――わーん、わーん・・・・・・
目の前で、女性に抱かれて泣く3歳ぐらいの女の子。
大人たちのなだめる声にも泣き声が止むことはない。
――わーん、わーん・・・・・・
何がそんなに悲しいの?
ぼんやりとそんな事を思う。
分からない。
自分も泣きたいのだろうか?
そんな気もする。
何故だろう?
――何も、考えたくない。
遠くから、何かを規則的にたたく音が響き始めた。
奇妙に乾いた音。
平坦なリズムの声がそれに混じっている。
――葬式か。・・・誰か、死んだのかな。
それにしては、悲しくないのは何故だろう。
――修平。
目の前の女性が、突然話しかけてくる。
――今日から、この子があなたの妹よ。
変なことをいうなあ。
ぼくにはもう妹はいるじゃないか。
思いながら、ぼくはその子に手を伸ばした。
頭をなでてやる。
驚いた事に、その子は僕が手を触れたとたん泣き止んだ。
ぼくは、その顔を覗き込んだ。
妹の顔ではない。でも、
――あれ・・・?
この子は・・・どこかで・・・
辺りに響く乾いた音が、だんだん遠のいていった・・・
(ん・・・?)
眩しい・・・それに、体が・・・痛い・・・。
うっすらと目を開けた。
(・・・ここは・・・?)
周りを見渡すと、ピンクのカーテンと、実物大ピカチュウのぬいぐるみと、そして、誰もいないベッドが目に入ってきた。
僕の部屋に、こんなのあったっけ?
・・・・・・。
(あ、そうか・・・昨日、あのまま眠っちゃったんだ・・・)
第3章
Happy Birthday
ベッドにもたれるような体勢で眠っていたせいで、体の節々が痛む。座り込んだまま大きく伸びをすると、肩から毛布が滑り落ちた。めぐみがかけてくれたんだろう。
(・・・めぐみはもう起きて・・・?
熱はもう引いたのかな・・・?)
階段を降りて台所を覗き込む。
トントントン・・・。包丁がまな板をたたく音が台所に響いていた。弥生ほどではないが、かなりリズミカルになってきた。少しは料理の腕も上げているのだ。
(それにしても・・・)
エプロンを掛けた後姿が、意外に様になっていて、僕は思わず見入ってしまった。母さんたちが海外へ行ったあとめぐみが買ってきた、フリフリのついた真っ白なエプロン。初めて見せられたときは、こんなかわいらしいものがめぐみに似合うはずはないと笑い飛ばしたものだが、こうして見ると、
(けっこう、いいかも・・・)
・・・はっ。
何を考えてるんだ僕は。
頭を二、三度振って、僕はその後姿に声を掛けた。
「おはよう、めぐみ」
その声に振り向くめぐみ。僕の姿を認めると、その顔が笑顔に変わる。
「あ・・・お兄ちゃん、起きた?」
元気そうな声に少し安心する。でも、まだ顔が少し赤いような・・・。
「めぐみ、お前・・・起きていいのか?」
「ウン・・・お兄ちゃん、夕べはありがとう。ずっとついていてくれたんでしょ?」
「ん、ああ・・・」
「待ってて、今あさごはん用意するから。えーっと、タマゴ、卵・・・っと。あっ・・・」
冷蔵庫へ向かおうとしためぐみの体が不意によろめく。慌てて抱き止めた僕の腕に、めぐみの体温が伝わってきた。
「なんだよ、まだ全然熱下がってないじゃないか。」
「だ、大丈夫だよ。」
「なにが大丈夫だよ。顔真っ赤じゃないか。」
「こ、これは・・・」
? めぐみは赤い顔をさらに真っ赤にそめてうつむいてしまった。なんなんだろう。
しかし、これはほっとくと学校行くとか言い出しかねないな。しかたない、強硬手段に出るか。
僕はめぐみの肩に手をかけたまま、もう一方の腕を足にもっていき、そのままめぐみを抱き上げた。
「きゃっ!」
そのまま、お姫様抱っこの状態で2階の方に歩き出す。両腕にめぐみの重さと、柔らかい肌の感触が伝わってくる。
・・・軽いなあ。それにこいつ、こんな女の子らしい身体してたんだ・・・。
覗き込むと、めぐみはよほど恥ずかしいのか、両手で顔を隠している。それを見て急に自分も恥ずかしくなってきて、僕は、
「今日はゆっくり休んでろ。・・・いいな!」
と、わざとぶっきらぼうに言った。
「おはよう、修ちゃん。・・・あれ、めぐみちゃんは?」
