![]() クリスマスカラーにラッピングした上等のシャンパンとプレゼントを携えてはるかの部屋にやってきたみちるは、食卓を一目見るなり、意表を突かれて声が出なかった。 「みちる?」 はるかに語尾をあげるようにして名前を呼ばれても、みちるは即座に反応できなかった。いつもはただ広いだけの食卓に一面に並べられていたのは、昔懐かしい日本の料理だった。しっかりと炊かれた感じの筑前煮、肉じゃが、煮魚、ふっくらと焼かれた玉子焼きに湯気を立てているけんちん汁、等々。よく見るとテーブルの隅の方には、いかにも甘い物が苦手なはるかの選択らしい目立たないほど小さなクリスマスケーキや、UFOキャッチャーで取ってきたと思われるサンタやらトナカイやらのぬいぐるみが置いてあり、部屋の中には本物の鉢植えのモミの木が据えてあったりもするのだが、だからといって食卓の上の料理がつくっている世界とクリスマスとの無関連をカバーするにはだいぶ無理があった。 「…もしかして、びっくりしてるの?」 おそるおそる、という感じのはるかの声を聞いた瞬間、びっくり箱のバネが弾けるようにみちるの疑問がぱちんと解けた。 「わかったわ!」 これはみんな、家庭料理なのね! 〃家庭的なクリスマス〃を希望したみちるだったけれど、それははるかの負担を軽くするための、いわば手抜きの提唱を聞こえの良さそうな言葉のオブラートに包んだ程度のものだった。それをはるかは〃家庭料理を味わうクリスマス〃と解釈し直して、わざわざ手のかかる料理を沢山作ってくれたのだ。何をするにも全力でぶつかるはるかの生真面目さが表れたその食卓は、みちるにとって最高のクリスマスの食卓だった。 みちるは思わずはるかを抱きしめた。 「びっくり、してるわ。 さすがはるか、ありきたりのことはしないのね」 みちるの声が弾んでいるのに比べると、はるかの声はなんとも控え目だった。 「ごめん。期待に、添えなかったかな」 その声は少し沈んでさえ聞こえ、この素晴らしい食卓に、ちっともふさわしくなかった。もどかしいぐらいの気持ちでみちるは、はるかにこの新鮮な驚きを伝えようとした。 「とんでもないわ。期待以上、どころか、全然予想もできなかったぐらい素敵。 こんなクリスマス初めて。ありがとう、はるか」 みちるの言葉を聞いて、はるかは困ったように笑った。実は料理で何か失敗でもしてるのかしら、と思いながら、みちるは食卓についた。 塩と砂糖が取り違えられていようが塩が三倍入っていようが絶対に変な顔はしないわ、と決意して、みちるは筑前煮から箸をつけた。 「…おいしい」 はるかが作る料理と言えば、茹でただけ焼いただけに塩や醤油をさっと振っただけ、という先入観が強かった分、そのおいしさの印象は鮮やかだった。品のいい味つけ、絶妙な火の通り具合が、昔ながらの素朴な料理を洗練されたものにしていた。そういえば、茹でただけ焼いただけのはるかの料理ではいつも、素材のおいしさが最大限に生かされていたことを遅まきながらみちるは思い出した。はるかがフライパンで焼いただけの野菜を、塩も醤油も振ることを忘れて食べ尽くしてしまった経験を、みちるは一度ならず持っていたのだ。 黄色がひときわあざやかな玉子焼きにみちるは手を伸ばす。 はるかが今夜の食卓にどれだけ手をかけたのかが、その深い味でわかった。よく取られただしがしっかり使われていて、一見プレーンに見えるそれを奥行きのある一皿にしていた。それはこの食卓の上の料理全て、小鉢に盛られたこれまた手作りらしい漬物にいたるまでに、共通することだった。感動でみちるは、思わず涙ぐみそうになってしまった。 全ての料理に一通り箸をつけてから、みちるは驚きを隠せない顔をはるかに向けた。 「はるか、すごいわ。こんなお料理、どこで覚えたの」 はるかは少し首をかしげるようにして、複雑な顔をした。