだった。「利き酒迷人」氏と相談したら、「利き酒迷人」氏もあしたのコンディションでさらに登るかどうするか、決めようとのこと。起床は午前2時ということなので、調子などが悪く、出発しないのであれば、登山者が出発した後、寝直して、明るくなってからノンビリ下山しよう……と話しあう。

さて、モン・ブラン登山を紹介した本には、山小屋では早く就寝して騒いではいけない……と書いてあったが、なるほど奥のベッドルームは静かなようだが、食堂はなかなか静かにならないし、消灯の気配もない。ベッドのない我々は寝たくとも寝られず、どうなるのかなぁ〜と思っていたらようやく9時になっちて、
「これから消灯だから、テーブルの上に椅子を乗っけてくれ。」
と指示が出る。それから「
床で寝る組」にウレタンマットが配られ、各自、寝るスペースを確保する。
スペース的にはけっこう、余裕があったが、後は毛布もなにも配布されない。持ってきた衣服を着込み、ツェルトをかぶったが、それでも確かに小屋は暖かだったので、快適に寝られた。
やがて向こう側の外人がイビキをかきはじめ、その内に私も「あ、今、イビキをかいたなぁ〜」と思いつつ、眠りに落ちた。

26日(水曜)
ウトウトしつつ時々時計を見るが、午前1時になっても小屋の人が起きる気配がない。ようやく2時直前になって、明かりが灯される。
テキパキと起き、マットを片付け、テーブルから椅子を降ろして食事の準備。(小屋の者の指示で登山者が手伝いをする)
朝食は、前日に頼んでおいた飲み物(コーヒーか紅茶。量はたっぷり)とパン。(他の登山者の分といっしょ盛りだが、一人3切れと数えてある)

皆、食事が終わると、どんどん支度をして出発していく。
小屋で1泊したせいか、高度になれたらしく、体調は平常。外は真っ暗だから、出発するのなら、先行者にくっついていくしかない。「利き酒迷人」氏もとにかく出発して行けるところまで行こう……という意向。
ヘッドランプを点け、とにかく我々も出発する。(3:00)
(自転車青年も我々の前に出発したようだ)
小屋の背後の雪稜に出るとやや風が感じられる。遠くシャモニの明かりも見える。空は晴れているようだが、大気がゆらめいているのか、星がハッキリ見えない。かろうじてモン・ブランの方向の空に、北斗七星らしき星座が倒立して見えている。
幕営のテント群の右横を通り、ルートは少しずつ傾斜を増していく。他の登山者に抜かれたり、また抜いたりしながら、登り続ける。
コースタイムどおり、ドームを通過。(5:00)(4304m)
ここらへんであたりはやや明るくなり、そろそろヘッドランプは不要になる。おそらく天気は快晴。風もあることはあるがここでは微風。ほかの登山者も黙々と登っており、彼らとくらべて、決して極端に遅いわけでもない。これでは登山を中止する理由が見つからない。

だが、ドームを通過し、ドームのコル(4237m)に差し掛かったところで、
私の精神状態がおかしくなっていった。それはバロ小屋がドームのコルにあるものと思い込んでいたのに、実際はコルから30分ほど登ったところにあったため、(6:00)体力配分のイメージが狂い、精神的にガクッとしてしまったこと、さらにたどりついたバロ小屋で中に入って行動食をとろう、おそらくほかの登山者もそうしているだろう……と思っていたところ、バロ小屋の入り口が見当たらず、だれもそこで休んでいなかったことのせいだ。
自分のイメージとちがったということだけなのだが、ここ(モン・ブラン)ではそれが、強烈な動揺となった。妙なことを口走った記憶はないが、おそらく目つきでも変になっていたのだろう。後に「利き酒迷人」氏も、ここで私がおかしくなったとわかったそうだ。
バロ小屋の前で、行動食をとり、用心のため、頭痛薬を飲むが、時間の経過と共に、急激に「利き酒迷人」氏に対する依存心が膨らみ、「バロ小屋の前に荷物を置いていったら?」という「利き酒迷人」氏のアドバイスに、
「はい、はい」
と隷属しているような返答をするようになった。
さらに冷静な思考ができなくなり、ザックの中に何を入れておいたか、記憶があいまいになる。
(薄暗い中でザックの中をのぞきこんでいたため、目出帽を入れておいたのが見当たらない。そうすると、よく探しもしないで、持ってくるのを忘れたのだと決め付けてしまった。)
さらに手袋……
2重手袋のインナーのフィット感がなんとも気に入らず、別に持っていた毛糸の手袋だけで大丈夫だろう、と判断し、2重手袋をザックにいれたままデポし、
「準備OK」とバロ小屋の前を出発してしまった。
頂上では風速17メートルという情報は得ていたわけだから、これは確かにどうかしている。
幸い(?)
15分ほどいったところで、風が強くなり、毛糸の手袋では風通しが良すぎて、手がジンジンしてきた。これではまちがいなく凍傷になると気づき、「利き酒迷人」氏に待ってもらって、もう一度、バロ小屋の前にもどって、毛糸の手袋をインナーつきの2重手袋に変えた。
その時には、冷静さをとりもどしていたが、まったく妙な体験だった。
(バロ小屋付近では、荒天の時、けっこう登山者が遭難死している。何かいるのかもしれない……ゾ)

かくしてパニックを克服(?)して、登り続ける。エーギュ・ド・ミディもはるかに下で、ここから見るとどうということもないただの岩峰だ。
正直いって登るに連れ、絶景が広がるという感じではない。ただひたすら、息苦しさにあえぎながら、進む山だ。
以前、所属山岳会の
M氏が、
「高所では、こんなちょっとした物を動かす(といってお銚子を動かした。飲み屋さんだったので)だけで、息がハァハァになる…」
と話していたが、確かに薄い空気の中では、単純に足を運んでいるだけならともかく、(とはいってもこれも強烈に苦しい。
10歩歩いて立ち止まり、息を整えなくてはならない。そうしても空気が薄いから、結局は息は整わないのだが……絶望的に苦しい息から、ただの苦しい息に替わるだけだ)何か考えたりするだけでも………たとえば今、標高がいくつだから、コースタイムから割り出して、1時間に何メートル上がるのか、すると頂上まであと何時間か、とか考えると、とたんに息苦しさが増し、思考によって酸素を消費したのが実感できる。だからあまり複雑なことは考えず、ただひたすら足を前に出すことだ。
さらにまた手袋のズレを直したり、さらにはヤッケのジッパーを開閉しただけでも同様に息苦しくなる不思議な現象。疲労感もあることはあるが、それは疲労感とはちがう……
ただ「
苦痛そのもの」だ。

さて、時間的にも感覚的にも、もう頂上が近いようだ。登頂した登山者とすれ違う頻度が増してくる。登り始めにはパワフルに見られた外国人登山者にも、体力の違いが出てきて、我々と同様(あるいはもっと)ヘバている者達がいる。また、体力はあるのだろうが、急斜面になると、アイゼンワークの不慣れが目立ち始めて、おっかなびっくりな行動をしてモタモタしてたりする。
急な雪稜の登りの最中、左のほうから動力付きのパラグライダーが接近して歩行中の我々をかすめていくが、愛想をする気にもなれない。
ガイド連れのパーティーの中には明らかにガイドのロープにグイグイ牽引されている者もいる。ガイドのパワーに驚嘆しつつも、そういった登り方は当人にとってはむしろ(精神的にも)つらかろう……と思われる。
我々も常に「利き酒迷人」氏が前を進んでいる状態だが、「他人に引き上げられるような登りかたをするくらいなら、登頂をあきらめる」とは、お互い、事前に確認している心構えだ。せめてものプライドと意地で、先行する「利き酒迷人」氏との間のロープがピンと張る事がないように、必死に歩き続ける。
やがて例の「自転車青年」が降りてきて、
「もう少しで頂上だ。頂上に続く最後の稜線は風がすごいですよ」
と報告、激励する。マスダ氏からは、
「あれが頂上だと思っていたら、さらに先があってがっくりする」
という話を聞いていたので、ピークが見えても、
「いや、あれが頂上ではない」と思うようにする。
しかし、ある稜線に出ると急に風が強くなった。
「これが
頂上への稜線だ」と確信し、歩を進める。
そうしていよいよ頂上へ。

頂上へは急に傾斜が落ち、なだらかな坂になっている。従って頂上に飛び出した!というような劇的な感動はなかった。「
やれやれ、着いたよ」といった感じ。(4807m)(8:46)
そこには頂上を示すものは、(人からも聞き、本でも読んだが)確かになにもない。ただもうそれ以上、高いところがないということで頂上とわかる。
景色も頂上だからこそ見られるといったものはなく、(途中で見られた景色と劇的に変わるものはない)、それこそ頂上にいることの感動を演出してくれる要素が乏しい。
しようがないので「利き酒迷人」氏と芝居がかって、握手をし、抱き合ってみる。
気温はマイナス7度。風速が天気予報どおり17メートルとすると、体感温度は
マイナス24度ということになる。
耐えられない寒気ではないのだが、正直、頂上には、その寒気を耐えるに値する「演出」がない。
頂上で、長く時間を過ごすのが好きな私も、「もう降りましょうか」という「利き酒迷人」氏の提案に賛成する。
下山開始(8:53)。頂上にはわずか7分の滞在だった。

やはり下りは早いし、それほど息も苦しくない。やはり「
そこにいる」ということが一番の高所順応だろう。だが、下山中の外国人登山者や登ってくる外国人登山者が邪魔になってドンドン下れない。
欧米人は体力はすごいかもしれないが、アイゼンワークが下手で、急斜面でモタモタしているし、かといって恐怖感から、他人のために脇(ステップがつくられていないところ)によけてくれようとしないのだ。
さすがに急斜面ではしなかったが、安全性に確信のある斜面では、面倒なのでそういった連中を回避して、尻セードーを実行する。
上から見たら右側がボソン氷河なので、それには注意しながらドンドン下る。今回、出発前に参考にさせていただいた、鹿児島大学探検部の宝珠氏の報告書にも「尻セードー」について、「周りの外国人からかっさいを浴びる」という一文があったが、今回、まわりの外国人の反応を見ても、彼らは「尻セードー」を知らないようだ。
実際、彼らの視線は感じたが、「喝采」も受けなかったし、非難もされなかったし、心配もされなかった。むしろ冷ややかな視線というべきか?
このへんの雰囲気を感じたのであろうか、外国人の目を気にしたのであろうか、「利き酒迷人」氏に尻セードーを薦めても、「利き酒迷人」氏は、
「私はいいです」
というばかりで、むしろ私とは
「知りあいではない」=「離れていたい」様子であった。

バロ小屋のデポに到着(10:30).そこで改めて行動食をとる。
そこは平らになっている雪原があり、行きにはなかったテントが数張り、張られていた。確かに我々はガイドブックに忠実に行動したが、テントを適当なところに張って山頂ピストンというのも自由に考えられる。でもそれはモン・ブランに何度もきた事のある者が考えることだろう。
さてドームの登り返しは、しかし、情けないほど
ヘロヘロであった。気持ちは焦っていてもやはりそろそろ疲労もたまってきたのだろう。他の連中も遅いペースだ。
それでもグーテ小屋に到着(12:10)。小屋にはさすがにこの時間は登山者は少なく、その分、のんびりしている。小屋に入るには靴を脱がなくてはならないのだが、もうここからの下りは、プラ靴でないほうがいいと知っているので、どうせ履き替えるのだからと靴を脱ぎ、上がり込む。
コーヒーをゆっくり飲んでから出発。(13:00)
険しい下りだが、そのイメージが既にあるから恐怖感はないし、むしろ快調に下る。ところどころ私が、登ってきた時のコース(上から見て左側)に入ってしまって行き詰まり、(登りはなんとかなったが下りは困難……というやつ)引き返したりする。
右手のクロアールではものすごい落石が起こっている。いつも……という落石ではないが、30分に1回くらい発生し、起こるとなかなか規模が大きい。
下方でそのクロアールを横断するのだが、起きたらどうしようもないので、一応、上方を確認の上、一気にトラバースする。(ロープはつけなかった。ロープをつけてモタモタしているほうが危険と思われる)
下りとはいえ、岩稜コースのせいで、思いの他、時間がかかり、テート・ルース小屋(のそば)についたのが15:00。そろそろ下りの登山電車の時間が気になり、ペースを上げようとするが、下っても下っても道は遠い。
 
