青い闇 |
| 僕には…弟が、二人、いる。 一人は、正真証明、僕と同じ血を引いていて、同じ家で育って来た。ごく普通の人間。 もう一人は…僕達が暮らす世界とは違う世界に存在している。たった独りで戦っている…戦わなければいけない、存在。 本来なら、存在を知るはずのない『別世界』。そこに住む達哉。僕の知る達哉とはあからさまに別人で…それでも、僕の弟で。 出会うはずのなかった存在が出会った事こそが、罪の証なのかも知れなかった。 二つの世界、二人の達哉、犯された罪、そして罰。 罪を犯したのなら罰を受けるのは道理。 では、世界を滅ぼさんとするほどの罪を償うには、どんな罰が与えられるのだろうか…? 日の落ちた空を仰ぐ。薄明に淡く照らされた世界は、青く染まっているように見える。 陽が消えて、闇が世界を満たすまでのほんの僅かな時間の落差。それをもっとはっきり感じたくて、人前ではまず外すことの無いサングラスを外した。途端にクリアになる世界。 闇が、青い。それはまるで視界が少しずつ闇へと成長して行く途中を切り取って見ているような感覚で。 逢魔が時…魔に逢う時と古人が慣わして居た事が頷ける。 そしてふと考えた…この『魔』というのは、自分の心の中からくるものかもしれない、と。 達哉の事を考える時、僕の心はただ一色限りのものでは有り得無い。達哉への想いは…無事で居てほしいと言う慈しみと共に、紛れも無い憎しみが、確かに存在しているのだ。 それは、僕の心を占める人と、今でも想い想われていると言う事実の持つ痛み。憧憬にも似た、嫉妬。 そしてなにより、向こうの世界の『彼女の死』に、責任を持つものなのであると言う、こと。 あの時出会った、僕の影は。僕は達哉を憎んでいると言った。それは事実なんだ。 目を逸らす事はできない。このどろどろした感情も紛れも無く、僕の生きて居る証。僕が僕である事の証明。 しかし、どうする事も出来ない。『あの』達哉と僕達は、死よりも絶対な別離をした。もうどうやっても、逢う事が出来ないと。そういう別れだった。 『達哉』が『達哉』ならば、この思いはどうにかして昇華する事が出来るのだろう。それが出来るからこそ、人は人間として生きていくことが出来るのだから。それが出来るからこそ、あの金色の蝶は僕達を見守っているのだろうから。 でも、今僕の認識できる達哉は…僕のこの思いの標的ではなくて。この身勝手な気持ちをぶつけるべき存在ではなくて。 だからそれが苦しい…どうすれば良いのかが解らなくて。 なあ、達哉。 お前は、向こうの世界で、今どうしているんだ? 今も独りで戦っているのか? 今でも―――天野くんを想っているのか? お前の痛みを、僕は解る事が出来ない。僕の痛みをお前が知る事が出来ないのと同じ様に。 そして僕の痛みは、お前から見たら理不尽で、迷惑なものなのだろう。ただの逆恨みだと思うかもしれない。いや、それどころか、僕が痛みを感じることこそが、お前の傷を抉る事になっているのかも知れ無い。 お前は天野くんを失った。永遠に。 そして天野くんも、お前を失った―――そう、永遠に。 けれど、お前と天野くんの絆は、切れる頃は無いのだろう。実体は無くても、記憶までは消えない。そして往々にして、記憶だけの方が、思い出というモノは強固になるものだ。 切れることの無い、絆――― なあ、達哉。お前はこんな僕の心を知ったら、何て言うんだろうな? 僕のこの醜い心を知っても、それでも、天野くんを、僕に任せると…そう、言えるのか? でも、僕は。 彼女が好きなんだ。 掛替えのない弟であるお前にすら、嫉妬を感じてしまうほど。 彼女の事が、大切なんだ。彼女の全てでいたいんだ。 だから――― 「…克哉さん?」 舞耶が、首を傾げた。克哉の顔が、酷く、真剣なものであったから。 呼び出された青葉公園。誰もいない、しんと静まりかえった空間。向き合った二人は、お互いを見詰め合っていた。 「天野君…僕は…」 何かを決断するような、厳しい表情の克哉。見ていて痛々しさすら感じるほどの。 