「・・・おはようございます」
抑揚の無い声っていうのが自分でわかる。今は挨拶するのも精一杯だから。
「おはよー」
みんながいつものようにわいわいとしている。
今楽屋にいるのはカオリ、辻、後藤、吉澤だけかな・・・。
ほかにもいるのかもしれないけど、わかんないや・・・。
視線を動かすのも面倒で、私はふらふらとみんなとは離れた隅の椅子に座り
荷物を足元に置いたまま何も無い空中を見つめた。
「おはよー!なっち!」
矢口いたんだ・・・、またにやにやしてる。それ以上は思考が働かない。
矢口が小さな声でささやく。
「ほれほれー、昨日はどうだったの〜?」
昨日・・・。
きのう・・・。
キノウ・・・。
どうしたっけ・・・?

「・・・・・」
「ん?どした?」
そうだ、私・・・
「キス・・・しちゃった」
「い!?」
矢口はまさしく口を「い」の字型にしたけど、ぱっと顔を輝かせて
「やるじゃーん!なっちおっとなー!」
と、はやしたてた。
「ん?なにがなにが〜?」
みんながこっちを見たけど、私の意識の中に入り込むことは無い。
「いやぁ、こっちの話―」
みんなの会話も意識に無い、代わりにあるのは自責の念。

「なっち、あんた・・・」
・・・何?
言葉をとめた矢口を見ると、さっきのにやけた表情は消えうせていた。
・・・何で?
視界の端に、鏡に映った自分が見える。眉間にしわを寄せ、奥歯をかみ締める自分が。
はは・・・、表情を取り繕うこともできなくなってるじゃん。
自嘲的な笑みを浮かべた。

「はい、先生!」
いきなり矢口はカオリに向かって元気良く手を上げた。
「なに?矢口?」
「安倍さんが、気分が悪いそうなので、保健室に連れてきまーす!」
「え!?マジ??」
みんながこっちを見たけど、矢口は大げさにおどけた。
「うっそぴょーん!ちょっと二人でお出かけしてきたいんだけど、いいすか?」
ちらりと時計をみて
「ん、わかった。準備の時間もあるから、あんまし遅くなんないようにね!」
不思議がることも無く、カオリはOKを出した。
「なっち、ちょっときなよ」
私は逆らうことも無く矢口に手を引かれて、廊下へと連れ出された。
みんなが気に留める様子も無く雑談をつづける。
そのなか、後藤だけが私をじっと見つめていた。
・・・。

廊下へ出ると私はぼーっとしたまま立ち尽くすしかできなかった。矢口は隣の楽屋をノックして
返事が無いのを確かめると、ドアを開けて手招きする。
「なっち、おいで」
言われるままに部屋へと入った。
「どうしたの?」
入り口のむこうから後藤の声が聞こえる。
「なんでもないよ。いいから後藤は準備してな」
にべもなく、矢口はそういってドアをぱたん、と閉めた。

静かだった。
その静けさがいやだった。
静かになるとまた思い出しそうで・・・、またあのことを考え込みそうで・・・。
思い出したくない、このまま忘れ去ってしまいたい!
だけど、忘れることはできない!忘れたくない!
もう、どうしていいのかわからない!
昨日のキスのあとから、私の心にはぽっかりと大きな穴が開いて何も考えられなくなった。
それでよかったのに、ふとした拍子でいきなり蘇る。
胸が苦しい、目を開けていられない!

ぽん。
そのとき、小さな手が私の両肩に触れた。
矢口・・・。
見ると矢口は真剣な表情で私の顔を覗き込んでいた。
「なっち、今のうちに泣きな」
それだけだった。
それ以上は何も聞かない。
私は精一杯の笑顔をつくって矢口をみる。
「さんきゅ」
張り詰めていたものが、ふと緩んだ気がした。
私はそっと、小さな矢口の肩に覆いかぶさるように顔を埋め、静かに泣いた。
華奢な矢口の肩は私の涙で濡れた。

「なに見てんだよ」
きつい口調に、ほんの少し視線を上げると後藤が顔だけをドアからちょこんと
だしてこちらを見つめていた。
「あっちいってろよ」
矢口のとげのある口調に、後藤は気にする様子も無く、とことこと私たちのところまでやってきて
「あのさ・・・私にもワカルから」
そういって、私と矢口を両腕に包み込んだ。
矢口は「はっ」とした表情をしたけど、すぐに唇をかみ締めてそっぽを向く。
後藤は私たちを抱きしめながら切なそうに目を伏せる。
あ・・・。
私だけがつらいんじゃない、苦しいんじゃない。
みんな苦しいんだ・・・。
とたん・・・
「っく、・・・はぁ、う・・・」
我慢していたものが口を開いて飛び出した。
私はそのまま声を出して泣いた。二人の分も泣いた。
ずっとずっと、泣き続けた・・・。

・・・それから2週間。
いつものように仕事に追われる毎日が続いている。

私の携帯には、いまだ明日香からの電話もメールも無い。
自分から電話をすることもできなくて、メールをすることもできなくて・・・

いっそ、あのことを責めてくれたら・・・。
問いただしてくれたなら・・・。
馬鹿だ、こんなの虫のいい話。
私は逃げ出したくせに
明日香の答えを知るのが怖くて、あの場から逃げ出した・・・。
これはきっと罰なんだろうな・・・
自分の気持ちを押し付けた罰。
そして逃げ出した・・・罰。

そして、あの日から毎日、私は喪失感に苛まれる。
その喪失感は、明日香が脱退したあの日に似ている。
なんだ、そっか。
私は今、あの日と同じ気持ち持ってるんだ。
ううん、同じじゃないかも・・・。
仕事をしている間は、そのことに集中しているから平気なんだけど
一人になると、とたんに悲しみが襲ってくる。
何も考えられない。何も手につかない。
気がつくと、自然と目から涙がこぼれる。
こんなのは初めてだ・・・。
明日香のことを昔よりももっと大切に思っているんだ。
今の私の、明日香に対する想いは「好き」を超えてしまっているんだ・・・。
その証拠に、ほら、涙、とまらない。
いつまでたっても涙、とまらないんだ!

誰かを好きになったことありますか?
その想いを伝えたこと、ありますか?

伝えてごらんよ、
想いは叶わないかもしれないけど
気持ちは伝えられるから・・・

好きになってはいけない人を好きになったこと、ありますか?
その想いは伝えましたか?

教えてください・・・。
出口の無い迷宮に迷い込んだ、この私に
その「想い」の進むべき道を。

教えてください
おしえて、くだ、さい・・・

「逡巡」−終わり−
そして、「当惑」へつづく。

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