「利き酒迷人」氏と、
「こんなに長い道、登ったっけ?」
と語り合いつつ、ウンザリしながら下る。

と、その時、前方、すぐそこにヤギが親子で出現。早く下山したかったが、道の真ん中にいるので、やっぱり写真に収めたい。母ヤギは平気で人間の前を横切るが、子ヤギは、恐いらしく、ためらっている。それでも意を決して私の前を横断して母親を追いかけていった。
(あまりに至近距離だったので、ただのヤギだと思っていたが、帰国して調べてみると、めずらしいといわれる
シュタインボックのようだ。)

さて16:30、ようやくニー・デーグルの駅に着く。時刻表を見たら夏ということで最終は
19時ころまであるようだ。
驚いたのは、駅のそばにはいっぱいの観光客やハイカーがいて、けっこうな人数の人たちがこれから山に(モン・ブランその他の方向に)向かっていっていることだ。日が長いということはすごい。
さて、やがて登ってきた登山電車(これも人を大勢乗せていた)が折り返して、下りとなる。ところがなんとそれは全部、「予約車」とのこと。ここまできたらサッサとシャモニにもどりたいので、(次は
19時発。ベルビューからのロープウェイの接続もそうなると心配)「利き酒迷人」氏が駅員と交渉、何とか乗せてもらえる。
ベルビューまでの車中、装備などでモン・ブラン帰りと解るのだろう、モン・ブラン帰りで、日本人で、しかもフランス語がしゃべれるということで、満員の車中で、周囲の人がやたらに「利き酒迷人」氏に話しかけてくる。
やがてベルビュー。日差しはまだまだ強い。
気持ちもすでに落ち着いているので、ベルビューからの景色を写真にとる。草原が広がり、何もかもきれいに見える。
ロープウエイでレ・ズーシュへ。
同じロープウエイに乗った外国人は、ロープウエイ口に止めておいたマイカーに乗ったり、あるいは通りがかりの車をヒッチハイクしたりで散っていく。
彼らは、おそらく
「今週末、天気がよさそうだからモン・ブランでも登ろうよ」
みたいな感覚なのだろう。
うらやましがってもしようがない。

さて、ユースに向かう帰りのバスの中、車窓からはモン・ブランがギラギラと輝いているのが見える。
明日は昼頃にシャモニを出る列車に乗れば、ゆうゆうその日の内に、次の滞在地のツェルマットに行けるはずだ。どちらからともなく、登頂記念ということで、今夜はシャモニの町で、豪華なディナーを摂ろうということになる。

ユースでシャワーを浴びたりして一息つく。先にマスダ氏がユースにいて、
「どうでした?」
と話しかけてきた。(マスダ氏は、昨日、登頂していたので、今日は小屋にゆっくり寝て、朝、のんびり下山してきたそうだ)
「登りました」と答えられる晴れがましい気持ちよさ!!

さて、山の服装からシャツ(私はさらに半ズボン)などのお気楽なかっこうに着替えて、2人は、気分よく、おしゃべりしながら歩いてシャモニの町へ。ああ、だが、これが思いがけない「遭難」の序曲ではあった。

シャモニの町で、レストランを選んだ結果、パカール通りの奥の「ドリュなんとか」という店に入る。気分がいいので、屋外の席に座り、私はチーズ・フォンデュなる料理を注文する。(「利き酒迷人」氏が何を注文したかは失念)。ビールを飲み、ワインを飲み、店の人に「モン・ブランに登ったんだぁ」
と粋がっているうちに、あたりは暗くなり、寒気が押し寄せてきた。
暗くなったということはもう
9時近いと言う事……・思いがけない寒さに席を店内に変え、さらに温かい飲み物を飲む。
その店を出て、前々から「利き酒迷人」氏が気になっていた、ジャズの店に行こうとするが、
2人とも寒さに凍えている始末。
その店も、今宵はジャズではなく、ロックを流しているふうだったので、「利き酒迷人」氏もがっかりして、
「もう帰ろう」
という結論になる。

あまりの寒さでもうユースまで
30分、歩く気になれず、バスも電車もない時間だからタクシーを使うことにする。だが! タクシーはどこで拾えるのか!有名なパカール広場には…タクシーの影もない。それでは駅前では?……それも新宿的(?)発想に過ぎず、明かりが消えて門まで閉められたシャモニ駅の前にはタクシーの影はなく、明かりが侘びしくついているだけだ。
駅前の公衆電話にタクシーの番号が貼り出してあるのだが、「利き酒迷人」氏が何度かけてもつながらない。
さて私はブルブル状態。時間も過ぎていって開いている店も減っていく。「利き酒迷人」氏が駅前でまだやっていたカフェに入ってタクシーの呼び方を聞くが、どうも要領を得ないようだ。再び駅前の公衆電話にチャレンジ!!
役立たずの私を横に 、「利き酒迷人」氏の試行錯誤のトライは続き、ついに張り出してあるタクシー番号の頭の数字を省いてTELしてみたら、タクシー会社につながった。
「駅前にいる日本人2人組」
と告げて、ようやく一安心。(タクシーが来るまでさらに寒気の中、2人、震えつづけたが……)

ユースに着いた2人は、さっきまでの高揚感はどこへやら、多くを語らず、部屋に入って冷え切った体をベッドに潜り込ませ、さっさと寝ることにしたのだった。

8月27日(木)
私はなんとか風邪を引かないですんだが、「利き酒迷人」氏は具合が悪そうだ。マルティーユ行きの列車は、昼発の便でかまわないし、荷物は相変わらず多いし、乗車時間までの時間、のんびりとシャモニの町を見て回りたかったので、タクシーでまずシャモニ駅に行き、(マスダ氏に別れのあいさつをし、ユースにいたジュネーブに帰るという日本人旅行者と同乗して)シャモニ駅に荷物を預ける。
多少の誇らしい気持ちから、神田氏に登頂の報告に行く。
スネルスポーツに行くと、
「神田氏はスネルスポーツの先のカフェにいる」
と他の店員が教えてくれたので、そこまで足を運ぶ。
神田氏は日本人の女性といっしょにいて、コーヒーを飲んでいた。登頂の報告をすると、祝福してくれた。多少、おしゃべりをした中で、神田氏は、
「とにかく日本のガイドブックはモン・ブランをやさしい山と書きすぎている」
との自説を繰り返す。
私の持っていたブルーガイドの、近藤 等氏のモン・ブランに関するガイドページを見せると、
「近藤先生のころは、雪が多かったからねえ」
とのこと。やはりクロワールの落石は雪が少なくなってから激化したようだ。
神田氏たちが「スネルスポーツ」に行った後も、我々は店に残り、「利き酒迷人」氏は店にいた
フランス人のお姉ちゃん(唇にピアスをしている、カフェのむかいのブティックに勤めている女性だそうだ)にカメラを向けて断られたりしている。(後からOKしてくれた)
「利き酒迷人」氏は知人で知人あての絵葉書を書いている。私も手紙を書きたくなって、絵葉書を買うためにそこで「利き酒迷人」氏と別れる。
ブラブラと町をさまよい(空にはカラフルなパラパントがいくつも舞っている)適当な土産を見繕い、もう使わないフランスフランをスイスフランに変え、車内で食べる昼食のスナックを買って駅にもどる。
前々から気になっていたが、私は今日からスイス国内ではスイスフレキシブルパスを使う予定なのだが、国境まではフランスの鉄道の切符を買わなくてはならない。それは国境直前の駅までか、国境を超えたところの駅までかどっちだろう?
だが、結局どちらの駅まででも料金は同じだったので心配する必要はなかった。

やがて「利き酒迷人」氏も駅にやってくる。
マルティーユ行きの列車は、空いていてどこでも座れた。沿線の景色は見ごたえがある……とガイドブックに書いてあったが、本当に、期待以上にすばらしい景色が見られた。
氷河や大岩壁の迫力はシャモニからのものを上回るものがあるし、また岩のぼりの練習をしている人やキャンプ、ハイキングをしている人たちが車窓から眺められ、気分のいい路線だ。

フランスからスイスへ国境を越えると、風景は樹林帯になり、急勾配を車輪が金属音を上げながら、マルティーユの駅に下っていく。 マルティーユ駅が列車の終点。そこでホームを変えて、スイス国鉄に乗り換える。やってきたのが快速列車だったため、ツェルマットへの乗り換え駅のフィプスには止まらず、その先のブリークまで行ってしまう。
ブリークでツェルマット行きの列車を待つ間、「利き酒迷人」氏は換金と写真撮影のため、町へ。
ところが、時刻表には確か載っていなかった「氷河急行」がホームに入ってきた。ちょうど「利き酒迷人」氏ももどってきたので、それに乗ってツェルマットにむかうことにする。「氷河急行」は夏は予約しないと乗れないとものと本に書いてあるが、ここブリークからツェルマット間はガラガラで好きな席に座れたし、割増料金も取られなかった。(後に「氷河急行」に飛び乗った時には取られたが)

マッタータールの谷に入ってからは、進行方向右側が、車窓からの景色がいいと「利き酒迷人」氏にアドバイスしたが、どうやらまちがいだったらしく、どちらかというと左側のほうが多少はよかったようだ。
やがて車窓からは、クラインマッターホルンやブライトホルンが見えてくる。ツェルマットの駅につく直前に右の窓から、ほんの一瞬、(1秒もない)マッターホルンが臨めて、直後、列車は駅に到着する。
駅前広場には、ゴルナーグラート鉄道100周年とかで最初に使われた蒸気機関車が飾ってあった。
電気自動車のタクシーに乗ってツェルマットのユースホステルへ。ユースは勾配の上にあって、私の大荷物ではとても歩いていけない。しかしタクシーはユースへのさらに急な坂道の手前で止まってしまい、それから先には行けないという。
やむを得ず、ユースまで3往復して荷物を運び込む。
ツェルマットのユースホステルは、シャモニに増してしゃれていて、窓や庭からはマッターホルンが見える。急斜面に建っているので、シャモニほど広い庭ではないが、よくまとまっている作りだ。
2人部屋がとれなくて、割り当てられた部屋に入った時は、見知らぬ外人やらと2段ベッドに寝るわけだし、荷物の個人スペースも小さくてまいったが、それもすぐ馴れるものだ。
特筆したいのは、食事がボリュームたっぷりで、しかも美味なこと!! 基本的にはカレーライスやスパゲティミートソース(のようなもの。それが出たわけではない)のように、何か(ライスやパスタ、その他)にシチュー状のものをかけたものだが、
「ノッホ、ノッホ(もっと、もっと)」
と言えば大盛りにしてくれるし、おかわりもOKだった。
食後、「利き酒迷人」氏と庭の椅子に座って、ワインを飲みながら話していると、ユースの窓から
「ジャパニーズ!!」
とからかう子供の声が聞こえてきた。こっちが見ようとすると頭を引っ込めてしまうのだが、それがあまりにしつこいので、多少腹が立ってくる。
その内、外人の団体が出てきて、ギターを抱えた女性を中心に庭で大合唱の宴会が始まった。
「利き酒迷人」氏がスペイン語で訊ねたところ、なんでもカタロニア地方のスペイン人で、
50人もの仲良し家族同士の旅行だそうだ。
おっさんもいれば、おばさんもいるし、青年から少女、幼児までそろっている。それが、「サウンド オブ ミュージック」ばりにギターを弾くおばさん(音楽の先生みたいな感じ)を中心に大合唱している。歌っている曲はスペインのフォークソングか学校唱歌みたいな感じで、聞いたことがあるようなものもある。まわりを囲んでみている他の旅行者も手拍子をとったり、歌に加わったりしている。
「利き酒迷人」氏がスペイン語で、彼らと話していると、やはりスペイン語が達者な東洋人がめずらしいのか、向こうもいろいろと話し掛けてくる。その中に、さっき、
「ジャパニーズ!!」
とからかった子供もいたようで、きまり悪そうにしていた。
シャモニの時もそうだったが、こちらが言葉がわからないと、からかいたくなるものらしいが、それ以上の悪意はないのだろう。言葉がわからないと思ってからかっていたところが、言葉がわかるとなると、これは確かに具合が悪い。さて、スペイン人の宴会はちょうど
2時間、9時をもって終了。
「利き酒迷人」氏は同宿の日本人と夜の町を見にいくという。私はツェルマットの町は3度目なので、ユースに留まった。
することがないので、シャモニで買った絵葉書に、モン・ブラン登頂の報告を書いた。スペイン人たちは、食堂で今度は子供がピアノを弾いたりして騒いでいる。
暇つぶしに彼らがピアノから離れた時に、私も弾いてみる。かなり長いこと弾いていないので、曲の細かい音符を忘れている。今度は好きな曲の楽譜をコピーして持って歩こう。
それでもごまかしごまかし弾いていると、まわりの外国人の視線を感じる。「利き酒迷人」氏の語学のように、東洋人が西洋音楽を演奏するということは、(それがヘタな演奏でも)驚くべきことなのだろう。
10時になった時、ユースのおばさんが、
「あなたの演奏はすばらしい!! だけど
10時になったので、寝る人もいるのでピアノはお仕舞い!」
と言ってきた。非常に気を使った言い回しが気に入った。このおばさんは、年のせいか、厳格そうで、こわそうに見えたが、実はとても親切で印象に残る女性だった。
「利き酒迷人」氏はまだもどらず、私は先に寝ることにする。かくして場所をツェルマットに移した第1日目が終わった。

