ビースト 3







 再び目を開けたとき、リナはかたい砂利のうえに横たわっていた。
 脚のあいだがやたらとべたべたして鉄臭かったが、すでに体のどこにも痛みはなかった。
 リナはゆっくりと上半身を起こした。
 


 そこに、「それ」はいた。
 目の前で間断なく全身を震わせ、ことばにならぬ羊の鳴き声のような音を発している「それ」は、皮を剥がれた大猿そっくりだった。……大きく、鈍重で、うつろなその顔面。

 頭上の空高く、黒い雲がたなびいて、そこにぽっかりと満月があらわれた。
 「それ」の背後で、揺れ動く川の水面が月の銀色の光を反射して、ちらちらと輝いていた。

 血と体液にまみれた、その赤剥けの肉のかたまりを、リナは食い入るように見つめた。
 ……それは獣にも似ていたし、人間にも似ているように見えた。――いや、とリナは思い直した。それは、獣にも人間にも似ていなかった。
 あえていうなら、「化け物」のように見えた。かつて寝物語に聞かせられた、想像上の恐ろしい生き物。子供たちが幼い頭で夢想する、恐怖と未知の対象としての化け物。
 そして、それは子供が泥粘土をこねて作った稚拙な人形のように、母体から無理矢理引き出された胎児のように、不完全で、不恰好だった。

 リナは口を開けて、笑おうとした。もう少しで大笑いそうになった。
 冗談でしょうこんなの、いたずらにしては性質が悪いわよ、そんなことばが喉元まで出かかった。リナは誰かの肩をたたいて首をすくめてみせたかった。いつものように笑い飛ばして終わりにしてしまいたかった。本当にそうしたかった。
 ……だが、もちろん笑えなかった。
 「それ」は現実に存在して、目の前でせわしなく膝をふるわせ、光のない眼でとりとめなくリナを見返しているのだ。
 そしてこれは、まぎれもなく自分の体のなかから這い出てきたものなのだ……。

 そして、どれくらい時間が経ったのだろうか。




「意外に早産でしたね」

 ふいに、声がした。うなじの毛が総毛だった。
 よく知っている声だった。穏やかでよく通る、かすかな笑いを含んだ声だった。
 リナは後じさり、声もなくその場に立ち尽くした。

(……何てこと……)

 その瞬間、リナはすべてを理解したのだ。一瞬にして、この馬鹿げた顛末のすべてを。まるで頭の中で稲妻が閃いたように。
 あの信じられない、呪わしい夜の出来事と、いままさに目の前でうなり声をあげているこのぶざまな生き物とがかちりと組み合わさり、あのバカみたいな――リナの背後で月の光を遮っているであろう微笑のうえで結びついたのだ。

「……あんたなのね?」

 リナは後ろを振り返りもせずに呟いた。リナの声は激情にふるえ、掠れていた。
「はて。何のことですか?」
「あの晩、あたしに突っ込んだのはあんただったのね?」
 ……沈黙が落ちた。背後で、獣神官がかるく小首をかしげたのがわかった。リナの物言いにすこし驚いているようだった。
「そういう言葉は、あまり感心しませんね。僕は――」
「うるさい。このゲス神官。くそったれのクズ野郎。この――」
 そんな言葉を口にするのは生まれて初めてだった。リナはそんな風に育てられてはいなかった。しかし、子どものころ、決して下品な大人たちの使うような汚い言葉を使っちゃいけませんよと、きつく諭された思い出は胸をかすりもしなかった。
 ……それでも、リナはゆっくりと息を吸い込み、喉の奥でいまにもふくれあがりとめどなく爆発しそうになる、憤怒と怨嗟の叫びを押し殺した。

 ……だめだ。この男の前で、弱みをみせてはいけない。
 決して、激情にかられてはいけない。
 声を荒げるな。怒りであれ悲しみであれ、心につけいる隙を許すな。


 いままさにリナのパニックを期待して、にやにや笑いながら彼女を見つめているだろう男。最上の感情といったところで、せいぜい執拗な好奇心程度しか持ち合わせていない男。
 死んでも、こいつを喜ばせるようなことだけはしたくない。


 しばらくの沈黙の後、背後でゼロスがかるく咳払いをした。
「ちょっとした、実験のつもりだったんです」
「……実験、ね」
「あなたがたの血筋には、何か特別なものがあるみたいだから。上手くいけば、変わった生き物でも作れるかと思って」
 でも、とゼロスは言葉をつづけた。
「これは失敗作ですね。とんだ期待はずれでした」
 リナは再び「それ」に目を移した。
 「それ」は病気の羊さながら、絶え間なく耳障りなうめき声をあげていた。瞳は相変わらずどんよりと濁り、動作は緩慢で無力な獣そのものだった。
 醜い生き物だ、とリナはぼんやり思った。だが、とくに嫌悪は感じなかった。ただ哀れだと思った。何も、こんな女を母親にしてまでこの世に生まれてくることもないだろうに。
 この女は自分のことしか考えていない。だから、あんたなんかをこの世に生かしておきゃしない。
「さて、リナさん」
 ゼロスが砂利を踏みながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「殺さないんですか?」
 リナは凍りついた表情のまま、顔を上げてゼロスを見た。
「僕はこの化け物に用はありません。殺したらいかがですか? 生かしておくのも何かと面倒そうですしね。それとも、この化け物のために人生を棒に振りますか?」
 ゼロスもまたリナを見返した。リナは平坦な目で何度か瞬きをすると、すぐに目をそらした。

「……あたしは産んだわ。今度はあんたの番よ。あんたが殺して」

 リナはかすかにひきつったような笑みをうかべた。
「そうしたら、今日のところはあんたを生かしといてあげてもいいわ」
「……それはそれは。なんとも慈悲深いお言葉で」
 ゼロスは呟きながら、手に持っていた錫杖を振り上げた。
 月の光に、ぎらりと艶かしくその宝玉が輝いた。
 本能的に何かを察したのだろうか、「それ」が、目の前の赤剥けの肉塊が、ぎゅううううぅ、と高く鳴いた。


 そのとき、「それ」の四肢のひとつ(たぶん、手だろう)がゆっくりと動いて、助けを求めるようにリナへと伸ばされた。心細げな、弱々しい動作だった。

 そして、「それ」がリナを見た。ほんとうに見た。
 「それ」は泣いているように見えた。リナに助けを求めていた。



 リナは顔をそむけた。







つづく?

ゴム脳市場に戻る