009「モノ」
ああ…どうしてこんな事になっちゃったんだろう…。
ボクの目の前で微笑む黒ずくめの男が、悪魔に見える。いや、本当に本物の悪魔なんだ。
悪魔がボクに魔法をかけた。ボクの周りのあらゆる物が、見る見るうちに大きくなっていく。
ボクが寝ているベッドも、スタンドライトも、本も、枕も、何もかも…。
「それは違う、少年よ。周りが大きくなっているんじゃなくて、お前が小さくなっているんだ」
およそ悪魔の物とは思えない、透き通った綺麗な声で、悪魔が囁いた。
ボクは今、体が小さくなっていっている。パジャマも一緒に小さくなっているけれど、他はみんな、そのままだ。
「なんでこんな事をするの…!?」
「そうだな…“目標の大きさ”になるまで、まだ時間がかかる。話してやろう。俺は優しいからな」
悪魔の癖に「優しい」なんて、そんなバカな話があるもんか。
「だが、全部話すのはつまらない。俺はそこまで優しくない。
ヒントだけやろう。少年よ、『多世界仮説』と言う物を、聞いた事があるか?」
知らない、そんなの知ってるわけがない。
「そうか。ま、要するに『世界は1つじゃない』って説だ。
お前たちが住んでいるこの世界。これは、無数に存在する世界の中の、1つに過ぎない。
この世界以外にも、実に多くの世界が存在する。要するに、宇宙がたくさんあるってことだ。
ある宇宙には、星が無い。またある宇宙には、星がたくさんあるが、生命がいない。
生命が宇宙空間に溢れるほど豊富な宇宙もあれば、お前たちのいる宇宙にそっくりな宇宙もある」
「そっくり…??」
「例えば、お前たちのいる宇宙にいる人間の数が、1人だけ足りない、とかな。まぁ、様々だ」
悪魔が話しているうちにも、ボクの体は見る見る縮む。
気がつくと、ボクは1本の太くて白いロープの上に立っていた。
「それはロープじゃない。お前の布団の繊維だ」
ああ、ボクは遂に、こんなところまで縮んでしまったのか。
周りを見渡せば、いたるところに白いロープが走っている。けれど、向こうのロープに飛び移るのは、無理そうだ。
上を見上げれば、雲が流れている。…雲?
「雲のわけあるか。ただのホコリだ」
いつの間にか、ボクの周りには何もなくなっていた。悪魔がボクの腕を掴んで、それで宙に浮いている。
「ねぇ、ここはどこ!? 宇宙?」
「そんなわけあるか。小さくなりすぎて、原子の隙間から落っこちただけだ。アレを見ろ」
悪魔が指差したのは、緑色の球。なんだか不思議な外見だ。
ボールのように丸いんだけど、完全に丸いわけじゃない。表面がなんだかモヤモヤしていて、霧みたいだ。
「あれはなに?」
「原子だ。行くぞ」
悪魔がボクの腕を引っ張って、原子のすぐ横まで飛んだ。
「これが原子?」
「そうだ。…まぁ、色は、見やすいように俺がつけただけだが」
「でも、原子って、こう、核の周りを、電子が飛んでるんじゃなかったっけ? これじゃ、ただのボールじゃん。電子はどこ?」
「アホか。この緑色が、電子だ」
緑色が? どう見たって、ただの霧。しかも、霧ならまだ水滴が見えるけど、こっちは水滴なんて見えない。
霧、って言うのも、なんか変だな。霧ほど薄くもないし。
なんとも言いがたいけど、とにかく『モヤモヤ』だ。
「その『モヤモヤ』が、言ってみりゃ電子だ」
「え、だって、電子って、核の周りを回ってるボールなんじゃないの?」
「…そのモヤモヤの中に、濃いところがあるな? ちょっと手を入れてみろ」
確かによく見ると、モヤモヤの色が濃いところと薄いところがある。
感電しないかな、と思ったけど、悪魔がにらむから、恐る恐る手を入れてみた。
でも、何にも感じない。水に手を入れれば水の感触があるけれど、こっちは何も無い。
立体映像の中に手を突っ込んだような、そんな気分だ。
「何にも起きないよ?」
「しばらく待ってろ。手に何かが当たったら、すぐにつかめ」
その瞬間、ホントに手に何かが当たった。ボクは反射的に手を握った。
すると、モヤモヤが一回り小さくなった。モヤモヤの中に突っ込んでいたボクの手が、姿を現した。
モヤモヤが、一部消えたみたいだ。
「今掴んだのが、電子だ」
「え? そうなの?」
電子って、どんな形してるんだろう。手をニギニギしても、電子の感触はやっぱり、何も無い。
気になって手を開いても、手のひらには何にも無かった。
「何も無いよ?」
「アホ。開いた瞬間、モヤモヤに戻ったんだ。見ろ。原子が元の大きさに戻ってる」
顔を上げると、原子の大きさが、最初に見た時ぐらいに戻っている。ホントだ。でも、なんで?
