Close by your side

 ポケットの中で、携帯電話が自己主張を始める。
 真夜中近くになってようやく激務から解放された克哉は、歌い続ける携帯を取り出す。闇の中に浮かび上がるディスプレイを見ると、そこには「天野舞耶」の文字。
「もしもし、天野君?」
『あ…克哉さん、今、御暇ですか…?』
 肉声ではない、機械を通して聞く声は、何処か揺れているように聞こえる。
 まるで泣き出す直前のように。
「今仕事が終わった所だけど…どうかしたのかい?」
 返事は沈黙。普段の舞耶の明るさは、何処かに消えてしまったかのような、弱々しい印象。
『…じゃあ、ちょっとだけ、逢えませんか…? 今日、うららもいなくて…』
 寂しい、と言葉で言われたわけではないけれど、舞耶の声はそう言っているようだった。
「ああ、大丈夫だよ…」
 断れるわけがない。
 こんなに孤独を訴えている舞耶を、この夜の闇の中に一人でいさせられるわけがない。
 即答した克哉の声に、舞耶は少し気が楽になったようだった。
『良かった…じゃあ、うちに来てくれませんか? 待ってますから…』
 さっきより少しだけ明るくなった声が、克哉の耳の中に響いて消える。
 静かになった電話を仕舞いながら、克哉は小さく溜息をついた。
 舞耶は克哉の気持ちを知っているはずなのに。それなのに無邪気に頼ってくるのは何故なのだろうか。宙ぶらりんになったままの気持ちは何処にも行き場を見付けられなくてまだ二人の間を彷徨っている。
 あれから改めては何も言っていない克哉が悪いのかもしれない。
 しかし今の舞耶にはとても言う事が出来なくて。

 二人を同時に縛っているもの。
 それが何なのか、克哉は痛いほど感じていた。その事実が辛くて。

 外は、絹糸のような雨が降り出していた。

「すいません、克哉さん、こんな遅くに…」
 ほんの少し影が差したような笑いは、最近舞耶が浮かべるようになった表情。あの闘いが終わってから。
「いや、僕の事はいいんだ。天野君は…その、大丈夫かい?」
 こんな時気の聞いた事が何も言えない自分を、克哉は腹立たしく思った。それでも舞耶はほっとしたように頷いてくれる。その笑顔に感じるのは喜びと、鈍い痛み。
 彼女が今見ているのはなんなのだろうか。
 自分ではなく、自分に良く似た顔を持つ人間…今はもうこの世界の何処にもいない人間を見ているのではないかと、心が騒ぐ。
「…なんだか、こんな夜に、一人になるのがイヤで…ダメですよね私。こんな時こそポジティブシンキング、のハズなのに」
 抱き締めたいと、思った。その笑顔が痛々しくて、見ていられなくて。
 しかしそんな弱みに付け込むような事は出来無いと自分を律した理性は、紳士なのかそれともただの意気地なしなのか、克哉には判断が出来なかった。
 出来たのは、自分に出来るだけ優しく笑って、彼女に告げる事だけだった。
「今夜は、僕がここにいるから。今夜だけじゃなくて、天野君が呼んでくれたら、すぐに来るから…」
 自分は本当はとても卑怯なのかもしれない。
 彼女の側にいられるという特権を行使している、それだけで『彼』には負けるはずがないのに。それなのに彼女の中の『彼』の影に怯え、一歩を踏み込む事が出来ない。

 でも。
 魂に刻み付けられた鮮やかな日々を全て潔く捨て去る事が出来るほど、人は強くはないから。

 部屋の中は静かだった。
 微かに、外界を走る車が水を弾く音がここまで響いてくる。それすら部屋の中の沈黙を引き立てるようで。
「…克哉さん、ごめんなさい…私、何時も何時も、貴方に迷惑ばっかり掛けてる気がします…」
 舞耶が浮かべた笑みは、克哉がここに来た時に彼女が浮かべていたそれよりも、明るくなっているように見えた。
 それだけで、克哉は今は満足だった。
「迷惑だなんて、僕は思った事は無いよ。遠慮なんてしなくていい」
 今、必要なのはきっと、時間なのだろう。
 彼女の中の『彼』が、本当に『思い出』に、変わるまで。朧気なそれが彼女の静かな眠りを奪うのなら。
 自分は彼女の『思い出』を映す鏡になってもいい…そう思った。
「…克哉さんは何時も優しいから…私、甘えちゃってますよね…」
 微笑んだ顔のまま、舞耶の両目から涙が零れ落ちる。
 克哉はその顔を見ないように、そっと舞耶の細い肩を抱いた。
「無理はしないでいいんだ…天野君、僕の前では…」
 愛しさは一瞬ごとに加速していく。
 今すぐ自分の全てをぶつけたいという欲望と、彼女を惑わせる事はしたくないという想いが、振り子のように心の中で揺れる。
 しかし自分の中で一番強い気持ちは、舞耶に何時ものような明るい笑顔が戻ってくる事。
 それまでは今のままで、いい。

 雨音が響く。静かなそれはまるでオルゴールの音色のようで。
 声も泣く涙を流す舞耶を抱き締めたまま、克哉の心は凪いでいた。

 この痛みが何時か静かな記憶に変わるまで。
 ずっと待っているから。ここで、一人でいるから。
「今日はもう、眠った方がいい。僕はずっとここにいるから…」
 だから…今夜は、おやすみ。明日になったらきっと、また痛みは少し薄れている筈だから。
 祈りを込めて、克哉は舞耶の細い身体を抱く腕に、ほんの少し力を込めた。

 ずっと、君のそばにいるから。

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