017 夢なのか?

 永遠に紡がれていく物語、寓話やおとぎ話は人々の心に必ず存在し、その心の中に無限
の幻夢郷が広がっている。親から子へ、子から孫へ、波紋のように伝わる物語はいつしか
国を越え、世界を越え、時を越えて動き、伝わっていく。美しい木々が歌い、川のせせら
ぎは海に優しく流れ、夢の世界の物語は続いていく。
 僕は幼いころから母が話してくれたおとぎ話がとても好きだった。外で遊ぶよりおとぎ
話を聞くほうが好きな子供だったと母は言っていた。それのせいか、僕は想像力が豊かに
なり、草木や美しい山や川を見ると、頭のなかでおとぎ話が次々と組みあがっていくのだ。
僕には草木が笑い、山や川が語りかけてくるのが見え、聞こえたのだ。僕のなかではおと
ぎ話は架空のものではなく、現実に存在するものだった。
 そういう性格だったので、僕はいつも周囲からは少し浮いていたような気がする。不思
議な子で、おとぎ話を1人で呟いているというのはたしかにおかしくみえただろう。学校
では休み時間はほとんど寓話やおとぎ話の本を読んで過ごしていた。友達がいないわけで
はなかったが、交流することは少なかった。
 こういうわけで、今までの人生は人と触れ合うことはあまりなかった。でも僕は、自分
が孤独だと感じたことは一度も無かった。自然と触れ合うことにより、草木は僕に笑いか
け、山や川は僕に色々なことを語ってくれた。僕にとっては自然の中に潜むおとぎ話が友
達で、寂しさを感じることはなかったのだ。笑われるかもしれないが、それは今も変わら
ない。僕のなかではおとぎ話が紡がれ続けている。
 そんな僕と出会ったのが彼女だった。

 休日の昼下がり、僕は特に何もすることもなく、ただ草木がよく手入れされている公園
のベンチで座っていた。草木の笑い声に耳を傾けながら、自分のなかに存在する夢の国を
見つめていた。
 ふと、僕の思考は途切れた。誰かがこちらに近づいていたのだ。視線をその方向に向け
ると、二冊の本を抱えた女の子が立っていた。10歳くらいの身長だろうか。白いワンピー
スに長い黒髪の可愛らしい女の子だった。彼女はベンチに向かって歩き、僕の横に座った。
彼女の抱えている本はなかなか大きく、女の子が持つには苦しそうだった。一つは白い表
紙の本で、題名は『Dream Land』と記されていた。もう一つは黒い表紙の本で、題名は
『Crawling Chaos』と記されていた。
 彼女は僕に話しかけてきた。遊び相手が欲しかったのだという。とても期待に満ちた笑
みで話しかけてくるので無下に断るわけにもいかず、僕は彼女の願いを受け入れることに
した。
 彼女の名前はナイアールというらしい。彼女はどこかこの世界とは別の雰囲気を持つ女
の子だった。どこか違和感があり、この世界に似合っていなかった。不思議な女の子で、
妙に物事に詳しく、そして説得力があった。たわいない会話の中、突然彼女が、自分の持
っている二冊の本について切り出した。この二冊の本はおとぎ話の本だという。僕はおと
ぎ話という単語に少し過剰に反応してしまったようで、彼女がクスクスと笑っていた。ナ
イアールもおとぎ話が好きだというので、僕たちの会話はそれからというもの、とても弾
みだした。いままで僕のおとぎ話について耳を傾けてくれる者などいなかったので、とて
も嬉しかったのだ。
 僕のおとぎ話を聞いているときは、彼女は楽しそうだった。ここまで気が合うとは僕も
思ってはいなかった。僕のおとぎ話が終わると、ナイアールは白い表紙の『Dream Land』
を開け、その中のおとぎ話を朗読し始めた。
 彼女が朗読をし始めたときだった。僕が目を瞑ってそれを聞いているときに、僕が少し
目を開けると、そこには信じられない情景があった。僕たちが座っているのは公園のベン
チではなく、草木が映える森の中だったのだ。目の前では彼女の朗読するおとぎ話の内容
と同じことが行われていた。草木が喋り、人々の笑顔が満ち溢れる世界だった。そう、お
とぎ話の中へ実際に飛んでしまったのだ。
