080「同時」


『地球が見える。青くて、丸くて…あなたのいる、地球が』
 3秒後、彼女の声が電話から聞こえた。

 事の始まりは、2年ほど前だった。
 僕と彼女は大学時代からの知り合いで、卒業と同時に付き合い始めた。
 彼女は子どもの頃からの夢だった宇宙飛行士になり、僕は大学院で宇宙物理学の勉強を続けた。
「どうして宇宙飛行士になりたいの?」
 と、僕は彼女に聞いた事があった。
 彼女の返事はあっけなかった。
「宇宙の事が知りたいから」
「それだったら、物理学でもいいじゃないか」
「それじゃダメ。実際に、自分の目で見てみたい。自分たちが生まれ、育った、この宇宙の姿を」
 それは、僕も同感だ。
 僕も知りたい。この広大な宇宙。謎多き宇宙。生命を育む宇宙。僕らはまだ、この宇宙について何も知らない。
 だから知りたい。こんな宇宙が何故生まれたのか。そこにどうして生命が宿ったのか。宇宙はこの先どうなるのか。
 彼女はまた、いつか宇宙を旅したい、とよく言っていた。
 地球に帰って来れなくても構わない。とにかく、広い宇宙を飛んでみたい、と。
「どうして?」
 と聞くと、
「知りたいから。宇宙には、何があるのか…」
 そう答えた。

 そして、2年前。国際的な宇宙機関が、有志を募集し始めた。
 太陽系の外へ、有人ロケットを飛ばすと言うのだ。
 無人ロケットは、既に何機か太陽系外へ飛んでいた。しかし、有人はまだだ。
 亜光速飛行が可能なロケットがいくつか作られ、そこに乗り込む人間を、募集しているのだ。
 その募集要項には、年齢などの細かい制限がたくさん書いてあったが、1つだけ、目立つように書かれた制限があった。
『地球に未練の無い者』
 そう…帰って来れる保障が無いのだ。
 しかし、彼女はその募集を受けたいと言った。僕は、「やっぱり」と思った。
「…あなたが止めるなら、もちろん諦めるわ。あなたが決めて」
 夕食を一緒に食べた後、彼女が言った。
 僕は暗い夜空を見上げてから、言った。
「僕の希望は、君の望みだ…。言っておいで。宇宙」
 彼女の顔が輝いたのを、僕は今でも忘れない。

 それから2年。彼女はついに地球を飛び立った。
 その2年の間に、僕らは結婚した。そうすれば、「身内」として宇宙機関に入れるからだ。
 僕はそこで、電話で彼女と会話が出来る。
「今、ロケットはちょうど月のあたりにいる」
 と、機関の人に言われた。
「どう? 何が見える?」
 僕は、彼女に問いかけた。約3秒の間が空いて、
『地球が見える』
 と彼女は言った。
『青くて、丸くて…あなたのいる、地球が』
 僕はふと、窓から空を見上げた。
「いま、空を見ている。この空の中に、君がいるのか?」
 また3秒ほど、間が空いた。
『ええ。…見えないけど』
 話したい事はいっぱいあった。彼女が地球を発ってから、僕らの会話は制限された。
 当たり前と言えば当たり前だが、少し物悲しかった。

 3か月後、彼女を乗せたロケットは、火星軌道を通過したらしい。
「火星は見えた?」
 僕の質問の返事が来たのは、その8分後だった。
『もちろん。赤い地面の上に、いくつか基地が見えた』
「昨日の夜、火星を見たけど…小さくて、遠いね。君はもう、あんな遠くにいるわけだ…」
 僕が言った言葉が彼女の元に届くまで、約4分。
 彼女が言った言葉が僕の元に届くまで、約4分。
『ええ。…でも、太陽系はもっと広くて、銀河は更に広くて、宇宙はずっと広いのよ』
「すごい話だよな…。どうして宇宙は、こんなに広いんだろう」
 8分間、僕は待ち惚けだ。ただ受話器の前で、ずっと座っている。こんなに寂しい会話は、初めてだ。
『でも、逆に狭かったら、わたし達は存在できないわ』
「人間原理か…」
 物理学の1つの説、人間原理。「何故宇宙は存在するのか」と言う究極の問いに答える、1つの仮説。
「宇宙が今現在あるような形をしているのは、今現在あるような形でなければ、我々が存在できないからである」
 と言うのが、人間原理だ。
 つまり、今あるこの宇宙に、僕らがたまたま生まれたのではなく、
 僕らが生まれるためには、今ある宇宙でなければならない、と言う逆転の発想的考え方だ。
『そうね、そんなところね』
 そこで、僕らの会話は打ち切られた。たったこれだけの会話で、32分も要した。
 宇宙は広い。すぐ隣の惑星、火星まで電話の電波が届くのに、4分もかかる。
 地球上での会話なら、僕が喋ると同時に、彼女の元に僕の声が届く。
 しかし、地球と火星との会話では、僕が喋った4分後に、彼女の元に僕の声が届く。
 もし彼女が太陽系の外に出たら……。

