将軍とその愛人
奴隷女のリナが野営地エル・タカに来てから一月が過ぎた。 その一月というもの、ガウリイのテントは混乱をきわめていた。 最初の二週間というもの、リナは隙さえあれば馬倉から馬を盗んで故郷に逃げ帰ろうとし、夜になればガウリイの顔に見事な青あざとひっかき傷を作り、食べ物がまずいテントが臭いと言っては従者に当り散らし、気に入らない男がいようものなら容赦なく靴のかかとでくるぶしを蹴り上げた。 あちこちで男たちと衝突を起こし噛みついていく傍若無人ぶりに、 「将軍は女ではなく野犬を拾ってきた」 と陰口を叩かれたのも、無理からぬことだった。 「ガウリイ殿」 形式ばかりの会議の終わったあとに、老将軍が声をかけてきた。 「昼過ぎに、お宅のお姫様が兵士に頬びんたを二発くらわせたそうですが、ご存知ですかな」 淡々と告げる老将軍の顔を、ガウリイはしばらく眺めていた。 それから、溜息をついて天を仰いだ。 「……ああ、またか……」 リナが騒ぎを起こすたびに、出向いては謝りたおすのがここのところの彼の日課だった。 老将軍はようやく青あざが薄れ始めたその横顔を気の毒そうに眺めていた。 勇猛果敢で知られる輝かしいこの国の英雄が、どうしたことか、たかが小娘ひとりに振り回されて消耗しているさまは哀れでさえあった。 「ここのところ結構おとなしくしていたから、もう大丈夫だろうと高をくくっていたんですが……」 ガウリイは肩を落とした。老将軍は慰めるように言った。 「女は難しいですからな」 「はあ……しかし、実のところ、あんなに気性が激しいとは思わなくて……ちょっと俺には抑えられそうにないんです」 「かといって、みちばたに放り出すわけにもいきませんしな。……どうでしょう、一財産もたせて親戚の家にでも送り返しては」 ガウリイは顔を上げて老将軍を見た。 「将軍の女が好き勝手をしているということで、男たちも面白く思っていないようだ。ここに留まらせるのは、お姫様にとってもうちの男たちにとっても良くないと思われますが」 「…………」 ガウリイはもう一度溜息をついて、こめかみをぐりぐりと撫でた。 テントから出ると、すぐさま出口で控えていた従者が、いつになく真剣な面持ちで口を開いた。 「……旦那さま、まさか本当にあの方を送り返すわけではありませんよね」 痩せて陰気な顔をしたこの従者は、この一月の間、実によくリナに仕えていた。 いちばん身近でリナの被害を受けているのはこの男だろうに、ガウリイの言いつけをよく守っている。 彼女の身のまわりの世話をし、当り散らされても辛抱強く耐え、トラブルを起こすたびに彼女に代わって頭を下げ、熱心に男たちから庇いだてをしてきた。 「そんなつもりはないが、しかし……」 ガウリイはめずらしく言葉を濁した。 「リナを見てみろよ。ぜんぜん俺になつきやしない。俺のことも俺の仲間のことも嫌ってるし、ここから逃げ出したがっている。どうしたらいいのか俺にはわからん」 「……しかし、親戚とはいえ、あの方が捕らえられたときに、助けようともしなかった程度の親戚です。この戦時に、あの方をあたたかく迎え入れてくれるわけがありません。どうか、あの方を裸で放り出すような、むごいことをなさらないでください」 「……お前」 ガウリイは驚いて、従者を見つめ返した。 この従者がこんなにも真剣にものを言うのを初めて聞いたのだ。 「……失礼します」 従者は顔を伏せると、背を丸めてテントへと戻っていった。 ガウリイはしばらく虚をつかれてその背を眺めていた。 どうやらリナは、自分でも知らないうちに、周りの人間たちの不思議なオブセッションの対象となっているようだった。 従者が鹿の毛で飾られたテントに近づくと、 「ちょっと、どこ行ってたの? 遅かったわよ。あたしお腹すいたんだから」 テントの隙間から、リナがひょっこりと顔を出して従者を急かした。 「申し訳ありません。旦那さまとお話がありまして」 リナが従者の肩ごしにガウリイを見た。 ガウリイもリナを見返した。 ――だが、それもほんの一瞬だった。 「……あんなのの話なんか聞くことないわよ。さ、早くして」 リナはすぐにそっぽを向いて、テントの中に引っ込んでしまった。 ガウリイはうなだれ、今日で何十回目かの溜息をついた。 夜も更けてぐっと気温の下がったころ、寝息でぬくもったテントに大きな影が入ってきた。 それでも、幾重にも毛布にくるまった小さなかたまりは身じろぎもしない。 ガウリイは慎重にその枕もとに腰を下ろした。 いちど不用意に起こして思いっきり手に噛みつかれてからは、起こさないように添い寝するのが、寝る前の彼の習慣になっていた。 彼は静かにリナの前髪をかきあげた。 リナの寝顔は可愛かった。 頬はふっくらとして柔らかく、唇は赤ん坊のごとく丸く、天使の瞳を覆う瞼は長い睫毛に縁取られていた。 こうしてリナの寝顔を見、そのいかにも壊れやすそうな曲線を愛でながら、どうしてこの世にこんなに可愛い生き物が存在しているのだろうかと、彼はこの一月、学のない頭でよく考えていた。 女というものがこんなにも滑らかな肌を持ち、小枝のように細い指をして、銀色の輝く爪と見事な赤い唇を持っているのが、彼には奇跡のように思えてならなかった。 軍人の家に生まれたガウリイは、青年の頃から戦陣の暮らしが長く、女との深い恋情は無きに等しかった。 ――俺の一生には、春がない。 それが、勇壮なる英雄、戦場の守護神、恐れるものなき戦ぶりで知られたガウリイの、人に知られざる恨みだった。 ガウリイはしばらく息をひそめて、リナの寝息に耳を澄ましていた。 くちごたえしても鞭打たれず、自由に歩き回れる居場所と。 まともな服と、きちんとした食事と、あたたかい寝床と。 働きものの従順な従者を与えているのに。 いったいどうしたらリナが彼を好いてくれるのか、せめて嫌わないでくれるのか、彼には見当もつかなかった。 ガウリイはそうやって長いこと、リナの寝顔を見つめていた。 |