春にして君を離れ





「リナ、まだ起きてるか?」
「ガウ……」
 その夜、いつも通りガウリイはリナの部屋にやってきた。ベッドの端に腰掛け、何事もなかったかのようにリナに笑いかけた。
「体はなんともないか?」
「うん、べつに……」
「さっきは悪かったな、急に怒ったりして。お前があんなところで、松葉杖もなしに立ってたから、びっくりしちまったんだ。お前のことが心配だったんだ」
(……心配? あれが?)
 心の隅に湧き上がってきた疑問符を、リナは無理に押し殺した。
「……うん、わかってるわ。気にしないで」
 ぎこちなく微笑んでみせたリナの頭を、ガウリイはぐりぐりと撫でた。
「でも、あんな風にひとりで歩きまわるのは良くないぞ。もし、オレもヴァーニャさんもいないときに、階段で転んだり怪我をしたりしたらどうするんだ?」
「だからってベッドで寝たきりじゃ、いつまでたっても動けるようになれないわ。だいたいガウリイが新しいお医者さまを見つけてくれないから……」
「新しい医者?」
「そうよ。ちゃんとした専門のお医者さま。ねえ、ちゃんと探してくれてるの?」
 ガウリイはしばらくリナを見つめていた。その瞳には奇妙に平坦な光が宿っていた。
「……リナ。ここにはそんな医者なんかいないよ。こんな田舎にいるはずないだろう?」
「…………え?」
 思わず目を見開いてガウリイを凝視するリナに向かって、彼はにっこりと微笑んだ。
「でも、いつも診てもらってる医者でじゅうぶんだろう? あの先生はよくやってくれているよ」
「えっ、ちょっ、ちょっと、待ってよ。だってあんた、ちゃんと言ったじゃない、あのとき。新しいお医者さまを探してくれるって……」
 うろたえるリナを、ガウリイはやさしい微笑みを浮かべて見下ろした。
「あのときは言うのを忘れてたんだ」
「……そ、そんな……」
「でも、あの先生はいい先生だ。そうだろ? あの人にまかせよう。な、リナ」
 ガウリイはなだめるような口調でリナの顔を覗き込んだ。
 リナは呆然とその顔を見上げた。不思議に陰影のない笑みがその顔じゅうに広がっていた。






『姉ちゃんに手紙を書くのは、これで何度目でしょうか。あたしの手紙はちゃんと姉ちゃんのもとに届いているのでしょうか。姉ちゃんはほんとうにあたしの手紙を読んでくれているのでしょうか。

 こっちではそろそろ雪が降り始める季節です。ここの冬はとても長くて厳しいと聞いています。冬の間は、旅人も行商人もやってきません。雪があまりに深すぎるからです。ここの人たちは、冬の間はほとんど外に出ずに、家のなかに篭って過ごすのだそうです。

 姉ちゃん、あたしにはいろんなことがよくわからなくなってきました。
 冬がくるのがこわい。
 雪が積もる前に、どうか返事をください。もしこの手紙がちゃんとそっちに着いているとしたら。』






「……ヴァーニャさんが?」
「ああ。冬の間はなかなかこっちに来てもらうってわけにはいかないからな、休みをとってもらうことにした」
 目の前の暖炉に薪をくべながら、ガウリイがうなずいた。せわしなく踊るオレンジの光が、壁にふたりのシルエットを浮かび上がらせる。
「……ほかのお手伝いさんは?」
「心配いらない。オレもしばらく休暇をもらうことにしたんだ。冬の間は、オレがお前の面倒をみるよ」
 リナはそこで口をつぐんだ。だが、再び何か言おうとして口を開いた。
「――でも、そんなこと……」
「かまわないさ。どうせ雪の積もる二ヶ月間は何もやることなんてない。みんな家の中に篭りっきりだ」
 ガウリイはそこで言葉を切り、リナを振り返った。つるりとした深みのない目だった。彼は薄く笑った。
「しばらくは二人っきりだな」
「…………そうね」
 リナはこわばりそうになる顔を抑え、何とか笑みのかたちに唇を吊り上げてみせた。ガウリイも微笑み返し、その腕がリナを抱き寄せようと伸びてきた。
 反射的にそれを避けようとして、リナは体をよじった。その拍子に、後ろにあった椅子の脚にリナの頭がもろにぶつかった。
「あいたっ……」
「ああ、ほら、ヘンな姿勢のまま動こうとするからだよ」
 ガウリイは笑いながら、リナの体を抱えあげた。くすくすと喉の奥で笑いつつ、腕のなかの小さな頭にひとしきり頬擦りをし。――ふと、その顔から笑みが消えた。
「……お前は無理に動く必要なんてないんだよ、リナ」
 頭のうえから低くささやかれる声。リナはゆっくりとガウリイを見上げた。
「全部オレにまかせて、ここでじっとしてればいい。オレがなんだってしてやるから。外に出る必要なんてない。お前はずっとここにいればいいんだ」
 リナは言葉を失ったままガウリイを見つめていた。
「……冗談よね、ガウリイ……?」
 その言葉に、ガウリイは応えなかった。






『姉ちゃん、あたしはこれまでずっと、あたしとガウリイはいいコンビだと思っていました。100%とまではいかないかもしれないけれど、お互いによく理解しあっているし、とても信頼しあっていると思っていました。

