優しさと弱さ、甘えと純心 |
| …あの事件が、終わってからも。 共に死地を潜り抜けた四人は、たまに集まっていた。集まって何をするのかと言われても、酒を呑むくらいではあるのだけれど。 その日も、四人は居酒屋しらいしで呑んでいた。 「…ねぇ、克哉さん」 舞耶が、くすくすと笑いながら、隣に座る克哉に呼びかけた。克哉はちびちびと舐めていたグラスから顔を上げて、舞耶を見る。顔が既に赤いのは、アルコールの所為か…さて。 「どうしたんだい、天野君?」 「ううん…あのね、なんだか、おかしいな、って思って…」 「おかしい…とは?」 断片的な言葉だけでは意味を掴み切れなかった克哉が問い返しても、舞耶はくすくすと笑うだけ。その手のグラスに注がれていた酒は、もう既に底に僅かに残るだけになっている。 「天野君…大丈夫かい?」 「…ねえ、ほら、見て、あっち」 気遣わしげに舞耶を見る克哉に、当の舞耶はやっぱりくすくす笑いながら、正面を指差した。 克哉がその指の指す方向を向くと…そこでは、うららがパオフゥに絡んでいた。 「…嵯峨と芹沢君じゃないか、いつも通り酔っている。あれがどうかしたのかい?」 舞耶が指を指したりしなくとも、相当にテンションの高い二人の会話は、耳を塞ぎでもしない限り聞こえてくる。エボニーやパラベラムでは、確実に摘み出されるような騒ぎだ。いつもこれだから、この面子で呑む時はここか舞耶とうららのマンションでということになっている。 ぎゃいぎゃいと騒いでいる二人―――とりあえず、今は手は出ていないようだ。うららはこと徒手空拳という状況では多分この中で最強だ―――は、特に変わっているようには見えない。克哉の知る通りの二人で、それだから克哉にはまだ、舞耶の言いたいことが解らない。 「だってね、だってね…うらら、すごく倖せそうなの」 酷く優しい声音で呟かれた舞耶の言葉に、克哉は驚いて舞耶の顔を見た。先刻までの笑い顔とは少し違う…声と同じ、優しい笑みを、舞耶は浮かべていた。 「…そうなのかい?」 もういちど、克哉は騒いでいる二人を見る。しかし克哉の目に映る二人は、いつも見慣れた二人のままで。 「…僕には、違いが良く解らない」 「それは、仕方ないかもね。私とうららは、付き合い長いから 舞耶の目は、騒ぐ二人…うららをじっと見詰めている。克哉もつられてうららを見た。 ほんのりと頬を染めて、パオフゥの首に腕を掛けて締め上げている。まぁ、パオフゥも眉を顰めていなせる程度なので、力が篭っているわけでも無いのだろう。早口でまくし立てる言葉の内容は他愛の無い戯言のようだ。 酒を飲んで、頭を空っぽにして騒いでいる…そんな印象。 「あのね、うららはね、あんな風に…思い切り笑って騒いだりしなかったの。少なくとも、誰かが見てる前では」 ぽつりと、舞耶が呟く。 「ずーっと、仮面被ったみたいに、御愛想の笑いを張り付けて。誰もいないところで、一人で感情をぶちまけて。私にもなんにも言ってくれなかったけど…私は知ってた」 「天野君…」 舞耶はもう、うららを見てはいなかった。その瞳が見つめるのは、おそらく、どこかもっと遠く…時空すら隔てたところに、あるのかもしれない、『もう一つの世界』。 「あの戦いで、シャドウに逢って、自分の汚いところ見せ付けられて…それでも、それだからうららは何かを吹っ切る事が出来た。あんなに倖せそうに笑うことが出来るようになった。…そう思うと…」 また、舞耶はくすくすと笑って、そして目を閉じた。 「…そう思うと、あの戦いは、災いじゃなかったのかなって思うと、なんだかおかしくて。傷だらけになったのに、それなのに笑えるなんて、おかしくて、おかしくて…」 舞耶は俯いて、肩を震わせた。それは決して笑いのためではなくて。 克哉はその舞耶の細い肩を抱くようにして、立ち上がった。そのまま店を出る。支払いの事やら放ってきた二人の事やらが脳裏を掠めたが、今はそれどころではなくて。 舞耶は声も上げずに、肩を震わせたまま…それでも克哉に従った。 公園と言うよりも、空き地と言った方が相応しいかもしれない、小さな空間。 薄暗く、人の気配すらないそこに、二人はいた。 「…落ち付いたかい、天野君?」 肩を震わせ続ける舞耶の背を、あやす様に撫でていた克哉が、優しく呼びかける。舞耶はまだ顔を上げずに、それでも微かに頷いた。 「無理はしなくてもいい、ここなら誰も来ないから…もう少し落ち付くまで、ここにいよう」 何も出来ない自分が、克哉は歯痒くて堪らない。