化蝶






「旦那様がお渡りになるそうです」

 ガウリイがそれを聞いたのは、その日の夕刻のことだった。
 数えて一年半ぶりの訪問といっていい。
「なぜ」
「後継ぎご誕生のお報せをなさるためではないでしょうか」
 淡々と答えたのは、リナ子飼いの側女である。美しいうえに非常な才女だが、顔の筋肉がないのではないかと思えるほど、表情に乏しい。
「そんなの、もう誰でも知っているじゃないか」
 十日ほど前、側室がめでたく男子を出産したことは、この家の小間使いにいたるまで誰でも知っている。
 正室のリナにはいつまでたっても子ができなかったが、側室のリンはこの家に来て四月で孕んだ。しかも待望の男子を産んだ。以来、この家でのリナの存在感はますます薄くなるばかりである。
「いまさら、何の用もないくせに。どうして……」
「およしなさい」
 側女はぴしゃりと言い放った。
「われらが詮索することではありませぬ」
 地団駄踏まんばかりのガウリイに対し、側女は仮面のような無表情を崩さぬままつづけた。
「ともあれ、今夜はわたくしが寝所に控えますゆえ、くれぐれも近づかぬよう」



 夫がリナの寝所にやってきたのは、まだ完全に夜も更けきらぬうちだった。
「お久しゅうございます」
 リナは深々と一礼して、久方ぶりに夫の顔を見た。
 もともと線の細い男だったが、いまは顔色が悪く、さらに弱々しくみえる。
(……こんな人だっただろうか)
 とリナは胸のうちで首をかしげた。
 夫が来ると知って、あれだけ騒いだ胸のうちが、いざその顔を目にすると不思議なほど静まっている。
「酒はあるか」
「ただいま用意いたします」
 リナに代わって応えたのは、例の側女だった。早々に酒器と盃をのせた盆が運ばれてきた。
 夫は紫檀の椅子に腰掛けるなり、唐突に口を開いた。
「男子が生まれた」
「存じ上げております。おめでとうございます」
 リナは酒器をとりあげ、夫の盃に酒を注いだ。
「それだけではない」
 夫は沈毅な表情で朱塗りの小さな盃を見つめている。そして、ぽつりと言った。
「東方が騒いでおる」
 東方の豪族が手を組んで乱を起こしたという話は、リナも聞いていた。その軍隊はますますふくれあがり、皇帝が辺境に置いた軍を破り、そのまま都へ攻めのぼる勢いだという。
「天下を乱す輩ども、この命にかえても討ち取らねばならぬ。わたしは、皇帝の御為に、戦いに馳せ参じようと思う」
 リナは、顔を上げた。夫はリナを見返した。
「ついては、そなたを皇帝の御許に預ける」
「…………」 
 戦乱の時代においては、たとえ主従といえども、ことばの上の契約など何の力ももたない。ゆえに、上の者はしばしば下の者に対して、その妻子を差し出すことをもとめる。人質である。
「異存はあるか」
「いえ」
 そうか、と夫はだまって盃を飲み干した。
「用向きはそれだけだ。わたしは一足先に都に行かねばならぬ。そなたも支度次第、早々についてこられよ」
 それだけ言い捨てると、すたすたと寝所を去っていってしまった。
 リナはしばらく、開け放たれたままの寝所の扉を唖然と見つめていた。
「……人質、か」
 夫にしてみれば、子のひとつも産めぬ女の使い道など、それしかないのかもしれない。
 とはいえ、もはや怒る気もおこらなかった。
 いまさらそうするには、リナはあまりにも、屈辱をうけることに慣れすぎていた。もっと前に、怒るべきことがたくさんあったような気がした。
 外では、さわさわと風が木々を揺らしていた。庭のどこかから、鈴虫の声音が聞こえてきた。
(……でも、これでいいのかもしれない)
 リナは、心のどこかで、ほっとしている自分に気がついた。
 ともあれ、これで、名家の血筋と正妻という立場だけを心のささえに、婚家の白い目に耐える日々は、終わりを告げるのだ。
 そろそろ、あの愛しい金色の獣も、自由にしてやるべきかもしれない。
 リナは顔をあげた。
「ミリーナ。聞いていたとおりよ」
 リナは控えの間で聞いているだろう側女にむかって、声を張り上げた。
「支度をするわよ。ラオシェを呼んでちょうだい」



