【山の部屋
  大雪山
〔旭岳*北鎮岳〕
 山歩きをする者にとって北海道の大雪山は、日本アルプスの槍穂や北岳と並んで憧れの山だろう。

 私にとっても同様で、念願かなってある年の夏休みを利用して家内と二人でようやく出掛けることができた。

 めったに出掛けることのできない山だから、この機会に目いっぱい大雪を歩きたいと、黒岳→白雲岳→間宮岳→北鎮岳→比布岳→愛山渓→沼ノ平→姿見と、4日間歩けるだけ歩いてなおかつ変化のあるコースを組んでみた。このコースどりだと大雪山の最高峰旭岳が入らないのが残念だが、旭岳だけならまた登れる機会もある。それに、この山はロープウェイを使って簡単に登れるので、観光客も多そうで、他の山を割愛してまで無理して登りたいとも思わなかった。

 あいにく持病の腰痛がいつになく悪く、旭川までの飛行機の中でも、層雲峡へのバスでも、坐っているのがかなりつらかった。おまけに黒岳石室と白雲岳避難小屋では自炊しなければならない。白雲岳避難小屋は収容人員が少ないので、いざという場合に備えてツェルトやシュラフ、ロールマットなども持っているので、荷物がひどく多い。食糧はできるだけ軽量化してきたものの、アプローチから腰の状態がこう怪しいのでは先が思い遣られる。

 1日目の黒岳には、層雲峡からロープウェイとリフトを乗り継いで、七合目の登山口まで上がれる。縦走の場合、だいたい初日の登りがもっともきつく、荷物も重いので苦しいが、ここは文明の利器を利用できるので助かる。登山口には観光客もかなりいて、ここから黒岳までピストンで歩いてくる日帰りハイカーも多い。

 登山靴に履き替え、大荷物を背負って歩き出したが、気遣っていた腰痛もいざ歩き出したらさほどのこともなく、まずはひと安心。

 黒岳への登り道はまだ雪がだいぶ残っており、道がぬかるんで歩きにくかった。あとでわかったのだが、この年の大雪山は異常に残雪が多く、夏の訪れが遅かったらしい。

〔ウコンウツギ〕

〔エゾコザクラ〕
 ウコンウツギの花などを楽しみながら、1時間半ほどで黒岳の頂上に着いた。ここからは大雪山の全貌が見渡せるようだが、あいにくガスがかかって展望がきかない。ガスが薄らぐと今宵の宿、黒岳石室がすぐ下に見える。

 山頂で小休止して、黒岳石室に下りた。ここには予約を入れておいたが、この日の宿泊者は少なく、小屋はゆったりしている。石室の名前どおりの、やや薄暗くて質素な、いかにも山小屋という感じの雰囲気のいい小屋だ。ここの寝具は布団ではなくシュラフなので、われわれは持参のシュラフを使うことにした。

 小屋の周囲にはエゾコザクラ、イワウメ、キバナシャクナゲなど、普段なかなか見られない花が美しく咲いていて、楽しい。まだあちこちに大きな雪田が広がっていて、7月下旬だというのに初夏の感じだ。小屋の様子といい、あたりの景色といい、花といい、いかにも北海道の山に来たという感じである。

 炊事は小屋の前の広場でやるのだが、翌朝起きてみて驚いた。7月下旬だというのに薄氷が張っている。前日の夕食はてんぷらうどん、朝はパックのおかゆと暖かいメニューにしたのは正解だった。

 2日目はまず北海岳を目指す。小屋からお鉢平の出口になっている窪地へ緩く下ると、一帯は巨大な雪渓で、登山道はほとんど隠されている。このあたりは美ヶ原と呼ばれ、そういえば信州の美ヶ原と雰囲気が似ていなくもないが、むこうは高原台地、こっちは広大な窪地である。

 その窪地を埋め尽くしている雪渓をトレースをたどって横切り、明石川を渡って振り返ると黒岳がまろやかに広がっている。雪が消えたばかりの茶色い草地には、待ちかねたようにコバイケイソウの新芽が群生している。

美ケ原の雪渓と北海岳 美ケ原のキバナシャクナゲと黒岳

 明石川の先で小さな尾根をひとつ越え、北海沢をまたぐと北海岳への登りになる。あたりはキバナシャクナゲのお花畑だ。エゾノツガザクラ、エゾコザクラも多い。イワブクロも散見されるが、この花はまだほとんど蕾だ。

