4月4日 晴

お父さんがアメリカに転勤するという話を聞いた。

その瞬間はなにがなんだかわからなかった。頭に浮かんだのは日本を離れるなんてイヤだっていうことだけだった。

イヤだ、日本に残る。お兄ちゃんとと二人で。

・・・二人で?

そう思ったとき、自然に言葉が出てきた。

これはチャンスなんだ。

「妹」から抜け出す、唯一の、たぶん最後のチャンス。

だから・・・

 

第4章 想い出がいっぱい

 

 視界を蒼白く染める蛍光灯。

 不快感を刺激する薬品の臭い。

 耳が痛くなるほどの静寂。

 初めて見る夜の病院の廊下。

 僕は長椅子に座ったまま、首をめぐらせ、手術室の扉を凝視していた。

 その扉の向こうに、めぐみが――僕の妹が運び込まれて、もう2時間は経ったろうか。

 ふと、視線がその扉の上のランプに移る。

 非現実感すら漂う蒼白い世界の中、そのランプの赤だけがやけに生々しい。

 その赤が、不意に血と炎と――そしてさっきの事故とを連想させて、僕は目をそらした。

 

 視界に、一人の女の子が入る。

 僕と同じ長椅子に腰掛け、膝の上で握り締めた拳を震わせている。

 うつむくその顔は長い髪に隠されて見えない。

 「・・・弥生・・・」

僕の呼びかけに、その子はぴくん、と体を震わせて反応した。

やがて、ロングヘアーの内側から、か細い声が絞り出される。

「・・・修ちゃん・・・ごめん・・・ごめんね・・・」

「・・・何が・・・?」

 返す僕の声も、喉の奥に何かがつっかえたように、小さい。

「私の・・・私のせいで、こんなことに、なっちゃって・・・私が、めぐみちゃんと・・・ケンカなんか、したから・・・」

 その言葉に、僕はかぶりをふった。

 ・・・そんなに自分を責めるなよ、弥生。

「違うよ、悪いのは僕だ・・・僕が、忘れていたから・・・」

 その瞬間、弥生ははじかれたように僕に目を向けた。

 ややあって彼女は僕から視線を外し、再び俯いて口を開いた。

「・・・そう・・・思い出したんだね、何もかも・・・」

 「ああ・・・」

 そう、僕は思い出したんだ・・・僕とめぐみが、本当の兄妹じゃないってことを・・・。

 

○月×日 雨

大変なことを聞いてしまった。

あたしとお兄ちゃんが、本当の兄妹じゃないなんて。

あきらめていたのに。

兄妹だからしょうがないって、

ずっと・・・言い聞かせていたのに。

あたし、どうしたらいいんだろう・・・

 

「あの時あなたは5歳、めぐみちゃんは3歳だった・・・」

 感情を押し殺したような、弥生の無表情な声が響く。

 

 

 もともと、僕とめぐみは父親同士が親友という縁で、家族ぐるみでの付き合いをしていた。

 僕には妹がいて、めぐみには兄がいた・・・血が繋がった、本当の、妹と、兄が。

 偶然にも同じ家族構成を持つ二組の家族に災難が降りかかったのは、12年前のことだった。

 

あの夜、僕たちは星を見に秋名山に登った、その帰りだった。

 

「私は直接は見てないんだけど・・・

事故の原因は、対向車のスピードオーバーだって聞いた。

めぐみちゃんたちの車が避けきれなくって、そこにあなたたちの車が追突したんだって・・・」

 

 弥生の言葉を、僕はほとんど聞いていない。

 これまで記憶の奥底にきつく封印されていた情景が断片的にではあるが、まざまざと脳裏に浮かび上がる。

 一度記憶が再生を始めると、それは壊れた映写機のように僕の目に衝撃的な映像を繰り返し焼きつけた。

 前を走る車の突然の異常。

 ハンドルを切る父さんの驚愕の顔。

 事態を飲み込んでいないまま、不安におびえる小さい女の子の顔・・・。

 めぐみではない、女の子の顔・・・。

 

5月8日 晴

今日は朝ごはんの当番がお兄ちゃんだったけど、

起きてこなかったので作っておいてあげようと思ってお料理に初挑戦。

でも失敗しちゃった・・・

やっぱり、弥生お姉ちゃんみたいにはうまくいかないなあ。はぁ・・・

 