それから諦めたような表情で視線をテーブルに落として、低い声で答えた。 「…四輪の方のレースのスポンサーの行きつけの料亭に、家庭料理を得意にしてるところがあって、以前良く連れて行ってもらってたんだ。そこの女将が僕のこと随分可愛がってくれていたから、今回、全部作り方教えてもらった」 みちるは大きくうなずいた。 「なるほど、プロの味というわけね。やっぱり一般家庭じゃ出ない味だと思ったわ」 その言葉を聞いた途端はるかの表情がさっと曇ったので、みちるはあわててつけ足した。 「プロのアドヴァイスをもらったからって、別に悪いことは何もないのよ? 作り方を教わったって、ここまで上手にできる人なんてそうそういないわ。 はるかはもともと、素材を生かした加減が信じられないほどうまいから、教わった味付けがここまで生きるのよ。私には絶対に真似できない、これははるかの能力よ」 「ありがと」 はるかが一生懸命笑おうとしているのが痛いほど伝わってきたので、みちるはそれ以上の追及をやめた。 とりあえず、みちるははるかの心づくしの料理にとりかかった。つい、料理に夢中になってしまって、みちるは自然と無口になったが、食卓が沈黙に包まれることはなかった。はるかがずっと、一人で喋っていたのだ。最近聴いた音楽のこと、バイクの調子の悪いところのこと、新しくできたレストランのこと、果てはここ数日の天気の話題まで、ほとんど関連のない話題を全く継ぎ目を感じさせずにはるかは流し続けた。料理に口をふさがれて無口になっていたみちるとは全く逆で、言葉に口をとられたはるかは、ほとんど何も食べていなかった。 盛りつけられた料理が減り、テーブルの隅に置かれた小さなクリスマスケーキの存在感が次第に露になってくる。 これ以上、このままでいることは、難しかった。 みちるは、はるかのもてなしに対する自分の満足を最大限に伝えようと、言葉を選ぶ。 「ほんとうにありがとう、はるか。 私達が最初に予定していた、クリスマスの演出がされたレストランでのお食事や、イルミネーションで飾られた夜景を一緒に眺めることも素敵だし、はるかと一緒にできるなら毎年毎年何年しても飽きないと思うけど、でも、今夜みたいなクリスマスは、他の誰にもできない、個性的なクリスマスだわ。きっと、絶対忘れられないクリスマスになると思う。こんな素敵な、特別なクリスマスの準備をしてくれて、本当にうれしい」 みちるの言葉を、はるかは目をそらさないでじっと聞いていた。 その態勢では、気持ちの揺れを、みちるから隠しようなど、なかった。 「はるか?」 はるかの返事はなかった。 返事をしようとしているのに、声が出ないのだ。 「ねえ、はるか、私何か悪いこと言った? 私、こんなにうれしいのに、ほんとうなのに、どうしちゃったの、はるか」 はるかの白い顔は少し、蒼ざめてさえいた。くちびるをふるわせるようにして、かすれた声で、はるかは言った。 「みちるは悪くない。悪いのは僕だ。 僕が、意地を張って、ちゃんとみちるに教えてもらわなかったから」 はるかが何を言っているのか、みちるにはわからなかった。 「何を?」 はるかはうつむいたまま、ぽそりとつぶやいた。 「普通の、家庭的なクリスマス」 その言葉を聞いて、青ざめたのは、今度はみちるの方だった。 落とし穴はスタート地点直後に、くろぐろと口をあけていたのだ。 はるかと出会ってから、お互いの家族について話す機会はほとんどなかった。別にその話題を避けていたわけではなく、ただ、はるかといると、〃家族〃というものはもともと存在していなかったかのように忘れているのが自然だった。 はるかが肺炎を起こして命も危ない状態になり、家族を呼んだ方がいいと医者に言われたとき初めて、みちるは忘れ去られていたその存在を思い出した。