銀色の月


 月は朧に夜を駆ける。

 銀色の光はきらきらと、闇に沈んだ世界に降り注ぐ。

 夜は恐れる世界ではないのだと言うように。

 明日への安らぎを待つように。

 トリスは空を見ていた。
 まあるい月が真っ白な姿を晒して、街は夜だとは思えないほどの明るさを見せていた。

 静かな夜。

 月の光は、音をも吸い込んでしまっているかのようで。

 微かな溜息は誰にも聞かれることなく、少し肌寒い夜気の中に溶けていく…筈、だった。

「トリス、何をしているんだ?」
 背後から不意に呼ばれた自分の名前に、トリスの肩がびくりと跳ね上がる。
 それが誰かなんて、振り向かなくても分かる。

 自分の中の奥深くにまで、一番誰よりも食い込んでいる存在。
 小さなころからずっと、共にいた存在。

 …今は、一番逢いたくなかったひと。

「…おつきさま、見てたの」
 トリスは振り向きもせずに応えた。夜の冷えた風がふわりと吹いて、頬を撫でる。その思いがけないほどの冷たさに、先刻とは別の意味で肩が震える。
 テラスの柵に体重をかけると、きしりと微かな音を立てた。そのままの姿勢で、はるか天の高みにある真円の月を見上げた。

 遠い遠い、遥かに遠くて、手に入らないもの。
 其れが欲しいと泣くのは…誰?

 柵が、またきしりと音を立てた。寒さがほんの少し、和らいだ気がする。
「まったく…君はバカか? 今の状況が解ってない訳でもないだろうのに、こんな夜遅くまで起きているだなんて」
 直ぐ隣から聞こえてくる声。月の光のように、冷たいのに、どこか暖かい。
「ネスだって一緒じゃない。私がバカなら、ネスだってバカよ」
 やはり空を見上げたまま、トリスは言い返す。それにネスティがどんな顔をしたかは…見なくても、わかる気がした。

 銀色の光は粒子のように、二人の上に降り注ぐ。
 深々と降る雪のように。
 切々と降る雨のように。

「…気にすることはないと言っただろう。それとも君は、僕の言葉を疑うのか?」
 ネスティの言葉は、半ば予想したものだった。
「疑ってなんかいないわ。でも…私は自分で、許せないだけ」
 だからトリスは、準備していた言葉を返した。
「ネスもアメルも、優しすぎるんだもの。みんな…お人よし過ぎよ」

 告げられた罪は重すぎて。
 償うことなど出来そうになくて。
 それなのに…みんなみんな、優しくて。
 その優しさが…痛かった。

 自分は罪人なのに。
 そんなふうに気遣われる資格なんてないのに…

「だから責められた方が楽だ、と? …君はバカだな、本当に」
 今度のネスティの声には、先刻までの微かな温かさはなかった。容赦ない言葉のとげが、トリスを貫く。
「…あうう、そこまで言う?」
「当たり前だろう。君のその考えは甘えだ。確かに君を責めることは容易い。…しかし誰もそれをしなかった。それは何故だか、きちんと考えてみろ。…それすらできないというのなら、君はバカ以下だ」
 そこまで一気にまくし立てると、ネスティは柵に預けてあった身体を起こした。きしりと微かな音を立てて、間近にあったぬくもりが離れていく。


 トリスを責めても、何も変わりはしない。悪いのは彼女ではないのだから。
 彼女の身体に流れるのは罪人の血かもしれないけれど、それを理由にして彼女を責めることはできない。
 それは理不尽な怒りをぶつける言い訳にはなるのかもしれないが…それをするには、ネスティもアメルも…傷つき過ぎていた。

 誰かを傷つけることは、自分を傷つけること。

 それが解らなかったのが、彼女と彼の祖先が、犯した罪…


「ごめん…ごめんねネス、心配かけて」
 トリスは月から目を放して、ネスティに向き直った。テラスから出て行こうとしていたネスティは、ゆっくりとその言葉に振り返る。
「君のごめんは聞き飽きた。いい加減、行動に結び付けてもらいたいものだな」
「むう…」
 ようやく彼と向かい合うことができたのに、とトリスは少し膨れた。それでも、ネスティは大股にトリスに近づいて…

「わひゃっ?!」
 自分のマントを外して、ネスティはトリスをそれで包んだ。背の高いネスティのマントは大きく、小柄なトリスはすっぽりとそれに包まれてしまう。
「それだけ自分が冷えていることに気付かないとは、本当にバカだな。…ずいぶん唇が青い。いったい何時から其処にいた?!」
 ネスティの叱責を聞きながら、トリスは与えられた温もりに埋もれて、それを噛み締めていた。

 …なんだかんだ言っても…一番優しいのは、ネスなんだよね…

「…手の届かないものを欲しがっているのは、君だけじゃない」

 不意に響いた呟きに、トリスは弾かれたように顔を上げた。
 銀色の光が、ネスティの髪の上で踊っている。自分をじっと見つめて来るネスティの顔は、今まで見たことがないほど…
「ほら、早く部屋に帰れ」
 それに名前をつける間も無く、トリスはネスティに追い立てられるようにテラスを出て行かざるをえなかった。

 月は朧に夜を駆ける。

 一瞬の感情の発露すら、幻と消し去ってしまうかのように。

 未来は恐れるものではないというように。

 光は朧に降り注ぐ。

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