「ボクが掴んでたのは、なんだったの? ホントに電子?」
「ああ、電子だ。でなけりゃ、モヤモヤが消えるもんか」
悪魔はボクの腕を引っ張って、緑色のモヤモヤの中に飛び込んでいった。
周りがみんな、緑色。でも、やっぱり触ってる感じはしない。
「ねぇ、なんでモヤモヤ、濃いところと薄いところがあるのさ?」
「濃いところは粒になりやすいところ、薄いところはなりにくいところだ。見やすいように、俺がそう色づけた」
「なんで粒になりやすいところと、なりにくいところがあるのさ?」
「なんでなんでと五月蝿い奴だな、お前は。お前の頭脳レベルに合わせて説明する俺の身にもなってみろ」
いま、すっごいバカにされたような気がする。
「電子が原子核の周りにいることは、お前も知っているみたいだから、そこから話すぞ。
電子はみんな、原子核が好きなんだ。だからそばによりたい。
だが、電子同士は恋のライバル同士だから、みんながみんな、相手を嫌っているんだ。だから、近づきたくない。
それで電子は、出来る限り原子核に近くて、それでいて他の奴らとは離れた場所に行こうとする。
その場所が濃いところで、そうじゃないところが薄いところだ」
「その場所の方が、粒になりやすいの?」
「そうだ。その場所で、電子は見つかりやすい。
しかもだ、お前たち人間の非力さではもちろん、俺でも、我らが神様でも、電子がどこにいるか、知ることは出来ない」
「そうなの?」
「ああ。神様にも、電子がどこにいるのかはわからない。さっき言ったような、『粒になりやすい場所』はわかるんだがな。
しかし、さすがの電子も、見つかれば降参して粒になる。だが、隙あらばすぐに逃げる」
ふぅん? 神様にもわからない事があるんだ。
しばらくの間、色々悪魔に質問していたけれど、だんだんネタがなくなってきて、ついには2人とも黙っちゃった。
2人が黙るまでかなり時間がかかったし、黙ってからもだいぶ時間が経っている。
だけど、未だに原子の中心には着かない。ず〜っと、緑色のモヤモヤの中を飛んでいる。
もしかして、道に迷っちゃったのかな?
「ねぇ、原子核はまだ?」
「やっと静かになったと思ったら、また聞くのか」
だって、ホントにずっと、緑色なんだもん…。
「お前は原子の広さがわかってない。
そうだな…。例えば、原子核の大きさがピンポン球ぐらいだったら、原子はどのぐらいの大きさになると思う?」
「え? …野球ボールぐらい?」
「違う。富士山ぐらいだ」
「富士山? そんなに大きいの?」
大きいと言うか、大きすぎてよくわからないと言うか…。
「お前たちの世界だと、よく東京ドームを喩えに使うらしいな?
東京ドームが原子だとしたら、原子核の大きさは、たったの2mm…砂粒ほどの大きさになる。
…無駄話している間に、着いたぞ」
前を見ると、今度はピンク色と白色が混ざった巨大なモヤモヤが現れた。…なんでピンク?
