「雨


ロッドのチップだけで煽るようにワンアクションすると、およそ10cmはある今の基準からすれば巨大とも言えるルアーがいやいやをするように首を振り、小さな波紋を起こす。
 いきなり、周りで何かの稚魚が、水面を跳ね始めた。瞬間、激しいスプラッシュと同時にルアーが跳ね上げられ、それを追って大きな口がのぞく。
 ラインにテンションが十分かかったのを握りしめたグリップで確認してから少し大きくあわせる、ギリギリと軋み音をあげてラインが縦横に走ろうとするのに少しずつ制限を加えて寄せようとすると、いきなり、こちらに向かって来たかと思うと激しいジャンプと共に尾鰭を激しく振るって見事なテイルウォークを見せる。ロッドを下に向け、ラインにかかるテンションを一定に保ちつつ、ゆっくり、”慎重かつ大胆に”なんて、唱えてしまう。
 およそ数十秒ほどの、しかし永遠にも似た至福の時の中で、余計な考えは消し飛んでしまい、ロッドを操る以外のことが考えられなくなる、つまらない記憶の断片だとか、気にかかっていても思い出せない事柄だとか、全てがどうでもいいような気さえして、我を忘れるって言うのはきっとこんな感じだろう。 やっとの事でボートの際まで寄せて姿を見せたのは、50pをゆうに越えるブラックバスだった
 少し震えの来た指で煙草に火を点けながら、ぼんやりと今のファイトを反芻する、今度のは珍しいぐらいに読み通りだった。オーバーハングした岩の割れ目の奥に思った通りにキャスト出来たし、完璧な誘いを演出して、喰わせた。
 一人でニタニタしていると、結佳が、こちらに向けてシャッターを切っているところだった、
 「本当に良い顔してくれるから、こっちまで嬉しくなるね。いっぱいに引き伸ばしてあげるね。」
 結佳は今朝、夜明け前にボートを出してから立て続けにポッパーで3本、いいサイズのをあげていたものだから、余裕を見せてか、あっちの流木の溜まった処にいそうだ、とか
、そこの突き出した木の下は最高なんじゃない、なんて、この道に引き込んだ師匠に対して少々生意気なのではないかとは思うのだが、なにしろ結果を出しているのは彼女だから文句はいえない,諾々と指示にしたがって見事にその通りになったのだから、とっくに師匠は出藍の憂き目(誉れではない決して・・・悔しいから)をみていたのだ。
 まだ朝靄が流れてゆく湖面をボートのエレキでゆっくり流しながら、艫にちょこんと座った彼女のキャストを、まだ先刻のバスの余韻を感じながらぼんやりと眺めてみる、どこにも力みが無く、綺麗な弧を描いてロッドがしなり、ルアーの重みが充分に乗ったところで手首が返され、凡そ45度の角度でゆるゆると飛んだルアーをその頂点にさしかかったあたりからサミングで少しづつスピードを緩めてふわりと着水させる、見事に水面に少しだけ顔を覗かせたスタンプ(切り株)の5p脇に小さな波紋を起こしただけでふわりと落ちた。
 ポッパーってゆうのは、正面に口があってそこに水を受けてカポッ、と泡と一緒に音を立てるタイプのルアーで、少しの間止めおいた後、チョン、とロッドの先であおってポコって音をたててやると、たまらなくなったバスが、身を躍らせて食い付いてくる。大きくあおったロッドが弧を描いてしなり、ゆっくりと引き寄せられてゆく。 「今、上手いなって思ってたでしょう。冷えてきたから珈琲、飲みに戻ろうか?」
 完爾、って言葉がよく似合う、悔しいのだけれどまあしかたがないか。
岸際の朽ちた木の幹にボートを舫ってコールマンのバーナーにエスプレッソマシンをセットする、ほどなく、とゆうわけにはいかないのがこのコーヒーメーカーの欠点だけれど、10分もすれば蒸気の立てる独特の音と一緒に、本当に旨いエスプレッソが出来る。
 あたりは時々聞こえる早起きの蝉の声とまだライズしているバスや他の魚達が立てる水音、後は間伐作業をしているらしい、チェーンソウの音の他には殆ど物音もなく、それらの音と音の合間には耳が痛くなるような静けさで、殆ど波の無い湖面には、朝霞の破片がふわりと流れていく、苦みの強い珈琲は眠気と興奮で痺れた頭をゆるゆるとほどいてくれる。
「先刻のは完璧でございましたね、お師様。キャストからランディングまでの流れがまるでひとつのダンスの様でございました。いや、流石は御師様でございます、わたくし、感服つかまつりました。」
 結佳がいくら憎まれ口をたたいたところで、この状況では腹の立てようがない、にっこりと受け止めて、鷹揚に頷いてみせる。
 「ところで御師様、わたくし腹ぺこでございます、何か作ってよ遙さん。」
 途中からすっかり元の口調に戻ってテーブルにつくと、フォークとナイフまで取り出して小さい子がやるように、腹へったー、飯くわせー、とやりだす。
仕方なく、クラブハウスサンドを作り始める、とはいってもあらかじめ下ごしらえはしてあるので、後はトーストするのと、オムレットとベーコンを焼くぐらいのことだから、5分もかからないのだけれど、姦しい口を塞いでおくためにポットにいれておいたカボチャのポタージュを先にサーブしておく、そうこうしてるうちに靄も段々晴れてきて、体が温まってくる、7月とはいえ2,3日前から曇り空が続いていたため朝の気温はずいぶん低くなってたので羽織っていた薄手のジャケットを車の上に置いて少し汗ばんできた背中に風を通しながら振り向くと、またフォークとナイフを構えた結佳がこっちを睨んで、 「腹減ったぞー、飢え死にするよー。」
ああうるさい、と身振りで示して、ベーコンの焦げ具合を確認してからサンドを作り、大きめの琺瑯の皿に盛りつける、付け合わせは簡単にポテトチップスと塩漬けのオリーブのみ、まあ、サンドにたっぷり野菜も肉類もはいってることだし、外での食事にここまでしてるんだから、文句は言わせないよと皿をテーブルに置こうとしている間に伸びてくるお行儀の悪い手をピシャリとやって、悠々と座に着いてから、手を合わせて結佳をじっと見やる、慌てて手を合わせていただきますをやってる姿を見ながらわざとゆっくりとしていると、フォークで突っついてくる。
「遙さん、美味しいね。」
 料理なんてとても恥ずかしくって人に言えないようなしろものだけれど、美味しそうに頬張ってくれればこちらも嬉しい、珈琲を飲まない結佳には昨日マリアージュで買ってきたマルコポーロってゆう最近のお気に入りの紅茶をサービスする。
 

美味しいね、楽しいねを連発してる結佳の声を聞きながら、あたりをぼんやりと眺めていると、近くの林から間伐の作業をしていたらしい人が、