日本海軍 軽巡洋艦 矢矧
 

 
 昭和3年から7年にかけて日本海軍は吹雪クラスの新型駆逐艦を次々に完成させたが、この特型駆逐艦とも呼ばれる新型艦は素晴らしい性能を持つ画期的な駆逐艦であった。このため、従来の5500トンクラスの軽巡洋艦では、この新型駆逐艦隊の陣頭に立って指揮する水雷戦隊の旗艦としては性能的に不足が目立つようになり、新型軽巡を望む声が強くなった。この要望に応えて計画されたのが、C計画(第4次海軍補充計画)の第132〜135号艦で後にそれぞれ阿賀野、能代、矢矧、酒匂と命名された。軍縮条約下に建造された最上型や利根型は、表向きは軽巡であったが実質的には重巡であり、軽巡の建造は夕張いらい実に18年ぶりであった。
 
 軽巡の万能艦的な性格、そして久しぶりの建造ということもあって各方面から多くの希望が寄せられたが、結局、基準排水量6600トン公試状態で7700〜7800トン、主砲は15cm連装3基61cm魚雷発射管4連装2基、速力は35ノットという基本計画に落ちついた。主砲を15.5cmにせず15cmとしたのは、出来るだけ小型、軽量にまとめたためであり、主砲弾の揚弾装置の一部、充填には人力が使われた。砲塔も簡単なもので駆逐艦の砲塔に近く、仰角を大きくして対空兼用としたのも同様である。このため高角砲は長8cm砲連装2基にとどめられた。しかし、兵装面での最大の特徴は強力な魚雷兵装であった。4連装の61cm発射管2基は日本の軽巡としては初めて艦体中心線上に装備、左右どちらかに対しても8射線の雷撃が可能であった上、次発装填装置が付けられ、迅速な第2撃を加えることができた。各国の軽巡が砲を多くし、魚雷兵装を少なくしているのとは対照的であるが、これは本艦が水雷戦隊のリーダーと自らも魚雷攻撃を行なうことを任務にしていたためである。機関出力は10万馬力、バルバスバウを用いた抵抗の少ない艦体形状とあいまって35ノットの高速が可能であった。また防禦の面でも各国の軽巡に較べると一歩進んだものがあった。
 
 このように数々の特徴を持った阿賀野型の第3番艦として佐世保海軍工廠で矢矧の建造が開始されたのが昭和16年11月11日、25ヶ月後の昭和18年12月29日に完成した。最新鋭艦であり、また戦局がひっ迫していたため大改装はなかったが機銃の増設は数回行なわれている。完成時、わずか6挺にすぎなかった機銃は昭和19年の7月には52挺にまで増設されたという記録がある。そして昭和20年4月の菊水作戦時にはさらに増設されたと言われる。この間、レーダーの追加も行なわれ、昭和19年7月には3式1号と2号1型が各1基、2号2型が2基となっていた。
 
 初陣は昭和19年6月のマリアナ沖海戦で第10戦隊旗艦として第10駆逐隊(朝雲、風雲)、第17駆逐隊(磯風、浦風、雪風、谷風)、第61駆逐隊(初月、若月、秋月、涼月)を率いて第1航空戦隊の護衛にあたった。次いで10月の比島沖海戦に栗田艦隊の一艦として参加。そして昭和20年4月、菊水作戦で駆逐艦8隻(磯風、涼月、浜風、朝霜、霞、初霜、冬月、雪風)を率いて大和と共に沖縄特攻に出撃、これが矢矧の最後の出撃となった。
 
 4月6日、大和と共に徳山沖を出撃、翌7日午前7時、大隈海峡を通過した後、艦隊は大和を中心とした輪形陣をとり、矢矧はその先頭に立って一路西へ進んだ。午前10時すぎ、2機の敵飛行艇が姿を見せ、接触を開始、もはや攻撃は時間の問題であった。午後0時40分、約200機の第一波攻撃、この攻撃により矢矧は命中魚雷一本を受け、航行不能となった。続いて1時20分、約130機の第二波攻撃が始まる。航行不能となった矢矧から旗艦を引き継ぐために磯風が矢矧に横づけしようとしたちょうどその時であった。この第二波攻撃で矢矧は7発の魚雷と12発の爆弾を受け、次第に右舷から波間にその姿を没していった。東経128度8分北緯30度47分の地点であった。
 
 こうして矢矧は誕生以来、わずか15ヶ月のあまりでその生涯を閉じたが、7800トンクラスの軽巡でありながら8発の魚雷と12発の爆弾が命中するまで持ちこたえたという驚異的な記録であった。矢矧の設計の優秀さを雄弁に物語るものである。と同時に、この矢矧の壮烈な最後は日本海軍の軽巡の最後を飾るにふさわしいものであった。
 
 
≪軽巡洋艦 矢矧 主要要目≫
基準排水量:7,710トン   全長:172.0m   最大幅:15.20m
武装:15cm連装砲3基、8cm連装高角砲2基、次発装填式61cm4連装魚雷発射管2基
馬力:100000馬力   速力:35ノット   搭載機:零式3座水上偵察機
完成年月日:昭和18年12月29日 佐世保工廠
 
 
     ※ キット同梱の「日本軽巡洋艦 矢矧」組み立て解説書より抜粋
 
 
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