ダウンタウン物語

9








 ゼロスの動向がおかしいという噂は、ごく一部で囁かれてはいたものの、その時点では大方のギャングたちの知るところではなかったし、キャスパーとゼロスの確執も、まだそれほど根の深いものではなかった。
 だが、ごく少数のギャングたちはゼロスの存在に不安を隠せなかった。彼等はチャイナ・タウンの動向に詳しい人々であったり、キャスパーにごく近しい人々であったり、経営幹部の人々であったりしたのだが、彼等はゼロスの影響力のなかに、何かこの街の秩序とルールを覆してしまうような不遜なものを見出していた。
 事実、ゼロスは恐るべき勢いでキャスパーの権力と縄張りを侵食しはじめていた。競馬やサイコロ賭博など、この街の賭博をほとんど取り仕切っていたし、近頃ではキャスパーの独占状態にあった酒の密造・密輸・密売にも手を出していた。
 野心的で傲慢だが、陽気であけっぴろげな人柄のキャスパーに比べ、ゼロスは得体の知れない、抜け目のない人物であった。誰一人ゼロスの素性を知るものはなく、どこでどうやって暮らしているか、陰でどんなことをしているかということも謎に包まれていた。
 彼等に薄々わかるのは、ゼロスがその空恐ろしいほどの精力と忍耐づよさと冷酷さを、のほほんとした顔の裏に隠しているらしい、ということだけだった。
 ……しかし、少なくともこの時点では、まだ誰の目にも、ゼロスの黒い影がこの街に伸びているようには見えなかった。
 嵐の前の静けさに似た平穏に包まれて、街は束の間の惰眠を貪っていた。




「へえ、大したもんだな」
 クローゼットを開けた途端、ガウリイは思わず感嘆の声をあげた。クローゼットには色とりどりのドレスがぎっしりとつまっていた。ガウリイは決して女性の服装に詳しいほうではないが、それでもそれらのドレスが流行の最先端をいく、とんでもなく高価なものだということはわかる。
「ちょっと! なに人のクローゼット勝手に開けてんのよ」
 リナが慌てて後ろから駆け寄り、ガウリイにむかって怒鳴った。
「あー、すまん。つい暇でな」
「暇だからってレディのクローゼットを開けないでよね、まったくもう」
 リナはぶつぶつ言いながら、ばたんと勢い良くクローゼットを閉めた。
 かつての襲撃騒ぎが嘘のように静かなキャスパー邸で、ガウリイとリナはくつろいでいた。
 リナの護衛を命じられてからはや半月、今のところガウリイはホルスターから銃を抜いたことはない。日々のほほんのほほんとリナと遊んでいるだけで、この半月間、周りではゼロスのゼの字も見当たらない。
 二人は日がな一日カードゲームをしたり、チェスをしたり(毎回リナが勝った)、天気のいい日には散歩に行き、夜ともなればもぐり酒場をひやかしたりしていた。
 時々、ガウリイは自分がリナの遊び相手として選ばれたんじゃないかといぶかしむことがあった。だとしても、べつに文句はないのだが。
「すげえ数の服だな」
「あー、まあね。ぜんぶキャスパーから貰ったんだけど」
 リナは投げやりな調子で言うと、皮張りのソファに体を投げ出した。
「いらないって言ってるのに買ってくるもんだから、勿体無い話よね」
「着ないのか?」
「柄じゃないもの。大体、あんなキラキラした服、どこで着ろっていうのよ」
 ガウリイはリナが寝そべっているソファの端に腰を下ろした。リナはごくあっさりしたワンピースを身を包んで、すらりとした足をテーブルの上に放り投げている。
「こら、レディがそんな行儀の悪いことするもんじゃないぞ」
 ガウリイは呆れたようにリナをたしなめた。普段の反動からなのか、リナはガウリイといるときにはやたら奔放で、やりたい放題をしている。勿論、ガウリイとしてはリナが素のままに振る舞ってくれるのはとても嬉しいのだが、彼女があまりにも奔放なのでやや複雑な心境である。どうやら、ガウリイは遊び相手としては気に入られているようだが、男としては見られていないらしい。
「ガウリイって父ちゃんみたい」
 とぶつぶつ言いながらも足を下ろしたリナに、ガウリイはふと問いかけた。
「なあ、あの銃もボスから貰ったのか?」
 リナは顔を上げた。
「あの銃って?」
「ほら、あの黒ずくめの東洋人たちが襲撃しにきたときの……」
「ああ、あれね。キャスパーのものじゃないわよ。第一、彼はあたしを安全装置の外し方も知らない女だと思ってるはずよ」
「じゃあ、自分で買ったのか?」
「道で拾ったのよ」
「嘘つけ。なあ、ボスに内緒で、どうやって買ったんだ?」
 リナはひょいっと肩をすくめた。「そんなことを聞いてどうするの?」と言いたげな表情だった。
「そんなの、この街じゃ簡単よ。あんただって大体思いつくでしょ?」
「けど、何だってそんなの買う必要あったんだ? ボスに言ってボディガードを頼めば……」
 ガウリイはそこまで言いかけて、ふと口をつぐんだ。
 リナが何とも言えない微妙な表情を浮かべていたからだ。戸惑ったような、悪戯っぽいような、何か大変な事実を言い当てられたような表情だった。
 ガウリイは思わず身を固くした。俺は何か大変なことを言ってしまったのではないだろうか。
 彼女は上半身を起こし、ガウリイに微笑んでみせた。だが、微笑というにはやや複雑すぎる表情だった。彼はただじっとリナを見つめていた。
 その唇が何かを言いかけるかのようにかすかに動いたとき、部屋の隅にあった電話のベルがけたたましく鳴った。
 リナは慌てて立ち上がり、受話器を取った。
「はい……ああ、キャスパー? ええ、大丈夫……何にもないわ……ええ……勿論、わかってるわ……」
 時折短く相槌をうつリナの声を聞きながら、ガウリイはかすかに溜め息をついた。やれやれ、折角のタイミングを逃してしまったな。リナは確かに何か重大なことを言いかけていたように思えたが、もうそのことは話してくれないかもしれないな。
 事実、受話器を置いてから、リナは銃の話などけろりと忘れてしまったかのように振る舞っていた。

 それで、その話はそれっきりになった。










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