 そして記憶が跳ぶ。

 次に思い出せるのは炎。

 その中にたたずむは、自分。

 そして誰かの泣き声。

 

「ひどい事故だったんですって・・・

その事故で、修ちゃんの妹さんと、めぐみちゃんのご両親とお兄さんが亡くなったの・・・

修ちゃん、すっごく落ち込んでた・・・」

 

 妹の死。

 それが、僕には信じられなかった。

 それまで、あんなに元気だった、――憎たらしいところもあったけれど、それでも、たった一人の、大事な妹。

 僕は、信じたくなかった。

 これは夢だ。そう、夢なんだ。夢だから痛くない。痛いはずなんてない。

 ・・・。

 もう何も考えたくない。

 何をする気力も起きない。

 何も・・・

 ・・・そんなときだったんだ。

 

『・・・おにぃ・・・たん・・・』

 

 聞こえたんだ・・・僕の耳に。

 届いたんだ、僕の心に。

 

「・・・どういう経緯でそうなったのかは知らないんだけど、

とにかくおじさんたちはめぐみちゃんを引き取って、修ちゃんと兄妹として育てることにしたの。

私がめぐみちゃんと初めて会ったのは、お葬式の次の日・・・。」

 

 四方を囲む黒い服の壁。

 あたりに響く読経の声。

 思い出されるのは無機質な影絵の世界。

 闇がヒタヒタと侵食してきて、僕の心を染め上げていた。

 闇は深く、暖かく、心地好かった。

 僕はもう、ただなされるがままにしていた。

 その中で・・・、

 僕は聞いたんだ・・・

 心の殻を打ち破る、その言葉を・・・。

 

「修ちゃんはそのとき、めぐみちゃんを妹として扱ってた。

私はなにも言えなかった・・・

お母さんが『そのことは修ちゃんには言っちゃダメ』って言うのを訳もわからず聞いていたわ・・・」

 

『・・・おにぃ・・・たん・・・』

 無限に続くかと思われた嗚咽の狭間に、不意にめぐみが周囲に求めた一言。

 かすれそうな声が黒いざわめきを縫って、僕の耳に届いた。

 はっきりと聞こえたんだ。

 声が一条の光となって、暗闇となった僕の世界を貫いた。

 僕はその光に、想いに、必死ですがった。

 ――そう、妹は死んでなかった・・・

 ――やっぱり、あれは夢だったんだ・・・。

 僕は、めぐみを本当の妹だと思うことで・・・

 

 

6月21日 快晴

お兄ちゃんと遊園地。

お姉ちゃんがこれなくて、ちょっとほっとしちゃった。

あたしって悪い子かなあ・・・

観覧車に乗れなかったのはきっと罰だよね。。

・・・でも、お兄ちゃんの背中あったかかったな・・・

恋人にはなれなくてくても、せめて、ずっとお兄ちゃんの妹でいられますように・・・。

 

 

7月5日 晴れ

ここのところ、勉強を教えてもらうという口実で、お兄ちゃんの部屋に押しかけている。

お兄ちゃん、面倒くさそうな顔してるけど、本棚に中学の教科書があるの見つけちゃった。きっと予習してるんだ。

あたしにいいとこ見せようなんて、ふふふ・・・

でも、そんなふうにお兄ちゃんが思ってくれるなんて・・・なんだか嬉しい。

それでニヤニヤしてたから、お兄ちゃんに変に思われちゃったも知れない。

・・・最近、お兄ちゃんが優しい。

料理にも文句を言わなくなったし、いろいろとあたしのことを気にかけてくれるようになった。

なんだか幸せ・・・

こんな日々が、ずぅっと続くといいな・・・

 

 

 蛍光灯が瞬き、暫くしてまた灯く。

 手術中と書かれた紅のランプは、未だ、禍禍しい光を放ちつづけている。

 

 「・・・ごめんね、今まで隠してて・・・

  ・・・ほんとはね、何度か言おうと思ったこともあったんだよ。

  でも・・・言えなかった。

私、今のままの関係が好きだから。

修ちゃんも、・・・めぐみちゃんも、好きだから」

 修ちゃんも、好き・・・

 そう言われて、胸の奥が騒ぐ。

 何考えてるんだ、こんな時に! それに、僕は・・・!

