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三重奏第一部 歌は終わりぬ
瞼を押し開くと、まばゆい光が目を射した。 小川のせせらぎが遠くに聞こえる。小鳥の愛らしい鳴き声、初夏のみずみずしい青葉がおだやかな風に吹かれてざわめく音も。 太陽から顔をそむけると、すぐそばに見慣れた女が座っていた。紅い目で、こちらを覗き込んでいる。 「よく寝てたわねえ」 リナが呆れたように言った。光の粒子が栗色の髪のなかできらきら輝いている。 彼女は、ガウリイともう10年近く旅をしている相棒だ。 彼のベター・ハーフ。我が良き片羽、または我が半身以上の存在、というところか。 もう24だというのに、顔立ちはまだまだあどけない。 「ここんとこ何もないからって、ちょっと平和ボケしすぎてない?」 言葉はきついが、大きな両の目はいたずらっぽく笑っている。 ガウリイは腕を伸ばし、彼女の栗色の髪をくしゃくしゃと掻き回した。 「お嬢ちゃんは生き急ぎすぎなんだよ。たまにはゆっくりしようぜ」 「くらげ。」 ガウリイは微笑んだ。大きな手がするりと下がって、リナのやわらかい頬っぺたをやさしく撫でた。 あざやかな青空がリナの肩越しに見える。だが、もうしばらく経ったら日が暮れて、茜色の夕焼けが見えるだろう。 「たしかに、お前さんの言う通りだ。ずいぶんぐっすり寝ちまったなあ」 ガウリイは草原に寝転んだまま、ひとつ伸びをした。 「どうする? 宿屋に帰るか?」 「ううん。あたし、ここの魔道士協会に寄っていくわ。知り合いに呼ばれてるの」 名が知れているだけあって、リナはほうぼうに知り合いがいる。何年か前、彼にはちんぷんかんぷんの論文を発表したことで、彼女は魔道士協会からひっぱりだこなのだ。 「遅くなりそうか?」 「わかんない。そんなに遅くはならないと思うけど。あんたは先に帰ってて」 彼の脳裏に、二ヶ月前の魔族との激しい戦いが閃いたが、それは意識にのぼらないうちに消えた。 あれはもう終わったんだ。リナはそう言ってるし、俺もそう考えてる。 永遠に終わったわけではないにせよ、少なくとも彼らの人生からは姿を消したのだ。 彼はリナの頭をかるく抱き寄せた。リナにとってはいまだにくすぐったい、ちょっとどきどきする仕草だ。 「早く帰ってこいよ」 「わかってる」 世にもやさしい声音で囁かれて、リナは我知らず微笑んだ。 リナは立ち上がり、ぱんぱんとマントについた草を払い落とした。 「迷子にならんように、気をつけろよ」 「バーカ」 リナはころころ笑いながら街のほうへ駆け出した。 ぼろぼろのマントに生傷のたえない身体、長い髪をなびかせて走るリナは、なにか永遠のもの、不滅のものを感じさせた。 ガウリイはやさしく微笑みながらその姿を見つめていた。その胸に満ちていたのは、リナに対するひたむきな思慕だった。 欲望のように熱く、愛のようにいとしい思慕。 やがて彼はくるりと後ろを向くと、宿場町の方向へ歩き始めた。 変わらぬ日常が、ささやかな幸せが、今日も二人にやってくるだろう。 夕方にでも、リナはいつものようにお腹をすかせて、明るい声を張り上げて帰ってくるだろう。 そうしたら、リナの大好きな五竜亭の料理をたっぷり食べて(この店のスペアリブは絶品なのよ、とリナは得意気に言ったものだ。やわらかく蒸し煮したトリの手羽も、ベーコンで包んだヒシの実も美味しいし、それからね……)、ふたりで抱き合ってぐっすり眠ろう。 いつものように、くすくす笑ってじゃれあいながら。 いつものように、この幸福が永遠に続くようにと祈りながら……。 (ああ神さまどうかお願いです俺の目を覚まさせないで下さいこの夢から連れ出さないで下さいどうかどうかこれが現実なのだと言って下さいこれは夢ではないのだと教えて下さい俺のリナを俺のリナをリナをリナをリナをどうか返して下さいほかには何も何も何もいりませんああどうかお願いです――) 甘い胸の疼きに目が覚めた。 目も眩むほど幸せな夢を見たというのに、頬が濡れている。 眠りながら激しく泣いていたらしく、喉がいまだに鳴咽を繰り返している。 彼は枕を手探りでつかむと、それに顔をうずめた。 ふたたびあの甘い夢へと逃げ込もうとして。 もし、いまここで太陽の鋭い光を見てしまったら、小鳥の鳴き声を人々のざわめきを聞いてしまったら、もしこれこそが現実なのだと悟ってしまったら、俺はほんとうに泣き出してしまうだろう。 光なんか見たくもない。この意味のない生よりも、空虚で恐ろしい現実よりも、あの夢のほうが、もっとずっとほんとうらしい気がする。 あのたまらなくやさしい夢、狂おしいほどなつかしい時間、リナがいて、俺がいて、それだけがすべてだった世界。
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