めぐみをベッドに寝かせて、簡単なお昼の用意をしてから着替えて外に出ると、いつものように弥生が待っていた。
「うん・・。ちょっと熱を出していてね。今日は休ませた。」
「ええ? 大丈夫なの?」
僕は昨日の顛末を話して聞かせた。
「そっか・・・」
弥生の表情が曇る。そのまましばらく、僕たちは無言で学校までの道を歩いた。
いつもと違う、静かな登校。すれ違う小学生たちの嬌声が今日はなぜか耳に痛い。
(・・めぐみがいないだけで、こうも寂しくなるもんなんだな。)
その日の授業は、なんとなく上の空だった。
6限の現国が終わると同時に、カバンを持って教室を飛び出す。もちろん、さっきの授業中に帰る用意はしてある。いつになく急いで秋晴れの通学路を通り抜け、家へ。なぜこんなに急いでいるのか、自分でも良くわからなかった。
玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨てて、台所を見に行く。朝にご飯の残りとめぐみの切りかけの野菜で即興で作ったおかゆもちゃんと食べてくれたようだ。ちょっと安心した僕は、そのまま2階へ上がり、無造作にめぐみの部屋のドアを開けた。
「ほえ?」
・・・そこにいたのは、今まさにパジャマのズボンを脱ごうとする、上半身下着姿のめぐみだった。
脳裏につい2日前の記憶が鮮やかに甦る。アッパーカットの威力も。だが、僕が身構えるより先に、向こうから帰ってきたのはまたしても意外な反応だった。
「きゃっ・・・」
小さく叫んで、めぐみが目の前でうずくまる。
へ?
とっさに反応できないでいる僕。めぐみはしゃがみこんだまま床に脱ぎ捨てていたパジャマの上を拾って、胸を隠す。
「お兄ちゃんのえっち・・・」
その言葉で硬直が解けた僕は、慌てて回れ右をして、部屋を飛び出してドアを閉めた。そのままドアに背中をもたれて、心を落ち着ける。
(な・・なんだったんだろう、今の反応は・・・)
まだ困惑の解けない僕に、ドア越しにめぐみが話かけてきた。
「お兄ちゃん、今日はずいぶん早かったね・・・もしかして、心配して急いで帰ってきてくれたの・・・?」
「あ、ああ、まあね。ほとんど僕のせいみたいなものだし・・・」
「嬉しい・・・あのね、お兄ちゃんの作ってくれたおかゆ、すごくおいしかったよ。」
「ホ、ホントに?」
「うん。今までで一番おいしいおかゆだったよ。」
そ、そうか? あんな料理とも呼べないようなシロモノ・・・
「昨日ね・・・」
「え?」
「あたし、嬉しかったの。あんなことになっちゃったけど、でも、すごく嬉しかった。」
ドクン。
鼓動が早くなる。
「いつもそうだったよね・・・あたしがはしゃいで、失敗して、お兄ちゃんに怒られて・・・でも、最後にはいつもあたしに優しくしてくれるんだ。」
「あ・・・当たり前だろ。家族なんだから。」
「・・・。」
しばしの沈黙。
「そう・・・だよね。家族・・・だもんね。」
――木々がその姿を季節にあわせて変えるように
吹く風に少しずつ潮の香がまじっていくように
変化は、少しずつ、確実に訪れていた――
―コンコン。
「んー?なんだ?」
ギィ・・・
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
ノートと参考書を抱えためぐみだった。
「あのね、来週から期末試験なの。それで、勉強教えてほしいんだけど・・・。」
ここのところ、めぐみはよく僕のところに勉強を教わりに来るようになった。以前は、「お兄ちゃんに聞いたって解る訳ないじゃない」とかいって弥生に聞きにいったりしていたものだが。
最初は面倒臭いなと思っていたのだが、何回かつき合っているうちに、頼られるというのが嬉しくなってきて、最近は楽しみにすらなって来ている。
「しょうがないなあ。どこだ?」
隅っこに置いてあったちゃぶ台を出してきてたたんである足を広げ、部屋の真ん中に置いてその前に座る。めぐみはいつも通り、僕の向かい側に座った。
照れがあるので、口調はいかにも面倒そう、という口調を作ったが、おそらく顔は嬉しそうにしていたのだろう。クスリ、と笑うめぐみの反応がそれを物語っていた。
