「……ガウリイ様?」
明くる日の夕刻、家紋と獅子の唐木細工がついている広間を横切ろうとしたとき、軽やかな美しい声が彼を呼び止めた。
ガウリイは振り返った。そこに、目の覚めるようなエメラルドのドレスを着たシルフィールが立っていた。
シルフィールだけでなく、四、五人の、これまた美しい侍女たちが一緒だった。彼女たちは流行の色鮮やかなショールを手に、興奮と好奇心をおさえきれないような調子で、さざめき笑いながら彼とシルフィールをちらちらと見比べている。
「…………」
ガウリイは、内心げんなりする気持ちを表情に出さないだけで精一杯だった。
「……これは、シルフィール殿。ここで、何をなさっているんですか?」
シルフィールは優雅に微笑んだ。
「婚礼用の衣装と、親戚からいただいたお祝いの品を見ていますの。みんな、素晴らしい贈り物ですわ。国王陛下からもいただきましたわ。とても素敵な品々ですのよ。ほら、ご覧下さいな」
ガウリイは黙って、それらの品々と、はしゃぎながら次々とそれを見せてくれるシルフィールを眺めていた。
どれもこれも、高価で美しい品々ばかりだった。
銀狐の毛皮、黒真珠、練絹の組紐、白じゅすとルビーの細い玉茎の花束、東方風の意匠の施された絨毯、銀の食器、黒百合の刻印。
あの、細い蝋燭の火だけが照らす、じめじめした地下牢と、そこに裸足で繋がれ、逃げ出すことの叶わぬ哀れな少女とは、まるで別世界だった。
「こちらが婚礼用の衣装ですのよ」
シルフィールが大事そうに広げて見せたのは、目にも眩しい、深い緋の衣装。
ベルベットの布地に金糸が文様を描き、襟元にはやわらかい兎の毛皮があしらわれている。
「…………」
「ガウリイ様? どうかなさいまして?」
「……いや、その、婚礼用の衣装というのは、ふつう白ではないのですか?」
シルフィールは一瞬きょとんとしたが、次の瞬間、ころころと笑い出した。
春の園遊会で、老司祭の口から品の良い冗談を聞いたときのような、優雅な笑い方だった。きっと、マナー教室だったら即座に満点をもらえただろう。
だが、それだけだった。
それは、彼の左胸の最も柔らかな部分をそっと押し開き、甘く触れてくるあの微笑とは、まるっきり似ても似つかなかった。
「もちろん、宣誓のときの衣装は白ですわ、ガウリイ様」
シルフィールはくすくす笑いながら言った。侍女たちもまた、可笑しそうに笑い、お互いの肘を突っつきあいながら続けた。
「殿下、宴は何日も続きますのよ。だというのに、花嫁が着たきり雀じゃいられませんわ。このドレスのほかにも、金やら青やら紫やら、いろんな色のドレスを用意しておりますのよ」
ガウリイは黙っていた。
「ご覧になりますか? 東方の蚕の繭を使った、とっておきのお洋服が……」
「……いえ。結構です」
ガウリイは低い声で答えた。そして、シルフィールとその侍女たちがいっせいにきょとんとするのを尻目に、足音高く歩き出した。
「ガウリイ様……?」
呆然としたシルフィールの声は、ガウリイの背中には届かなかった。
痩せはじめた月が頭上で輝いている。
案の定、その漆黒の時間、屋敷の裏庭にはゼルガディスが立っていた。
「また来たのか。暇な奴だな」
「悪いな」
ガウリイはマントをひるがえして、ゼルガディスの隣を横切っていった。
「…………」
ゼルガディスはしばらくの間、夜闇に紛れていくその背中を、ひどくむずかしい顔で眺めていた。
「また来たの? あんたも暇ね」
ガウリイの姿を見ても、リナは眉ひとつ動かさなかった。ガウリイはひとつ咳払いをして、背中の後ろにまわした手を、前に差し出した。
「プレゼントを持ってきたんだ」
深紅の薔薇の一枝を、ガウリイは宝珠を差し出すかのごとく、うやうやしく差し伸べた。
城の庭師が丹精込めて育て上げ、ようやく花開いたばかりの薔薇だった。
リナは目を見開いた。張りついたような無表情が、一瞬にして溶けていくのを、ガウリイはじっと見つめていた。
細い腕が檻の間からゆっくりと伸びて、それをこわごわと受け取った。じゃらり、と鎖が耳障りな音をたてた。
「棘があるから、気をつけて」
ガウリイの言葉も、耳に入っていないようだった。リナは目をまん丸く見開いて、その手の中の薔薇を見つめていた。
「きれい……薔薇ってこんなにきれいなものだった?」
感嘆の呟きが、その唇から漏れた。
その柔らかい花びらにそっと触れ、感に堪えぬような眼差しで、再びその薔薇を見つめる。
「ほんとうにきれい。どうして神はこんなに美しいものをお作りになれるのかしら」
リナは心底感動したように呟いた。
そして、しばらくの間、黙ってそれを見つめていた。
ガウリイはリナの横顔と、肩にやわらかくかかった髪の毛と、その華奢な指で薔薇をくるりと回している様子を見つめていた。
まるで夢のように美しかった。少なくともガウリイにはそう見えた。
リナの姿は、神の不可思議な御業によって作り上げられた、非現実的な彫像のようだった。とても傷つきやすい材料で出来ている、精密な彫像。誰かが強く突くと壊れてしまいそうだった。
ようやくリナがガウリイを振り返ったとき、その顔はいくぶん紅潮していた。戸惑いがちの目が、じっとガウリイを見つめた。
「……あのさ、こういうときは何て言うんだっけ?」
「え?」
虚をつかれて聞き返すと、リナは気まずそうに目を逸らした。
「だから、つまりね」
目が泳いだ。
「あんたはあたしにきれいな花を持ってきてくれたでしょう? それで、それを貰ったあたしは、あんたに何て言うべきなのかしら?」
……そこで、ガウリイは初めて気がついた。
リナが照れているということに。
ガウリイは微笑んだ。
「そうだな、こういうときはお礼を言うんだって、俺の家庭教師は言ってたな」
「ええ、そうね、確かにそうだったわ」
リナは乱暴に髪の毛をかきあげて、それから咳払いをした。頬には赤みがさしていた。ガウリイはできることなら彼女の頭を撫でて、気持ちを落ち着けてやりたかった。
だがリナは、ちゃんとガウリイの目を見つめて言った。
「……ありがとう」
リナは彼に向かって微笑んだ。今までとは違う、リラックスした微笑みだった。冷笑でもなければ、嘲笑でもなかった。いくぶん照れくさそうで、可愛かった。それはガウリイのための微笑みだった。
ガウリイの胸が震えた。
そして、胸の震えとともに、いまや水晶のように磨きぬかれた強固な確信が全身を満たしていくのを感じた。
俺は彼女を愛している。間違いなく。
11につづく
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