春にして君を離れ
『姉ちゃん、お元気ですか? 以前に手紙を出してからずいぶんたつけれど、返事が来ないので、もう一度お便りします。 あたしは相変わらず、地の果てみたいな田舎の片隅で、ひっそりとおとなしくしています。お医者さまがいうには、あたしみたいな患者は、こういう静かなところで療養するのが一番なんですって。 そのせいかどうかわからないけど、この頃は、寝たきりからちょっとは回復して、結構まともに動けるようになりました。でも、まだ腰がひどく痛むので、走ったりとか、あんまり激しく動くことはできません。』 リナはそこで羽根ペンを持つ手を止め、文章を読み返した。それからまた書き始めた。 『あたしの相棒はいま仕事に出かけています。あたしがこんなことになってしまう前までは、まさか彼に養ってもらう日がくるなんて、考えもしませんでした。でも彼はいつもすごくきちんとした身なりをして出かけていって、朝から晩まで働いて、しっかり稼いできます。この間は近衛騎士団のえらい人から立派な馬を一頭もらったそうです。あたしには、あの彼がいっぱしの武術教官をやっているということさえ、まだよく呑み込めないのですが……。 とにかく彼の予想外の健闘のおかげで、あたしたちはこぢんまりした屋敷を借りて、彼のいない間にあたしの世話をしてくれるお手伝いさん(ヴァーニャという気の良いおばあさんです、前回の手紙にも書いたと思うけど)を雇って、(あたしの体のことを除けば)毎日つつがなく暮らしています。』 羽根ペンの動きがそこで止まった。リナは再びそれまでの文章を読み返し、しばらく考え込んだ。 「……でも、あたしは帰りたい」 『だけど、あたしはこんな人里離れた山奥で冬を越すのが、憂鬱でたまりません。早く元気になって、ゼフィーリアに帰りたいです。母ちゃんの作ってくれるライ麦パンと、オリーブの漬け物が恋しいです。父ちゃんと姉ちゃんに会いたいです。』 「会いたい」と素直に書くのは気恥ずかしかったが、リナの正直な気持ちだった。リナはそのまま文章をつづけた。 『春になるまでは帰れないけれど、あたしのことは心配しないでください。父ちゃんと母ちゃんにも、リナは元気でいると伝えてください。それから、どうか返事を寄越してください。待っています。』 夜更けすぎに、扉の蝶番が軋む音でリナは目をさました。 扉を開けて部屋のなかに入ってきた人影が、ゆっくりとリナのベッドに近づいてくる。 「……ガウリイ?」 シーツから伸ばされた細い手を、その影は両手ですくい上げた。 「ただいま。リナ」 ガウリイはリナの手の甲にうやうやしくくちづけると、彼女の前髪をかきあげて額にもくちづけを寄越した。 そのままゆっくりと、大きな体がリナの横にすべりこんでくる。太い腕が彼女の体をかき抱いたかと思うと、ぎゅうときつく抱きしめられた。いつもの挨拶。いつもの行動。 「今日もいい子にしていたか?」 こめかみに唇をつけるようにしてささやかれる、いつもの問い。 「ん、まあね」 それっきり、リナは黙っていた。唐突に落ちた沈黙に、ガウリイが怪訝そうに腕を解いた。 「……リナ、どうした? 何かあったのか?」 いつになく口数の少ないリナに、ガウリイが心配そうに顔を覗き込んできた。リナはその顔を見つめた。 動けなくなったリナを、風にも当たらないようにと大事にしてくれる男。どんなに帰りが遅くなっても、毎朝リナの起きる頃には彼女のためにパンケーキを焼いている男。 リナはしばらくためらってから、口を開いた。 「あのさ……やっぱり、無理してでも、ゼフィーリアに帰るわけにはいかないかな……?」 ガウリイは眉間に皺を寄せて、リナを見つめた。 「ゼフィーリアに? 無茶を言うなよ。こんな体で、無事に帰れるわけないだろう。ここからゼフィーリアまでどれくらい離れていると思ってるんだ?」 「そっか。やっぱりそうだよねえ……」 あからさまに落胆した様子のリナに、ガウリイはあわてて表情をやわらげた。 「リナ、一体どうしたんだ? 今まで一度もそんなこと言わなかったのに、いきなりゼフィーリアに帰りたいだなんて。