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「今日もお見えにならない……。」
アンジェリークは小さな声で呟いた。
あの甘い沈黙の日より、アンジェリークは毎日この木の上でオスカーがやってくるの待っていた。
あの日この気持ちに気づくまでは、そんなことを考えてもいなかったというのに……。
オスカーはアンジェリークがこの木の上にいると必ず声をかけにやってきた。
だから、また会えるのではとアンジェリークはこの木に登ってしまうのだ。
前は飛翼の里を思って眺めていた景色も、今はあの優しい声を思って眺めている。
もう婚礼まであと3日となってしまった。
このまま自分の気持ちを偽ったままクラヴィスの妻にならなくてはいけないのだろうか。
せめて、せめて一目もう一度オスカーに会いたい。
アンジェリークの心はオスカーへの恋心でもう一杯になっていたのだった。
オスカーは自分の部屋から、村はずれに立つあの木を眺めていた。
彼女はまたあの木に登って遠くを見つめているのだろうか。
そんなことを考えながらも、オスカーはアンジェリークのやわらかな金の髪が風になぶられて、そよぐさまを思い浮かべていた。
クラヴィスにクギを刺されてから、オスカーはアンジェリークを避けていた。
会わなければその思いも抑えられるかと思ったが、それはまったくの思いちがいであることを実感していた。
ほんの4日間彼女を見ないだけで、もう耐えられないほど彼女恋したっている。
今すぐにでもあの木へと飛んで行きたい。
そんな思いで木を見つめていると、突如その木より飛び立つ白い翼を見た。
白い翼を優雅にはためかせる美しい人。
オスカーは胸をせつなさで握りつぶされそうになって窓わくによろめきながらもたれ、そして窓の外に背を向けた。「姉上…。」
オスカーは誰もいない部屋で一人呟いた。
その夜、リュミエールは里をなんとはなしにふらついていた。
そんな時、クラヴィスがアンジェリークの部屋に入るのを見かけた。「ふふ。兄上もお盛んなことだ。まあ結婚式まで待てない気持ちもわからぬではありませんがね。」
リュミエールは一人ほくそえんだ。
そしてふと考えが浮かんだように眼を見開くと、一人のどの奥で笑った。
「クラヴィス様…。」
アンジェリークはクラヴィスの訪問に体を強ばらせた。
「婚約者殿…。そなたはいまだ覚悟はできていないのだな。」
クラヴィスの言葉にアンジェリークは心を締めつけられた。
だまりこくる彼女を、クラヴィスはその何でも見通すかのような紫水晶の瞳で見つめた。
アンジェリークはたまらずその瞳を避けるように床に目を向けた。
そんな彼女をクラヴィスはその心を探るようにじっと見つめていた。
「オスカー。」
リュミエールは、つらい恋にさいなまれて今夜も酒に手を出そうとしていたオスカーの部屋を訪ねた。
「なんだ青竜。酒にでも付き合うか?」
リュミエールの訪問で少しでも心を紛らわしたいオスカーはついだばかりの酒を彼に差し出した。
「いいえオスカー。私はあなたに頼みたいことがあってきたのですよ。」
頬笑みを浮かべながらリュミエールはそういった。
「頼み事?なんだ。」
「これをアンジェリーク殿に届けてもらえませんか?」リュミエールは式に使われる白いベールを差し出した。
「姉上に?」
差し出されたベールを複雑な思いで見つめオスカーはたずねた。
「はい。私はこれから白竜兄上のところへ赴くなくてはならないのです。それでこのベールを今夜中に届けるように頼まれていたのですが行けそうにないので…。」
リュミエールはオスカーの顔いろに気づかないふりをしてベールを手渡した。
「お願いできますよね。」
「……わかった届けよう。」オスカーはベールを受け取るとすぐに部屋を出た。
残されたリュミエールはオスカーの出たドアを見つめて一人ほくそえんだのだった。
自分の気持ちをクラヴィスに打ち明けることなど出来るはずもなく、アンジェリークは黙りこくっている。
クラヴィスはそっとアンジェリークに近づくと、彼女の顎に手をかけた。「そなたが覚悟を決めていなくてもこのままいけば、そなたは私の妻となる。それだけは承知してもらおう。」
そう言うと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
コンコン
「姉上、お届けものに上がりました。」
ノックの音とともに紅竜が部屋のドアを開けた。
「?!」
兄と愛しい人がくちづけを交わしている。
オスカーの心臓にまるで大きな杭を打ちこまれたかのような衝撃が走り、手に持ったベールを取り落とした。「失礼…!」
青ざめたオスカーは、慌ててドアを閉めてその場から走り去った。
アンジェリークはオスカーにみられたその衝撃でへなへなとその場にへたりこんだ。「紅竜様……。」
にわかに彼女の瞳に涙があふれた。
そんなアンジェリークをクラヴィスはただ黙って見つめた。