熱で意識が朦朧としているはるかに、家族の方はどこにいらっしゃるのと、何度必死に問いかけても、はるかは知らないと繰り返すばかりだった。知らないということはないだろうと、はるかが危地を脱してから、みちるははるかを問いつめるように説明を求めた。 でも、知らないとしか、はるかは確かに言いようがなかったのだ。 現在生存している肉親は父親だけだということだった。貿易商と言えば聞こえがいいけど、とはるかが言う生業を営むその父親は、世界中を飛び回っているため、消息を掴むのは至難の技だという。この間日本に帰ってきたことがあったみたいだったけど、僕の方が車のライセンス取るために海外出てて結局会わなかったからなあ、とはるかが言う〃この間〃が四、五年前の事で、はるかが父親に最後に会ったのは、はるかがまだ小学生の頃だったことになる。 街ですれ違っても絶対わからないと思う、などと、あまりにもはるかがあっけらかんと言うので、みちるは業を煮やしてはるかに言った。いくら最初にお手伝いさんを頼んでいったからって、そんな小学校に上がるかどうかの頃から放ったらかしなんて、ひどいわ。お父様にはお父様の事情があるんでしょうけど、はるかはもっと、怒ったり文句を言ったりするべきよ。血相を変えて言うみちるをそのとき、はるかは不思議そうな顔で見ていた。そして、あんまりあたりまえのことを尋ねられてどう答えたものかわからない、という風情で、少し首をかしげながら答えたのだ。 だって父親についていってたら、今頃僕の命、ないよ。 何を売り買いしてるんだか知らないけど、信じられないほど危ないところばかり渡り歩いてたみたいなんだぜ、うちの親。 いくつか年代と地名の例を聞いただけで、はるかを置いて一人で赴いてくれたことをみちるが感謝してしまった(まだ写真も見たことのないはるかの父親に!)ほど、それは説得力のある理由だった。 そんなはるかが〃家庭的なクリスマス〃とは何なのか、見当もつかなかったとしても何の不思議もない。はるかと〃家庭〃の接点は、料亭で出される〃家庭料理〃以外には何もなかったのだ。みちるの家のクリスマスパーティーも大仰な社交目的の、〃家庭的なクリスマス〃とはおよそかけ離れた代物だったが、それが終われば遅い食事を兼ねて家族だけで〃しち面倒なパーティーを無事済ませられて御苦労様〃的な打ち上げを軽くやっていて、その部分がみちるの〃家庭的なクリスマス〃のイメージの核を成していた。 クリスマスを一人で、甘い物が嫌いだからケーキのひとつも食べないでずっと過ごしてきただろうはるかは、〃家庭的なクリスマス〃などを突然要求されて、どんなに戸惑ったことだろう。これまでは別にそれを疑問にも思わずにいられたのに、それが不自然で、寂しいことなのだといわんばかりの突きつけ方をされて、どんな思いをしたことだろう。 はるかを、傷つけた。 絶対にしてはいけないことをしてしまった、その思いが冷たくなった全身を痺れのように重く縛り、金属製の機械のようになった心臓のあたりだけがずきずきと痛んだ。 「ごめん」 くちびるを噛んでうつむくはるか。 はるかに、絞り出すようにそんな言葉を言わせているのは、この、わたし。 その認識は、みちるにとって、二度と立ち上がれなくなってしまいそうな、衝撃だった。 でも。 だからといって、はるかに困難な願いを言ったことを泣いて謝るなど、みちるは絶対にしてはいけなかった。そんなことをしたら、二人とも総崩れで、立て直しなんて不可能になってしまう。ここはなんとしても、みちるが頑張らなくてはならないのだ。そして、はるかが戸惑いながらも一生懸命築き上げてきてくれたこのクリスマスを、難攻不落の幸福の城として完成するのだ。 「あやまるなんておかしいわ、はるか。 はるかは〃最高の〃家庭的クリスマスをやってくれる、って言ったでしょう。 