結局出来るのは、内心の悔しさを噛み殺して、悲しみに沈む舞耶を慰める事だけ。 彼女の悲しみの根源を、癒すことはまだ出来ないのか――― 「…ごめん、なさい、克哉さん。いつも、いつも…」 細い細い声が舞耶の唇から転がり出て、克哉は背を撫でる手を止めた。…まただ、彼女こそ、自分を押さえている。克哉はそう思った。 「いいんだ…いいんだ、僕のことは。天野君…」 「…あんまり優しく、しないでください、克哉さん…」 克哉の声を遮るように、呟かれた舞耶の言葉は、克哉の胸に突き刺さった。 「天野君…?!」 「…克哉さん、ごめんなさい。貴方に頼りきりじゃ、いけないの、解ってるのに…私結局、いつも貴方に甘えているから、きっと…」 呻くような舞耶の声。雷に打たれたような衝撃が克哉の背を走る。 慌てて舞耶の顔を覗き込む…舞耶は悔しさに唇を噛み締めていた。心の底から吹き上げる衝動をこらえるような顔。堪え切れない衝動を持て余しているような、潤んだ瞳。 「…私、ずるい女なの。克哉さんは優しいから、私が泣いたら、きっと放っておく事なんて出来ないって知っていて、それでも泣いてしまうの、克哉さんに優しく心配して欲しいから…」 切れ切れの言葉は、神に捧げる懺悔のように聞こえた。頭を垂れて、声を震わせたままで。それでも自分の心の内部を、曝け出す。 「うららだって、あの戦いで、辛い事沢山、あった筈なのに。自分の汚いところ見せ付けられて、泣いて、怒って、打ちひしがれて…それでもそれを自分のものに吸収して、あんな風に笑えるようになったっていうのに…私はまだ、囚われたままで。弱くて、一人で立つ事が出来なくて…うららの事羨ましいのは、私なの。あんなに自然に笑えるうららが、私は羨ましいの。倖せそうなうららが羨ましいの!」 叫んで、舞耶は克哉にしがみ付いた。まるでそれにしか縋るものが無いかのように。 でもそれは一瞬のこと。まるで磁石の同極同士が触れ合ったかのように、舞耶は身体を離した。 「…ほら、私は、やっぱり克哉さんに甘えてるの。こうやって縋り付けば、克哉さんは慰めてくれるから。克哉さんが慰めてくれるの知っていて、優しくして欲しいから、克哉さんの前で泣くの。これ以上傷つけられたくないから、克哉さんを利用してるの。私は克哉さんに優しくされる価値なんて無いのに…」 それは慟哭だった。それは懺悔だった。それは…告白、だった。 「私は達哉くんを失ったわ。私の事助けようとしてくれた彼とは、もう二度と逢えないの。その傷がまだ痛いの。あんな風に四人で会っていると、どうして達哉くんがここにいないのかしらって、傷が疼くの。その傷が痛くて、忘れられなくて、だから泣くの。泣いたら克哉さんが慰めてくれるから…これって克哉さんにとっても達哉くんにとっても失礼な事なのに」 自分の全てを吐き出すように、舞耶は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。 克哉は何も言えなくて、ただその様子を見ていた。 「うららが倖せになってくれて嬉しいのは本当なの。でもやっぱりうららが羨ましいの。うららは本当に自分のしたいこと見つけて、本当に側に居たいと思える人と一緒にいて。素直に自分を曝け出して、笑い合えて…心の中にいっぱいいろいろ抱えているのかもしれないけど、それでも笑えて。私はまだ、そんな風には笑えない…」 勢い良く吐き出された言葉が、次第に力を失って、舞耶はまた俯いた。自分で自分を抱きしめる様に腕を回す。 「優しくして欲しいの、慰めて欲しいの、抱きしめて欲しいの…でもそんな事じゃ、一生前には進めないの、解ってるの…解ってるのに、そうしてほしいの。私…駄目だよね、こんなのじゃ…」 涙に引きつった声を上げて、舞耶は笑った。どこか歪んだ笑い。無理矢理笑おうとしている、そんな笑い。 その様子が、痛々しくて、見ていられなくて…克哉は舞耶を、抱きしめた。強く、強く。 「…克哉さん…?!」 「…君が、抱きしめて欲しいと願う人間は、僕以外にいるのかい?」 舞耶の肩に顔を埋めるように、克哉は呟いた。舞耶は身体に直に響いてきた言葉に、驚いたように目を見張り…微かに首を振った。 「…僕が君を抱きしめたら、君の傷は少しでも癒されるのかい? それとも抱きしめている間だけ、感じなくなるだけなのかい?」 その返答に、克哉は重ねて問い掛ける。真剣な、響き。 「克哉さん…」 「教えてくれ、天野君…僕は君の心を、麻痺させる事しか出来ないのかい?」 