「…僕は、まだ…達哉の事を引きずっている。いっそ恨んでいる、憎んでいると言っても良いと思っている…」 突如吐き出された告白に、舞耶は驚いたように目を見開いた。薄い闇のヴェールに、克哉の顔は霞んで良く見えない。 「君の心の一角を、確実に占めている達哉に。僕は嫉妬している。…たとえもう達哉には逢えないと解っていても、君と達哉が、姉と弟のようなものであったと頭では理解していても。如何しようもないんだ。僕のこの弱い心が、単純な捌け口を求めて、達哉に対して理不尽な憎しみを形作っているんだ…」 それは、紛れもない懺悔だった。苦しみの色を滲ませながら吐き出される一つ一つの言葉に、舞耶は小さく頷いた。 克哉の手が、舞耶の手を握る。まるで溺れた者が何かに縋ろうとするかのように。 「克哉、さん…」 「醜い考えだってことは、解っている。それでも、この思いを昇華するには、時間が掛かるだろう。…あのシャドウの前で言った事は、嘘ではないけれど、僕の中にそれらの憎しみが残っていることは、事実なんだ…」 その手が震えていることに、舞耶は気付いた。自分を曝け出す痛みに、克哉は耐えているのだろう。それは容易に察することが出来るほど、あからさまなもので。 「だから…だから、天野君。もう少し…もう少しだけ、待っていて欲しい。僕がこの気持ちを、乗り越えるまで。それまで、待っていてくれないか…」 何を待つのかは、克哉は言わなかった。いっそ険しいとも言えるような表情で、克哉は舞耶の顔を見詰めるだけ。 沈黙が、流れる。息の詰まるような瞬間。 「…いやです」 そして告げられた言葉は、純粋な否定の言葉。その意味に克哉は小さく瞠目し、自嘲の笑みを浮かべた。 「そうか…済まない、忘れてくれ」 掴んだままだった手を、離そうとする。しかし、手は舞耶の温もりに覆われたままで。 「どうして、乗り越えるまで待たなくちゃいけないの?」 舞耶の言葉に、克哉は驚いたように伏せていた顔を上げる。 微笑む舞耶の顔は、静かだった。 「乗り越えなくても、良いじゃないの。私は、克哉さんの中に、どろどろしたものがあるのを知ってるわ。だって、誰にでも闇はあるものだもの。私の中にだって、醜い部分はある。克哉さんにだってあって当然よ。…それに、私はそんなどろどろした所のある、今の克哉さんが好きなの」 さらりと形作られた言葉は、今までの自分達の間には、存在しなかった意思表示。 悩んでも悩んでも、自分は越えられなかった壁を、ひらりと目の前で飛び越えて見せられて、克哉は絶句するしか出来なかった。 「だから、言ってよ克哉さん。待ち終えた私に、貴方はなんて言うつもりだったの?」 一瞬の逡巡はなんの為か。それでも、ここで何も言わないでいることなど出来る筈も無く、克哉は言った。 「…天野君。僕と…僕と、結婚して、ください」 その言葉に、舞耶は満面の笑みを浮かべた。花開くような笑み。 「私、ずっとその言葉を待ってた。貴方がそう言ってくれるのを、待ってたの」 ようやく、克哉は微笑む事が出来た。全ての憂いを溶かすような、舞耶の笑顔に誘われるように。 そしてそっと、その躰を抱き寄せた。 達哉、お前はこの展開を見て、どう思うだろうか。 僕は彼女のことを、とても好きで。その気持ちはきっと向こうの達哉にだって負けないだろう。それは、達哉が『達哉」である時からずっと、そうだった。 でも、その達哉が、枷となってしまっていた時は。僕は…いや僕達は、一歩も前に進めなかった。臆病な僕は、達哉の影にやはり脅えていたから。そして彼女は。もういない達哉の呪縛に、縛られていたから。 乗り越えようと、昇華しようと足掻いていたのは、僕だけじゃなくて、彼女も。あの返事は、僕だけでなくて、彼女自身にも向けられたもので。 それが解ったから。痛いほど感じたから。だから。 だから僕は、彼女に告げた。これからの時を共に、紡いで行こうと。 達哉…お前は、こんな僕達を、祝福して、くれるか? 静かな誓いの口付けは、朧な青い闇に沈んでいった。 |