「・・・だから、ここのxにカッコの中身を代入するとだな・・・」
僕は中2の数学の参考書を見ながら、淀みなく説明していく。実のところ、めぐみの前で格好をつけたいがために、最近の僕は前よりも勉強するようになっていたのだった。
「ん?」
気がつくと、めぐみがじーっと僕の顔を見て、ニコニコ笑っていた。
「なに?なにかついてる?」
「え? う、ううん、なんでも・・・」
めぐみの顔が不意に赤くなる。
「ちゃんと聞いてるのか? まったくぅ・・・」
「き、聞いてるよぉ・・・」
言いつつうつむくめぐみ。ここのところ、よく見せる表情だ。恥じらい、戸惑い。以前なら、決して僕に対しては見せることのなかった感情だった。
「僕の顔見て笑ってたじゃないか。」
「あ、あれはね・・・」
「?」
「嬉しいな、って思って。」
「嬉しい?」
「うん。お兄ちゃんが、私のために何かしてくれてるんだって思ったら、急に嬉しくなっちゃって。おかしい・・・かな?」
そう言って、うつむいたままこちらのほうに目線を向けて、上半身をモジモジさせる。
(う・・・か・・・かわいい・・・)
「そ、そんなの当たり前だろ?」
なぜか、僕も恥ずかしくなってしまって、声がうわずってしまった。胸の奥に、ある感情がこみ上げてくる。これは・・・
(ちょっと待てよ! その娘は、めぐみは、妹なんだぞ!!)
頭の中に響く理性の声。だけど・・・僕の心は、確かに、目の前の女の子を、愛しいと思い始めていた。
「ね、ねぇ・・・、続きやろ?」
その言葉が、僕を我に返らせる。僕は胸の奥の感情を無理に押し込めて、再び机に向かうのだった。
「あーっ、終わった終わった。」
今回の期末試験は、普段の僕からは考えられないほどの好成績だった。めぐみにずっと勉強を教えていたのがいい方向に作用したらしい。試験の終わった後というのはもともと気分の良いものだが、今回は特に晴れ晴れとした気持ちで、僕は弥生といつもの帰り道を歩いていた。
「弥生、どこか寄って行こうか? 何かおごるよ、たまには」
上機嫌の僕はそんなことを口走った。
弥生は不思議そうな顔をして、
「修ちゃん最近何か・・・変わってきてない? ・・・一体・・・どういう風の吹き回しなの?」
と微笑んだ。
「へへっ、今はすごく機嫌が良いんだ。僕にたかるなら今しかチャンスはない、てね。」
大体予想通りの弥生の反応に、僕はさらに軽口を叩く。でも、その次の弥生の言葉は、僕の予期しないものだった。
「じゃあ、ごちそうになろうかな。・・・でも、本当にいいの? 今無駄遣いして。」
「へ? なんで?」
「もうすぐでしょ。めぐみちゃんの誕生日」
「・・・あ・・・そうか」
そうだ。すっかり忘れていたが、言われてみればめぐみの誕生日まであと10日もない。めぐみがそういうイベントが好きなので、これまで毎年めぐみの誕生パーティーは欠かしていなかった。でも、今年は・・・
「あ〜、やっぱり忘れてる。怒るよ・・、めぐみちゃん。」
「・・・そうだよなあ、やっぱりまずいよなあ」
そうか、父さんも母さんもいないし、やっぱり僕が祝ってやらないとな。
「・・・プレゼント何も無しってわけには、いかないか。悪い、やっぱりさっきの無しにして。ほんとにごめん」
「ふふ、いいってば。・・・じゃあ、当然プレゼント何にするかなんて決まってないよね? もし、よかったら、今から買いに行きましょうか?」
「そうするかぁ・・・」
僕らは肩を並べて商店街へと歩き出した。
その日の夕食の席。
「お兄ちゃん・・・どうかな、今晩は?」
「うーん、いいんじゃないか。最近まともになって来ていると思うよ。」
そういえばこれも、今までと変わった点の一つだ。ここのところ毎日、めぐみは料理の評価を僕にさせている。適当に返事をすると怒り出すので、最近は御飯どきも気が抜けない。もっとも、修練の成果か、最近はかなり腕を上げているので、無理をしなくても良くなっている。
「えへへ、そうかな? じゃあ、もう何処へお嫁に行っても大丈夫だよね!」
ウッ!