 僕は・・・。

 「でも、黙ってたせいで、めぐみちゃん怒らせちゃった。

・・・めぐみちゃんが、修ちゃんと一緒に日本に残るって言い出したって聞いたときにね、私わかったの。

めぐみちゃん、知ってたんだって」

 「え・・・」

 「気づいてた? めぐみちゃん、ずっと修ちゃんのこと、好きだったんだよ、昔から」

 弥生の言葉で、頭のなかで混乱していた事象が、つながったような気がした。

 なぜ父さんたちと離れて日本に残ろうとしたのか。

 なぜ急に女の子らしいそぶりを見せようとしたのか。

 ・・・それは、今なら理解できる。だが弥生は、さらに僕の心の奥底に踏み込んできた。

 「・・・それに、修ちゃんもめぐみちゃんのこと、好きなんだよね?」

 「・・・! 弥生・・・なんで・・・?」

 「ふふ・・・何年幼なじみやってると思ってるの? 弥生さんは、何でもお見通しだよ」

 明るい声をあげて、弥生は顔を上げた。

 笑顔がその顔に張りついている。

 だが、その言葉尻の震えで、わかってしまう。

 偽りの笑顔。

 絞り出したカラ元気。

 痛々しくて僕が視線をそらすと、弥生もまた俯いてしまう。

 次に弥生ののどから絞り出された声は、聞き取れないくらいかすかなものだった。

「・・・だから・・・

 真実を知ったら、きっとあなたはめぐみちゃんを選ぶ、

 そんな気がしたから・・・

 どうしても・・・

 言えなく、なっちゃった。

 ・・・卑怯、だよね。

 ずるいよね。

 ・・・私のせいで、こんな・・・!」

 かすかに高くなった声がそこで嗚咽に変わる。

 「弥生・・・」

 僕はそれ以上掛ける言葉も見つからなかった。

 「弥生・・・僕は・・・」

 ――そのとき、突然の変化は訪れた。

 

 今まで赤々と光っていたランプの灯が、・・・消えた。

 

 

7月20日

死にたくなった。

前々からなんとなく思っていたけれど・・・

はっきりと思い知らされた。

見たくなかった・・・お兄ちゃんと弥生お姉ちゃんが、仲良さそうに、デートしてるところなんて。

お姉ちゃん・・・お兄ちゃんのことが好きなんだ。

お兄ちゃんだって、やっぱり、弥生お姉ちゃんみたいな女の子の方が好きだよね・・・。

あたし・・・なにやってるんだろう・・・

 

 

 呆然としている僕の前で、扉は開け放たれ、ベットがカラカラと音を立てて通りすぎる。

 はじかれたように立ちあがる僕。

 「・・・めぐみ!」

 思わず大声をあげてしまった。

 初老の医師が、マスクを取り外しながらこちらにやってきた。

 「めぐみは、めぐみはどうなんですか! 先生!」

 「大丈夫だ。どうやら奇跡的に怪我は軽かったよ。落ちたのが土の上だったので衝撃が吸収されたようだ。一週間ぐらいは入院してもらわないといけないがね、そんなに心配しなくても良いよ。」

 大丈夫、なのか・・・。

 張り詰めた気が一度に抜けていく。

 膝が力を失い、その場にへたり込みそうになる。

 そこを何とか踏みとどまり、僕は医者に詰め寄った。

 「めぐみには、妹には会わせてもらえませんか?」

 「何を言ってるんだ。しばらくは安静にしていないと・・・」

 「お願いします!」

 僕は必死で食い下がった。

 「ううん・・・そうだな、ほんとはまずいんだが・・・よし、特別に付き添いを許可しよう。ただし、絶対に安静だよ」

 「あ、ありがとうございます!」

 礼の言葉もそこそこに、僕はめぐみのベッドを追いかけて走り出した。

 

 「めぐみ・・・」

 薄暗い病室の中。

 窓からの月明かりに照らされて、ほのかに白く浮かび上がるめぐみの寝顔に、まるで壊れ物を扱うような慎重さでそっと声をかけてみる。

 めぐみはもちろん反応しない。が、その体にかけられた布団がかすかに上下するのを見て、僕はほっと胸をなでおろした。

 (良かった・・・)

 カタン・・・

 (え?)