イワブクロ 〔北鎮岳*北海岳〕

 ハイマツの緩やかな登りを花を楽しみながらのんびり行くと、難なく北海岳に着いた。この山は表大雪の中心部に位置し、北海道独特ののびのびした山々の展望が思うさま楽しめる。曇っていた空に青空が広がり、お鉢平のむこうに残雪をたっぷりとつけた北鎮岳の姿が優美である。あたりにはまったく人がいず、広大な山岳展望を独り占めだ。

 ここからお鉢平の周回コースと別れ、われわれは白雲岳を目指す。すぐに緩やかな砂礫地の北海平に入る。あたり一帯、行けども行けどもお花畑で、コマクサ、キバナシオガマ、エゾオヤマノエンドウなどが延々と咲いている。花ノ沢源頭のキバナシャクナゲとそのむこうに立ち上がっている烏帽子岳の姿もいい。イワウメとエゾノツガザクラもいたるところに咲き広がって、まさに天国だ。

キバナシオガマ 〔北海平のキバナシャクナゲと烏帽子岳〕

 白雲十字路まで花を楽しみながらの漫歩で、ここからいったん白雲岳避難小屋に行き、思い荷物を下ろしてしまうことにした。やや急な道をひと下りで小屋に着いた。

 この避難小屋、事前の情報では狭いうえに利用者が多いということで、万一あぶれた場合のことを考えてツェルトを持参したが、数人の先着者がいるのみだ。北海道大学のヒグマ調査の大きなテントが小屋の脇に張ってあるが、こちらは無人のようだ。人の少なさに拍子抜けしたが、このあたりヒグマが多いというから、屋外にツェルトを張らずにすんで安心した。

 昼食はスパゲッティー・ナポリタンを作り、ホタテスープに海草サラダと、ちょっと豪華なメニューにした。

 午後は空身で附近の山とお花畑の散策だ。まずは西側のヤンペタップ川の源頭に降り、沢を覆い尽くしている広大な雪渓を渡って尾根に登り返し、緑岳を目指す。雪渓を渡ると、あたりいちめんどこを見てもお花畑だ。エゾノツガザクラ、キバナシャクナゲ、ホソバウルップソウ、キバナシオガマ、タカネスミレ等々、数えきれないほどの種類の花が咲いて、花好きにはたまらない道だ。

〔エゾコザクラ〕 〔ホソバウルップソウ〕

 緑岳の山頂からは高根ヶ原からトムラウシ、東大雪までの山々やすぐ近くの白雲岳など、雄大な展望が開けているということだが、あいにくガスってきて、何も見えない。来た道を引き返して、今度は尾根どおしに小泉岳を目指す。ガスの流れる緩やかな尾根にはあいかわらずホソバウルップソウやタカネスミレなどのお花畑が延々とつづく。花に見とれてなかなか先に進まない。まさに神々の遊ぶ庭だ。

 小泉岳に着いたときはガスがすっかり濃くなって、緩やかな道のどこが山頂かわからないほどだ。ガスの中で小休止をして、今度は白雲岳を目指す。

 午前中に通った白雲十字路まで緩やかに下り、ここを横切って岩の尾根にとりかかる。ここはキバナシャクナゲに加えてイワウメのお花畑が見事だ。残念ながらガスはますます濃くなり、視界がほとんどきかない。どこかでナキウサギの声がする。

 この山は巨大なクレーターを抱え、その北側の縁をたどって山頂に行くのだが、地形がまったくわからず、ただ岩の道を登っているとしか感じられない。頂上直下に雪が多くて、ちょっと緊張させられた。

 3時間ばかりのお花畑めぐりを終えて白雲岳避難小屋に戻ると、家内が頭痛を訴えだした。2千m程度の山でも高山病にかかったらしい。日本アルプスの縦走だと彼女はいつも稜線の小屋でこんな症状に陥る。急に高度を上げたわけではないので、とにかく安静にしているほかはない。

 夕飯はチャーハンを作ったが、彼女はまったく食べることができなかった。

 そのころになると宿泊者も思い思い出先から小屋に戻ってきて、話をしてみると、もうこの小屋に何泊もして花の写真を撮っている人もいる。これだけ花が多ければ、とても一日では撮りきれない。私も可能なら、独りで小屋に連泊して思うさま花に埋もれるようにして写真撮影に没頭したいところだ。山でのそんな時間の過ごし方は羨ましいかぎりだが、やはり地元の人でないとなかなかできまい。