その言葉に、僕は思わず喉を詰まらせた。
「ゴホゴホ・・・」
「きゃっ・・・大丈夫?お兄ちゃん。・・・どうしたの?」
「いや、ちょっと喉に詰まっただけ・・・なんでもないよ。」
「そう?」
めぐみは不思議そうな顔をする.
(お嫁・・・か。)
そうだよな。めぐみだって女の子なんだ。いずれ、嫁に行くのは当たり前だ。
僕以外の男のところへ・・・。
・・・。
まただ。
最近・・・そう、めぐみの試験勉強を見てやったあのときから、僕は自分がおかしいことを自覚していた。
なに考えてるんだ。でも・・・
「ところで、さ。お兄ちゃん。・・・お兄ちゃん? 聞いてる?」
めぐみの呼びかける声で、僕は我に帰った。
「あ、ああ、聞いてるよ。・・・なに?」
「あの・・・あのね、今日、さ。帰ってくるの、遅かったよね。何か、あったの?」
声の調子を落として、めぐみが聞いてきた。
今日はお前の誕生日プレゼントを買いに行ってたんだ。
その言葉を僕は飲み込む。
そう言えば今年はめぐみも誕生日のことで騒がないし・・・別に隠すことでもないけど、当日まで黙っていていきなり渡したほうが、演出的に面白いかな。うん、そうしよう。
「ああ、ちょっとクラスの友達とね・・・。駅前でカラオケしてたんだ。」
「ふー・・・ん。・・・そう、なんだ・・・」
なぜか、うつむいてしまうめぐみ。
「? で、それがどうかしたのか? なにか、約束してたっけ?」
「ううん、何もないよ。そっか、カラオケかぁ・・・」
それきり、めぐみは口をつぐんでしまった。
沈黙が支配する食卓。その雰囲気に、なぜか嘘をついたことへの罪悪感がこみ上げ、居たたまれなくなった僕は無言で席を立った。
結局、当日になるまで、めぐみは自分からは誕生日のことを口にしなかった。去年は、2週間くらい前から「ねぇー、プレゼントなんか買ってー!」と盛んに催促していたはずだからちょっと不思議ではあったが、せっかくこっそりプレゼントを用意して驚かせてやろうと言うのに自分からこの話題に触れるのもなんなので、僕も黙っていた。
あとで思えば、めぐみはきっと不安がっていたのだ。何も言わなくても僕が覚えていてくれるかどうか。
めぐみの誕生日当日。さすがに外出するわけにもいかないので、居間で新作のゲームをプレイしていると、いつのまにかめぐみが後ろに立っていた。
「めぐみ・・・どうした? そんな所にボーッと突っ立って。」
「ね、ねえ、お兄ちゃん・・あのね・・あのね、今日・・何の日か知ってる?」
それを聴いて、「来たな」と思った僕は、なぜか少しほっとしたのだった。
いつもなら「えー?なんだっけ?」ととぼけるところだが、さすがに今日まで黙っていたことに対してちょっと後ろめたい所もあるので、ここは素直に答えておこう。
僕はめぐみの方に向き直り、笑顔を作った。
「知ってるよ。14歳の誕生日、おめでとう。」
とたん、めぐみの顔がぱあっと明るくなる。
「覚えてて・・・くれたの?」
「当たり前だろ。」
「よかった・・・」
嬉しそうに微笑むめぐみ。
「ホントは不安だったんだ・・・なんにも言わなくてもお兄ちゃんが覚えててくれるかどうか。」
「わ、忘れる訳ないじゃないか。僕だって、毎年この時期になるとうるさいのに、変だなーってずっと思ってたんだぞ。」
(弥生に言われるまで忘れてたことは内緒にしておこう・・・)
「えっと・・・それでね・・・」
それまでのぎこちなさが消えたところで、急にめぐみがモジモジしだす。
(?)