〃最高の〃っていうのは、一番のことでしょう。一番は世界でたったひとつしかないわ。 はるかがそれをやったら、他の誰にもできないのはあたり前じゃない。それなのに、他の人がやってるのとちょっと違うからってあやまったりするなんて、絶対におかしいわ」 みちるは両足にぐいと力を込めて、立ち上がる。 そして、うなだれたまま座っているはるかの肩を後ろから抱いた。 「はるかが作ってくれたクリスマスのお料理は完璧よ。海王の家で毎年営業用にやってた洋物づくしのクリスマスパーティーにはうんざりしてたから、私毎年、クリスマスの日には死ぬほどこういうお料理が食べたかったことを思いだしたわ。 でも、はるかのその表情は、いまみっつぐらい。努力の跡は認めるけど、私ははるかの、もっと楽しそうな顔が見たいのよ」 力強く言い放ちながらも、はるかに無理を言っているという感覚をみちるは拭えなかった。みちるの腕の中にあるはるかの肩は、冷たくこわばっていた。どんなにはるかが笑顔の城壁を築いても、それは滅びる寸前の王国のそれのように虚しいものになってしまうだろう。果たして、はるかは、心の苦しさを隠せない声で言った。 「ごめん、みちる。 だけど、みちるがそう言ってくれても、きっと僕は何かを間違えたんだっていう感じが、どうしても消えないんだ。僕が〃家庭的なクリスマス〃の何たるかをわかってないってこと、それだけでもう、このクリスマスの夜にみちるを楽しませることは絶望的になってしまったんじゃないかって」 「そんなに簡単に諦めないでよ」 冷えきったはるかの肩を、背中をみちるは抱きしめる。みちるの腕の中にあるというのに、どんどん冷たくなっていく、身体。 この身体を、暖かく、奥底から暖かくできたら。 「はるかが自分のことを責めてばっかり、っていうのは、いいかげん良くわかってきたわ。そういう悪いくせは、いつか私がこの手で直してあげるから、今はおいておくけど。 今夜のはるかには、もうひとつのはるかのくせの、目的のためには本当に手段を選ばない、ってとこまでなくなっちゃってるわ。そういうのは、世界を救うなんて漠然とした目的のためよりもむしろ、こういうときに発揮すべきなのに、ひどいわ。 今夜のはるかには、身体を張ってでも目的を達成しようっていう気概がないのよ」 はるかの肩に、微かな反応があった。 「身体を張って」 はるかはつぶやいた。 みちるはこわばった。 「…そうだな。 こんなことじゃ、真面目にやってないと思われてもしかたないよな」 はるかはみちるの腕をそっとほどいた。 そしてその動作の延長で、ジャケットのボタンを外しはじめた。 「…はるか?」 ジャケットを脱ぐと、はるかはそれを無造作に床の上に放った。さらにブラウスのボタンを外しながら、はるかは言った。 「僕の身体触ってると、楽しい、ってみちる、よく言ってるよね」 …どうしてそういう結論になるの。 と、みちるは呆然としたが、ここではるかが間違っているなどと言おうものなら、幸福の城は遠い彼方だった。 みちるは、ブラウスのボタンを三つほど外し終えたはるかの手に、自分の手を重ねた。はるかの動作が、止まる。 「みちる?」 にっこりと、優美な笑みを浮かべてみちるは応える。 「はるかを脱がせるのも私の楽しみのうちよ。 それを奪わないでね、はるか」 …なんでこんなことになったのかしら。 その疑問は、みちるから消えない。なんでこんなことになったのかしら。 それでも、こうなった以上、みちるは楽しまなければならなかった。 気持ちに一点の曇りもなく、ただほがらかに、はるかの身体に触れることを楽しむ義務が、みちるにはあるのだった。 それはそんなに難しいことじゃないのよ、だってはるかの身体はこんなにきれいで、こんなに手触りがいいじゃない、と、みちるは自分に言い聞かせた。 |