 ありえないことではあったが、僕はすんなりと受け入れることが出来た。世の中には不
思議な力を持っている人間が存在する。昔からおとぎ話を好み、おとぎ話の世界がどこか
に存在すると信じている僕には、大した違和感もなく受け入れることができたのだ。ナイ
アールはおとぎ話の情景を僕に見せることができるようだった。
 僕はそのまま、美しい夢の国の物語を楽しんだ。

 彼女が朗読をやめると、夢の国の情景は消え、僕たちは公園のベンチで座っていた。辺
りを見回すと、もう夕暮れ時だった。ナイアールはもう遅い時間なので家に帰るといった。
彼女は僕が気に入ったようで、また明日、今と同じ時間に会おうと約束をした。ナイアー
ルは小さな手を振りながら公園から出て行った。
 翌日の昼下がり、僕は公園のベンチに行くと、既にナイアールが座っていた。今日もあ
の二冊の本を持って。彼女は『Dream Land』の続きを朗読しはじめた。再び世界は素晴ら
しい夢の国へと変わり、僕はその喜びに満ちた楽園をただ彼女と共に楽しんだ。それから
というもの、ほぼ毎日僕らは会い、夢の国のおとぎ話を眺めた。そのひと時は僕にとって
至高の時間だった。彼女の不思議な力は僕にとって一番大切なものだった。
 まるでナイアールは夢の国の住民のようだった。最初に出会ったときの雰囲気はこれだ
ったのかもしれない。彼女にはこの世界ではなく、夢の国の方が似合っていた。ナイアー
ルは夢の国から僕の願いを叶えに来た妖精かなと思ったりもした。
 そして数日後、『Dream Land』は全て読み終わってしまった。とても明るい物語で、美
しい町並み、美しい自然、素晴らしい人間達、伝説の動物たちが織り成す最高のおとぎ話
だった。彼女も僕もとても満足していた。
 僕はふと、彼女が今まで一言も触れていない『Crawling Chaos』について訊いてみるこ
とにした。黒い表紙で、金色の文字で『Crawling Chaos』と記された不気味な本について
だ。彼女はそれを訊かれたとき、とても驚いたようだが、いずれは語るつもりだったらし
く、その本について語ってくれるといった。ただし、この本は『Dream Land』のような明
るい話ではなく、とても恐ろしい、狂気に満ちたおとぎ話だとナイアールは言った。
 僕は彼女が言った生々しい注意に慄いていた。つまり、その本を彼女が朗読するという
ことは、僕たちがその恐怖と狂気に満ちたおとぎ話の世界へと行くということなのだから。
しかし、僕は朗読してもらうことにした。何もおとぎ話は幸福なものばかりではない、童
話の中には悲劇的な終わりを遂げるものもある。それもおとぎ話なのだ。だから僕は朗読
をしてもらうことにした。
 彼女が朗読を始めると、世界は闇に包まれた。薄暗い世界で目を凝らしてみると、自分
たちは廃墟の上に立っていた。すると、何かが臭ってくるのだ。それはあまりにも恐ろし
く、残酷なものだった。それは死臭だった。辺りを見回すと、人間の死体がいくつもいく
つも転がっているのだ。あまりの事に吐きそうになり、口を押さえた。そのとき、闇の中
に1人の男が杖を持って歩くのが見えた。肌の浅黒い男で、どこかエジプトのファラオを、
彷彿させるような顔つきだった。僕はその男の表情に浮かび上がる狂気と邪悪に慄然した。
 男が地面を杖で一突きすると、なんと周りで倒れていた死者たちが起き上がり、動き始
めたのだ。虚ろな目で死者たちは男の後ろへとついていく。再び男が歩き始め、恐ろしい
死の行進が始まったのだ。その男達の行くところ、人々の叫び声、断末魔の声、恐怖の声
が響き渡り、そこに残るのは死のみであった。
 次々と場面が変わっていき、目に映るのは捻じ曲がった都市、死に瀕する人々の叫び声、
狂気と殺戮、フルートと太鼓の音色、そして破壊、破壊、破壊。崖の上から月に向かって
吼えるものがいた。その月に吼えるものを見た瞬間、僕は叫び声を上げた。とても形容で
きるものではなかった。その月に吼えるものを見たとき、恐怖を超える感情が芽生え、そ
