常識は残酷なまでに無力だ。
 今日、街が空を飛んでいるという事実を、ひと月前の誰が想像出来ただろうか。
 軍隊が街を闊歩し、無実の人が殺される。そんな毎日が訪れる事を。
 非常識が常識になり、人は其れに怯え狼狽えるしか出来ない。

 今夜この街で、どれだけの人が空に向けて祈るのだろうか。
 平穏が戻る事を。
 自分と自分の愛する人が何事も無く生きていられる事を。

 どれだけの無力な人が、祈るのだろうか。


「…なんだか、皮肉よね」
 鈍い朱に光る空を見上げ、舞耶が不意に言葉を漏らした。
 疲れ果てた身体を休めるための、束の間の休息の時間。
 その幽かな声を拾った克哉が、振り向いた。瞳に映る彼女の横顔は、痛々しい微笑の色を湛えていて。
「天野君?」
「…この世界は、みんなが、カミサマに祈った結果なのに。それなのに、その祈りが、今、更にみんなを苦しめてる…」
 克哉の呼び掛けに答えたわけではない、その言葉。比喩に込められた悲しみの微粒子が、物質を伴わない涙を作り出す。
「どうしてかな…。みんな、幸せになりたいだけな筈なのに…」

 死んでしまった向こうの世界の「彼女」。
 生きて、戦っているこちらの世界の「彼女」。

 この世界を作った祈りの代償。
 彼女がここで生きて行く為に払われた、犠牲。

「だいすきだったんです、みんなの事が。本当に」
 虚空に向けられた言葉は、過去形で。
「でも、みんなの祈りが、わかるから。だから私は、全てを、忘れます…」
 自分を護る為に、大切なものを手放した、大好きな弟妹達。
 今もなお、自分を護ろうと闘っている少年。

 忘れなさいと言った、向こう側の自分。
 祈りによって生かされている、こちらがわの自分…

 忘れると言って忘れられるわけではないけれど。
 思い出してはいけないのだと、そう思った。

「天野君…」
 克哉はなにも言えなくて。ただ舞耶の名を呼ぶ事しか出来なくて。
「…ごめんなさい、克哉さん。へンな事言っちゃいましたね、私…」
 舞耶の浮かべた笑みには、もう先刻の痛みの影は無い。それが彼女の、強さ。
「…君は幸せにならなければいけない。この世界の、誰よりも」
 そう言ってしまったのは、何故だろう。理由は解らなくても、口にしてからその言葉の必然性に、気付いた。
 それは予言ではなく、希望でもなく。
 ただ、確信だった。
 舞耶は軽く瞳を見張って、そして微笑んだ。まるで花が開くように。
「…はい、克哉さん」
 二人の間には、今はそれだけで十分だった。

 戦いの行方はまだ闇の中でも。
 それは予定された未来のように思えた。



 祈りを乗せて、街の上を時が過ぎる。
 誰に向けた祈りかはわからないけれど。
 今日もまた、一つの祈りが、街を動かすのだろう。

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