ダウンタウン物語

14








 ゼルガディスは長い病院の廊下を歩いていた。彼が向かう先の廊下には安っぽい長椅子が置いてあり、そこにはちいさな人影が座っていた。
 ゼルガディスは人影の前で立ち止まった。リナはゆっくりと顔を上げた。ぐったりと疲れきったような様子で、左のこめかみがひどく腫れていた。ゼルガディスは持っていた氷嚢をリナの前に差し出した。
「冷やさないと痣になるぞ」
 リナは目を見開いてゼルガディスを見上げた。リナがあまりにも驚いたような顔をしたので、ゼルガディスはきまりが悪くなって、ぐい、とリナの手に氷嚢を押しつけた。
「……ありがと」
 リナは大人しく礼を言って、ゼルガディスから受け取った氷嚢をこめかみに押し当てた。廊下には他に人は見当たらなかった。ゼルガディスはリナの横に腰を下ろすと、シガレットケースから煙草を一本を取り出して、口にくわえて火をつけた。リナは黙っていた。ゼルガディスも黙っていた。ちらりと横を見ると、リナはこめかみに氷嚢を当てたまま、ぼんやりとしていた。
「吸うか?」
 ゼルガディスの声に、リナははっと我に返ったように振り向いた。ゼルガディスが差し出した吸いかけの煙草を見て、リナは微笑んだ。
「頂戴」
 リナは細い指で煙草をはさんで口にくわえると、目を閉じて深く煙を吸い込んだ。ゼルガディスはリナが咳き込むのではないかと思ったが、すこしの間を置いて、リナは慣れたふうに細く長い煙を吐き出した。
 そういえば、リナを尾行していた間、彼女が煙草を吸う場面を見たことがなかったな、とゼルガディスは思った。着飾って盛り場に出かけるということもなかったし、部屋に他の男を連れ込むなんてこともなかった。いまどきの若い女――しかもギャングの情婦にしてはちょっと大人しすぎるくらいだった。
 ゼルガディスはじっとリナの横顔を見つめていた。まるで子供のようなあどけない横顔だった。情婦という単語がこんなに似合わない情婦もそういないだろうな、とゼルガディスは思った。もっとも、もう情婦でも何でもないだが。
「ガウリイは?」
 ふと、リナが思い出したように聞いてきた。
「ああ、あいつか」
 ゼルガディスは眉をひそめて苦々しげに言った。
「最初のうちは大人しくしてたんだけどな、あんたがボスの病室で別れ話をしてる間、けっこう激しく怒鳴り合ってただろ。派手な物音も聞こえてきたしな。それですっかり動揺しちまって、ボスの病室に押し入るって言って聞かないもんだから、三人がかりで押さえつけて殴り倒して物置に放り込んできた」
「ちょっと、そんな乱暴な……」
「それぐらいで死ぬような奴じゃない。それに、あいつがいると余計話がややこしくなりそうだからな」
 リナがさっとゼルガディスを振り向いた。ゼルガディスは素早く付け加えた。
「いや、俺の勘だがな」
「……そうね、うん、その通りだわ。ありがとう」
 リナはそう言って頷いた。
「他に殴られたところは?」
 ゼルガディスの問いに、リナは首を振った。
「そうか。災難だったな」
「別に大したことないわよ。あたしより、キャスパーのほうが痛そうな顔してたわ」
 ゼルガディスは黙ってリナを眺めていた。リナはため息をついた。
「いっぱい泣かせちゃって、可哀想なことをしたわ」
 ゼルガディスはしばらくリナをしげしげと見つめていた。その不躾な視線に気づいたリナが、怪訝そうにゼルガディスを振り返った。
「……何?」
「いや……」
 ゼルガディスは少しの間言いよどみ、リナから視線を逸らした。
「あんたという奴がよくわからなくなった」
 リナは煙草を口の端にくわえたまま、ゼルガディスに向き直った。
「俺はてっきり、あんたはボスを利用していただけかと思ってた」
 リナはちいさく肩をすくめた。
「その通りよ。利用してたわ」
 ゼルガディスはかすかに首をひねってリナを見下ろした。
「どうして今頃になって別れ話を? 新しいパトロンでも見つけたか」
 リナは首を振った。ゼルガディスは眉をひそめた。
「おい、一体何を考えているんだ? ボス以外に誰があんたを守ってくれるっていうんだ? 自分一人でゼロスと渡り合えるとでも思っているのか? いいか、相手はゼロスなんだぞ。四つ足のものはテーブル以外なら何だって食っちまうような国の人間だ。悪いことは言わん、捕まってフライにされたくなかったら、今からでもボスとよりを戻したほうがいい」 
 リナはきょとんとした表情でゼルガディスを見上げた。
「あんた、心配してくれるの?」
「勘違いするな、理屈に合わない行動が気持ち悪いだけだ」
「理屈に合わない、ねえ。まあね、それは自分でもわかってるんだけどさ」
 リナはため息をついた。
「何て言うかさ、いつか上にいるお方の前に立ってすべてを告白しなきゃなんないってときに、『イエッサー、ギャングのおっさんをだまくらかして最後の一滴まで絞り上げました』と言うのはさすがに気が引けるわけよ」
 煙草を灰皿に押しつけて揉み消しながら、リナは苦笑した。
「そこまであざとい女にはなりきれないみたい。結局、ギャングの情婦には向いてないってことよね」
「――それが理由なのか?」
「それも理由のひとつ。どっちかって言うと、もうひとつの理由のほうが大きいけどね」
「もうひとつって?」
 ゼルガディスの問いに、リナは照れたように微笑んだだけで、答えなかった。








15へ進む

13に戻る