まるで克哉の方が縋り付いているかのような、そんな響きを持った声だった。 「…そんなこと、無いです…。克哉さんに抱きしめられているの、すごく、安心する…」 舞耶の返事は、吐息のようにか細かった…それでも、これほど近くにいるのだから、聞き逃すわけが無い。 克哉は、その細い身体を抱きしめる腕に、力を込めた。鼓動がはっきり感じられるほど、二人は近くにいる。 「…君が、望むなら、僕は何時でも君を抱きしめてあげる。僕が君を抱きしめる事で、君がほんの少しでも安らげるのなら…それで、いいじゃないか…」 響き逢い、共鳴するような鼓動が、届くだろうか。 正反対の傷に慄く、それでも二人は確実に同じ孤独を抱えているのだった。 「君が自分を狡いと言うのなら、僕だって狡い。君の中にまだ達哉がいることを知っているのに、こうやって君を抱きしめている。君に望まれているからじゃない…僕が、そうしたいからだ」 言葉に、舞耶の肩が跳ねる。克哉はその動きすら封じ込めるかのように、強く、舞耶を抱きしめる。 「君が怯えているのを、僕は知っている。それでも僕は、そうやって君が怯えているのを利用している。君は泣きたい時にしか、僕を頼ってくれないから…」 「だって私、克哉さんに甘え過ぎているんだもの。一人で立っている女になりたいのに、克哉さんといると、どうしても我慢出来なくて…」 声の響きは悲痛な慟哭なのに、それが意味するものは、まるで甘い睦言。 「一人で立つのが辛いなら、たまに誰かに甘えてもいいじゃないか。僕は…君に甘えられるのは、嬉しい。君が僕を必要としてくれるのが嬉しい。他の誰でも…『達哉』でも無い、僕を。僕だけを…」 そっと、克哉は舞耶の髪を撫でる。あやす様に、心を静めるように。大切なものを、護るかのように。 「僕は、君になら利用されても構わない。君のために、僕が役に立てるのなら、それは僕にとって喜びなんだ。君がいるだけで、僕は生きていける…強くなれる。そう想う事は…いけない事かい?」 克哉の手か、心臓の音か、体温か、それとも言葉か…舞耶の興奮が、少しずつ落ち付いたものになっていく。 それでも、克哉の腕から逃げようとはせずに、ただそっと抱きしめられるままになっている。 「芹沢君は、天野君よりも早く、傷を癒せたのかもしれない。だからと言って、天野君の傷はいつまでも塞がらないままだなんて事は無い。ゆっくりでもいい、少しずつでも癒されているのなら…焦らずに、待てばいいじゃないか」 幼子に呼びかけるかのような、静かな声。それでも、舞耶の顔は徐々に穏やかなものになっていく。 「天野君が望めば、僕はいつでも、君の側にいるから…」 「克哉さん…克哉さんは、やっぱり、優し過ぎるわ。私、いつまでも甘えてしまいそう…」 「大丈夫だ…天野君は、自分の足で歩いて行ける強さを、十分持っている。それでも、人は一人きりで生きて行くものじゃないから、誰かに頼りたくなる事だってある。天野君にとって、その誰かが、僕の事なら…僕は、嬉しいよ」 …ゆっくりと、舞耶が身体を離した。克哉はそれを静かな瞳で見つめていた。 涙で少し化粧が崩れている。それでも、その時克哉が見た舞耶の笑みは、酷く綺麗なものに、映った。 「…私、甘やかされると、調子に乗るわよ?」 「別に構わないよ。君が我侭を言うのは、僕にだけだろうからね」 「…もちろんよ」 ようやく、いつものような笑みを取り戻した舞耶が、今度は自分から克哉に抱き付いた。 瞬間、克哉の顔が闇の中でも判るほど赤く色付く。 「あ、天野君っ…」 「なぁに? 私の我侭、聞いてくれるって言ったわよね?」 慌てた様子の克哉に、舞耶はくすくすと笑う。 「それにさっきまで、あんなに強く抱きしめてくれていたのに」 赤い顔のまま、克哉はそっぽを向く。まるでさっきまでの彼とは別人だと、舞耶は笑った。 「…あのね、嬉しかったの」 ぽつりと落ちた呟き。克哉は赤い顔のまま、それでも舞耶の背にもう一度、腕を回した。 解っている。まだ、傷は痛みを訴えている事。 それでも、傷付いた瞬間は血を流していたのだから、それよりはまだ癒えているのだろう。 いつかは、この傷も跡を残して、消えてしまうのだ。それは想像でしか無いけど、きっと来る未来。 大丈夫―――それまで、たとえ堪らなく傷が痛んでも、側にいてくれる人がいるのだから、耐えて待っていられる。 そしていつか…二人で、この傷の事を、語り合える時が来れば――― |