 家内はつらい一夜を過ごしたが、翌朝になるといくらか体調も回復し、食事を摂ることができて安心した。

 今日も曇り空だが、展望はきく。小屋からトムラウシが見える。写真で何回となく見ている特徴のある遠い山を眺めていたら、昨日同宿した若い女性の単独行者がひとあし早く小屋を出て、高根ヶ原のハイマツの中を忠別岳目指して歩いていくのが見える。高根ヶ原も熊の多いところだということで、家内は彼女の勇気にしきりに感心していた。われわれもまたこの小屋に泊まって今度はトムラウシを目指したいねと語り合ったが、残念ながら今日までまだ実現していない。

 3日目は昨日の道をまず北海岳まで戻り、お鉢の縁をまわって北鎮岳を目指す。あいかわらず花の多い緩やかな砂礫の道で、荒井岳から間宮岳にかけてはタカネスミレの大群落がつづいていた。このあたり、乾性の花が多く、中岳分岐にはクモマグサやクモマユキノシタなどの群落があり、私はすっかり嬉しくなった。

〔タカネスミレ〕

〔クモマユキノシタ〕
〔クモマグサ〕 〔イワウメ〕

 北鎮岳の登りにかかると一転湿性の花が多くなり、イワウメ、エゾノツガザクラ、チングルマなどが目立ってくる。山頂にたどりついたら小雨が降ってきた。雨具を着け、傘をさした。

 ここまでも花と展望の溜め息の出る道だったが、しかしこの先がそれ以上にすごかった。

〔比布岳キバナシャクナゲの花畑と間宮岳〕
 北鎮岳までのお鉢コースでは数人の登山者と行き会ったが、北鎮岳から比布平に下るとほんとうに人っ子一人いなくなり、あたりはイワウメ、キバナシャクナゲ、エゾノツガサクラの広大なお花畑である。行けども行けどもお花畑は尽きない。そのむこうには間宮岳や旭岳が霧に見え隠れして、本州ではまず見ることのできない雄大な眺めだ。特にここからの旭岳の重量感のある姿がいい。あまりに見事な眺めに、ここで少し早めの昼食にした。

 時間があればシートでも敷いていくらでものんびりしたいところだが、そうもいかない。今日の行程が今回いちばんの長丁場だ。まだ先は長い。

 比布平から緩やかな斜面をひと登りで比布岳に着くころには、さいわい雨も上がった。右手に愛別岳の鋭い姿が見える。振り返ると今日歩いて来た道の彼方に白雲岳が高く盛り上がっている。

 ここから当麻岳分岐まではザレた痩せ尾根で、しかも7月下旬だというのに尾根まで雪渓が残っている。これまでの緩やかな道からは想像もしていなかった個所で、雪渓に落ちれば一巻の終りである。緊張させられた。私がトップに立って危険地帯を慎重に通過し、コルに下りてようやくひと安心。

〔永山岳中腹からの沼ノ平
 ここを過ぎるとまたイワウメ、キバナシャクナゲ、エゾノツガザクラなどのお花畑になり、永山岳を越えてもお花畑は延々とつづく。下るにつれてエゾコザクラが目立ってくる。はるか下方に沼ノ平が見える。

 しかしこのあたりにくるとさすがに家内に長丁場の疲れが見えてきた。白雲岳避難小屋を出てから、もう8時間以上が過ぎている。どこまで行っても下り道は終らない。とにかくこの斜面は長い。おまけに1709mのポイントからは雪渓と雪解けのぬかるみ道になってきた。

 この長い下りを家内を力づけながら沼ノ平分岐までどうにか降りて、ようやく今日の行程も目処がついてきた。あとは1時間強のイズミノ沢沿いの緩やかな道を頑張れば今宵の宿、愛山渓青少年の家に着く。沢にはエゾノリュウキンカが多い。

〔エゾノリュウキンカ
 ひと休みして歩き始めたが、曇り空の下の梢のかぶった沢沿いの道は暗く、しかもエゾブキの大きな葉がそこここで踏み倒されたり茎が折られたりしている。この光景に私たちはたちまち緊張した。最近ここに熊が出没したのは間違いない。そう思った途端、じめじめした暗いヤブの奥から熊が出てきそうで、疲れ切っているはずの家内がたちまち大声で絶えず私に話しかけながら足を速める。どうやら熊の恐怖で疲れが吹っ飛んでしまったようだ。