8月28日(金)
朝食の時、列に並んだ欧米人たちから、
「昨日、お前、ピアノ、弾いてたろう?」
と声をかけられる。
うるさかった、と文句でも言われるのかなと思いつつ、
「そうだ」
と返事すると、
「ユー、グッド ピアニスト!」
と言われた。あんなヨレヨレの、演奏にもなっていないいたずら弾きに何を言っているのだろう、お世辞とも思えないが………。
それからもあちこちで「ヒー プレイズ ザ ピアノ」と言った言葉が耳に入る。おそらく彼らから見て「東洋の猿」が西洋音楽を知っているということだけでも、驚きで「誉めてとらす」ことなのだろう。
さて、「利き酒迷人」氏の風邪はよくならず、そのせいだろうが、機嫌もよくない。モン・ブランでもそうだったし、言葉のことにしても、「利き酒迷人」氏に頼りきりで、その疲労があるのだろう、私に対して、かなりいらついているようだ。
予定では、今日はブライトホルン登頂なのだが、計画を変更して、
登山鉄道でゴルナーグラートに上がる。高度を上げるにつれ、広がるパノラマに「利き酒迷人」氏も感嘆の声を上げている。
ゴルナーグラート展望台にある郵便局で、昨夜書いた絵葉書を発送する。
昼食を取る時間あたりで「利き酒迷人」氏はまた不調になったらしく、このまま登山電車で下るとのこと。そこで私1人、歩いてリッフェルゼーを経て、ツェルマットまでのハイキングをした。
途中、かしましい
20歳くらいの2人連れの日本人女性がいて、ギャーギャー話しながら降りていくのを、彼女らの前後になりながら、そのおしゃべりを聞くとはなしに聞いていておもしろかった。
「私の一番の『お気に』はツェルマット!! シャモニなんて全然よね!」
といった調子で、楽しい。何でもユースに泊ろうとしたけど、いっぱいだったので、駅前のバーンホーフに泊まっているそうだ。安いと聞いているバーンホーフも今年、改築して以前よりきれいになったけど、その代わり、高くなったとブツブツ言っている。
ユースにもどると、「利き酒迷人」氏が、町で薬を買ったので、やや調子がもどったとのこと。それでも用心のため、ブライトホルンはやめておく、そのかわりヘルンリ小屋までいってくるとのこと。
その日はスペイン人の宴会もなく、静かに終わった。

8月29日(土)
ツェルマットのユースホステルには、実は、シャモニのユースで、マスダ氏が「無謀で困った日本人」と怒っていた、ヤマザキ氏という名前の登山者が、今度はこの地域の山をねらって滞在していた。
向こうから、山の情報を集めるため、話し掛けてきて、この人物が「無謀で困った日本人」とわかったわけだ。
彼はマッターホルンに登りたいのだが、ガイドを雇う金も気もないらしく、その不安を情報を集めたり、その場でパートナーを見つけることで解消しようとしているようだ。
メガネをかけていて、ボーッとした感じの、口の重いタイプのようだが、我々がマッターホルンを今回はねらっていないことがわかり、かつ、彼にガイドを雇うことを奨めたりして、技術的にも情報的にも得るものがないとわかるや、我々をもう相手にしないような態度をとったのには、あきれた。彼は目的的な人物で、まわりの人の感情をかまう気がないのだろう。

さて、ユースから臨むマッターホルンは深い雲の中で、今日は天気が悪いのか……とガッカリする。しかしユースに、昨日までゴルナーグラートの山頂ホテルに泊まっていたというカップルがいて、「大丈夫、昨日もそうだったので、上は晴れている」という。
「利き酒迷人」氏と
2人そろってロープウェイに乗り、フーリで別れる。クラインマッターホルン駅(3820m)直前で雲の上に出、一気に快晴の空が広がり、それまでまったく見えなかったマッターホルンなどの山々がながめられた時には、ロープウェイの乗客全員から、一斉に歓声が上がった。そのロープウェイには、ヤマザキ氏ともう一人の日本人(同じくユースに泊まっていた人)が乗っていて、「今日はポリュックスを目指す」という。この『もう1人の日本人』氏は、快活な性格らしく、彼も私もたまたま持参していた山と渓谷社から出ている「アルプス4000m峰登山ガイド」について、雑談する。
私が訳に難があってわかりにくく、地図も不親切と感想をいうと、彼は、
「いや−、でも僕は著者の皮肉っぽい文章がおもしろくて好きなんですよ」
などと、いろいろおしゃべりしたが、ヤマザキ氏は、ソッポを向いていた。
その場で、目的が同じ登山者と即席でパーティーを組むということは、「登りたい。でもパートナーがいない」という人にとっては、やむを得ないことだろうし、また、そういうパーティーのほうが、お互い、意志が強固ということで、強い側面もあるだろう。そういうパートナーの考え方もありだな……と理解しようとしつつも、ヤマザキ氏のキャラクターもあって、素直になれなかった。

さて、雪は
7年前に比べたら、やはり少々少ない気もする。クラインマッターホルン駅のトンネルを抜け、Tバーリフトに沿ってコル(3796m)までブラブラと歩き始める。それから左に曲がってブライトホルンパスへ。最初は広大なプラトー(雪原)で、アイゼンをつける必要はない。約1時間のところでブライトホルンパス。といっても何の目印や指導票があるわけではなく、ポリュックス、カストール方面へ、踏み跡が別れているだけだ。斜度が増してくるので、ブライトホルンパスに着く前で休憩しつつ足回りを固める。何となくピッチがあがらないのは、やはり高度の影響があるのだろう。
単独行者はいないようで、皆、ザイルを結び合っている。トレールはしっかりついているから、クレバスの心配も少ないと思われるが、気を引き締める。
そこから先、ガイドブックでは、「直進して、幅が一番狭いところからベルクシュルントを越える」とあるが、登山者は皆、右に回りこんでいく。そのトレールはポリュックス、カストール方面なので、いぶかりながらも、そのまま、ブライトホルンに向かっている直上のトレールを辿る。
少し行くと、ベルクシュルントのところが、いったん溶けて、また固まったらしく、氷化している。傾斜も、ガイドブックによりと、35度くらいあり、しっかりアイゼンを効かさないと、万が一スリップしたら、そのままベルクシュルントに転落してしまうだろう。(滑落停止姿勢をとっても、この氷では止まるまい)
なるほど、他の登山者が迂回するわけだ。(しかしどうして彼らは、そこに至る前に事前に判断できたのだろう。何かインフォメーションがあったのだろうか?)
思いっきりアイゼンを効かせて氷化した斜面を慎重に登っていく。やがて、傾斜度はあいかわらずだが、氷化した危険なところを過ぎて、
右にコースは曲がっていく。
さすがに息が上がり始め、休み休みの歩行となる。と、上から登山者が、
2人、その後は団体で降りてきた。
そろそろ朝早く出発した登山者が、頂上を越えて降りてくる時間なのだろう。
途中が氷化しているので、注意するよう、教えてさらに登りつづける。
頂上(4164m)は展望が開け、まことに気持ちのいいところだ。(多少、立小便の痕が雪面に残っているのが気になるが……私も用足ししたが、頂上から離れた、皆の目に触れないところにしたぞ!)
登った時には、
3人くらいしか、登山者はいなかったが、やがて、日本人の中(というより)高年の団体(しかししっかりした感じのメンバーだった)やら、欧米人の団体やら、ワラワラ登ってきた。
頂上は風をさえぎるものがなく、他の登山者は、長居せずに下ってしまったが、私は防寒具がしっかりしていたのと、あわてて下山する用事もなかったので、のんびりと30分ほど、頂上でブラブラしていた。登ってくる登山者の写真を撮ってあげたり、話をしたりしていたが、頂上で、お互いの口の中を舐めあってキスをしているカップル(写真を撮ってあげたが)には、びっくりした。いつまでも頂上にいてもしようがないので、今度は向こう側のトレールを辿って下山にかかる。ちょっと下ると、風もすぐにおさまって
ポリュックス方面がきれいに広がる。あまりにきれいなので、またまたそこで休憩する。つぎつぎ登ってくる登山者の中には、ヨレヨレの者もかなりいる。いくらロープウェイで3820mまで登れても、そこから先、登山の経験のないものが上がれる山ではない。そのうち、よぼよぼのおばあさんが、息子らしき青年に連れられて上がってきた。まるでだんなさんの形見のような古風なピッケルと登山靴にアイゼン。(息子?は今風の装備なのに)息子?が数歩前から、励ますが、1歩進んでは10分くらい休んでいる。(冗談ではなく!! 20分ほど、私はそこで遊んでいたが、1mくらいしか移動していなかった)
こりゃあいくらなんでも無理だぁ」とあきれたが、とうとう、そのおばあさんは、その場でへたり込んでしまった。本人の意志で登ってきたか、息子?に強引に連れてこられたのか、いずれにせよ、天気がいいから大事には至らないだろうが、手軽に登れる(と思われている)山ならではの光景だった。

さて、ちょうど12時ごろにクラインマッターホルン駅にもどれたので、まだ訪れたことのないシュヴァルツゼー方面に行ってみる事にした。(時間的にも「利き酒迷人」氏に会えるかもしれないし)
ところがトロッケナーシュテークからフルクに行くロープウェイが運行しておらず、フーリまで下って、フルクに行くしかない。(ツェルマットは夏でもけっこう運行していないリフト、ロープウェイがある。印象としては、いつも何か工事しているような観光地だ)
遠回りしたため、結構、時間がかかってしまった。フルクからシュヴァルツゼーに上がるゴンドラの中で、同乗した男性が、私の山装備を見て(確かにブライトホルンから降りてきたままの装備では、ふつうにシュヴァルツゼーに行くハイカーとはちがうだろう)
「どこに行ったんだぁ」
と話し掛けてきた。(英語の話せるドイツ人だった)
何だかんだと話して、モン・ブランに登ったことも話したら、
「ユー アー グッド クライマー」
なんて言われてしまった。話がはずんだところで、
「ところで君はマレー人かい?」
と聞かれたが、西洋人にとっては、アジア人の詳細は確かに区別がつかないのだろう。

さて、
シュバルツゼーに到着した時間が2時近くなっていたので、「利き酒迷人」氏とはさすがに会えないようだ。そこには、レストランもあったが、午後はハイキングするつもりで、食料もコンロ類も持ってきていたから、自炊することにした。
(正直、スイスの物価の高さには驚かされていたので)ダンディー(?)な「利き酒迷人」氏は嫌がるだろうが、今回はいっしょではないということでこれ幸いにレトルトのキムチリゾットを温める。
スイスの名峰をバックに香るキムチのにおいを、西欧人はどのように受けとめたであろうか?