 物音に振り返ると、僕が開けっ放しにしていたドアのところに、弥生が静かに立っていた。

「修ちゃん・・・めぐみちゃん、どう?」

 掠れる声で聞いてくる弥生に、僕は笑顔を浮かべて見せた。

 「大丈夫、よく寝てるよ。弥生も入って来なよ。」

「私は・・・」

 弥生はそこで視線をそらす。

「今は・・・会えないよ・・・。」

 僕ははっと、つい先程の、二人の口論を思い出した。

 「でも・・・」

「入院するんなら、めぐみちゃんの着替え、いるでしょ? 私、明日持ってくるよ・・・。じゃ、私、帰るね」

 弥生は背を向けたまま、それだけ言うと、きびすを返した。

「弥生! おい・・・!」

 追いかけようとした僕の鼻先で、ドアが閉まる。

 なおも追いかけようとノブに手をかけた僕の動きを止めたのは、弥生の強い言葉だった。

「・・・そこにいて!」

 「・・・」

「・・・お願い・・・そうでないと・・・私・・・」

 

 一瞬迷ったその時だった。

「んん・・・おにいちゃん・・・」

 はっとして僕はベッドの方を振り返った。

 だが、めぐみが目を覚した様子はない。

 ――ここで僕まで帰ったら、めぐみはここに一人きり・・・。

「めぐみちゃんについていてあげて。お願い・・・」

 「でも・・・」

 その言葉の続きをさえぎるように、弥生の走り去る足音が聞こえてきた。

 ・・・。

 僕は、ノブを握っていた手を離し、ベッドの方にとって返した。

 

 

6月20日 雨

昨日はいろいろ大変なことがあって、今日は朝にお兄ちゃんの部屋で日記を書いている。

寝相の悪いお兄ちゃんはベットから落ちて、だらしない格好で寝ている。

パジャマのズボンがずり落ちそうになっていたので、直してあげて、毛布をかけなおしておいた。

書いているとだんだん情けなくなってくるのでこの辺にしておこう。

でも、お兄ちゃんの部屋で寝ちゃうなんて。

・・・お兄ちゃんて、どうしてあんな恥ずかしいことばっかり覚えているんだろう。

かんじんなことは、すっかり忘れてるくせに・・・

 

 

 ベッドに眠るめぐみの顔は、昔見たのと同じ、泣き顔だった。

 涙こそ見られなかったが、なぜかめぐみが泣いているような気がして、僕は自然とめぐみの手を握っていた。

 すると、めぐみは無意識のうちに、きゅっ、と僕の手を握り返してきた。

 その途端、僕の頭の中に懐かしいビジョンが浮かび上がった。

 

 

 

僕の家の前から海へとつづく、細くて長い坂道。

夕陽の中で、その道を歩いている僕とめぐみ。

いつものようについ先へ行ってしまう僕と、いつものように必死に追い掛けてくるめぐみ。

けど、その日はたまたま僕がぼーっとしていて、どんどん先へ進んでいってしまっていた。

ちょこまかと走っていためぐみだが、とうとう追い付けなくなって、泣き出してしまう。

『おにいちゃ〜ん・・・えっぐ・・・』

その声を聞いて、慌ててめぐみの元に駆け戻る僕。

『ごめん、ごめん・・・』

『ふえぇん・・・』

めぐみが僕の服にしがみついてくる。

『いやだよぅ・・・いっちゃやだ・・・ひとりはやだよう・・・』

 

(めぐみ・・・)

 

 

 そうだ。

 その時僕は幼い心に決心したんだ。

 そして、めぐみに誓ったんだ・・・

 

―――そう、やくそくだよ―――

―――永遠の盟約だ―――

 

 

 「そう、約束だよ・・・」

 小鳥のさえずりが僕の耳をくすぐり、夏の清々しい朝日が僕の目蓋を焼いた。

 「んん・・・夢か・・・」

 どうやらベットにもたれたまま眠ってしまったようだ。

 体を起こそうとすると、右手を引っ張られる感触。

 見下ろすと,まだしっかりとめぐみが僕の手を握っていた。

 「ふふ、あんなにちっちゃかったのにな・・・」

 僕は、しみじみとめぐみの寝顔を眺めた。

 「それがこんな・・・女の子に成長するなんてな・・・」

 

 

「んん・・・?」

 めぐみが小さな声をあげた。

 気が付いたのか?