……何か、いまの生活に不満でもあるのか? ヴァーニャさんが気に入らないか?」 「……いや、そうじゃないけど。でも、ここの冬は厳しいっていうし。それに、あたしは何もできないのに、あんたがこんな遅くまで働いてるって思うと、なんか……」 「――リナ。そのことは前にも一度話し合ったはずだろ」 ガウリイは上半身を起こすと、あお向けになっているリナの上に覆い被さった。その顔には、たじろぐほど真剣な表情が浮かんでいた。 「……俺は、お前さんが可愛い。世界中の誰よりも。お前を失うなんて考えられない。そのためだったら、何でもしてやる。これぐらい全然どうってことない」 低く、真剣な声だった。頭がゆっくりと下がってきて、ガウリイの唇がリナの額の生え際に落ちた。 「だから、リナは何も心配しないで、ここにいればいいんだ。わかったか?」 「……ん」 リナがほとんど気圧されるようにしてちいさく肩をすくめた。戸惑いがちにではあるがこくりと頷くと、ガウリイは満足げに彼女を抱きしめた。 「いい子だ」 その厚い胸に埋もれながら、リナはふと思い出したようにガウリイを見上げた。 「そうだガウリイ、お願いがあるの。新しいお医者さまを探して」 「……医者? 医者なら毎週診てもらっているだろう?」 「あの人じゃあ埒があかないわ。通り一遍の診察をして、効きもしない薬湯を飲まされるだけなんだもん。あたしは早く動けるようになりたい。ねえ、もっと専門のお医者さまはいないの?」 「……そうだなあ。わかった。探してみるよ」 ガウリイはやさしく微笑んで、リナの頭を撫でた。 だが、その月が終わり、翌月になっても、新しい医者はやってこなかった。 「あの、ヴァーニャさん」 「はいはい、奥様」 体格の良い初老の女が、リナの声に振り返った。リナのことを奥様と呼んで譲らないが、その点をのぞけば、人柄も明るく、なかなか有能なお手伝いさんである。 「半月前、あたしが姉に宛てた手紙なんですけど、あれ、ちゃんとゼフィーリアへの使者に渡してくれました?」 リナはヴァーニャの顔を見つめた。一瞬、ヴァーニャの顔に何か不思議な、複雑な表情がちらついたような気がした。 「ええ奥様、あたしはちゃんと渡しましたよ。間違いありません」 「そう……」 うつむくリナの横顔を、ヴァーニャはちらりと眺めた。 「お姉さまから返事が来ないんですか?」 「ええ。……どうしたのかな。もしかしたら、あたしが長いこと連絡をよこさなかったから、すごく怒ってるのかも……」 「たよりがないのは良いたよりと言うじゃありませんか、奥様」 ヴァーニャはやさしくリナの肩を抱いた。 「ひょっとしたら、何かの事情で、ゼフィーリアからはなかなか使者が出せないのかもしれませんよ。だいじょうぶ、お姉さまは奥様のことを怒っちゃいませんよ。そうですとも、こんなに可愛い奥様を誰が怒りますかね?」 背中を撫でさすられ、慰められても、リナの心はあまり晴れなかった。 「ガウリイ!」 ある夜、玄関ホールでガウリイを出迎えたリナを、彼は驚いた顔で見つめた。 「リナ! 一体どうしたんだ?」 「自分で歩いてきたのよ。すごいでしょう!? ねえ、あたしの体、少しずつ良くなっているみたい。もう階段の上り下りだってできるのよ。この調子なら、きっと来年の春ぐらいにはまた旅に出られるようになるわ」 初めて逆上がりができた子どものように得意げなリナを、ガウリイは黙って見つめていた。 「……リナ。よく聞け。ひとりでそんな危ないことをしちゃ駄目だ。お前はまだ良くなっていないんだから、部屋でじっとしてなきゃ」 「え……?」 リナは驚いてガウリイを見上げた。てっきり一緒になって喜んでくれるとばかり思っていた相棒の顔は、何故か厳しくこわばっていた。 「さあ、わかったら部屋に戻ってベッドに入るんだ。ヴァーニャさん、リナを部屋に連れて行って」 「ガウリイ、でも、あたし……」 呆然と立ち尽くすリナを、ヴァーニャが引きずるように部屋まで連れて行った。 リナは何か言おうとしてガウリイを振り返ったが、彼はただ苦々しい表情で彼女を見つめているだけだった。 つづく |