さて、食事を終えて、パッキングを済ませ、シュヴァルツゼーの湖畔を巡り、小さな礼拝堂を確かめてから、おり始める。シュヴァルツゼーには、大勢いた観光者も、ちょっと歩き出しただけで見えなくなり、いつのまにか、周りには人影がなくなる。平日ということもあるのだろうが、こちら(ヨーロッパ)の山は、樹林帯でもないのに人影が見当たらず、落ち着いたハイキングができる。登山道も整備されているので安心して、
1人でも歩いていける。

ただし、残念に思うこともいくつかあって、そのひとつは、このツェルマットは、いつも何か山の中で工事をしていて、(以前
2回訪れたときもそうだった)新しい山岳ホテルを作っていたり、ロープウェイの架け替え工事をしていたり、治山工事をしていたり、ゴルナーグラート鉄道の一部複線化工事をしていたりする。そのため街中は電気自動車しか認めないという規制をしておきながら、山の中は大型ダンプが轟音を立てて走りまわっているのだ。ハイキングコースも初心者コースはそういったトラックの作業道とまったく同じで、わだちにえぐられたジャリ道を歩くことになる。それがいやな人は、適当に細い踏み跡にはいっていけばいいのだが、そうするとさすがに指導標は完備していないことになる。まあどこをどう歩いても、下りの道を選んでいけば、町なり、民家なりに出られるようだが……。
短い夏に治山工事をしなくてはならない、あるいはスキーシーズンに備えなければならない、厳しい環境であり、1旅行者の感想などからは、次元を超えたところのことなのだろうが、シャモニのほうが、このへんは、山に対して敵対的、挑戦的、支配的ではない、ある種のおおまかさ、いいかげんさがあって、同じリゾート地でも国情の違い、事情の違いがあるのではないか……などとシロウトの文化考をしたりする。
さて、シュタッフェルアルプに下っていく途中には、沢が1、2本横切っていて、これはおそらくマッターホルン氷河から溶けて流れてきたものだろう、だとしたら、やはり、しっかり味わわなくては……というわけで口に含む。冷たさのせいもあるだろうが、ほんとうにおいしく感じられる。腹を壊さない程度に味わう。やがて道は樹林帯に入って急激に下り、シュタッフェルアルプのレストランの前に飛び出す。
レストランはマッターホルンの北壁を仰ぎ見るような位置にあって、時間は午後3時半ころなのだが、ちょうどマッターホルンの背面に回った太陽がギラギラした光線を送ってきていて、逆光のマッターホルンが、壮絶なイメージで眺められるところだ。
日はとにかく長いので、ハイカーたちも、のんびりお酒つきの食事をとっていたりする(? この時間に?)。私も強い日光に照らされつつ、やっぱりここはビールだろうと決意、注文する。いつも必ず出てくる
カーディナルビールをマッターホルンにあしらった写真を撮った後、のんびりとビールを口に含む。金髪で愛想のいいウェイトレスのお姉さんと、片言の英語で雑談しながら、来年もこのお姉さんと会えるかなあ、もう2度と会えないのかなあ……と感傷的になる。
海外旅行で会う人とは、「全く」といってもいいほど
2度と会うことはないものだが、やはり、親切にしてくれた人、印象に残った人とは、再会したいものだ。会ってどうするというものでもないが、一種ノスタルジーかも?
さて、いい気持ちになりながらさらに山道を下ってツェルマットをめざす。今まではどうしても、マッターホルンに意識が収斂され勝ちだったが、道の正面から、やがて左手にそびえ立ち始める、オーバー・ガーベルホルンの山稜も、ものすごい迫力だ。
ここまできたら
ツムットの集落経由で帰りたかったが、そろそろユースホステルの夕食時間(19:00〜)が気になりだす。
このへんがユースの面倒くささ。やむを得ず、ツムットバッハの対岸に渡らず、フーリへの道をたどって、フーリからロープウェイでツェルマットに下ることにする。
と、突然、背後から、
「××さん!!」
と声をかけられた。こんなところで名前を呼ばれるとしたら、相手は「利き酒迷人」氏しかいない。
振り返ると、ズバリ「利き酒迷人」氏だ。今日の朝に別れたばかりだし、ユースでは、どうせ会えるわけなのだが、思いがけない邂逅は、やっぱり驚きをともなった喜びだ。なんでも、今日はヘルンリ小屋からさらに上の方まで、マッターホルンの一般ルートの偵察(?)に行ったそうでなかなか、ものすごい岩稜といった印象だったそうだ。
体調もかなりもどったようで、機嫌も良く、内心、ホッとする。
いっしょにフーリまで行き、ロープウェイで下る。同乗したのは、スイスの青年で、ホテルマンを目指しているからということで、あまり英語が得意ではないといいつつも、勉強中だそうだ。彼は明日開催される、ツェルマット〜ゴルナーグラート間の山岳マラソンに参加するそうで、(彼と話すまでそういったイベントがあることすら知らなかった。そういえば登山道に赤い旗がずーっと等間隔に付けられていたっけ……と、「利き酒迷人」氏と納得し合う。)このへんの会話で、旗を「フラッグ」と言っても英語の苦手な彼にはわからない。手で形を作ったりして、コミュニケーションをする。ロープウェイがツェルマットに着くまでの間の、わずかな時間だが、楽しい時を過ごすことができた。
さて、明日、「利き酒迷人」氏はツェルマットを去り、ジュネーブで1泊後、帰国しなくてはならない。今夜でお別れということで、夕食後、ツェルマットの町で別れの酒会を開こうと出かける。
もう閉店後の土産屋で、ウインドウショッピングをして、明日、列車に乗る前に購入するものを決めていく。
ブラブラと町のメインストリートを歩くが、わずかな距離なのですぐ終わってしまう。
適当な酒場(「魔女のナントカカントカ」という名の店だった)に入ったが、山の観光地の酒場だけあって危ない雰囲気がないかわり、味気なくておもしろくもなんともない。ノー・フード(つまみすらない!)だし、酒代は高いしで、ワインとビールを1本ずつ飲んだきりで引き上げた。なんとも盛り上がらない送別会だった。

830()
「利き酒迷人」氏を送って駅まで向かう。私は今日、そのままスネガ方面にハイキングに行く予定。途中で前夜、目星をつけておいた土産品を買っていく。予定外だったが、駅への途上にあった時計屋のショーウインドウに、マッターホルンをあしらったしゃれた懐中時計があったので、二人して衝動買いをする。
「利き酒迷人」氏の荷物をライセゲペック(スイス国内の目的地までの切符があれば、荷物を乗車駅で預けると降車駅まで届けてくれるというシステム。乗り換えがある時など、苦労しなくてすむ。)で送るため、駅の窓口に行き、さらに切符を買おうとすると、駅員同士、作業の合間に、ミニチュアのサッカーボールを投げ合って遊んでいる。リゾート地の駅のお気楽さだろうが、おおらかなものだ。
ちょうど駅前が山岳マラソンのスタートらしく、盛り上がっていて、老若男女、有色人種とかいろいろな選手が、スタート前のウォーミングアップにはげんでいる。
「利き酒迷人」氏が乗車するまで、見送ろうとしたが、列車の時間まで少々あったので、申し訳ないが、別れてスネガに向かわせてもらった。
ツェルマットとスネガとは地下ケーブルカーで結ばれている。ケーブルカーの乗車駅までは歩いて10分程だ。
途中、公園の脇を通ったら、公園施設のスケボーのハーフパイプに「NO POLICE!」とペンキで落書きがしてあった。こんなリゾート地でも、若者と警察の対立があるらしい。(しかし何でまた英語なのだろう?)
さて「利き酒迷人」氏には失礼だが、
1人になって気楽な気分にはなった。言葉の面でもいろいろお世話になったわけだが、ずっと氏に負担をかけていたわけで、その分、こちらがまた気を使うことになる。
これからは、言葉に不自由する反面、マイペースでことを運べるし、自分で会話して、自分で判断できる。
試しに地下ケーブルカーの駅の売店で、店員のオヤジとドイツ語で会話してみる。
「イヒ メヒテ エトヴァス トリンケン。ハーベン ズィー?」(何か飲みたいんだけど、何かある?)
「xxxxxxコカコーラ、ザフト(ジュース)、ビア……」
「ビア(ビール)? グート(いいね)。イヒ メヒテ ダス ネーメン、ツヴァイ(それを2缶、ほしいな)」
といった調子で、ビールを買った。

さて、今日の予定は、ウンターロートホルンまで地下ケーブルカーやロープウェイで上がり、そこから
2時間徒歩でオーバーロートホルンに登り、そのままスネガ、フィンデルン、ツェルマットへ徒歩で下るというものだ。
途中乗り換え駅のブラウヘルトからのロープウエイにスイス人のおばさん団体が大挙してやってきて、同乗することになった。
ロープウエイの下にマーモットが見えたということで、おばさんたちは大興奮。私も一瞬、チラッと見ることができ、それで満足したが、マーモットは後にロゼックの谷周辺でいやというほど見ることになる。(後述)
さて、ウンターロートホルンからはいったん下り道になる。誰もこちらに歩き出す人間がおらず、少々不安になる。山道というよりは、ブルドーザー道(おそらくスキーのコースなのだろう)で興ざめだが、左手、
ヴァイスホルンの清清しい姿は魅力的だ
ウンターロートホルンとオーバーロートホルンの鞍部を越えて道は登りに転じる。ここからは登山道らしく、細く、急登、岩の道でいままでのハイキング道に食傷気味だったので、登山をしている気分で気持ちいい。
息をはずませて登っていくと、先行の登山者らしい人影が見えはじめ、そして声が聞こえてくる。

オーバーロートホルン山頂は3415m。スラブ状の岩からなる頂上で標識も、もちろん小屋もなんにもない。だがここからの景色はすばらしく、ヴァリスの山々が
360度、パノラマのように見える。
先行していたパーティーが食事をとる横で、こちらも腹ごしらえをする。気持ちのいいところなのでかなり長居をしたが、下りとはいえ、今日はロングの道なので、適当なころに腰を上げる。
ウンターロートホルンとオーバーロートホルンの鞍部から左に折れ、興ざめなブルドーザー道を歩く。途中、
放牧の羊に出会うが、全然、人気がないのは不思議だ。そのまま道はブラウヘルトに至る。今度はシュテリゼー、グリンジゼーを目指す。このへんになると、ハイカーが増えてくる。
シュテリゼーのそばを流れる沢の水を使って軽食を自炊する。グリンジゼーに近づくと、何やら向こうの道から日本語らしい女性たちの山の歌の合唱が聞こえてきた。
いやな予感がしたが、案の定、ちょうどグリンジゼーの湖畔で、日本人ハイカーの集団と出会ってしまった。しかし何でスイスの山を歩きながら、山の歌を大きな声で合唱して歩くのかなあ?

グリンジゼーは静かな湖畔で、リッフェルゼー同様、マッターホルンが倒立して見えるところとガイドブックには書いてある。確かに日本人ハイカーの集団が去っていってしまうと、人っ子1人いなくなってしまい、たっぷりと雰囲気を味わうことができた。
グリンジゼーの後は、スネガのライゼーを経由しないで、直接フィンデルンに行く道もあった。スネガのライゼーは7年前に訪れてはいたし、道もいったん登りになるのだが、今回、どうしてももう1度、訪問したかった。
ライゼーに上がっていく道を行くと先ほどの日本人ハイカーの集団に追いついてしまった。かなりの集団で列も長かったが、後をノタノタと着いていく気になれなかったので、道が広くなったところで一気に追い越した。先頭は、この団体の添乗員らしい若者だったが、これもまた気苦労の多い仕事だろうなと慮られた。
さて、ライゼーから下ったところにある
フィンデルンは、ガイドブックに紹介されているとおり、素朴で静かでおだやかで、のんびりしたくなるところだ。
感じのいいレストランで、いつものようにカーディナルビールとマッターホルンの写真をとり、くつろぐ。
さらに下ると、ちょうど
ゴルナーグラート鉄道がフィンデルンバッハの滝そばの鉄橋を渡るところを見下ろせるポイントに出る。ハイキング道からは、少々、樹がじゃまなのだが、道からやや上に上がる踏み跡からねらうといい写真が撮れそうだ。ところがそのポイントには、やたらに人糞が落ちている。(ペーパーを使っているから人間のものに違いない) 寒さのためだろう、虫の少ないツェルマットではあったがさすがにハエがブンブン飛んでいる。このあたりを歩いている日本人は見当たらなかったので、欧米人によるものであろうが、彼らはこういうところには鷹揚なのだろうか?

