世界なんて、どうでも良かった。
人間がいくら苦しもうと、もがこうと。幾人死んでも、なんとも思わなかった。
ただ、彼女を護るためならば。
この命を使い果たしても、後悔などするはずも、無かった。
漆黒の闇に、全てが溶けてしまったような感覚。
(…僕は…死んだのだろうか?)
メルギトスの最後の呪い、凝縮された悪意である「源罪」に侵されて。それを食い止めるために自らの身体を投げ出して…力を使い果たし、喰らい尽くされて。ネスティ・バスクという存在は、死んでしまったのだろう。
例えそうだとしても、別にそれでよかった。源罪を食い止めることは、何とかできたのだから。もう既に蒔かれてしまった邪悪の種もあるのかもしれない。しかしそのくらいなら…彼女は負けることは、無いだろう。
自分にしかできなかったこと。異邦人としてのこの身体のおかげで。ネスティはほとんど生まれて始めて、自分が融機人であることに感謝していた。
満足感と安堵、そして奇妙な誇らしさを残して、ネスティの意識はゆっくりと「無」に還る。
この魂は輪廻の円環に組み込まれるのだろうか。それとも再びこの台地に縛られることになるのだろうか。
願わくば、彼女と同じ、ひとのからだを持ちたいと…薄れ行く意識の中で、ネスティはそんなことをぼんやりと、考えていた。
どく、ん。
「何か」がネスティに、触れる。
異質なもの、しかし…覚えがあるもの。それは触れるもの全てを喰らい尽くそうと、貪欲にその手を伸ばしてくる。全てを黒く染め上げようとするそれは…メルギトスが蒔いた、ウイルスだ。遺跡を通してメルギトスと繋がったときに、ネスティの体内に植えつけられた、大悪魔の残した姑息な呪い。
リィンバウムに生きる全てのものが持つさまざまな感情が、黒く歪めて凝縮されている。それがまるで意思のあるもののように、すっかり希薄になってしまったネスティの意識に残る小さな感情たちまでも、汚染しようとしていた。
…しかし、ネスティは改めて気付いた。心の中にある感情…人間たちへの恨み、怒り、あるいはあきらめや憎しみ…自分の心は、そんなどろどろとしたもので満たされていたのだ。いまさら汚染される必要など、ないほどに。
それは融機人としての迫害の歴史でもあったし、蒼の派閥の中での蔑みと偏見の記憶でもあった。今更のようにネスティは、自分の中に根付く人間への嫌悪を認識した。こんな死の、刻前で。
…ああ、やはり僕は人間を恨んでいるんだ!
悪意、悪意、悪意。
ちっぽけで微かなネスティの意識を飲み込み、喰らい尽くし、染め上げてしまおうとする絶対的な悪意。
ネスティはそれに逆らわなかった。もうそんな気力も残ってはいなかったし…そんな必要も、感じなかった。どうせ自分の中に残っているのはこんなどろどろと醜い感情だけなのだから、このまま汚染されて取り込まれてしまっても一向に構わないように思えた。
もう考えることすら難しい。どうでもいい、このままこの闇に溶けてしまえたら…
意識が空虚に落ちていく。
少しづつ、侵食されていく。
痛みは無かった。何も、感じなかった。
ただ、自分自身というものが少しづつ、希薄になっていくだけで…
(………?!)
魂にまで染み込んでいく「源罪」が、ネスティの心の底、一番深いところへまで手を伸ばす。
そこに在るのは…たった一人、この世界を護りたいと思った理由である少女への…純粋な想い。
過去に囚われ、記憶に縛られていた自分の心の中で、唯一自分が自分で選び、見詰め、恋した少女への想いが、泥にまみれた宝石のように、そこにあった。
それだって、確かに綺麗なだけのものではなかったけれど。
剥き出しのどろどろとした欲望も、確かに混じってはいたのだけれど。
それが穢されることだけは…耐えられなかった。
(止めろ! それに触るな! それを穢すんじゃない!)
叫ぶ。物理的な声ではなかったけれど、その気迫は、闇を…メルギトスによって増幅された悪意を、怯ませるだけのものがあった。
(それは僕のものだ、僕の想いだ! 僕が…僕がトリスを、好きだという「気持ち」だ!! それを穢させる訳にはいかない!!)
相次ぐ戦いに消耗し、疲弊しきっていた魂が、ありえないほどの力を放つ。
悪意に食い尽くされる寸前だった瀕死の意識が。
たった一つの想いを核として、うねる光の波となって…
闇を、浄化する。
…
……
………
気がつくと、ネスティの意識は、光の中にぽっかりと浮かんでいた。
頬を撫でるのは、柔らかな風。
(…僕は…どうなったんだ…?)
記憶が混濁していて、良くわからない。思わずぐるりと辺りを見回そうとして…ネスティは、自分の意識が、一本の巨木と同化していることに気付いた。
(…これは…っ?!)
その時、唐突に悟った。…これは自分の、トリスへの想いの形なのだと。
トリスを想う気持ち。彼女の苦しみを、少しでも取り除きたい。彼女の笑顔を護りたい。…その確固たる想いががメルギトスの蒔いた「源罪」を、悪意を浄化し、ネスティの個としての意識を護ったのだ。
そしてこの姿は…世界にばら撒かれた穢れを、浄化するための仮代。
彼女への想いの強さが、この世界を浄化していくのだ。それは純粋な「誰かを愛する」想いこそが、メルギトスの呪いの対極にあるものだからなのかもしれない。
…そして、時が廻れば。
許されし時が来れば。もう一度、彼女と同じ場所に立てるのだと。この苦しいほどの想いを告げることができるのだと。
ネスティはそれを知っていた。誰がなにを言ったわけでもないけれど。
(…だから…もう少しだけ、待っていてくれ。君への愛しさがこの世界を埋め尽くすまで…)
「自分」の足元に縋って泣きじゃくるトリスの慟哭は、全てネスティに聞こえていた。嬉しさと寂しさと苦しさが綯い交ぜになって、ネスティの意識を満たす。
(もう少しだけ…待っていてくれ。必ず君の元へ…還るから)
震えるトリスの髪を撫でる代わりに、静かな風で髪をかき回す。それに気付いたのか、トリスは涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、辺りを見回した。
「…ネス…?」
微かな呟き。ネスティは、それだけで満足だった。…今は。
そして、「聖なる大樹」の伝説と、悲しみの二年間が、始まる。 |