ミノ
ミノ あたしの雄牛 おまえの膝にも届かぬころから あたしはおまえの妹だった 「おまえはだれだ」 青石の太い石柱のかげから、低い声が響いた。 翡翠のいしだたみの上に佇んでいた小さな影が、その声にぱっと振り返った。 振り返ったのは、乳のように白い肌と柔らかそうな肉に覆われた、それはそれは小さな娘。大きな目が、真っ赤に腫れ上がっている。 「だれだ。なぜここにいる」 低く恐ろしげな声は、裳裾のように広がる青紫の壁にぶつかって反響した。 娘は唇を噛み締め、小さな手をぎゅっと握りしめた。 「かあさまが、いなくなっちゃったの」 小さなこぶしで、次々と溢れ出る涙をぐいとぬぐう。 「たのしいところにつれてってくれるっていったのに、いなくなっちゃったの」 娘はそのまましくしくと泣きはじめた。石柱のかげに佇んでいた巨体が、ためらいがちに娘に近づいた。 大きな大きな手が、そっと娘の頭に触れた。 「親に捨てられたのか」 頭の上からかけられる声に、娘は激しく首を振った。小さなこぶしで胸を叩き、はちきれんばかりの悲しみに泣きじゃくりながら。 ふいに、太い腕が娘を抱き上げた。娘はびっくりして身じろごうとしたが、自分を抱き上げた者の顔を見て、ふと大人しくなった。 獣臭い指が、娘の頬を撫でた。 「火遊びの末に産み落とされた、不貞の子か。この世の誰にも歓迎されずに生を受けた、罪の子か」 低い声が、間近で囁いた。娘は訳も分からず、ただきょとんとしていた。この世の汚れを知らぬげな、鮮紅色の無垢の瞳に、見るも恐ろしい異形の姿が映っていた。全身を覆う、黄金色の硬い毛。青く澄んだ両の瞳。 「ならば、俺と同じだ」 人間ならざる者の唇が、かすかに微笑んだ。娘は何も解してはいないようだったが、その笑みに安心して、ようやく泣くのを止めた。 「おまえの名は?」 先ほどよりも優しげな問いかけに、頭を撫でられる感触に、娘はやっとのことで笑顔になった。 「りな」 「リナ」 呼ばれた女は、ゆっくりと振り返った。その顔に、あの時の面影が重なる。しかしその姿は、あの時の泣き虫の娘ではなく、立派な女のそれだった。 すっきりと伸びた手足に、腰まで届くかというつややかな栗色の髪。遠慮がちに膨らみかけた胸、細くくびれた腰。 リナは野苺の汁のついた指をゆっくりと舐め取ってから、無骨な巨体にしなだれかかった。厚い胸板に顔を埋め、岩のような手のひらに、白魚のような自分の手を重ねる。 「ガウリイ」 リナが耳元で囁いた。男は思わず目を閉じた。そして、そのがっしりした腕で、リナを強く抱きしめる。 その名をリナに呼んでもらうのが、男は泣きたくなるほど好きだった。あらん限りの恐れをこめて呼ばれる、「ミノタウロス」という名よりも、ずっと。 「リナ」 呼び返し、リナの耳に熱い舌を忍びこませる。リナがくすぐったそうに身体をよじろうとするのを押さえつけ、なおも貪る。 悪鬼のごとく恐れられ、蛇蝎のごとく忌み嫌われたこの男の、この満たされた表情を、リナ以外は誰も知らないだろう。 男はやさしくやさしく、その肌の上にくちづけを繰り返す。 俺の妹、俺の娘、俺の妻。 今となっては、この世のすべてから厭われても、忘れ去られても構わない。 お前さえいれば、この永劫の迷宮も、まさにこの世の楽園だと思える。 誰にも邪魔されない、二人だけの……。 冷ややかな青い床と壁に四方を囲まれた迷宮の中で、男はリナの身体をまさぐりつづけた。 英雄が金の旗を掲げて七つの海を渡り、迷宮の静寂を打ち破るその時まで。 |
| ギリシャ神話のミノタウロスのお話のパロディ……というか、高橋睦郎さんの詩「ミノ」(冒頭の文章)を元にして作りました。いっぺんやってみたかったんです。文章が荒く、しかも強引ですが、ひなは超満足してます。私の辞書にオチという文字は存在していません。 |