の姿を10秒も見ることもできなかった。次々と人々の死、世界の破滅がフラッシュバック
し、闇の中で嗤う三つの燃える眼が、世界を、宇宙を手に取り遊んでいた。そして、つい
に、全てが泡のように消え始めたのだ。全ては無に回帰し、残るのは混沌の嘲笑う声だけ
だった。僕はそのまま血の気が引いていき、視界が真っ暗になった。世界が泡沫の夢のよ
うに泡となって消えていくのを見たときに。
 目覚めると、僕はナイアールの膝枕の上で介抱されていた。彼女は、僕があまりの恐ろ
しいおとぎ話の内容に気絶してしまったのだと言った。彼女は謝っていた。早めに止めて
おけばよかったと。彼女は悪くない、僕はそういうと起き上がり、あの悪夢を頭から消そ
うと努力した。
 彼女が言うには、『Crawling Chaos』は最も恐ろしい神ニャルラトテップ≠ニいうもの
についての物語らしい。その神はあらゆるものに姿を変えることができ、時に地球に人間
の姿で現れ、狂気と破滅を振りまいていくという。世界が破滅するときの兆候として杖を
持った男の姿で現れ、全てを混沌に包み込むという、古い神話を纏めたものらしい。最も
恐ろしいおとぎ話だと彼女は言った。
 それ以上、あの恐怖を体験したくはなかったので、『Crawling Chaos』の朗読はやめても
らうことにした。彼女は、こういう恐ろしいおとぎ話を纏めた書物は世界にいくつか存在
して、それらはとても珍しい本で、普通では見ることはできないと言った。そのなかで彼
女が知っているのは『Necronomicon』という本らしい。僕はそれ以上この話をするのは恐
ろしかったので、気分転換として彼女と明るいおとぎ話について語り合い、その日は分か
れた。

 翌日、いつもの時間に公園へ向かうと、彼女が悲しそうな顔でベンチに座っていた。ど
うしたのかと訊くと、今日でお別れ、もう二度と会えないというのだ。いきなりのことに
僕は驚き、詳しい理由を訊ねてみた。なかなかナイアールは口を開かなかったが、やっと
口を開くと言った。信じられない話だと思うけど、聞いて欲しいと。
 彼女は昨日の『Crawling Chaos』に登場するニャルラトテップ≠ノついて語り始めた。
あの神は千以上の化身を持ち、その化身たちはひとつひとつ独立しており、一つの次元に
何個でも顕現できるという。その化身は邪悪であったり、そうでもなかったりするが、化
身が望む、望まないに関わらず、ニャルラトテップ≠ニいう総意に対して都合の良いよ
うに動くようになっているという。化身のなかには自分がニャルラトテップ≠フ化身だ
と自覚していないものもいる。そう、それが――彼女、ナイアールだという。
 普通の人間なら子供の豊かな想像だと笑うだろうが、僕はそうではなかった。否定する
でも肯定するでもなく、彼女の話を聞いていた。ナイアールは昨日の朗読により、自分が
何であるかを思い出したのだという。いや、思い出したというのは正しくない。彼女は自
分が何であるかをニャルラトテップ≠ゥら伝えられたのだ。
 彼女は、自分が化身だと自覚した以上、僕のそばにいると、僕に恐ろしい災厄が下ると
言った。これ以上一緒にいると、間違いなく僕に狂気が舞い降りるという。だから、今日
でお別れだと言った。ナイアールは泣いていた。しかし、泣きながらも笑ってこう言った。
夢の国は貴方の想像なんかじゃない。本当に存在するもの、こことは別の場所でおとぎ話
のような世界があるのだと、ナイアールもそこから来たのだという。『Dream Land』はそ
の幻夢郷について書かれたものであり、僕が見た夢の国の情景は本物だと彼女は言った。
いつか貴方ならそこへたどり着けるかもしれない、泣きながら笑うナイアールは僕にそう
言ってくれた。
 彼女はそろそろお別れの時間だと言った。もう空は夕焼け色に染まっていた。彼女は僕
に抱きつき、頬にそっと接吻をすると「ありがとう」と言い、僕から離れた。彼女の姿は
段々と黒い影に染まっていき、完全に彼女の姿が影に染まると、やがて影は風に乗り霧散