ハイキング道には、所々、立派なベンチがあったが、付近のベンチに地元の娘さんらしい5人が、座っておしゃべりしていた。その
彼女らの頭髪の色がなんともカラフルでおもしろく、こっそり後ろから写真に収めた。

私にとっても今日がツェルマット最後の日。ユースにもどって夕食後、何とはなしに日本人たち同士集まって食堂で飲み始める。彼らのほとんどは大学生で、素性をあまり語らない中京大学の女子学生や、就職先を決めたら、不景気で内定が取り消されたとかいう男の人もいたし、まあなんとか銀行に決まったという男性もいた。しかし、今現在ここにいる人たちは、どこかおおらかな感じの人たちで、やっぱり旅行好きの人というのは、ある種のムードがあるものだ。
延々と飲んでいたら、例の怖い顔をしたユースのおばさんが、やってきたので、「
もう寝ろ」といわれると思いきや、
「私はもう休むけど、静かにしていたら、あんたらはずーーーーーっと食堂にいていいからね。」
というお言葉。感激して、これから飲むであろう本数のビールを買い込み、さらに私のウイスキーも空けてしまってすっかりいい気分で、
12時ごろにようやく就寝した。


831()
今日は「氷河急行」に乗ってツェルマットからサン・モリッツ、そして宿泊するユースホステルのあるポントレジナへ移動するだけだ。
「氷河急行」は私にとって憧れの列車であり、今度で
4回めの乗車だが、心は弾んでしようがない。
列車での移動だし、ポントレジナのユースホステルは駅前なので大荷物はライセゲペックにしなかった。町での土産も買い込み、現金が不安になった「利き酒迷人」氏に頼まれていた、しゃれた置時計も手に入れて、
10時18分発の「氷河急行」に乗り込む。
座席は指定で、席はびっしりできゅうくつだったが、走り出してからは、私はほとんど席におらず、デッキで写真やビデオを撮ったり、休む時はデッキの簡易座席に座っていたから、むしろのびのびしていたし、気楽でもあった。
一人だから、ガイドブックと風景を照らし合わせながら、たっぷりと旅情を味わうことができた。
ただし、写真やビデオを撮るために窓から顔を出していると、冷たいものが当たるのが感じられるのには、閉口した。トイレの水ならともかく、おそらく小水や固形物も飛んできているのであろう、観光名物の列車だけになんとかタンク式にするとかの工夫をしてほしいものだ。
「氷河急行」は左右にそれはすばらしい景色が次々と展開し、トイレに行く暇がない。というわけで、退避線に入って(「氷河急行」は単線なので途中で反対方向の列車をやり過ごすために退避線に入ることが何度もある)停車している間に(けっこう停車している時間は長く、10分以上のこともあった)………つまり景色が変わらない間に用を済まそうと、誰でもが考えるのだろう。その結果、退避線にいる間、窓から見えるのは、数日前の干からびた固形物とぐったりしたトイレットペーパーから、「たった今、生産されました」とでもいうような、新鮮(?)で、臭いも強烈な固形物とピンピンしているペーパーだ。
ものすごいのは、そんな惨状の線路を、保線工が、ヘラヘラ笑いながら作業していることだ。「気にしない」ということは、なんとすごいことなのだろう!

さて、
「氷河急行」の食堂車は午後1時……ちょうどアンデルマット駅を出発してから営業を開始する。昼食は予約制なので、日本にいる時に済ませておいた。だからだろう、メニュー(内容に選択肢はないのだが)は日本語で書かれていた。(メインが「おばあちゃん風田舎の肉料理、いんげん添え」と書いてあったのにはたまげた。おいしかったけど……)
ライヘナウ駅から方向転換してサン・モリッツに向かう。有名なラントヴァッサー橋に差し掛かった時……うまくいかないもので、写真のフィルムもビデオの電池も切れてしまった。
さて、サン・モリッツ駅に到着したのが午後6時ごろ。まだ明るいがユースの夕食が7時からだから、のんびりできない。ちょうど向こうのホームにポントレジナ方面の列車が来たので、そちらに向かうと、駅員が「この列車は違う」という。
納得いかないまま、ボーっとしている間に列車は発車してしまった。
次の列車は
2時間ほど後。これじゃまずいのでバスのほうが早いようなのでバス利用にする。(こうなるのだったらライセゲペックを使っておくのだった)
やってきたバスはサン・モリッツの学校前で、さらに乗り換えとなり、大荷物を持ってあたふたするし、時間もロスする。バスの運転手に、スイスフレキシブルパスが使えるか聞いたら、わからん顔をしていて、「まあいいや」ということだった。
終点のポントレジナのバスターミナルは、駅前のユースホステルから15分も離れている。こうなるのだったらライセゲペックを使っておくのだった、と幾度も幾度も悔やみつつ、もうヨレヨレでユースに辿りついた。
ユースを仕切っているのは若くて活発なお姉さん。
食事もまだなんとかとれるということで(午後7時半)ホッとする。建物はきれいで立派なのだが、エレベータがない。3階まで大荷物を持ち上げて部屋に入ると、部屋には
4人の子鬼たちが……。

スイスの小学生が先生に引率されて夏季学校に来ていたらしいが、いままで自分たちだけの天下だったのだろう、部屋の中はおもちゃや衣類、荷物がグチャグチャに投げ出されている。
むこうとしてもまさか、こんな時間に東洋人が同部屋になるとは思っていなかっただろう、あきらかにたまげた様子だ。彼らは英語がみごとにまったくだめ!
別室の小学生が部屋に飛びこんできて、私の顔を見るなり、仰天して飛び出していった。それからは別室の連中が次々とのぞきこんでは、同室の小学生にからかうような言葉を投げつけて逃げていく。
もうこうなったらどうしようもない。とにかくマイペースでいくしかない。

夕食をとり、部屋に戻ると、さっきあったはずの私用の毛布がなくなっている。部屋中捜しても見つからなかったので、しようがなく、ユースのお姉さんに相談にいく。お姉さんは「そんなバカな?」的な表情をしつつもいっしょに捜してくれたところが、小学生のベッドの下に押し込まれていた。
私に対するイジメなのか、ただ単に仲間内でふざけ合っているうちに……の他愛のない「行為」なのだろうか?
この件をユースのお姉さんがどう受け止めるか? そしてこれは彼らを引率している教師に伝わるのだろうか?
伝わるとしたら、どういうふうに伝わり、今度は生徒がどう反応するのだろうか?
食堂で、夜のミーティングをしている教師と彼らをながめつつ、明日からの予定を計画し、さっさと就寝する。

9月1日(火)
今日はベルニナ線でラーゴ・ビアンコ(イタリア語で「白い湖」)のほとりのスピィツィオ・ベルニナ駅まで行き、そこから1時間半ほどのハイキングでアルプ・グリュム駅へ。そこからさらにベルニナ線で終点のイタリア領・ティアラに行き、本場のスパゲティを食べてから、またポントレジナへもどるというもの。スイス・フレキシブルパスだから列車にはぜいたくに乗れる。
ポントレジナで列車に乗る前に、駅の公衆電話で、帰りのアムステルダムから日本までの航空券のリコンファームの電話を日本航空に入れる。
チューリッヒからアムステルダムまでのスイス航空のリコンファームは、ツェルマットでしたのだが、不安なのでもう
1度それもついでに日航のカウンターに確認してもらう。電話に出たのはおばさんっぽい声の日本女性で、「大丈夫、リコンファームはできている」とのこと。
(ちなみに行きの飛行機の中で「チューリッヒの日航カウンター」として教えてもらったこの電話番号に電話すると、ロンドンに掛かった。チューリッヒには日航のカウンターはなくてすべてロンドンでリコンファームするのだそうだ。)
さて、電話に出たおばさんは、暇なのか電話口で、
「今どこから? スイス? いいわねー」と世間話を始めようとする。よほどたいくつしているのか、あるいはヨーロッパはのんびりしているのか……列車の時間がさすがに迫ってきたので、その旨を告げて電話を切らせてもらった。

ベルニナ線は、以前、仕事のためのスイス旅行でサン・モリッツからティラノまで通して乗ったことがあるが、その「氷河急行」にも勝る山岳風景美に、いつか、もう一度、のんびりと乗ってみたかった列車だ。(「氷河急行」の車窓からの風景もすばらしいが、こと山岳美となるとベルニナ線のほうが上だと思う。)
スピィツィオ・ベルニナ駅で降りたのは
10人ほどのハイカー。ハイキングコースなので、皆、軽装だ。しかし私は、その景色に感激してしまい、写真を撮ったり、ビデオを撮ったり、目に焼き付けたりで、全然、ペースが上がらない。何しろ湖も、花も、全体の風景もすばらしいが、さらにその風景の中を駆けていく真紅の列車の取り合わせもすばらしい! ついつい次の列車がくるまで待ってしまい、時間が過ぎて行く。
だが道はあまりに平坦でもの足りない。しかもその道は、工事の作業車が往来している。
その点が興ざめだったので、少々、足をのばして山腹のレストランに上がってみることにする。細い道をたどってみるが途中で道が消えてしまった。それでも目標の峠のレストランは見えていたから、かまうことなく登り続け、レストランに辿りつく。そこには数人のイタリア人が食事をしつつ、休んでいた。
そこの小屋は敷地内になにやらドームがあって、興味をそそられる。イタリア人も同様らしく、私と同様、つぎつぎと覗き込んで、ワインなどが置いてある貯蔵庫とわかると、納得した顔を皆がするのがおもしろい。
パリュ氷河のながめが良いテラスで、お決まりの、カーディナルビールと風景の写真を撮る。だらだらしていると日本人の若い女性2人連れがやって来て、氷河の見える風景に感激している。
そこの小屋には、女性と作男みたいな知恵遅れっぽい男がいて、小屋の横を耕している。変なもんで、トイレの場所やトイレのドアの開け方(少々わかりにくいカギになっている)、下山道を尋ねると(貯蔵庫の脇を抜けるので少々わかりにくい)、いちいちクワを手放して、教えにきてくれる。(知恵遅れっぽいのだが、親切なことは親切。でも案内板でも貼っておけば、簡単なのに………)

アルプ・グリュム駅へ道は急激に下る。駅へは線路を200mばかりイタリア側に歩かなくてはならないが、「固形物」への恐怖から、おっかなびっくりの足取りになる。
姉妹鉄道の縁組をしている箱根登山鉄道から贈られた、木にカタカナの駅名表示のある駅でしばらく待つと、ティラノ方面の列車がやってきた。幸いなことに、後尾にパノラマカーを連結している。(屋根のない、遊園地にありそうな客車)これで、パノラマカー切り離しのポスキアーボ駅まで、風景を楽しむことができた。
ベルニナ線はティラノの町直前で、車道や、一般家屋の軒下を走ったりするのでおもしろい。そうしてティラノ駅に到着するのだ。
一応は国境を越えたので、改札にパスポートをチェックする役人(警官?)が怖い顔をして立っている。帰りの列車の時間を調べると小1時間ある。以前にも自由時間に入った気のするレストランに行き、(テラスで)
スパゲティとビールを注文する。
ビールはイタリアのもの。スパゲティはさすがにうまい!(というより、スイス、フランスのスパゲティは、あれは「ウドン」だ)
いい気持ちになって、再びベルニナ線でUターン。