「そこに突っ込むのか。『なんで2色?』と聞いてくると思ったが」
「それは学校で習ったもん。陽子と、中性子で原子核が出来てるって」
「フッ、そのぐらいは知ってるんだな。
陽子がピンクで、中性子が白だ。お前たち人間が、よくこの色を使ってるだろう? それに合わせただけだ」
よく見ると、やっぱりこっちも、色が濃いところと、薄いところがある。
悪魔はまたボクの腕を引っ張って、原子核の中に入っていった。ピンクのモヤモヤに、包まれた。
「どこまで行くの?」
「原子の、本当の中心だ」
「???」
「お前は、原子が何から出来ているか、知っているか?」
「知らない」
「まぁ、そうだろうな。お前たち人間は、まだその謎を解いていない。いくつか仮説を出してはいるが…な」
じゃあ、聞かないでよ、そんな事。第一、学校じゃ陽子と中性子までしか、習ってないんだから。
「陽子も中性子も、クオークという物から出来ている。だが、そのクオークを作っている物も、また存在する。
そして、更にその奥にも…。
その一番奥に、俺の目的地はある」
「原子の本当の中心、って事?」
「ああ、そうだ」
悪魔は突然、声に出さないで笑い出した。顔が、物凄くにやけている。
「お前は聞いたな。『なんでこんな事をするの?』」
「うん」
「教えてやろう。俺たち悪魔は、地上で暮らす事は出来ない。…普通は。
しかし、ある方法を取ると、地上で暮らす事も出来る」
「それは?」
「最初に言ったな。多世界仮説…。この世には、多くの世界が存在する。そのうちの1つに、『空き』を作る」
「空き…?」
「お前は、もう元の世界には戻れない。つまり、お前がいた世界から、お前が消える。そこが『空く』」
「え…!?」
「俺様は、そこに入り込む。これから先、お前として生きる。楽しい人生を歩んだ後、再び悪魔となって、天界へ戻る。
俺たち悪魔がよくやる『遊び』だ」
「え、それじゃ、ボクをどうするの? 殺すの!?」
「殺しはしないさ。そんな事したら、地獄に落とされる。だから…」
悪魔はまた、ニヤニヤ笑う。ボクをどうするの? 答えてよ。
「お、いよいよ、原子の中心に着くぞ。お前だけに、特別に見せてやろう。
原子の中心には何があるのか。全ての原子は何から出来ているのか。それは…これだっ!!」
・
・・
・・・
ドサッとボクは、床に叩きつけられた。
しばらく何が起こったかわからなかったけど、体を起こしてみて、やっとわかった。
ベッドから、落ちたんだ。
「…今のは、夢?」
なんだ、夢だったのか。ああ、怖かった。
体が突然縮むなんて、そんな事ありえないし。悪魔だって、いるわけないし。
「ヒロシ、早く起きなさ〜い!」
お母さんが、1階からボクを呼んだ。
「は〜い!」
とボクは返事をして、起き上がった。
パジャマを着替えて、1階へ続く階段へ駆ける。
そして、階段を駆け下りて…ボクの足が止まった。
悪魔は言った。ボクらが住む宇宙とは、ほんの少しだけ違う宇宙が、無数にあると。
多分その宇宙は、全ての原子の中心にあるんだろう。
全ての原子は宇宙から作られ、全ての宇宙は原子から作られている。
1つ1つの原子の中に宇宙があるんなら、それこそ無数に宇宙があるだろうし、
ほんの少しだけ違う宇宙があったって、不思議は無いだろう。
ボクは気付いてしまったのだ。
1階へ向かう階段の段の数が、いつもより、1段だけ多い事に……。
009「モノ」を書かせてもらった、キグロです。
「モノ」と言うか、「世界」と言うか。まぁ、物質を構成する原子の話だったという事で。
しかし、なんだか巷に溢れている、いわゆる「子ども向け科学解説本」っぽい文章になってしまったなぁ…。
もちろん、そのつもりで書いたんだけど、読んでてあんまり面白くないような。
没にしようかどうしようか、延々悩んで、結局投稿。
「物」「者」「mono(単一の)」をかけたネタにしようとも思ったものの、ネタが浮かばず…。う〜む。
モロに科学の説明が入るのではなく、さりげなく解説されるような、そんな小説を書く事を夢見て。