旧日本海軍 航空母艦 瑞鶴
 

 
 空母瑞鶴は昭和13年5月25日、無条件時代に入ってから翔鶴型2番艦として起工され、なんら条約的な制限を受ける事なく、理想的な空母として誕生した。それ迄の空母は煙突が艦橋の反対側にあり、これが飛行甲板上の気流を乱している事が判明した為、瑞鶴は建造中に計画を変更し、艦橋と同舷側に下へ向けて設置された。機関は他の大型艦と同様、主タービンと副タービンを備え、巡航タービン(副タービン)のみで26ノットを出す事が出来た。これには非常に深い意味がある。当時の艦上機は大型大重量のものでも、秒速10mの向かい風があれば発艦でき、巡航26ノットは秒速13mであり、無風状態でも13mの向かい風を受けている事になり、いつでも発艦可能にある訳である。これを巡航タービンのみで出来るのが、瑞鶴の特色の一つである。又、本艦の基本設計は、大和型戦艦とほとんど同時に行なわれた為、我が国で初めてバルバス・バウ(球塊状艦首)が採用されており、これにより後に建造された高速艦に多く用いられる様になった。
 
 防禦兵装は対空火砲として12.7センチ連装高角砲が8基、25ミリ3連装機銃が12基 であった。4群に分けられた12.7センチ高角砲には高射装置が1基づつ装備されていた。この高射装置は望遠鏡と計算装置、それに通信装置が組み合わさったもので、事前に風向、風力、温度等をデータとしてセットしておけば、後は敵機との距離、速度による調節を与えれば、自動的に射撃方位、角度が各砲に伝えられる自動装置である。引き金は高射装置にあって、各砲の射撃は高射装置によって行なわれていた。この装置は25ミリ機銃にもついていた。各砲の携行弾数は高角砲1門当たり262発、機銃1挺当たり2700発位である。(建造時のデータ)
 本格的戦闘空母として種々のアイデアが盛り込まれた瑞鶴は昭和16年9月25日、翔鶴完成の1ヵ月半後に竣工した。直ちに翔鶴と共に第5航空戦隊を編成、2ヵ月半後の真珠湾攻撃に参加すべく日夜猛訓練が行なわれたが、短期間の成果は満足すべきものではなく、練度の高いパイロットを他から転用して真珠湾攻撃に向かったのである。
 
 昭和16年12月8日、瑞鶴より発進した坂本明大尉の率いる99艦爆27機はホイラー飛行場を攻撃、この時日米開戦の幕は切って落とされたのである。続いて島崎重和少佐の指揮する第2次攻撃隊はヒッカム飛行場を襲い、合計118機を地上撃破し、自軍の損害0という輝かしい初陣を飾ったのであった。ハワイ作戦終了後、ラバウル、ラエ攻略を支援、一旦内地へ帰り機動部隊と合同してインド洋作戦に参加、セイロン島沖に於いて英国重巡コンウォール、及びドゥーセットシャーを撃沈の戦果をあげた。
 
 昭和17年5月7日のサンゴ海海戦に、原忠一少将の指揮のもと翔鶴、祥鳳等と共に参加。この海戦で祥鳳は雷撃機を受け沈没し、米艦上機の報告によって日本艦隊の位置は全て米軍の知るところとなった。日没近くの為、米軍の再攻撃は明朝に延期された。一方日本艦隊は夜間訓練を積んでおり、米機動部隊攻撃に空母機は飛び立って行ったが、折悪く悪天候の為に米機動部隊を発見出来ず、残存燃料も少なくなったので、全機爆弾や魚雷を捨てて帰路につこうとした。
 だがこの時、攻撃隊は米機動部隊の上空にいたのであり、米軍は日本機の接近をレーダーで探知していたのである。迎撃の為戦闘機が飛び立ち、日本軍攻撃隊は米迎撃機の迎撃を受けて、初めて目指す敵機動部隊の上空にいる事を知ったのである。激しい米戦闘機の攻撃により、8機の97艦攻が撃墜され、夕闇が広がると共に米戦闘機は攻撃を打ち切った。当時、日本の空母には帰艦誘導通信装置は設置されていなかった為、97艦攻隊は帰艦すべき自軍の空母を発見出来ず、11機が燃料を使い果たして海に沈んだ。
 翌日、米軍攻撃隊の飛来によってサンゴ海海戦2日目を迎えた。日本軍攻撃隊も、ほとんど同時に敵艦隊を発見した。この海戦において日本側は空母レキシントンを撃沈、空母ヨークタウンを大破せしめる戦果をあげたが、米側の激しい攻撃に祥鳳沈没、翔鶴大破、50機以上の航空機と多くの熟練パイロットを失う打撃を受けた。瑞鶴は運良くスコールの中に姿を消し無傷であった。瑞鶴はこの海戦で失った兵員補充と整備の為内地に帰港した。この間にミッドウェー海戦が開始されたので、瑞鶴は翔鶴と共に参加する事が出来なかった。
 
 内地で兵員補充と整備を受けた後、6月14日にアリューシャン作戦を支援、その後再び南東方面に進出、8月2日第2次ソロモン海戦に参加、翔鶴、隼鳳と共に空母ホーネットと駆逐艦を撃沈、日本側は翔鶴が爆撃を受けたが、瑞鶴は又もや無傷であった。昭和19年6月マリアナ沖海戦には翔鶴と共に参加、新鋭空母大鳳沈没、旗艦は瑞鶴に移された。
 空母9、戦艦5、重巡11、軽巡2、駆逐艦32、潜水艦15の大艦隊であったが、空母4、戦艦1、重巡1が沈没し、空母機290機、基地機140機を失い航空戦隊は全滅に近い状態に陥った。沈没した4隻の空母の中には僚艦翔鶴も入っていた。瑞鶴も開戦以来初めての爆弾を受け、48名の戦死者を出した。こうして真珠湾以来の唯一の生き残り空母となった瑞鶴は、次の海戦に備え呉に帰港、1ヵ月半わたり不沈対策を施した。可燃物の除去、扉、マンホールの減少、対空火器の強化を計り、19年10月、レイテ沖海戦に向かったのである。
 
 瑞鶴は小沢艦隊の旗艦として千歳、瑞鳳、千代田と共に出撃した。この時の瑞鶴はサンゴ海海戦終了後、内地で補充したパイロットを台湾沖海戦とマリアナ沖海戦で失い、裸同然であった。飛行機を持たぬ空母は囮の役目しかなかった。瑞鶴は他の空母と共に、栗田艦隊のレイテ湾突入を助ける為、米艦隊を出来るだけ遠くへおびき出す囮役を演じたのである。10月24日エンガノ岬沖に達した小沢艦隊は基地航空隊と共同で、ハルゼーの北方部隊に攻撃をかけたが戦果は無く80機中ルソン島に帰ったのは20機であった。小沢中将の手許には30機足らずしか残らなかった。
 10月25日8時45分米軍機180機来襲、秋月沈没。9時37分千歳沈没、瑞鶴も後部に雷撃を受け操舵も通信も不能となった為、旗艦は大淀に変更された。午後1時10分第3次攻撃隊200機来襲、1時間以上の猛攻を受け、真珠湾以来幸運に恵まれた武勲艦瑞鶴も7本の魚雷と多数の命中弾を受け、午後2時14分、エンガノ岬沖の海底深く沈んでいった。
 
 
     ※ キット同梱の「シーウェイモデル 日本航空母艦 瑞鶴」組み立て解説書より抜粋
 
 
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