ポントレジナのユースに帰着する。まだはやい時間だったので、ポントレジナの町への道の途中にあったコーポに買い物に出かける。物価は高くてパンツ1枚が
1000円もするが、酒類は安くてビール缶が100円。ワインも100円からあった(味はそれなりだったが……)。雪山登山用の道具を梱包するためのダンボールもついでにもらう。英語が話せる店員が少なくて難儀したが、英語の話せる人を呼びに行ってくれる親切さがあるのはうれしい。
ユースに帰ると、部屋には新顔のスイスの青年がいた。自転車でロゼックの谷を駆け回ってきたそうで、「よかった、よかった」を連発していた。
彼もまた世界中を旅するのが夢だそうで、もうヨーロッパはすべて回り、南アフリカ、オーストラリアまで行っているそうだ。年を聞いたら25歳ということで、職業は、
「ワーク アンド トラベル、ワーク アンド トラベル」
といっていた。定職も持たず、家庭も持たず、旅への衝動に突き動かされてこれからも生きていくのだろう。それは、「イッツ ユア ウエイ。アンド アイ ハブ マイ ファミリー。アイ マスト ワーク フォア マイ ファミリー、イッツ マイ ウエイ」(私の言葉)というわけで、生き方が違うのだから、お互いを尊重しつつも、互いの生き方を否定しないスタンスを取るしかない。
ところが、私の会った日本人は、(若者はともかく、
30歳を過ぎたあたりから)どこか、「オレの生き様を認めてくれ」(認めてますよ)「いや、もっともっと認めてくれ、オレは平凡なサラリーマンとは違うんだ。夢に生きているんだ。日本人は自由な生き方をもっと認めるべきだ」(認めていますってば。)「いやいや、(本当のところは)認めるだけじゃだめだ。オレを尊敬してくれ。お前達にはできない生き方をしているオレはそれだけで尊敬される価値がある。尊敬してくれ、尊敬しろ!」
的なところがあって、正直、鼻持ちならない。このスイスの青年みたいに、さりげなく旅に生きている感じではないのだ。
それも、「原因は、自由な生き方を認めない、日本人の体質のせいだ。その体質に逆らわざるを得ないから、どうしても力がはいって、『さりげなく』できないのだ」
というのなら、、何をか言わんやだが………。

さて、私とそのスイス青年との
(英語での)やりとりをそばで聞いていたスイスの小鬼たち。気のせいか以前と態度が違う。からかったり、ばかにしたりする雰囲気がないのだ。先生に注意されたのか、東洋人に飽きたのか、はたまたスイス青年と英語で会話しているのを見て、
「こいつは自分の意思をアピールできる存在だ」
と踏んで用心するようになったのか………。スイスでは皆、英語教育を受けるのが中学になってからということで小鬼たちが英語をしゃべれなくてもしようがない。フランス語やイタリア語を習うのは選択で高校になってからで、ロマニシュ語は大学で特に学びたい人しか習わないそうだ。(以上、スイス青年や、これから出てくるエレーナさんからの情報)
イジメでも、黙っていると、ますますエスカレートするという。シャモニのバスでも、ツェルマットのユースでも、「こいつら、言葉、わかんねーだろう」と判断するとからかい、言葉がわかると思うと、態度を変える…
「けしからん」というべきか、「人間なんてそんなもの」と思うべきか……。

夕食後、食堂で葉書を書いていると、女性が、(東洋人がめずらしいのか)話し掛けてきた。名前は
エレーナさん。年の頃、35歳くらい。ベルンの病院でセラピストをしているとかで、なかなか流暢に英語を話す。
「エレナという名前の由来はトロイ戦争に出てくるヘレナからだけど、知ってる?」
なんて言うから、
「知っていますよ。」
と返事すると、私にますます興味を持ったらしく、
「じゃあ、どうしてアテネ軍がトロイア軍に勝ったか知ってる? その作戦は?」
と聞いてくるから、
「オブコース! ゼイ メイド ビッグ ホース スタチュー(彼らは大きな木の馬の像を作って………)」
と応じた。
いろいろ話す内に、彼女はニーチェにはまっていて、ニーチェが「ツァラトストラかく語りき」を書いた、マリア・シリス(サン・モリッツの隣町)に今日、いってきたということ。
「ニーチェ、知ってる?『ツァラトストラかく語りき』(英語で)知ってる?」
なんて聞くから、
「オブコース!『アルゾ スプラヒェン ツァラトストラ 』(ドイツ語)でしょ! ニーチェはしっかり読んだんだから!」
と言って、
「『ルック アット ヒム』(「この人を見よ!」)『バース オブ トラジディ』(「悲劇の誕生」)も読んだよ。」
と話したが、この英語の読みでは通じなかったようだ。
それでも、一応はドイツ文化に詳しいのはウソではないとわかってくれたらしく、しばらくはドイツ文学の話をする。(学生時代、死ぬほど本を読んでおいてよかった!!)
思うに、ツェルマットのユースでのピアノもそうだが、東洋人が、西洋文化を知っているというだけでも西洋人には、驚きのようだ。確かに彼らが日本について知っている以上に、我々は西洋文化について知っているのかもしれない。「東洋の猿」が、彼らの言葉を話し、音楽を奏で、文学を読んでいるというのは、彼らには想像しがたいことなのかもしれない。
ゲーテ、ハイネ、シュトウム、ヘッセ、ギュンター・グラスなどなどいろいろ話したが、ヘッセについて、
「デザート ウルフ(荒野の狼)」「ナルシスとゴルトムント(知と愛)」「ゴータマシッタルーダ」「デミアン」までは良かったが、《車輪の下》になって、はたっと困った。
「『アンダー ザ タイヤ』?」
とおそるおそる言ってみたが、案の定、わからなかったらしく、キョトンとしていた。
まあ、そんなふうに、ペチャクチャおしゃべりしていたが、ひるがえって、彼女は日本については何も知らないようだ。
「私、悪いんだけど、日本について何も知らないの。」
と確かに言ったが、
「そんなこと、ないと思いますよ。たとえばビートルズのジョン・レノンと結婚した、ヨーコ・オノとかサカモト・リューイチとか……」
彼らを出したのは以前テレビで、欧米で一番よく知られている日本人として紹介されていたからだ。ところがほんとうに彼女は知らなかった。そもそもビートルズも知っていたかどうかあやしい。スイスのインテリ女性にとってビートルズのような下品(?)な音楽は共通の文化になりえないのかも知れない。

さて、彼女が書きかけの葉書に、「今、あなたのことを書いたから、横にあんたもサインを入れてほしい」というので、書いてあげた。「漢字」というものも珍しいらしく、不思議そうな顔をして見ている。「翌朝の朝食をいっしょにする約束をして、その日は就寝。

9月2日(水)
今日はムオタス・ムラーユの展望台からムラーユの谷を渡り、セガンチーニ・ヒュッテを訪れてポントレジナにもどるというもの。
エレーナさんとの朝食の約束は多少気になったが、本人が見つからない。やむを得ず先に食事をする。登山道具の大半を日本に送り返すため、荷造りしていると、スイス青年が、
「駅まで乗せてってあげようか?」
といってくれる。ロゼックの谷を自転車で走ったというから、てっきり自転車旅行だと思ったがそうではなかった。ありがたかったが、荷造りに時間がかかるのと、現金が乏しくなって来て、銀行によったりといろいろしなくてはならないので、断った。
今日のコースは短いので、ハイキング前にいろいろかたづけておこうと思った。どうせ勝手のわからない町……あっちへウロウロこっちへウロウロすることだろうし……。
キャリーに荷物を括り付けて町までの坂道を上がって行く。郵便局はバスのターミナルのところにあるのですぐわかったし、行ってみると体裁のいい郵便用ダンボールも売っていた。 
しかし料金の支払いはカードではなく、現金で……ということなので、カードで現金を下ろすべく、再び荷物をカートに括り付け、銀行を捜す。
郵便局で教えてもらったところにある銀行では、カードで現金を下ろせないらしく、違う銀行に行けと言われる。指示された銀行がどうしても見つからず、もうメインストリートを通り抜けそうになる。土産屋の人に銀行の地図を見せ、「あっちだ」と言われて再びメインストリートを戻る。私の場合、いつもそうなのだが、先入観やイメージが邪魔をして失敗しがちだ。(モン・ブランの時もそうだったが)ようやく見つけ出した銀行は銀行とは思えない作りと間口で、確かにその前を通ったが、どうしてもわからなかったところだ。
さて、ようやくで銀行に入ったが、カードによる自動支払機の使い方がまたまたわからない。自分で何回も試した後、結局ギブアップ
! 行員に助けてもらう。皆、親切なことは親切。
やっと現金を手にして、郵便局にもどり、荷物を発送。やれやれ。
その後、郵便局前のバス停でサン・モリッツ行きのバスに乗り、ムオタスムラーユの登山ケーブルの駅へ。キャリーをザックにくくりつけた姿はさぞかし奇異に見えただろう。
ケーブルで登ったところにある展望台からはサン・モリッツの町や湖、オーバーエンガディンの谷、ベルニナ山群もよく見える。展望をたのしんだ後、ムラーユの谷を目指し、歩き出す。草の生えた斜面には
黒い羊やウシが放牧されている。
ハイキング道は景色もよく、まことに気持ちがいいのだが、ところどころに人工的な青さの小片が落ちている。子供の玩具のなごりかなんだろうかといぶかしがりながら歩いたがやがて謎が解けた。
なんと登山道の下に導水管が配置されていて、それの工事の時に出た青いビニール管のけずりかすなのだ。おそらくムラーユの谷から放牧の家畜に飲ませるために引いているのだろう。
気分良く歩いていたが、確かにここで暮らす人にとっては、生活の場だ。厳しい自然に生きるスイスの人たちの、それでも見た目の自然の美しさは保とうとする姿勢に触れた気がした。「生活」している人にとって、上っ面の「自然保護」や「自然賛美」は腹の足しにはならないのだ。
さて、道が整備されているのをいいことに適当に歩いていたためにムラーユの谷にかかる橋の上流に出てしまい、橋にもどるために時間をロスしてしまう。
沢の水で昼食をこさえる。橋を通りすぎる人たちが、笑顔を見せて行く。日本から結構、食料(スープやらモチやら)を持ってきていたし、レストランの食事はあまりにも高いので、ハイキング中の食事は自炊するつもりだった。
腹拵えが終わると、セガンチーニ・ヒュッテへの急登。
1時間の登りでヒュッテに着く。さっそくビールを注文。このヒュッテは画家セガンチーニが病気で最期を迎えたところだ。
やたら陽気に英語を話すあんちゃんと銀髪のおばさんがヒュッテを守っている。(おばちゃんの着ている青いフリースの上着が
91年山と渓谷社発行の「スイスアルプス・ハイキング案内」に載っているおばちゃんの写真のものと同じだったのにはたまげた。)
ダラダラしながらも日が長いので全然気があせらない。槍ケ岳の穂先ににたピークを持つ
ピッツ・ムラーユ(3157m)にもチャンスがあれば登ってみたいものだ。それでも腰を上げポントレジナに下り始める。途中、雪崩除けが石積であるのを見、歴史を感じる。
ウンター・シャフベックのレストランを素通りし、どんどん下る。途中、きれいな花がけっこう目立ち、写真におさめる。
今回、宿をポントレジナに定めたのは、サン・モリッツにあるユースホステルが駅から遠くて不便だったからだが、訪れてみると、また観光資料を調べてみると、、ポントレジナという町はまことにいいところのようだ。山よし、雰囲気よし、人よし、ユースよし(特に夕食が豪華! デザートまでついてくる。あのお姉ちゃんのがんばりだろうか。)
ポントレジナに降りると、趣のある町並み(エンガディン風というのだそうだ。壁に宗教画らしきものが描いてある。)や古びて使われていなさそうな教会(サンタマリア教会)があっていい感じだ。
また緑が深く、静かに散歩している人や乗馬を楽しむ人もいる。また機会があったら訪れてみたい町だ。
ユースにもどると今度は違うスイス青年が同室になっていた。
小鬼たちはおとなしくしている。このスイス青年がおそろしくよくしゃべる男で、文化論などを勝手にしかけてくる。
「たとえば我々は中国の首都を『ペキン』というが、そう言ったって中国人はだれもわからない」「中国人や日本人にとって『北京』は文字を見てすぐ理解できるが、我々は『PEKING』と綴りをよまなくてはならない。このハンデがある」「ドイツ語は4格もあってたいへん難しい言語だ。おりゃー、ドイツ語、きらいだ。おりゃー英語がいい」
などとしゃべるしゃべる。
さて、夕食の時にエレーナさんと会えたので朝のことを聞くと、朝食前に散歩にいっていたそうだ。あの約束は、ドイツ語の「フライリッヒ」(メイ ビー=多分。あてにならない)なのだろう。
夕食後、テレビを見ていた連中が、騒いでいる。向かいに座っていたアラブ系の青年に聞くと(彼も1人で、英語をしゃべっていたし、何かオドオドしていたのでスイス人ではないのだろう)
「エリツィンが辞任した」とのこと。
これは! と思ってテレビの前に行ったが、そんなニュースはやっていない。
「もう放送が終わったのか」と思ったが、これは(アラブ青年の)完全な誤報。言葉が不自由だと変な情報が流れる。
ところがちょうどその時、ニューヨーク発のスイス航空機がカナダ付近で墜落したというニュースが流れて、皆が色めき立った。自国の航空機の墜落ということに強い関心を示すのはどこの国の人も同様のようだが、ニュースがテロかどうかは不明といっているのに、ドイツから着たオッサングループは、真剣にニュースに見入っているスイス人の横で、
「テロだ。アラブのテロだ」
とさっさと決め付けているのはスイス人とドイツ人の立場の違いか、あるいはドイツ人のアラブに対する感情か………。
私はといえば、3日後の帰国便がスイス航空機なので、いやな気持ちになった程度。