「あのね・・・今日・・・」
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「おっ、来たな。」
きっと弥生に違いない。
「あっ・・・」
僕は玄関の方へ向かった。何かをいいかけていためぐみもついてくる。
「こんにちは。」
「弥生お姉ちゃん?!」
弥生はスーパーの紙袋を両手に抱えていた。
「お誕生日おめでとう、めぐみちゃん。ケーキの材料買ってきたの。台所、借りていい?」
「もちろん。」
驚いているめぐみを横目に、僕と弥生は目線を合わせて軽く微笑む。
「黙っててごめんな。驚かそうと思ってたんだ。今年は父さんも母さんもいないし、二人きりじゃ淋しいからな。」
「・・・。」
めぐみはうつむいたままだ。どうしたんだろう?
「どうした? ひょっとして、黙ってたこと怒ってるのか?」
その言葉で、めぐみははっとなったように顔を上げた。
「う、ううん。違うよ。ありがとう、お兄ちゃん。お姉ちゃん」
「そうか、よかった。」
「それじゃ、台所借りるね。」
弥生は荷物を抱えて廊下を歩き出す。
「あ、持つよ。」
「あたしも手伝う。」
「めぐみちゃんが手伝ってどうするのよ。今日の主役なんだから・・・」
「そうそう、お前は部屋でゆっくり待ってな。」
僕はめぐみの頭を軽くぽんっ、とたたいて、弥生と一緒に台所へ向かった。
椅子に架けてあった例のフリフリのエプロンを身につけ、三角巾まで装備して完全武装で戦闘体制を整えた弥生に、僕は、台所のテーブルに置いた紙袋からケーキの材料を取り出しながら、話し掛けた。
「材料買いに行くんなら、いってくれれば一緒に行ったのに。重かっただろ?」
「大丈夫だよ、これくらい。それに、修ちゃんが外出しちゃったらめぐみちゃんが不安がるじゃない。」
あ、そうか。・・・さすが弥生、気の回り方が違う。
「そうか・・そうだね。じゃ、今からその分も手伝うとするか。まず何すればいい?」
「あ、じゃあ、卵を黄身と白身に分けて、泡立ててくれるかな。」
「わかった。」
「ふふ、力仕事だから、頑張ってね。」
いつも見ていて危なっかしいめぐみとは対照的に、弥生の作業はスムーズで、芸術的といっていいほどだ。人の家の台所の筈なのだが、ずっと昔からそこにいるように自然に風景に溶け込んでいて、僕は見とれてしまった。
「ほら、ぼーっとしてちゃだめよ。こっちはあと焼くだけでOKよ。」
「あ、ああ。」
こういうとき男はだらしがなくっていけない。
「ほら、貸してみて。こうやるのよ」
弥生はボウル片手に抱き、手際良くクリームを泡立てる。目をつぶると規則的な音が心地よく僕の耳にこだまする。エプロンのフリフリの間から漂ってくるクリームの甘い香が、無意識のうちに僕を引き寄せていた。
「きゃ。」
「うわっ。」
「もう、まだお預けよ。ふふっ。クリームがほら・・・」
弥生の手が僕の鼻筋に伸びる。そこで、僕ははじめて僕と弥生の顔が息のかかる距離まで近づいていることに気づいた。緊張はすぐに弥生にも伝わった。不意に心臓の鼓動が高まるのを感じた。お互いに見つめ合ったまま一言も発することは出来ない。永遠とも思われた均衡を破ったのは弥生だった。一瞬、安心したような表情を浮かべると、そのまま目蓋を閉じた。
ガシャーン!!
