1982年、静岡学園高等学校に入学するも、8ヶ月で中退。15歳で単身ブラジルのプロチーム 「ジュベントス」に留学。 当時のカズは県内でもほとんど評価されず、カズのスピードと体力ではブラジルどころか県内でも通用しない、という批判の声がほとんどであった。それでもカズは自分を信じブラジルへと発った。
1985年の夏、カズは厳しい日々に夢を捨て日本に帰ることを考えた。そして、日本行きの航空券を買い、リオの公園に気晴らしに出た。 そこでは、20人ほどの子供達が楽しそうにサッカーをやっていた。その中には、片足で懸命に汚れたボールを追っている少年がいたのである。 「片足の子だけじゃなく、裸足の子もいました。じっと子供たちを見ているうちにボクは反省しましたよ。ボクには両足もあればスパイクも新しいボールもある。 いったい、何をぜいたくなことをいってたんだろうと思いましたね。」(カズ)
飛行機の予約をキャンセルしたカズは、この時から帰国を口にしなくなった。 翌1986年2月、18歳の誕生日の2日前、カズは正式に名門サントスFCと契約した。
日本では華やかに報道され、現地ブラジルでも新聞にとり上げられ話題には事欠かなかったが、サントスFCでも厳しい苦渋を味わった。ウイングのポジションには元代表の名選手がいて、そのシーズンは2試合しか出場できなかった。
そして1年後、サントスFCの外人枠から外れ、弱小チームに貸し出されることになる。 そこでの生活は悲惨なものであった。 「まるでドサ回りみたいなものですよ。バスで延々23時間かけて地方に遠征し、試合をして、終わったらまた23時間かけて帰る。 夜はバスの通路にクッションを敷いて寝る。食事は高速道路のインターで同じような肉料理を1日3、4回。 それに、ブラジルは広い国だから、暑かったり寒かったり、1日で気温が10度以上も違うんですからね。」(カズ) 「でも、ここで負けたら永遠にオレはダメになると、いつも心のなかでは思っていたんだ。」(カズ)
そののち、「CRB」という田舎チームを経て、1988年サンパウロ州の1部リーグチームではあるが、ローカルチームの「キンゼ・デ・ジャウー」にスカウトされる。 このスカウトが歴史的なゴールへとつながることになる。
1988年3月、世界的な超一流のクラブチーム「コリンチャンス」とのゲームが行なわれた。 カズはこの試合で、鉄壁の守備を誇る元ブラジル代表のエジソンのマークを外し、ヘディングでゴールを決め、1-0で勝利した。 点を取ったのはヘディングだったが、得意のドリブルで何度もコリンチャンスのディフェンダー陣を混乱させた。 カズのフェイントはブラジルの超一流チーム相手に十分通用するようになっていたのだ。 ゲームが終わった後のジャウーの町は1週間以上も、お祭騒ぎがつづいた。 地元ではカズを「神」として崇めた。
その後、パルメイラスの助っ人メンバーとしてキリンカップに出場したり、コリチーパをパラナ州のチャンピオンにさせたりし、カズは実力をフルに発揮しはじめ、90年に再びサントスFCと正式契約した。カズ、このとき22歳。 今度は超一流の折り紙をつけられ、堂々と胸を張っての契約だった。
当時日本のサッカー界には、プロリーグの構想が持ち上がっており、カズは、その構想に引かれ日本に帰ることを決意したのだ。 カズは、ブラジルで人気選手としてサッカーを続けることより、日本のサッカーのレベルを上げ、日本代表チームの一員としてワールドカップ出場を目指すことを選択したのだ。
1993年にはプロサッカーリーグ・Jリーグが開幕し、 また日本代表チームは、ワールドカップ・アメリカ大会出場まであと一歩というところまで迫る。 日本のサッカーは、人気実力ともに上昇していった。 これらの功績はカズなしではとても成し遂げられるものではなかった。
これ以後のカズは皆さんも良くご存知の通りです。日本のサッカーが軌道に乗ると、再び自らのもう一つの夢を追いかける。 そしてまた、通用しないという声の中、セリエAでのプレーを実現する。その後、再び日本でプレーする。
しかし、これまでのカズはブラジルに渡る時、ブラジルから帰る時、イタリアでプレーする時、常に回りに反対される中、自分を信じて成功をしてきた。 逆境をバネにして、やってきた男である。今回は代表から外れたが、まだまだこれで終るような男ではない。
日本に帰ってきてからのカズの帰国会見。 「メンンバーから外れたことは、絶対に納得してはいけない。」(カズ)
いい顔をしていた。 カズは、死んではいない。 夢を追い続けるカズのサッカー人生は、まだまだ終らない。
--1998/7/10
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