9月3日(木)
残っている日数は3日だが、ハイキングできるのは今日が最終日だ。昨日、雲が多かったのが気になっていたが、今日はもっと空模様が怪しい。予定のコースはコルヴァッチュ・ロープウエイでムルテルまで行き、スールレーユ峠を経てロゼックの谷に降り、ポントレジナにもどるコース。
ポントレジナの駅前からうまい具合にマロヤ峠方面のバスが出ているのでそれを利用。サン・モリッツ湖あたりで雨足はかなり激しくなってきた。
それでも降ったり止んだりなので、ロープウエイで上がることにする。ムルテルまで上がると雨も小降りになった。予定通り出発する。
コースはムルテルから水平にトラバースする道だとガイドブックにあったが、まるでトラックが走るような広さなので、いくらなんでもこれは違うだろうと思い、もうひとつの下る道を選んでしまった。途中でまちがいに気づき、カールの底を迂回するようにしてスールレーユ峠に到着。30分ほど時間をロスしたが、途中、マーモットの巣になっている大岩を見られたので満足。(考えてみればここは冬はスキー場なので、ブルドーザーで作られた道が冬のスキーコースであり、夏はそれがハイキング道になっているのだ。大いに興ざめだが、安全な道であることは確かだ。)
それまで知らなかったが、マーモットの鳴き声は汽車の汽笛のように、甲高い「ピー」という声で、そういえば前日も聞いた気がするが、鳥の声だと思っていた。目の前に姿を現して、鳴くのを見て、ようやくわかった。その大岩に逃げこむマーモットをいっぱい見たので、もう満足していたが、後にもっともっと見られることになる。
スールレーユ峠からは晴れていればピッツ・ベルニナその他の山々が見える筈なのだが、あいにくの雨で見とおしがよくない。
登山用の雨具は日本に送り返してしまったので、雨具としては折りたたみの傘だけ。だが、気温がそれほど寒くないので予定どおり、さらに進むことにした。平日で天気も良くなかったので私の他、人影はない。峠のレストランの窓から、こちらをうかがう人影はあったが、レストランに入ることなく出発する。
道はゆるやかな下り坂。分岐(あまりはっきりはしていない)は右に曲がって、氷河に近づくコースをとる。
コルヴァッチュ氷河からの水流が滝となって落ちてくる。91年山と渓谷社発行の「スイスアルプス・ハイキング案内」には橋もないと書いてあるが、簡単な橋が駆けられていた。
やがてコアーズ小屋に行く道と別れて左に進む。ほんとうに人っ子1人いないので、コースが正しいのか不安にもなってくる。
そんな時、放牧のウシがたむろしているのが、突然、見つかって何やらホッとする。
さらに下っていくと、右手の岩場から「ピー」という鋭い警戒音が聞こえた。見ると
たくさんのマーモットが今まさに隠れようかどうしようかの判断をしているところだった。
こちらが歩みを止めて静かにしていると、彼らも隠れるのをやめて、そのまま岩の上に立ちすくんでいる。写真を撮りまくるが、コンパクトカメラなので望遠があまりきかない。
それでもたっぷりと彼らを眺め、カメラに収めることができた。

さらに下ると一軒家の農家兼レストランに出る。レストランは営業していたかわからないがこの一軒屋のまわりにはやたらに
ウシがいて、我が物顔にのさばっている。道の真中で草を食べていたりで人間様に道を譲ろうとしない。さすがに巨体なので怒らせると怖そうだ。こっちが道を迂回することにする。岩に座って彼らの写真を撮っていると、私が座っている岩の岩塩を舐めようと平気で近づいてくるほどあつかましい。

さらに歩きつづけると、ホテル兼業のレストラン「ロゼック・グレッチャー」に出た。ちょうど雨足も激しくなってきたので雨宿りに入る。
その時、いかにも観光者ふうの気楽な格好の人たちがどやどやとポントレジナ側の入り口からレストランに入ってきた。おそらくポントレジナからの観光馬車が今着いたのだろうと思い、どんな馬車か見に、そちらに回った。
すると、馬車で来たらしい、車椅子に乗った少年を連れた日本人のおばさんとスイス人らしい少女が、何やら困っている様子だった。
「お手伝いしましょうか?」
と日本語で話し掛けると、「ハッ」としたような顔をした後、
「すみません、この子を中に入れたいんですが………」
という。確かに正面入り口からレストランに行くには段差があって車椅子では大変そうだが、裏に回るようにすればスロープになっているので入りやすい。そう教えて少年に傘を差してあげて、いっしょに車椅子を押した。同行の少女はどう見ても欧米人だが、日本語のイントネーションの日本語をしゃべっていた。少年は見たところ、脳性マヒのようだった。
当然のことをしただけだが、そのおばさんはずいぶん感激してくれ、さらに思いがけず日本人に会ったのでうれしかったのだろう、私に向かって、
「あの、ひょっとして写真家の池田さんではありませんか?」と言う。
「え? 池田さんってあの『氷河急行』の写真や記事をお書きの? 違いますよ、顔も年も違います」
と慌てて答えた。氷河急行に造詣が深い池田光雅氏の著作は何冊か拝読しているが、まさかその当人にまちがえられるとは苦笑いものだ。
ロゼックの谷で、でかい顔してウロウロしているからそう思われたのだろうか? この周辺で平気で1人で歩きまわっている日本人男性となると、「氷河急行」や「ベルニナ線」を撮りまくっている池田光雅氏かも? とおばさんは思ってしまったのだろう。うれしい気もするが………。

さて、ケチな私はレストラン「ロゼック・グレッチャー」入り口横の木を雨よけにして遅い昼食を自炊。そうしている内に、
帰りの馬車が脇を抜けていった。あのおばさんと少女がこちらに手を振っていたので、応じる。
彼らの生活や、その背景など知るべくもないし、また詮索すべきでもないが、スイスの観光地を訪れた彼ら……おばさん、少女、少年にとって、雨にたたられた今日が、それでもいい思い出になれば……。

馬車も行ってしまったし、歩いても2時間少々の道なので、テクテク歩くことにする。
ロゼック川はちょうど梓川のような感じ。ポントレジナのほうからサイクリングの青年3人が走ってきて、しばらくしたら今度は後ろから追い越して行った。自転車は軽快だ.馬車の道とは別にハイキングの道が平行気味にあるのでそちらを歩く。途中、リスや巨大なナメコベニテングダケを見つける。

ロゼックの谷は車両通行禁止となっているが、関係者の車はいいようで、川の対岸には車道があって車が走っている。いいかげんなものだ。

さて、ポントレジナ直前に、道はベルニナ線を渡る。いい写真ポイントになりそうなので、ずっとそこで待ち構える。散歩をしているスイス人が
「グッド ラック フォア ユア フォト」
と言ってくれたが、時間帯が悪かったのか、1時間ほど待っても結局、上りも下りも来なかった。

今夜はポントレジナ最後の夜、昨夜からユースには2人の日本人女性がいて、情報交換などした。最初、彼女らは英語をしゃべっている私を中国人と思っていたそうだ。彼女らは、女の子の
子鬼とは同室になってないとのこと。スイスの小学生と同室というと、うらやましがられた。ま、スイスの子鬼とのことも「出会い」のひとつか?
彼女らの1人は大学生。もう1人は、ストレスがたまって会社を辞め、貯めたお金でスイスを回っているそうだ。
私も明日、出発なので時刻標を調べ、険しいシェーレン渓谷に掛けられた、有名な「悪魔の橋」を見てみようと計画を立てる。

9月4日(金)
いよいよポントレジナを去る日が来た。エレーナさんとも別れのあいさつを交わす。
部屋で、スイスの小学生に「ホイテ イッヒ ミュス ナッハ マイン ラント ファーレ 」(今日、私は自国に帰らなくては)というと、さすがに彼らもさみしそうな顔をする。4日もいっしょにいるとかわいく思えてくるものだ。時々は、ドイツ語の会話帳片手にあいさつを交わしたりしたし、日本語の本を見せたりしていたし………。
一番、体が小さくて、なんとなく皆に子供扱いされているふうのソバカスの少年とは、挨拶したり、何とかコミュニケートしようという場面が多かったので、特にかわいく感じられる。彼がビデオカメラを私に向けたので、ここぞとばかり、英語と日本語とドイツ語で自己紹介をする。
「こんにちは、ハロー、グーテンターク、私の名前は××です。マイ ネーム イズ ××、イッヒ ハイセ ××。年は××歳です、アイ アム ××イヤーズ オールド、イッヒ ビン ×× イヤーレ アルト、………」
最後にドイツ語で「この国は美しくて好きです。また来たいと思います。ではさようなら」といってやった。
多少、ドイツ語の語尾変化が違っていようがかまうことはない。連中、口をあんぐりとしている。どうだ、恐れ入ったか、
東洋の猿じゃないんだぞ
ユースの外に出ると、
小学生たちも今日はベルニナ線に乗ってディアボレッツァのロープウエイに行くそうで、集合している。(そういえば3日前にも、ディアボレッツァの駅でそれらしき団体を見かけた。おそらくスイスの小学生のお決まりコースなのだろう。)
(今、考えるに、全然、英語のできない彼ら小学生のことがどうしてわかったのだろう? 今日どこへ行くの?と片言で話していても、何とかコミュニケートできていたのかなあ? 我がことながら不思議な感じだ。)
ユースの外で彼らと手を振って別れる。荷物をチューリッヒまでライゼゲペックで送る手続きをすませていると、さらに彼らも駅にやってきたので、
反対方向に向かう列車の車窓からお互い、また手を振って別れの挨拶を交わす。(「バーイ、××」「アウフビーターゼーエン、××」……彼らはいつまで、ユースで4日同宿した変な東洋人のことを覚えているだろうか………。

 さてサン・モリッツ駅でうまくチューリッヒ方面の列車に接続するはずだったが、駅の地下道を渡る時間を考慮していなかったので、タッチの差で発車してしまった。
次の都合のいい列車まで2時間以上あるので、セガンチーニ美術館に行く事にする。地図を見て迷いつつ30分以上かけて辿りついた美術館は、改修作業のため閉館。学校前広場の施設でセガンチーニのスケッチ類や小作品が展示されているというが、有名な「誕生」「存在」「死」の3部作はいずれにせよ補修中なので見られないとのこと。展示会場は結局、駅のそばだったので、とんだ無駄足だった。なかなか見ごたえのある展示物だったが、有名な「誕生」「存在」「死」の3部作が見られないのはさみしい。99年の6月には美術館、3部作共々改修が終わって平常公開ができるそうだ。
帰り際に、展示会場の受付にいたおばさんに、「来年、きっと見に来るからね」と言ってしまったが、結局、その約束は果たせなかった。

サン・モリッツからクールに向かう列車に乗り(別に「氷河急行」でなくとも急行列車は走っている。「氷河急行」はクールからサン・モリッツ、ツェルマットに乗換えなしで1列車でいけるところが売りなのだ。)、今度こそラントヴァッサー橋をビデオと写真に収める。とはいってもあまりうまくは撮れなかったが……。

ヒンターライン川沿いに駆け下ってライヘナウへ。そこで列車を乗り換え、ディゼンティス駅に。さらに西への列車を待っているとまたまた「氷河急行」が来たのでそれに乗り込む。女性の車掌に特急料金を払い、席は簡易座席でいいことにしてもらってアンデルマットに着く。
駅前から「悪魔の橋」を経由するゲッシェネン行きのバスが出るのだが、時刻標を見ると本数がえらく少ない。慌てて駅にもどり、列車でゲッシェネンに向かうことにする。
アンデルマットにはスイス軍の駐屯地があるせいか、列車にドカドカと若い兵隊さんたちが乗り込んでくる。
自動小銃なども持っていたが、硬質プラスチックを使っているらしく、軽量な感じだ。喫煙車だっただけに彼らはバカバカタバコを吸い始めた。彼らは皆、若く、軍服、軍装のままなのに、ピアスをしているのがおもしろい。
列車はシェーレン渓谷をズリ落ちるように下っていく。ブレーキの音がしっぱなしで、この支線は急坂だけで成り立っているようだ。カメラやビデオを構えていると、兵隊さんたちの、
「トイフェルス ブリック」(「悪魔の橋」)
というささやきが聞こえた。その瞬間、橋がチラッと見えた。なかなか迫力のある風景だが、車道の方は改修中のように見えた。けっこうその回りは車が混雑していたので列車で正解だったかも……。
このシェーレン渓谷(「シェーレン」はドイツ語で「鋏」のこと。確かに鋏のようなV字型をしている。)は下り一方で、ハイキングにいいコースだと思う。ここもまた機会があったら歩いてみたいところだ。
ゲッシェネン駅でスイス国有鉄道に乗りかえる。
サン・ゴッタルド・トンネルを抜けてきたチューリッヒ行きの急行列車に乗り込むが、私鉄と違って、車両が大きくて、線路も直線的だから、ものすごいスピードを出す。
正直、今日はいろいろ鉄道を乗り換えたので、チューリッヒ到着が遅くなるかと思っていたが、列車が早いのと、結局スイス国土が小さい(九州と同じくらい)ということで18時ごろ、チューリッヒ駅に着くことができた。スイスフレキシブルパスは、これだけの距離、移動してもOKなのだからありがたい!