「!!!!!!!?」
振り向いた僕が見たのは・・・
「あ・・・」
めぐみの目に涙が浮かんでいる。
口を開閉させるが言葉にならない。
割れたグラスの破片が微粒子となり、空中にきらめく。
「めぐみ・・・」
あとの言葉が続かない。
めぐみは、何かに耐えるようにぐっとうつむくと、そのまま僕のほうを振り返らずに駆け出した。
後には、めぐみの瞳から溢れ出した光の粒が尾をなして空中に漂うだけであった。
「修ちゃん!」
僕を我に帰らせたのは弥生の叱咤だった。
「何してるの! めぐみちゃんを追いかけなきゃ!」
「う、うん。」
僕たちはめぐみを追って外へ飛び出す。しかし既にめぐみの姿は辺りにはなかった。
「くっ、もう遠くへ行ってしまったのか?」
「手分けして探しましょう、修ちゃん。」
「わかった。気をつけて。」
いくら真夏とはいえ、もう辺りは真っ暗な時間だ。それが余計に胸騒ぎをかきたてる。
めぐみは・・・、何処だ、何処にいるんだ。
「めぐみー!」
それからどれくらいの時間がたっただろう。僕は、街中を走り回った。繁華街のスポット、同級生の家、思いつく限りあたってみたが、めぐみの姿はおろか、手がかりさえも見つけられなかった。
いつもの道。いつもの町並み。いつもの公園。
見慣れたその風景が、今は悪意を持ってめぐみを隠しているようにさえ感じてしまう。
(くそっ・・・どこにいるんだ・・・)
いいかげん息も上がってきた、いやもう脚はとっくに張っているのだが、だからといって休憩する気にもなれない。
気がつくと僕は坂道を上っていた。街を一望できる丘。そんなところからめぐみが見えるはずもないのだが、僕はそこまであせっていたのかもしれない。
歩道もない暗い坂道をとぼとぼと上る僕。その僕の視線が、一点に引き寄せられた。
公園の向かい側、ガードレールの切れ目。特にどうということはない、普通の風景。
だけど。
「・・・ここ・・・は・・・?」
何故だろう。
理由はわからない。だが、なぜか僕はここにめぐみがいる確信があった。
僕は躊躇なく道を外れ、夜の森へ足を踏み入れた。
(人の声・・・?)
奥のほう。木々の合間から、確かに人の声がする。
(この声は・・・!)
間違いない、めぐみの声だ。しかし、
(なんだ? 一人じゃないのか・・・?)
聞こえる声はもう一つ。めぐみは誰かと口論をしているようだった。僕はそちらの方向へ歩みを速めた。だが、
「・・・あたしだって、
・・・お兄ちゃんのこと好きなんだから!」
辺りに響いためぐみの叫びに、僕の足は凍りついた。
目の前に、少し開けた場所がある。そういう場所があることも、なぜか僕は知っていた。
木陰からその空間を見る僕の目に映った二つの人影は、めぐみと・・・弥生、だった。
「めぐみちゃん・・・」
「なによ! あたしの誕生日祝うなんて言っておいて、お兄ちゃんとイチャイチャするのが目的だったんでしょ!!」
「そんなこと・・・」
「キスしてたじゃないっ!!」
弥生がはっと息を呑む。
「今日のことだって、この前の買い物の時だって、お兄ちゃんに近づくのが目的で、あたしのことは単なる口実だったんでしょっ!! うちに晩御飯作りにくるのだって、あたしに当てつけての点数稼ぎなんだ!!」
「ち、ちが・・・」
「お姉ちゃんはあたしを利用してるだけなんだっ!!」
「違う!!!」
弥生の声は今まで一緒にいて初めて聞く大きさだった。激昂していためぐみもその迫力にはっと言葉を止める。
「わたしはいつも羨ましかった・・・修ちゃんの一番近くにいるのは、いつもあなただった・・・。わたしがどんなに一生懸命勉強しても、お料理の練習しても、修ちゃんに好きになってもらおうと努力しても・・・あなた達の間には入れなかった。修ちゃんの隣は、いつもあなただった!」
二人の間に緊張が高まる。暗闇でよく見えないが、弥生の目には涙が浮かんでいるようだった。
僕は混乱していた。
なぜ弥生がここに?
どうして二人が言い争っているんだ?
それよりなにより、さっきのめぐみの言葉――
僕のことを、好きだって?
頭の中に一度にいろんなことが入ってきすぎて、脳がはちきれそうだ。
「それでもいいと思ってた・・・兄妹の仲には割り込めなくても、修ちゃんが私のほうも見てくれるなら、それで満足だった。でも、修ちゃんは・・・。」
「え・・・?」
「あなたが修ちゃんと二人で日本に残るって言い出したとき、私分かったの。どうやってかは分からないけど、あなたは真実を知った・・・いいえ、思い出したの。私、怖かった・・・。あなたが私と同じ立場で争ったら、私絶対勝てない。あなたを、『妹』の立場に押し込めなきゃって・・・」
(『妹』の・・・立場・・・?)
弥生の言葉は、さらに僕を混乱させた。
何を言っているのだろう?
何を言いたいのだろう?
だが、僕が理解できなかったその言葉の意味を、めぐみは正確に把握したようだった。
「!? お姉ちゃん、知って・・・?」
めぐみの声のトーンが急激に下がる。
「・・・そう・・・知ってたんだ・・・。」
周囲の気温が3度ほど下がったような気がした。
「知ってて・・・、ひどい、ひどいよぉ!!」
めぐみは、弥生に殴りかからんばかりの勢いで、掴みかかった。
やばい!
