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最初にはるかの感覚に触れてきたのは、寄せては返す波の音だった。 心地よいその響きに包まれて、はるかはゆっくりと目をあけた。 薄く曇ったような空の下、海がそこにあった。波が寄せては返しているのは、翳った陽の光に淡い灰色を帯びた白い砂浜だった。そのさらさらとした砂の上に、はるかは何も身につけずに倒れていた。はるかが身体を起こすと、清潔に乾いた白い砂は残らず、はるかの素肌からさらさらと落ちた。 幾秒か海をみやった後、はるかは陸の方を振り返った。 白い砂の上に、十二歳のほたるが座っていた。 『ほたる』 何かを考えるより先に、はるかはほたるを抱きしめていた。はるかと同じくほたるは、生まれたままの姿をしていた。触れ合った素肌ごしに、ほたるの身体のぬくもりと、ゆったりとした鼓動が伝わってきた。それこそが、今のはるかの切実な願いだった。 体温の低いはるかの身体にほたるの体温がしっかりと伝わった頃、はるかはようやく、今自分達がおかれている状況に思考を向けはじめた。 『夢…?』 マンションの七階あるいは十一階から落下していた二人が、誰もいない海で裸で向き合っている、その状況を夢と考えるのは自然なことだ。しかし、十二歳に成長した…あるいは戻ったのかもしれないほたるは、不思議なほど落ちついて、はるかよりもずっときめ細かな分析をしてみせた。 『夢っていうより、なんだか、はるかに抱っこしてもらってるみたい』 はるかの目の前で、ほたるはすっと立ち上がった。 それから少し離れた波打ち際に立って、白い素足を波にひたした。 『最初触れた瞬間ちょっとひんやりして、でも、身体の力を抜いているうちに、ゆっくりとゆっくりとあったかくなっていくの。 はるかに抱っこしてもらってるときと同じ。すごく安心する』 そう言ってほたるは、にっこりと笑った。 その笑顔があまりにもしあわせそうだったので、はるかまでしあわせなような気持ちになって、にっこりと笑ってしまった。自分の体温が低くてよかった、と、はるかは思った。熱でも出さない限りひんやりと冷たい自分の身体が、ほたるを抱いた瞬間ほたるに冷たい思いをさせているのではないかと、はるかはずっと気にしていたのだ。でも、そのひんやりとした感触の記憶が今、ほたるに安心感を与えているのだと思うと、救われる気持ちがした。そうしていつもいつもはるかの気持ちを救ってくれるほたるへのいとしさが、またはるかの胸の中でふくらんでいく。 はるかも立ち上がって、ほたるのいる波打ち際へと向かった。 薄く影を帯びた白い砂はひんやりとしていたが、踏みしめると微かなあたたかみを帯びた。足の裏でその感覚を確かめると、はるかは駆け出した。あっという間にはるかは波を蹴って、ほたるをつかまえていた。裸のほたるは、まるでお風呂から出るたびに服を着せようとするはるかから逃げ回っていた赤ん坊の頃のように、はしゃいだ歓声を上げてはるかの腕の中であばれた。転んだり、膝やてのひらを砂だらけにしたり、はねあげたしぶきを頭からかぶったりしながら、二人は波打ち際で遊んだ。生まれたままの姿で、生まれたままの無邪気さで、二人は心から楽しく、声を上げて笑いながら遊んでいた。 でも、ずっとそうしているわけにはいかなかった。 少し、肩で息をしながら、はるかは波の届かない砂の上にぺたりと座った。ほたるもはるかの腕に肩をくっつけるようにして、小さな足を投げ出して座った。お尻の下の砂は最初つめたかったが、じきにあたたかくなってくる。そのあたたかみが心地よくなってくる頃、はるかはぽつりともらした。 『僕達、死んだのかな』 ほたるは何も言わなかった。死、という言葉におびえた気配もなかった。その、ほたるの生への執着のなさが不安でたまらなくなって、はるかはすぐに言葉を継いだ。 『…そんなわけないよな。 死んでほたると僕が同じところにいるわけがないもの』 どぅん、と、激しい動揺がほたるの肩と接している腕から伝わってきて、はるかは驚いてほたるを見た。ほたるは大きく目をみひらいて、はるかをじっとみつめていた。泣きそうな顔、はるかはそう思った。置いて行かれる子供の顔だった。 『どうして』 胸がちぎれそうなほど悲しそうなその顔に、はるかは困り果ててしまった。この悲しそうな顔を笑顔に変えることができるなら、世界で一番上手な嘘でもつきたい、そういう誘惑に、はるかはかられた。でも、このことについて、嘘をつくわけにはいかなかった。もし死んだら、ほたるとはるかは一緒には行かれないのだ。そして、もしかするともう、ほたるとはるかは死んでいて、いまこの瞬間にも別れ別れになろうとしているのかもしれないのだ。今のうちにちゃんと、本当のことを説明しておかなければならなかった。 はるかはゆっくりと息を吸って、精一杯の微笑みをつくった。 そして、落ち着いて、ほたるの瞳の奥までみつめるようにして、言った。 『ほたるはいい子だ。何も悪いことなんて、してない。だから、もし何かの間違いで死んだりするようなことがあったとしても、天国に行けるから大丈夫。大丈夫なんだよ。 でも、僕は違う。僕は地獄に行くに決まってるんだから』 精一杯優しく言ったのに、はるかが一生懸命みつめたほたるの瞳からは、みるみるうちに涙があふれてきた。十二歳のほたるなのに、その泣き顔は、六歳の、三歳の、生まれたばかりの、はるかが毎日毎日目にしてきた、なんとか笑顔に変えようといつも頑張ってきた、幼いほたるの泣き顔だった。 『はるかと別々なんて、嫌!ほたるも一緒に行く!どこでも行く! お願い、言う事なんでもきくから、いい子にするから、だから一緒に連れていって…』 泣きながらすがりついてくるほたるの肩を、はるかはそっと抱いた。目から涙が出そうで困った。はるかの方が、泣きたくなっていた。でも、泣くわけにもいかなかったし、泣いたところでほたると一緒に行けるようになるわけでもなかった。 ほたるの肩を抱く手にきゅっ、と力を込めて、はるかはかすれた声で言った。 『しかたないよ。 しかたがないんだ、ほたる』 ほたるとは一緒に行けない。罪の無いほたるとは。だって僕は、地獄に行かなければいけないんだ。地獄に行って、罪を償わなければならないんだ。 『だって、僕は君を』 罪の重み。胸がしめつけられ、きしみ、激しく痛む。 涙より先に冷たい汗を流しながら、はるかは言葉をしぼりだそうとする。 『ころ…』 その瞬間、はるかは自分の身体の輪郭がぼやけてくるのを感じた。ほたるも、薄曇りの空の下の海もそのままなのに、自分だけがそこから消えていくのだと、なぜかはるかにはわかった。はるかはほたるから手を離した。ほたるを連れては行けないのだ。そのこともはるかにはわかっていた。 そこに残されたのは、静かな海と十二歳のほたるだけだった。 |