チューリッヒ駅から在来線に乗り換え、ユースへの最寄駅へ行く。駅からはかなり距離があったが、大荷物はチューリッヒ駅に預けたままだから、少ない荷物で楽だった。
着いたユースは近代的な作りで機能的なのだが、逆に24時間受け付け態勢のため、落ち着かず、まるでビジネスホテルみたいだ。いろいろな人間が集まりすぎているためにマナーも今ひとつ。受け付けカウンターでは、韓国人らしき聾唖者のグループが来ていて、何か問題があったらしくカウンターの男性に手話で食って掛かっている。そのグループが持ってきた書類(予約カード?)にそもそも不備があるらしく、始めは穏やかに手話で(手話ができるのはスゴイ!)そのへんを説明していた職員の男性も、そのグループがカウンターのステップに足を掛けて登り、いっせいに首に手をやって、切るしぐさを始めたりしたので、次第に相手にするのがいやになったらしくソッポを向いてしまった。
横から見ていても「サルが木に登って、大勢でキーキーいっている」ようでいやな感じだった。
私は日本で既に予約してあったので、予約の書類を見せてOKだった。(カウンターを去る時に「ノープロブレム?」と確認したら通じなかった。アメリカ英語なのか? 慌てて「エブリシング オーケー?」と言い直したが……。)
さて、夕食はチューリッヒに出て取ることにする。最後の夜だから多少、はめを外すのもいいかな、と思ったが結局勝手のわからない町、駅のコンコースのテイクアウトの店で、ピザを買って食べただけ。ユースにもどろうとしたら、路線をまちがえ、何度か行ったり来たりして、ようやくユースに着く。物足りないのでユースでビールと(なんと)ラーメンを買って食べて就寝した。

9月5日(土)
スイス最終日。天気は朝から雨。朝食を食堂で目の合ったマレーシア人と食べ、情報交換して後、出発の支度をする。仕事相手とはチューリッヒで打ち合わせをすることになっていたので電話をすると、まだまとまっていないのでFAXできないとのこと。日本での打ち合わせにすることにする。

チューリッヒ駅で預けっぱなしにしていたライゼゲペックの荷物を今度は整理しなおして、駅でそのままフライトバッケージにしてもらう。駅からそのまま空港、そして搭乗機に運び込んでくれる。これはスイス航空のみのサービスだ。帰りも8万円近くとられるのはさすがにイヤなので、今度はカウンターでしっかり計量。オーバーした分は郵便小包で送り返すことにする。
駅にある郵便局(階段があって荷物をキャリーで引っ張って段差を越えるのに苦労する)に行くとそこでは海外への小包はあつかっていないとのこと。中央郵便局へ行けというのだが、そこがどこだかわからない。応対してくれたお姉さんはあまり学校での英語の成績がよくなかったのか、
「英語は話せない!」
とキッパリと言う。言葉で場所を教えてもらい、行ってみるが見つからない。もう1度、駅の郵便局にもどって(階段の段差にまた苦しむ)、いかにも「まためんどくさい東洋人が来た」と言わんばかりのお姉さんの視線を感じつつ、何とか地図(「ラントカルテ、ビッテ!」とお願いする)を書いてもらって再び捜しに行く(階段の段差にまたまた苦しむ)。雨はどしゃぶりに変わる。ヨーロッパでは古い石造りの建物が公の機関に使われていて、外からはそれらしく見えないが、案の定、中央郵便局も全然らしくない建物だった。しかしこちらで応対してくれた女性職員は、それはまあ英語がベラベラで快活、テキパキさばいてくれて実に親切だった。やっぱりこうでなきゃ…ネ。
荷物を送ってしまい、えらく身軽にはなったが、ひとつヨーロッパを離れる前に必ず買わなければならない物が残っていた。
家族からは「変なものをおみやげとして買ってこない」ように言われていたが、犬用のネッカチーフを「もしあったら買ってきてほしい」と言われていた。何でも外国にはそういう犬用のアクセサリーがあって、日本では売っていないらしい。
しかしさて、どこに買いに行けばいいのだろう。チューリッヒのメインストリートであるバーンホーフ通りには高級デパートが林立しているが、その中のどこかにペットショップはあるだろうか? だいたいペットショップってドイツ語で何と言うのだろう?
デパートの案内板は、何をあつかっている店がどこにあるか……の表示ではなく、何と言う店がどこにあるかという表示なので、とにかく捜しにくい。
どうもどのデパート内にも(何軒もまわった)ペットショップはないようなので、今度はスポーツ用品コーナーを見てまわる。それでもありそうもないので、店員に尋ねることにした。まず英語ができる店員を捜してもらう。男の店員が出てきて、
「確かにこのデパートにはないが、この近所で見た覚えがある」
という。希望の光を見出した感じで、おおまかな地図を書いてもらい、街を捜しまわる。だが、同じところをぐるぐるまわっているばかりで、全然、見つからない。
たまたま道にあったブティックの中に犬がいたので、
「心当たりがあるのでは……」
と思い尋ねてみる。すると確かにある、とは言ってくれるのだが、位置までは不正確。さらに周囲を歩き回り、ところどころのお店で尋ね歩く。
そうこうしている内、向こうで駐車違反車のチェックをしている
2人の婦人警官が見つかったので、急いで追いかけ、呼び止める。2人の内の1人が、英語をしゃべれるというので、事情を説明する。
「家族に頼まれてはるばる日本から、飼っている2匹の犬のためのネッカチーフを買いに来たのだが、
売っている店が見つからない。このへんにペットショップがあると聞いたんだけど、知らないか……。」若くて表情が豊かで金髪で、ちょうど女優のメグ・ライアンによく似た感じの婦人警官は、話を聞いている間、「フフーン」と相槌を打っていたが、聞き終わると、
「オー、イッツア ビッグ トラボー!」
と、目玉を見開いて叫び(何て表情が大げさなんだ)、やおら無線機を取りだし、本庁(?)を呼び出した。
「ずいぶん親切だなあ」
と感心していたら、何やら無線と緊迫したやり取りをしていて、その内、
「で、犬の特徴は? 大きさは? 毛の色は? 種類は?」
と質問される。それに答えながら、
「何かこりゃー誤解しているなー」
と気づき、あわてて、
「ノーノー、マイ ドッグズ
アー イン ジャパン!」と叫んでしまった。
それは確かに、家族に言われて、
わざわざ日本から犬を連れ、犬用のネッカチーフを買いに来て、どうしても犬が見つからない……となったら、「ビッグ トラボー」(一大事)だ。誤解が解けて皆(無線の相手も?)、大笑い。
さてさて改めて無線でペットショップの位置を聞いてもらったが、やはりこの近所の通りにあるらしい。通りの名前まで聞いたので
「今度こそ大丈夫だろう」
と思い、彼女らと別れる。
しかし…それでも…見つからない!
もう1回、警官に場所を聞こうと思い、彼女らを捜すが、もう仕事を終えたか、違う通りに行ったか、見当たらない。交番を捜そうとしたが、ヨーロッパには交番というものはないので、しようがない、駅のポリスで聞くことにし、テクテク駅まで戻る。
駅前にはタクシーが並んでいる。突然、タクシーに案内してもらうというグッドアイデアが浮かび、
「誰かペットショップまで連れていってくれ」
と頼んだ。まず英語のできる運転手さんが私の話を聞いてくれ、それから、
「誰かこのあたりでペットショップを知ってるか」
と運転手さん仲間の話になり、
「オレ、知ってるよ」
と名乗り出た運転手さんのタクシーに乗り込む(タクシーの運転手さんには、かんたんな英語が通じる)。道が込んでいたので少々時間と料金がかかったが、そのペットショップに着いてみたら、さっきまでうろついていた通りにあった。やはりいくら教えられても、心のどこかで「果たして聞き間違えではないか」という疑いがあったり、またどれだけ歩けばいいかわからないから、途中で不安になって引き返したりして見つけられなかったのだ。つくづく見知らぬ町を歩くのは難しいと思い知った。
店が見つかってしまえばこっちのもの(?)。
店内に入り、
「ケネン ジー エングリッシュ スプラヘン?」(英語、しゃべれる?)
と尋ねる。店員のお姉さんたちは、変な東洋人が来たと顔を見合わせながらも、
「ナイン」
と答えた。
「OK、OK」と
1呼吸置いて、
「イヒ コメ アウス ヤーパン フィユア エトバス カウヘン。(私はある物を買うために日本から来た。)」
1発かまし、後はメモ帳にネッカチーフをしている犬の絵を描いて、ネッカチーフを指し、
「ダス!」(これだ!)
と告げる。
これですべては解決。すぐそのコーナーに案内された。
同じデザインのものを2つ購入し(結構、高価。ヨーロッパは物価が高い)、これで肩の荷が下りた。ブラブラと駅まで歩き、空腹だったので、まだ食したことのなかった
スイス料理の「レスティ」なるものを駅の食堂で食べる。ジャガイモの薄切りを炒めたもので、どうってことのない食べ物だ。

もう思い残すことはないので、少し早めにチューリッヒ空港に行く。搭乗手続きを済ませ、自宅や実家、山岳会の連絡事務局に、すべて無事、これから帰国する旨を連絡する。空港のスーパーで荷物になるからよせばいいのに、ケチな根性を出して、もの珍しさに
100円のワインを何本か買いこむ。

そうして離陸。飛行機はアムステルダムで乗り換え。帰国便は今度は日航に変わるのだが、搭乗手続きをするにも、どこで行えばいいのかわからない。またまた必死に捜しまわって、日航のVIPルームにまで顔を突っ込んで、日航職員を探し、ようやくアムステルダム空港には日航のカウンターがないので(それは知っていたが)、業務はKLLに委託していることを教えてもらう。(こういうところ、アースデスクさんには事前にしっかり教えておいて欲しかった。)
ようやく飛行機に乗り込むと、なんと後から知った顔の日本人が機内に入ってきた。大学のクラブでいっしょだった
N君(夫妻)だ。聞けば、同じくクラブでいっしょだったS夫妻がアムステルダムに仕事で在住していて、この夏、彼らのところに遊びに来ていたとのこと。本当に奇遇だった。
飛行機はひたすら日本に向かって飛び続ける。いろいろあったが、ここ数年の人生の中でトピックス的な日々ではあった。100%満足いく旅ではなかったし、いろいろ不手際もあった。

何はともあれ長い紀行文を締めくくるにあたり、体力面でも、精神面でも、言葉の面でも、私をカバーしてくれた、パートナーの「利き酒迷人」氏に心から感謝する。

たいてい、こういった文章の終わりには、自分なりの登山論とか、自然観とか、人生観とか、そんな感じのまとめがあるものだが、趣味ではないのであえて味気なく終わることにする。

(終)

追記:さあ、今度は何をしようか?

19991月脱稿 199911月改稿)


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