止めないと!!
僕は我に返って、二人の下へ走り出した!
「やめろぉぉぉぉっ!!!」
ビクッと二つのシルエットが動きを止める。
まずはめぐみが、そして弥生も僕に気付いて、驚愕の表情を浮かべた。
「修ちゃん・・・」
「お兄ちゃん・・・」
「どうしたって言うんだ二人とも! いったい、何でケンカなんかしてるんだよ?」
僕は二人の顔をかわるがわる覗き込む。弥生の顔には動揺と戸惑いが、めぐみの顔には不安と恐れが浮かんでいた。
「めぐみ・・・お前今日おかしいぞ?」
僕は混乱の極にあった。
めぐみと弥生がケンカをしている光景など見ていて信じられなかった。
「弥生とケンカするなんて・・・」
(とにかく何とかしないと)
その言葉だけが、僕の頭を回りめぐった。
「どうしたんだ? 今日のお前は・・・。」
――まずめぐみをなだめないと!
「だから・・・、その・・・、だなあ。」
もう、自分が何を言っているのか分からなかった。
ただ、言葉を途切れさせた瞬間、何かとても大切なものが壊れてしまいそうで、僕は必死に言葉を捜した。
「いや・・・だからな・・・お前はオレの、大事な妹なんだ・・・」
その一言が、引き金だった。
「妹じゃないもん!!!」
さっきまでの口論のときよりも、さらにひときわ大きな声で、めぐみが叫んだ。
そのときのめぐみの顔は・・・僕は一生忘れないだろう・・・。
その滝となって流れ落ちる涙と、哀しみに満ちた瞳を――
めぐみが身を翻して駆け出す。
(今度は行かせるわけには行かない。絶対に!)
直感的に僕の頭にそんな思いがよぎる。
「待つんだ・・・」
「待って!!!」
めぐみを追って駆け出した――その僕の腕を、弥生の白い手が思いもよらない強い力でつかむ。
その一瞬だけ、僕の動きが止まった。
そのときだった。
秋名の下りを全開で攻める純白のパンダトレノが、音一つ立てずに滑るようにドリフトしながら、公園横の通りを突っ込んできたのは。
キキィーー!!
「めぐみ!」
「めぐみちゃん!!」
そのとき僕の意識ははじけた。
――赤。
――赤い世界。
そこは、猛り狂う炎の熱気と、大海をなす血の臭いが充満していた。
僕の目の前には、横転し炎上する車と、真っ黒になり原型を留めていない元は人だったものが転がっていた。
それは、ひどく小さかった。
小さく、か弱く、可愛らしく、いつも僕の斜め後ろをとてとてとついて来た・・・
危なっかしくて振り返ると、やっぱり転んでは僕がいつも助け起こしていた・・・。
泣いていたこともケロッと忘れて、僕に満面の笑顔をくれた・・・。
僕はそれだけで幸せだった、そう、幸せだったのだそのときまでは。
そうだ、僕は知っている。この光景を・・・。
「うわぁぁぁぁん」
突然、けたたましい泣き声が僕の耳朶を打った。
僕の横で、燃え上がる炎を前に小さな女の子が、大声をあげて泣いている。
突然背景が変わる。黒い世界。
僕達の周りには黒ずくめの大人が集まり、幾つもの小さな囁きが不協和音を成し、不快な音を立てる。
「車は2台とも炎上、特に、片方は完全につぶれ、遺体は見れたものではないそうだ。」
「かわいそうに」
「奇跡的に助かったとは言え、両親と兄を一度になくしたのではな・・・。」
「もう片方のほうは?」
「運命の皮肉かな。4人のうち3人までが命をとりとめたが・・・娘のほうは助からなかった。
いや、もはや助けようがなかったそうだ・・・」
「うわぁぁぁぁん」
少女は泣いたまま炎上する車の前を動こうとしない。
黒い大人達は少女になにかを言っているが彼女はただ首を振るばかりで泣き止もうとしない。
僕は・・・僕は、ただ黙って彼女の頭をなでてやった。いつもそうするように。
そして言ったのだ――。
バンパーに激突しためぐみの体が宙を舞うのが、スローモーションのようにやけにはっきり見えた。
「きゃあああああっ!!」
悲鳴が、夜の闇に響いた――