でも最近あたしは彼のことを何も知らないんじゃないかと

 もちろんあたしは、彼がいつもあたしに良くしてくれる、こうなってからもずっとあたしをかばってくれてたし、そこに嘘はないことを知っています。

 でも何かが以前とは決定的に違うんです。彼も変わったし、あたしの気持ちも変わりました。あたしはもう昔のようには彼のことを信じていません。

 リナはペンを持つ手を止めた。そして、便箋をぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに放り込んだ。






 しんと冷え込んだ真夜中に、リナは目を覚ました。いつもの医者のいつも通りの診察を終えた後、寝入ってしまったらしい。
 水を飲もうとして水差しに手を伸ばしかけたとき、どこかから話し声が聞こえてくるのに気がついた。
 ガウリイと、……相手は女の声ではない。聞こえてくる声は二人とも男のものだ。
(こんな時間に、お客様かしら……?)
 リナは動きなれない体を何とか動かして、静かに部屋のドアまで近づいていった。リナはドアを開けた。
「……奥様の体は……」
 階下から、ぼつぼつと聞こえてくる声。それは、いつもの医者のものだった。いつもと違って、秘密をささやくように低く、真剣な響きの声だった。
「……専門的な治療が……」
「……より適切な処置を……」
「……することが望ましいと……」
「……が、ずっと……のままでもいいんですか?」
 途切れ途切れに聞こえてくるその内容に、リナは身をこわばらせた。
(何を話してるの? あたしのこと?)
「オレは、……と言ったはずだぞ」
 怒ったようなガウリイの声が聞こえてくる。にべもなくはねつけるような響きに、医者の言葉が途切れた。
「しかし、このままでは……」
「……のことはオレが決める。話は終わりだ」
 どすどすと乱暴な足音が近づいてきて、リナは思わず部屋の中に身を隠した。
 階段を下りたすぐそこの玄関ホールで、乱暴にドアを開ける音。
「さあ、帰ってくれ」
 冷え冷えとしたガウリイの声。力ない足音が、その声につづく。
「……わかりました。ですが、もし気が変わったら、わたしの診療所に来……」
 ばたん、と荒々しくドアを閉める音が響きわたり、後には静寂だけが残った。
(…………)
 そしてリナは、おさまる気配のない激しい動悸を抱えながら、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
(……どうしてなの……?)






『今までありがとう。さようなら』


 リナはカードをそっと机のうえに置いた。何度も書き直したわりにはそっけない文章だったが、これでいいと思った。もっとほかに言いたいこともあったのだけど。
「ごめんなさい」「捜さないで下さい」「あたしは自分の体を治したい」「あなたが大好きだった」「どうして嘘をついたの?」
 それでも、ほかのカードはすべて細かくちぎってくずかごに捨てた。
 昼も夜も着ていた病人用の寝巻きは、きれいにたたんでベッドのうえに置いた。
 リナはきっちりと防寒具を身に付けると、松葉杖を使ってゆっくりと立ち上がった。


 馬小屋まで辿り着くのは大変な骨だった。玄関から外へ出て、身を切るような寒さに凍えながら屋敷をぐるっと一回りしなければならなかった。しかし、リナは何度もバランスを崩して転倒しかけながらも、獣の匂いでむっとする馬小屋の中に入っていった。
 小屋の奥にいる栗毛の馬が、機敏に首を上げてリナを見つめた。立派な馬だった。リナは人差し指をたてて、その馬に微笑みかけた。
「しいっ。いい子にしてて」
 リナはゆっくりと馬に近づいた。
「お願いだから、あたしの言うことを聞いて。あたしを町まで連れて行って。あんたの助けが必要なの」
 馬は黒目がちの瞳でリナを見つめてから、かすかに鼻を鳴らした。リナはそっとその首を撫でた。
「いい子ね……あたしを助けてね」
 軋む体を叱咤し、鐙に足をかけようとしたとき。
 いつのまにか、すぐ後ろ、小屋の入り口に佇んでいた影に目をとめて、リナは凍りついた。リナはゆっくりと顔を上げた。
 仕事に行っていたはずだった。屋敷にはいないはずだった。しかし、そこに男は立っていた。屈託のない微笑を浮かべ、片手に、まだインクの乾ききっていないカードを持って。

「リナ、どこへ行くんだ?」

 ガウリイは笑った。明るい笑みだった。
 笑いながら、ゆっくりと、長い指を折って、そのカードを握りつぶした。小さな音をたてて、ガウリイの拳の中に小さなカードが呑み込まれていった。
 ガウリイは悪戯っぽい顔でリナを見た。そして、まるで手品師がよくやるように拳を優雅に開いてみせた。
 握りつぶされ、ぐしゃぐしゃになった紙片が、あっけなく地面に落ちるのを、リナはぴくりとも動けずに凝視していた。
 ガウリイは口を開いた。
「どこにも行かせない。一生、ここから出したりしない」
 太い腕が、蛇のようにゆったりとした動きで、女をつかまえた。女の頭のうえで、唇が赤く禍々しく裂けた。
「お前は、未来永劫、オレのものだ」

 鉛色の空から、静かに雪が降り始めていた。











『姉ちゃん お元気ですか

 あたしと ガウリイは 二人で 仲良く 幸せに くらしています 

 はやく たすけに きて ください』





 ガウリイは便箋の文字にさっと目を走らせると、封筒と一緒にそれを暖炉の中に放り込んだ。
 炎の舌があっというまに白い便箋を舐めつくし、焼き焦がしていく。
 それを見届けると、彼はきびすを返し、軽い足取りで階段を昇っていった。

 彼だけの少女がいる寝室へ、鼻歌を歌いながら。








おわり

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