 リナがわずかな供を連れて屋敷から去り、都に近い親類の家へと向かったあと、ラオシェがリナの屋敷と家来衆の後始末を行っていた。
 ラオシェはリナの命にしたがって屋敷の始末をし、台所関係の小払いにいたるまでの負債を清算させ、さらに、地雇いの小者などに金をあたえて解雇した。
「お前は、どうする」
 問われて、ガウリイは驚いた。
「どうするとは、どういうことで?」
「郷里に帰るのか、ということだ」
「郷里など、自分にはありませぬ。奥方様から何か、俺のことについて指図をうけていらっしゃるのではありませぬか」
「ふむ」
 とラオシェは鼻を鳴らした。じつは指図をうけている。
 リナの思うところは、都にのぼれば、戦乱に巻き込まれるか、財を失い路頭に迷うか、どちらにせよ、もはや安穏な将来をもつことはできない。ガウリイのようにまださきのながい者に、万一の悲運はみせたくない、ということであった。
 リナはそれを自分からは切り出せず、ラオシェの口から伝えてもらうように言いふくめておいた。
 だが、ラオシェは感傷的なことにはいっさい触れず(この老人は生来こういうところがあるのだが)事務的な用だけを伝えた。
「奥方様が、お前の新しい奉公先を探してくださった。そちらに紹介しよう」
(俺は置いていかれたのか)
 ガウリイは内心愕然としたが、黙っていた。
「俺が、参ってはなりませぬか」
「ならぬということはない」
「されば、俺は奥方様の参られるところはどこであろうとお供をいたします」
 といって、リナのあとを追い、旧屋敷を出、ひとりでここまでやってきたのである。徒歩でまるまる三日歩き、たどりついた頃には日はとうに更け、すでに行燈に灯が入っていた。
 埃をかぶったままの姿で門をくぐり、ガウリイは例の側女に案内されて客用の寝所に通された。
 寝所は狭く、くらかった。ガウリイは声を張り上げた。
「奥方様」
 その声に、寝台のうえの人影が跳ね上がった。
「誰。――ガウリイ?」 
「はい」
 リナは寝台から飛び降りて、ガウリイに駆け寄った。
「こんなところまで。一体どうしたの?」
 目を丸くしてみつめるその所作がいかにも無防備で、高貴な人の妻とも思えない。大人になりきっていないのではないか、と思わせるこどもっぽさがある。
「奥方様」
 ガウリイは、平素に似ず、声がするどくなった。
 リナはおどろき、
「何?」
 と目を見張った。
「奥方様は、ひとの心など、何ともお思いになられないのか。俺は、あなたを恨んでいる」
 思わず恨み言が、口をついて出た。
「何のことか、わからないわ」
 そこまでいわれてもリナは気もつかない。事実、リナには、彼女がラオシェに言いふくめたことが、どれほどガウリイの心を傷つけるのか、天性、わからぬようにできているらしかった。
「まるで地雇いの奉公人に暇を出すように、勝手にしろ、とばかりにひとを放り出すなされようが、あまりにむごいと申し上げているのです」
 リナは、ああそれね、と小さくつぶやいた。
 そして、ふいに姿勢をただして真顔でガウリイをみつめた。
「ガウリイ、それはあんたの勘違いよ。あたしだって、本当はあんたを連れて行きたい。いつだっていっしょにいたい。でも、わかるでしょう、このまま都に行って、戦乱に巻き込まれたらどんなことになるか」
 リナはしずかに言った。
「あたしはあんたの身の上、行く末を考えたうえで、ラオシェに言いふくめておいたのよ」
 ガウリイは頷いた。リナが理に理を詰めてガウリイの身の上を考えてくれたであろうことは、彼にもよくわかっている。
「それは、わかっています」
「じゃあ――」
「しかし、それほどの憐れみをかけてくださるなら、なぜ、自らそう言ってくださらぬのですか。いや、なぜその前に、自分とともに死ねと、地獄の底まで供をしろと言ってくださらぬのですか」
 ガウリイの声は震えていた。
 リナは黙ったまま、ガウリイをみつめていた。
 やがて物静かに口を開いた。表情は真剣そのものだった。
「死ぬわよ。それでもいいの」
 ガウリイもまた、真剣な面持ちで頷いた。
 リナはふいに細い腕をのばすと、こどものような必死さでガウリイの太い首にかじりついた。
「死ぬまで、死ぬまであたしのそばにいるわね?」
「はい」
「ぜったいに離れないと約束するわね?」
「はい」
「後悔しないわね?」
「はい、リナ様……」
 ガウリイは深く頷いて、その胸に主人のからだを掻き入れた。

 次室で、リナの忠実な側女がそっとその場を離れ、主人とその愛人のために、手燭の火を吹き消した。






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