04.03.20
永正元年(1504)聖室有賢大和尚が創建。本尊に釈迦牟尼仏を安置して、慈雲山影現寺と称した。
永正12年(1515)海西山普門寺と改称、宝暦3年(1753)旧寺号に戻す。
寛政12年(1800)堂宇を焼失、古文書なども焼失した。爾来、歴代の住持が再建を重ねて現在に至る。
観音縁起は古く天長4年( 824)佐久島の漁師が、海中より金色の像を引き上げ、島内に草庵を結び安置していたが、 ある夜島守りの夢のお告げに従って現在地に遷座した。
慶長12年(1605)尾張藩主・徳川義直公が領内巡察の途次、観音堂に休息のみぎり、縁起談に帰依して堂宇を修復、 寺紋に三つ葉葵を冠した。以来代々尾張藩の庇護を蒙り栄えたという。
観音堂の横に屹立する石造りの大観音立像は、昭和56年(1981)に勧請した。高さ6m、重さ25tである。 この他、大師堂、鐘楼、観音公園などもある。知多四国霊場会・編 知多四国八十八所遍路より

写真では小さくなってますが、左奥にあるのが大観音立像です。中国産だそうですが、椿が満開でした。
石段を下りて、再び国道を行きます、左側は堤防で見えませんが、ずっと海が続きます。
まだちょっと早いですが、4月になると潮干狩が始まって、渋滞も始まります、5〜9日が好適日のようです。
道がやや右にカーブする手前で右折します、右手に神社があってその向こうが
山門は薬医門造り、境内に本堂と大師堂を設け、祭壇に三世諸仏をまつり、春秋の彼岸には寺宝の地獄絵図を公開する。
慶長元年(1596)友林公益大和尚が開山、本尊に弥勒菩薩をまつる。
宝暦3年(1753)火災により焼失、明和5年(1768)8世祖春和尚が堂宇、10世良慶和尚が庫裏を再建。 14世実門和尚の代に道明大和尚を請うて法地開山、自ら中興2世となった。
その後、5世鉞巌大和尚が明治40年(1907)本堂、昭和3年(1928)大師堂を再建して現在に至る。知多四国霊場会・編 知多四国八十八所遍路より

このお寺では、お彼岸には地獄絵涅槃絵の御開帳が行われます。本堂にあがる人もいましたが、私たちはスキップしました。
寺の前で左折して行けば、歩道橋が見えてきます。これで国道と新江川を越えます、殆どの人は国道を無理やり横断してましたが、
感心できませんね。
歩道橋を下りて左折、すぐ右折、突き当たって右折、左手に河和観光総合センターがあります、また突き当たって右折、
工場に突き当たって右折、その先にちょっと変則な河和の信号があります、信号から見て右が国道247号、右が県道52号です。
コースは真ん中の道を行きます、左手に河和中学校を見て進み、突き当たって右折、また突き当たって右折、
次突き当たって左折、突き当たって右折、突き当たって左折。このあたりで鶯の声が聞こえてきました、今年初めてです。
この後は道なりに進み、大川を古布橋で渡って右折、南知多道路の下を通ってすぐ左手に入り鐘楼門があって、その先に
弘治元年(1555)周栄和尚が開基。呑溟和尚が開山した。本尊に釈迦牟尼仏をまつる。
明治初年寺格を法地に昇格。昭和19年(1944)海軍航空隊の基地ができて移転、8世住職・塚本智道和尚の献身的な努力により伽藍を移転した。誓海寺の別堂と軒を分けて禅林堂がある。岡田半蔵行者は文政7年(1824)誓海寺に没し、禅林堂に遺影をまつる。


鐘楼の鐘は誰でも自由に衝くことができるそうです。皆さん交代で衝いてましたから、音の途絶えることがありません。
元の道に戻り今度は大川の右側を行きます。五条の信号で右折して進めば、右手に新池があります。
少し小雨気味になりましたが、ここでおにぎりにしました。お仲間も大勢いました。
腹ごしらえがすんでまた出発です、少し行くと右に入る道があって、その先にあるのは変電所のようです、
コースはもう一つ先で右折します。
カーブミラーのあるところで右折して進めばその先がゴールの
寛永元年(1624)大応空悦上人を開基とする。本尊に阿弥陀如来を安置。
寛政8年(1796)寺格を法地に昇格。28世・教忍上人の台に境内を拡張した。
往古は地福寺と号する寺があったが、当寺の創建と同時に合併した。地福寺の本尊は薬師如来で、説に行基菩薩作と伝え、 弘法堂に安置する、という。
享和3年(1803)本堂を改築、近年に再建した。別堂に薬師堂(弘法堂)がある。 薬師如来の前に俗にことぶき観音と称する、丈2m余りの聖観音像が露座する。知多四国霊場会・編 知多四国八十八所遍路より

永寿寺から先は1km弱歩いてつくだ煮街道まで行きます。途中所々に→つくだ煮街道の標識があります。 ここから河和駅まではハイキングバスです。