 その1か月後、彼女を乗せたロケットは、いよいよ亜光速体制に入った。
 段階的に加速させ、最終的には光速の60%を出す予定らしい。
 管制塔からの指示で、彼女と乗組員たちは、まずロケットを光速の8%まで加速させる。
 壁のディスプレイには、様々な数字が表示されていた。
 ロケットと太陽の距離、地球を発ってからの経過時間、ロケットの加速度…。
 ロケットの加速度の表示が0から上がり始め、それと同時にロケットと太陽との相対速度も、増えていく。
 僕は嫌でも、一般相対性理論を思い出させられた。
 ロケットが加速すると、中にいる人の時間の進み方は、外にいる人に対して遅くなる。
 それが、一般相対性理論から導かれる答えだ。
 外の空間で1時間が経過しても、中の空間では30分しか経っていない、と言う事が起こる。
 僕の時計が午後3時を指していても、彼女の時計は未だに午後2時30分。
「同時」が「同時」じゃなくなる。同じ時を共有できなくなる。
 1週間後に交わされた会話で、僕は痛烈にそれを感じた。
 その時には、もう電話での会話ではなく、メールでの会話になっていた。
 僕がメールを送った3時間後、彼女からのメールが返ってきた。
 彼女のメールの送信日付は、地球の時間より何時間も遅れていた。

 彼女を乗せたロケットが海王星の横を通りすぎたあたりで、交信は打ち切られた。
 これ以降、彼女たちから写真やデータが送られて来る事はあっても、こちらから何かを送る事は、もうほとんど無い。
 海王星まで、光の速さで約4時間。送ったメールが返ってくるのは、8時間後。
 でも、それでもまだ近い方だ。
 太陽系の半径は、実は未だに正確にはわかっていない。
 一番小さい説でも、光の速さで6時間程度…。大きな説なら、1光年…つまり、光の速さで1年かかる距離。

 加速による時の遅れと、距離による時の遅れ。
 僕と彼女の時は、これから先も、ずっと離れていく。
 地球上で見つめあい、語り合ったあの時間は、もう存在しない。
 僕ら2人が共有できる時間は、もうどこにも存在しない。

 …だけど、地球上にいた時も、時を共有する事は出来ていたのだろうか?
 どんなに近くても、自分の目に光が入ってくるのには、ほんのちょっと、時間がかかる。
 音が耳に届くのにだって、少しだけ時間がかかる。
 僕が見つめている彼女の姿は、ほんの少しだけ過去の彼女だ。
 僕が聞いている彼女の声は、ほんの少しだけ過去の声だ。
 僕たちはみんな、自分の時間…自分だけの時間を持ち、過去の世界を生きている。
 決して仲間を見つける事の出来ない孤独が、絶対に塞ぐ事の無い時空の溝が、僕らの間には存在する。
 でも、だからこそ、僕らは誰かを愛するのかも知れない……。


080「同時」を書かさせてもらったキグロです。こんにちは。 「同時」と言うお題を見た瞬間、相対性理論が浮かんだ自分は、やっぱり理系なんだな、と思いました。 ものすごく久しぶりに恋愛物を書いてみましたが、会話が少ないので恋愛っぽくないと言うか…。 なお、経過時間や星までの距離は、計算ミスがある可能性がありますので…あまり検算しないでください; 多分、あってるとは思うんですけど……。 おまけ;最近気がついたこと。 他の人の作品を読んでから、自分の作品を読むと…ものすごく読みにくい(←段落が少ないから)。