 イズミノ沢沿いの道自体は、渡渉をしたり村雨ノ滝や昇天ノ滝が出てきたりとなかなか面白い道だった。途中で沼の平への道を左に分け、なおも暗い針葉樹林の道を進むとようやく林道に出て、熊の恐怖から解放されてほっとする。もう愛山渓青少年の家は目と鼻の先だ。

 宿の風呂で3日分の汗を洗い流し、まともな食事と寝床にありついて、疲労困憊の家内もようやく人心地がついたようだ。

 4日目は昨日の道を戻って、途中の分岐から沼の平に上がった。ここは湿性の花の多いところらしいが、まだいちめんの残雪で、木道もいたるところ雪の下。花もほとんどない。見えるのは雪解け跡に咲き始めたショウジョウバカマ程度で、こんな下まで夏の訪れの遅さが影響しているようだ。さすがにここにはハイカーの姿が目立つ。

 それでも広々とした湿原の道は気持よく、この長旅の最後を飾るにふさわしいフィナーレコースだ。もう花は飽きるほど見たので、今日はただのんびりと姿見のロープウェイまでの道程を楽しめばいい。

 沼ノ平を横切ると尾根に取り付いて、ちょっとした登りになる。当麻乗越だと思ってティータイムの大休止にしたら、本当の乗越はまだかなり登った先だった。当麻乗越から尾根沿いに直進すると、昨日歩いた比布岳の稜線に至る。われわれは尾根を乗越して裾合平に下った。

 すこし下ったピウケナイ川のほとりで昼食にした。計画段階から、地図を見て4日目の昼食はここと決めておいた。この沢で前からやりたかった素麺を茹でる計画で、乾麺をザックに入れてある。

 登山道が沢を渡るすぐ上はまだ分厚い雪渓に覆われていて、雪解け水が轟々と流れ下っている。まずコッフェルに水を汲み、湯を沸かして素麺を茹でた。茹で汁を贅沢に捨てることができるのも沢沿いならではのこと。つぎに茹でた素麺を雪解け水でたっぷりと冷し、たれは蕎麦つゆの素を水で薄めたもので我慢するしかないが、夏の陽射しの下で雪渓の冷気を浴びながら食べた冷たい素麺の美味かったこと! まさに山ならではの美味爽快だった。

 裾合平も残雪に覆われて花はほとんどない。進むにつれてハイカーの姿がだんだん多くなってくる。左手には旭岳の優美な姿が高く、広大な裾合平はのびのびとして気持がいいが、人けのない3日間の山旅の後ではいかにも観光地という感じだ。

〔姿見のお花畑と旭岳
 むしろ姿見に近づくにつれて花が多くなってくる。あたり一帯キバナシャクナゲのお花畑で、旭岳ののびやかな姿とあいまってなかなかの景色だ。エゾノツガザクラ、チングルマなども見られるが、いかんせん、観光客が多い。長旅でボロボロのわれわれはなんだかいてはならぬ場所に踏み込んだような気持になる。

 ようやく姿見の池にたどりついて、さっそく缶ビールを買い込み、長かった4日間の山旅が無事終了したことを祝って旭岳を見上げながら乾杯をした。天候に恵まれたとはいえなかったが、とにかく展望と花の豪勢な山旅は充分満足できるものだった。

 この日は勇駒別に泊まり、翌日は旭川出発までの時間を利用して富良野、美瑛方面を巡る半日観光ツアーを楽しんだ。

(2003年7月19日)

【データ】
登高日:1993年7月21〜24日
〔第1日〕
黒岳七合目14:00→黒岳15:30〜15:50→黒岳石室16:20
〔第2日〕
黒岳石室5:40→北海岳7:30〜7:45→白雲岳十字路9:00→白雲岳避難小屋9:30〜11:15→小泉岳12:30〜12:45→白雲岳十字路13:00→白雲岳13:25→白雲岳十字路13:55→白雲岳避難小屋14:20
〔第3日〕
白雲岳避難小屋5:40→白雲岳十字路6:10北海岳7:10〜7:20→間宮岳8:20→裾合平分岐8:50→北鎮岳分岐9:25〜9:40→北鎮岳10:00→比布岳12:00→永山岳12:45〜13:00→沼ノ平分岐14:50〜15:10→愛山渓16:30
〔第4日〕
愛山渓6:05→沼ノ平分岐6:30→沼ノ平入口7:30→当麻乗越10:25〜10:40→ピウケナイ沢11:00〜12:00→裾合平12:45→ロープウェイ姿見駅14:30

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