 めぐみの手を握っている手に思わず力が入る。

 僕の目の前で、めぐみはゆっくりと2回まばたきして、その瞼を開いた。

「・・・おにいちゃん・・・。」

 めぐみは僕がいる事を確認すると嬉しそうに微笑んだ・・・。

 よかった・・・

 僕はその思いだけでいっぱいになって、言葉が出なかった。

 めぐみは、辺りに、見なれぬ景色があると分かると、怯えたように呟いた.。

「あたし・・・」

 「お前は、昨日車にはねられたんだ。その後、救急車で運ばれて、病院で手術を受けた。」

 めぐみは再び恐怖を思い出したのか、身をすくめた。

 「お医者さんは、奇跡的に、怪我は軽くてすんだって・・・一週間も寝ていれば、良くなるってさ。まったく、どうなるかと思って心配したんだからな。」

 それを聞くと、めぐみは少し安堵した様子で、呟いた。

「おにいちゃん・・・ずっと、そばにいてくれたんだね。」

 「ああ・・・約束だからな。」

「え・・・?」

 めぐみの顔に、驚きの色が浮かぶ。

 「『ずっといっしょにいてやる』って、そう、言ったからな・・・」

「お・・・にいちゃん・・・」

 めぐみの表情が、驚きから喜びへと変わっていく。

「おにいちゃん・・・お兄ちゃん・・・お兄ちゃんっ!」

 

 めぐみは僕の胸に頭をうずめたまま言った。

「おにいちゃん・・・あたし・・・夢を見たんだ・・・。」

 めぐみは、まだ手術から回復しきっていないらしく、まだ言葉が途切れ途切れだ。

 「うん・・・、僕も。長い、長い夢を見たよ。」

「ほえ・・・? どんな?」

 「ふふ、小さいお前が、僕の後ろですっ転んで泣いている夢」

「そんなの〜・・・やだなあ・・・」

 めぐみは弱々しいながら、精一杯の明るさで言った。

 「これじゃあそんな夢も見るよ・・・」

 と、僕はめぐみに、しっかりと握られた手を見せた。

「あ・・・、や、やだあ。」

 めぐみはパッと手を引っ込めると、もう片方の手で握っていたほうの手を胸に抱いた。

 赤くなっているめぐみを見てるとなんだかこちらも恥ずかしくなって、僕は思わずそっぽを向いてしまった。

 

「おにいちゃん・・・ごめんね・・・心配かけて・・・。」

 僕の背中越しにめぐみは話を切り出した。僕は背を向けたまま答えた。

 「僕はいいよ、めぐみが無事だったら・・・それより、謝らなきゃならないのは僕の方だ。」

「え・・・?」

 「すまない・・・。お前、ずっと・・・僕のために妹でいてくれたんだな・・・。」

 めぐみははっとして僕を凝視した。

 

 

「お兄ちゃん・・・。」

 「ごめんな・・・気付いてやれなくて。おまえが一人で悩んでいるときに、僕は何にも力になれなかったんだな・・・。本当に済まない・・・。」

 僕は知らず知らず拳を握り締め、肩を震わせていた。

「お兄ちゃん・・・。お兄ちゃんは、ううん、誰も悪くなんてないよ。」

 めぐみは、哀しげに言った。

「・・・それに・・・あたしも自分の気持ちをはっきりと伝えられなかったし・・・」

 僕は今、めぐみの中で何かがはっきりと壊れ、そしてまた新たな何かが生まれてきているような気がした。

「お兄ちゃんには・・・ううん、それでも言いたい・・・今はっきりと言わなきゃ・・・。」

 振り向くとめぐみは、めぐみは初めて逢ったときのように顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 「めぐみ・・・。」

 僕はめぐみの頬に手を添えて涙をふいてやった。

 

夏の木漏れ日が射す病室に一陣の風が迷い込み、薄いカーテンが花びらのように舞い上がる。

不意に、二人の時間が結晶化する。

 

「おにいちゃん・・・あたし、お兄ちゃんのことが・・・」

 

コンコン

 

