蒼白の月

6







「何を調べておいでですの?」
 シルフィ―ルはゆっくりとガウリイに近寄りながら言った。彼女はシンプルな青いドレスを上品に着こなし、黒檀のような長い髪を優雅に結い上げていた。
「いえ、別に……」
 ガウリイは素早く家系図をたたみ、シルフィ―ルに向き直った。シルフィ―ルは控えめに微笑んだ。どこから見ても隙のない微笑みだった。あの子の微笑みとはずいぶん違うな、とガウリイはふと考えた。あの子の笑顔はこんな風に卒のないお上品なものじゃなかった。シニカルで、生意気そうで、ちょっと悪戯っぽくて……でも、俺は……あんなに美しい表情を今までに見たことが無かった……。
 そんなことを考えながらぼんやりとシルフィ―ルを眺めているガウリイに、彼女はほんの少し首をかしげてみせた。
「朝早くから勉強熱心なんですね」
「いや、別にそういうわけではないんですが……」
 ガウリイはあやふやに笑って、軽く肩をすくめた。沈黙が落ちた。ガウリイはしばし視線を泳がせた後、話題を逸らそうとして口を開いた。
「……えーと、ところで、どうしてここに?」
「ガウリイ様を探していましたの。国王陛下がお呼びですわ」
「父上が?」
 ガウリイはおうむ返しに聞いた。シルフィ―ルは頷いた。
「そうですか、ではすぐに……」
 ガウリイはそそくさと書類の束を片付け、シルフィ―ルの横を通りぬけて、足早に書庫を横切ろうとした。
「ガウリイ様」
 背後から、シルフィ―ルが声をかけた。ガウリイは振り返った。シルフィ―ルは不安そうな眼差しでガウリイを見つめながら、言いにくそうに口を開いた。
「その……昨夜は、申し訳ありませんでした」
「昨夜?」
 ガウリイはきょとんとした顔で言葉を返した。シルフィ―ルは恐縮したように立ち尽くしていた。ガウリイはその姿を見て、あの少女のぶっきらぼうな口調と人を人とも思わない態度と冷ややかな眼差しをもう一度思い出した。
 ガウリイはかすかに微笑んだ。まったく、同じ女でもえらい違いだな。そう思うと、妙に可笑しかった。
「ええ……その、私ったら、変なことを言ってしまって……」
 そこまで言われて、ようやくガウリイは昨夜のシルフィ―ルとの会話を思い出した。ああ、あのことか。今の今まですっかり忘れていた。ガウリイは軽く肩をすくめた。
「俺は気にしてませんから、どうかお気になさらずに。では、失礼します」
「あ、あの……」
 シルフィ―ルが声をかけるより早く、ガウリイはさっと身を翻して書庫から出ていった。生まれたばかりの日の光のなかで、シルフィ―ルはふとため息をついた。


 重い扉がゆっくりと目の前で開いていく。扉の開いたその先には、真紅の絨毯を敷き詰めた豪奢な部屋が広がっていた。部屋の奥では、一人の初老の男が古い椅子に腰掛けていた。男はガウリイの姿をみとめると、鷹揚にうなずいた。
「ガウリイか。入れ」 
 ガウリイは男の傍に近寄ると、軽く礼をした。
「お待たせいたしました」
「すまんな、朝早くに呼び出して。まあ、とにかく座れ」
 ガウリイは近くにあった椅子に腰掛けた。男はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「最近、兄には会ったか?」
「兄上? いいえ、見てませんが」
「そうか……」
 男は手のひらを額に押し当てて、深くため息をついた。ガウリイは首をひねった。
「彼のことで何か?」
「まあな。……というか、あやつの嫁がうるさくてな」
 兄夫婦の折り合いが悪く、うまくいってないらしいという話は、ガウリイも何度か耳にしたことがあった。どうやらそれは兄の女癖の悪さが原因らしいということも。
「嫁が言うには、どうやら、他に女がいるらしい。あやつはほとんど彼女と顔を合わせようともしないということだ。困ったものだ」
 男はしばらく指先でこめかみを撫でていたが、しばらくしてふと顔を上げた。男は細めた両目でガウリイを眺めながら、口を開いた。
「お前、いくつになった?」
「……今年で23ですが」
「23か。遊びたい盛りだな。体力もありあまっているし、女もどんどん寄ってくる。違うか? わしもその頃にはずいぶん無茶をやったもんだ」
 男はそこで言葉を切り、じっとガウリイを見つめた。
「なあ、わしはお前を信用している。お前は兄とちがって、心根の真っ直ぐな正直者だ。なかなか真面目でもある。お前とシルフィ―ル嬢は上手くやっていけるだろう。だがな、お前も適当に遊んでいたほうがいいぞ。そのほうが夫婦というものは上手くいくんだ」
「……本気で言ってるんですか?」
 目を丸くして言ったガウリイの言葉に、男は肩をすくめた。
「何も派手にやる必要はない。それでも別に構わないが、ばれると大抵は修羅場を見るからな。なるべくなら慎重にやったほうがいいな。浮気するときは後腐れない女を選び、真夜中までには妻の元へ帰れ。妻といる間は、女の影はおくびにも出すな。そうしていれば何も問題はない」
 やれやれ、とガウリイは心のなかで呟いた。まさか結婚前に父親から浮気を指南されるとはな。
「――だが」
 男は低い声で呟き、ふと言葉を切った。老人にしては鋭い眼光が、真っ直ぐにガウリイをとらえた。
「だが、決して本気にはなるな。のめり込むな。わしが注意しておくのはそれだけだ。遊びは大いに結構」
 ガウリイは黙った。男も黙った。ガウリイは少しの間だけ目を閉じ、再び瞼の裏にあの少女の姿を思い描いた。あの子に会いたい、とガウリイは激しく思った。会って、言葉を交わして、もう一度あの体に触れて、触れ合って、この不吉な胸の高鳴りと不安を打ち消してほしい。それは焦がれるほど強い渇望だった。
 ガウリイはそっと目を開けた。目の前に、父親の厳しい顔があった。
「もし、本気になったら……?」
 ガウリイの呟きに、国王はにべもなく答えた。
「地獄だ」








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