していった。ただそれだけだった。僕の心に虚しく穴が開いたような気がした。

 それから、何度あの公園に、同じ時間に訪れても彼女の姿をみることはできなかった。
彼女の話の真偽はわからない。とても信じられるものではなかったし、昼下がりの安らか
な幻想だったのかもしれない。ただ、一つだけはっきり言えるのは、僕とナイアールの物
語は終わったということだ。
 不思議な体験だった。彼女が世界を破滅に導く神の化身だとは思えない。彼女は優しい
女の子だったからだ。そもそも、ニャルラトテップ≠ネんてものが本当にいるかどうか
さえわからない。彼女は消えてしまった。でも、僕はもう一度彼女に、ナイアールに会い
たかった。しかし、どうすれば彼女に会えるかなど僕にわかるはずもなかった。
 僕はある日、ふと彼女が語った、恐ろしいおとぎ話が記されているという
『Necronomicon』を思い出した。そして、彼女が持っていた二冊の本の事を。途方もない
希書だということは彼女から聞いていたし、簡単に手に入るようなものではないというこ
ともわかっていた。だけど、それを手に入れれば彼女に再び会えるのではないかと僕は考
えた。理由などなく、ただもしかしたらというレベルだった。
 僕はまずは町の一番大きな図書館に探しに行った。案の定、どの本も存在しなかった。
インターネットも使って調べてみたが、『Necronomicon』はとても珍しい書と言われてお
り、半ば伝説だということで、内容には一切触れられていない。後の二冊の本については
検索に引っかかることもなかった。
 次に町のあらゆる古本屋を巡ったが、見つけることはできなかった。店長に訊いても、
そんな本は訊いたこともないといわれるだけだった。見つけることは容易ではないとわか
っていたものの、甘く見すぎていたようだ。ここまで見つけられないとやはり伝説、架空
の書物なのだろうかと僕は落胆していた。
 僕は気を落としながら家路へと着いた。おとぎ話の中に現れるようなナイアールにもう
一度会いたい。恋愛とは別の感情で、ただ彼女ともう一度会いたかった。そんなことを考
えているときだった。考え事をしていたせいか、いつの間にか道を間違えてしまったらし
い。入り組んだ路地裏に入ってしまったのだ。止まっていても仕方がないので、出口を模
索しつつ、歩き始めた。
 寂れた路地裏を歩いていると、一軒の古びた店を見つけた。そこは古本屋だったのだ。
僕は諦めを抱きつつも、心のどこかでまだ残っていた希望に動かされ、古本屋に入った。
店の中は案外広く、手入れもされていた。カウンターに立っているのは年老いた浅黒い肌
の男だった。本棚を見てみると、ほとんど見たことの無い題名の書物ばかりだった。どこ
の国の言葉かわからないものや、腐りかけのようなものまでも存在した。
 店の奥に進み、本棚を眺めていると――僕はついにみつけたのだ。その本には
『Necronomicon』と書かれていた。すぐに手を取ると、表紙にはよくわからない五角形が
描かれていた。題名をみると、間違いなくそれは『Necronomicon』だった。僕の喜びは尋
常ではなく、店で飛び跳ねたいのを堪えるので精一杯だった。
 カウンターへと持っていき、会計を済ませた。実のところ、かなりの希書なので、法外
な値段をつけられていると思ったが、そうでもなかったのだった。かなり安い値段で売っ
てもらえたので、少々ことが上手く運びすぎだと思いつつも、大事に持って歩いた。他の
二冊は発見できなかったものの、『Necronomicon』だけで十分だろう。どうやってナイア
ールを呼び出せるのかどうかはわからないが、とりあえず読んで見なければ始まらないだ
ろう。恐ろしいおとぎ話だといっても、彼女の力で映像にしなければ恐らく大丈夫だろう
と僕は思った。とにかく、これでナイアールともう一度会えるかもしれないのだ。僕は家
に急いだ。路地裏を抜け、僕は家にたどり着いた。
 僕は、『Necronomicon』を開いた。


了