 静まり返った病室に、ノックの音がやけに響いた。

 「入るよ・・・大原さん、どうだね体の具合は・・・。」

 昨日の担当医が、ひょいっと顔を出した。

 「あ、ああ、先生、昨日はどうも・・・。それじゃあ僕は、ちょっと外に出ているから・・・」

「あ・・・」

 めぐみはまだ何か言いたげだったが、僕は逃げ出すようにして病室を出た。強引にドアを閉め、壁に寄りかかる。めぐみの悲しいまでに一途な想いを秘めた、真摯な眼差しが思い出されて、僕の心臓はバクバクと高鳴った。

 「頭でも冷やして来よう・・・」

 僕は、トイレを探して病院の中をふらふらと歩き出した。

 

 

 「昼からは一般の病室に移るから・・・。それではお大事に・・・。」

 ずいぶんと長いこと病院の中をさ迷っていたらしく、既に検診のほうも終わり、医者が部屋から出てくるところだった。

 僕は、その担当医に昨日できなかった御礼と挨拶をしようと思い、近づいていった。

 「どうもありがとうございました。」

 「いやいや、かわいい妹さんだね・・・。」

 僕は苦笑した。一体どういう顔をしたら良いというのだ?

 「ふむ、それから、今来ているのは君の彼女かな? ほら、昨日君と一緒に来ていた娘だけど・・・。なんだか、ちょっと訳ありの様子だったけど・・・。ま、なにはともあれお大事に。」

 「え?」

 弥生が来ているのか!?

 顔から音を立てて血の気が引いて行った。

 「す、すみません!!」

 僕は、先生をかわすと急いで病室に近づいた。

 一瞬昨日の光景が僕の脳裏に浮かんだ。

 (めぐみ・・・、弥生・・・、僕は・・・・・・)

 しかし、ノブにかけた僕の手が一瞬止まった。

 

「弥生お姉ちゃん・・・。」

「まだ、私のことお姉ちゃんて呼んでくれるんだ・・・」

「お姉ちゃん・・・」

「ごめんなさい・・・私・・・めぐみちゃんにホントにヒドイことしちゃったね・・・。それなのに・・・ごめんなさい・・・」

「そんなこと・・・ないよ。」

「・・・」

「・・・」

 沈黙が重い。

 僕はノブに手をかけたまま凍り付いていた。

「あたし、いつもお姉ちゃんみたいになりたいなって思ってた んだよ。

 あたしは、弥生お姉ちゃんがうらやましかった。

 ずっとお姉ちゃんに憧れていた。

 ずっとお姉ちゃんになりたかった・・・。

 お料理が上手で、頭が良くて、綺麗で、優しくて、誰からも好かれて、何でも出来て・・・」

 一瞬の間。

「お兄ちゃんといつも一緒で・・・」

「めぐみちゃん・・・」

「でも、あたしは妹・・・これまでも・・・これからも・・・妹でしかない・・・。

 あたしは弥生お姉ちゃんにはなれない・・・。」

「それは買かぶりだよ・・・。

 元々お料理が上手だったわけでもないし、お勉強が出来るわけでもない。

 全部、修ちゃんに私を見てもらいたい、

 私と一緒にいて欲しい、と思ってやっていたことなんだよ・・・、

 私は、そんなずるい女の子なの・・・。」

「お姉ちゃん、でも・・・」

「あの時・・・、

 私は何にも出来なかった・・・。

 修ちゃんを・・・、

 あの時、修ちゃんを救えたのは、あなただけだった。」

 (弥生・・・)

「私はね、本当はめぐみちゃんになりたかったんだ・・・。

 本当は、めぐみちゃんのように修ちゃんに甘えてみたかった。

 めぐみちゃんのように修ちゃんとずっと一緒に居たかった・・・。

 でも、修ちゃんの側にいるのは・・・いつもあなただった・・・。

 だから私、一生懸命だった・・・。」

 僕は、ドアの外で、息を飲んだ。

 

「でも、それももう終わり・・・。

 もう私・・・。

 私はもうダメ・・・

 私、悪い子だもん。

 きっと修ちゃんも私のこと軽蔑してるよ・・・。

 私・・・。」

 弥生の声はドア越しでも震えていることが判った。

 そして、きっと精一杯の笑顔を作っていることも・・・。

 

「そんなことないよ!お兄ちゃんは・・・

  あたしだって、弥生お姉ちゃんのこと大好き!

  それだけは間違いないよ!

  だからね・・・だから・・・怖かったの。

  この関係を壊したくなかったから・・・。

  もしあたしが告白したら、

  お兄ちゃんがお姉ちゃんのことが好きだったら、

  あたし、お兄ちゃんの妹でも居られなくなる・・・

  それくらいだったら、ずっと妹でもいいと思ってた・・・

  でも・・・」

 (めぐみ・・・お前・・・)

「でも、それじゃダメだと思ったの。

お兄ちゃんがたとえ誰を好きでも、あたしは、あたしの自分の気持ちを伝えなきゃって。

それで、何もかもダメになっちゃうかもしれないけど・・・」

 (自分の気持ち・・・)

「だから・・・だからはっきりさせる。お姉ちゃんとは、大好きなお姉ちゃんとだけは正々堂々勝負したいから。」

「正々堂々・・・?」

 そこでめぐみは大きく深呼吸した。

「あたしは、お兄ちゃんが好き。たとえ相手がお姉ちゃんだって、渡さない。」

 めぐみは、自らを奮い立たせるように、何かを断ち切るように言った。

「今日からお姉ちゃんはあたしのラ・イ・バ・ル! だからね!」

 

 弥生の表情が、弥生の泣き笑いが、一瞬だけ透けて見えたような気がした。

「めぐみちゃん・・・」

「だから・・・もう泣かないで、お姉ちゃん。あたしに引け目なんて感じないで。勝手に誤解して、勝手に怪我したのはあたしなんだから・・・」

「うん・・・わかった。」

弥生の声に少しだけ明るさが戻る。

 

「じゃあ・・・私も改めて。私も修ちゃんが好き。ずっと昔から好きだった。いくらめぐみちゃんにでも、修ちゃんだけは譲れない。」

「えへへ・・・」

「ふふ・・・」

「うん。でも、きっと長い戦いになるよ。お兄ちゃん優柔不断だから。」

ぐはぁ。

「そうねぇ。修ちゃん、かわいい女の子が好きなうえに押しに弱いもの。」

ぐはぐはぁ。弥生まで・・・

「とりあえず、現時点での気持ちでも聞いてみる?」

「賛成!」

「それじゃあ聞いてみましょうか、ねえ、修ちゃん」

 

 (はうう、この、僕をいつも追い詰める弥生の声色は・・・)

 

 僕は観念してドアを開いた。

「いつからわかってたんだ?」

「そんなの百万年前からよ!」

 めぐみは、弥生と和解できたのが嬉しいのかいつにも増して調子がいい。

 こういう時は兄としての威厳を見せねば・・・

 しかし、その決意は弥生の言葉によって、脆くも崩れ去った。

「で、修ちゃんはどっちが好きなの・・・」

「え゛?」

「はっきり決めてよね! びしっと」

 

 とうとう来た。いつかはやってくる原稿の締め切りのように。まったく、人生って奴は選択することがなかったらどれだけ幸せなことだろう・・・。

 言葉の勢いとは裏腹に、めぐみの瞳は何処かすがるような色をうかべていた。一方弥生はいつもの態度に自分を押し込めているようであった。

 「僕は・・・、今、二人の気持ちを聞いて、正直言って戸惑っている。ただ、どちらが好きとかそう言うのじゃなくて、そういう気持ちって言うのは、これからゆっくりと育てていくものだと思う・・・。」

 僕は一言一言考えながら、自分の気持ちを確かめながら言った。

 頭の中で昔見たアニメのワンシーンがぐるぐる回っている。

 「だから、僕は・・・やっぱり、どちらか一人になんて決められない・・・。」

 めぐみと弥生は、はぁ〜と大きなため息をついた。

 「やっぱりお兄ちゃんじゃねぇ〜。」

 「え、でもまあまあだと思うよ・・・。」

 「弥生、そんなあ〜」

 「ま、お兄ちゃんにしては上出来かもね。」

 「めぐみお前なぁ〜」

 一瞬、三人の目が合ったかと思うと、僕らは思わず吹き出した。

 窓から吹き込む夏の風は涼やかで、僕らに優しかった。

 


エピローグ