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アンジェリークというなんとも魅力的な娘に出会って、オスカーの心は弾んでいた。
今までオスカーの周りには、オスカーに対して自ら身を投げだす女たちばかりだった。
それだけにアンジェリークという存在は、オスカーにはとてつもなく新鮮な存在だった。
そんな思いを胸に、屋敷に帰りついたオスカーはまっすぐ自室へと向かった。
すると、自室の前に執事が待っていてオスカーに頭を下げた。「お帰りなさいませ、御主人様。婚約者のロザリア様が中でお待ちです。」
その言葉にオスカーはさっきまでの興奮した気分が一気に萎えてしまって、小さく舌打ちをした。
「これはこれは、お姫様。何かこのオスカーにご用でしたか?」
ドアを開けるなりオスカーは、不快をあらわにした声で室内で彼の帰りを待っていたという少女に声をかけた。
「オスカー様。今夜はどちらに?」
青紫の瞳にそれと同じ美しい巻き髪の華麗な少女が、オスカーの声の調子など全く気にした様子も無く問いかけてきた。
「俺がどこに行こうがお姫様には関係ないだろう?」
「そうでもありませんわ。お兄様が今日はどうしてもあなたを家の屋敷にご招待したいと申していますのよ。お兄様には逆らえませんわ。」その言葉にあきらめたようにオスカーはため息をついた。
「わかった。ジュリアス様に会いに行こう。」
「そう?よろしかったわ、お兄様が喜びます。」ロザリアはそう言うとかるく会釈をして、オスカーの部屋から出ていった。
彼女との婚約は断りきれない主従関係によって結ばれたものであったため、オスカーにとってロザリアはあくまでも政略結婚の間柄であって、恋の対象にはなり得なかった。
それはロザリアとて同じことで、女癖の悪いオスカーのことを毛嫌いしている感を否めなかった。
そんな冷めた関係であっても、貴族にとってはあまり関係ないことなのだ。
とにかく権力を維持することこそ貴族にとって1番大切なことなのだ。
そのことにオスカーは、心底嫌気がさしていたのだが。
「リュミエール様?おかげんはいかがですか?」
いくつかある一座のテントの中のひとつにアンジェリークが訪ねたのは、オスカーが帰ってからしばらくしてからだった。
あの嫌な出来事を早く頭から振り払いたくて、アンジェリークは日頃からあこがれつづけているリュミエールを訪ねたのだった。「ああ。アンジェ。今日は比較的楽なのですよ。」
リュミエールは吟遊詩人だったが、病気を患って今ではベッドを起きたり寝たりの生活おくっていた。
彼は見るからに線の細いたおやかな美しい男で、そのやわらかな微笑みには慈愛が満ちていた。「それはよかったわ。早く元気になってまた美しいハープの音色を聞かせてくださいね。」
嬉しそうに瞳を輝かせるアンジェリークに、リュミエールはベッドのわきに置いてあったハープに手をのばした。
「本当に今日は気分がよいのです。アンジェあなたのために一曲弾きましょうね。」
リュミエールはそう言うと、おもむろにハープを爪弾きはじめた。
美しいハープの調べと、その曲に合わせて透き通るような声でリュミエールは歌をうたった。
その美しい歌声にアンジェリークは瞳を閉じて、うっとりと酔いしれた。「リュミエール。今日はよいのか?」
不意に聞こえた声にアンジェリークはパッと目を開いた。
「兄さん。ええ今日はとても気分が良いのです。」
嬉しそうに微笑むリュミエールに、座長のクラヴィスも静かに微笑んだ。
「そうか。それはよかった。無理はするな、またひどくなってはいけないからな。それはそうと、アンジェリーク。マルセルがおまえを探していたぞ。」
「え?マルセルがどうしたのかしら。」
「今日は泣かずにオリヴィエのナイフ投げの的が出来たのでおまえにほめてもらいたいのだろう。行って弟をほめてやれ。」クラヴィスにそう言われて、アンジェリークはニッコリと笑ってうなずいた。
「じゃあそうします。リュミエール様美しいハープありがとう。」
アンジェリークは元気よくテントを飛び出していった。
「あれもすっかり美しい娘になったものだ。そうは思わぬかリュミエール。」
クラヴィスがアンジェリークとその弟のマルセルを拾ったのはアンジェリークがまだほんの10歳の時だった。
旅の途中で立ち寄った小さな村のはずれの古い教会の入口に、ぼろをまとった幼い姉弟が途方にくれたように座っていた。
気の優しいリュミエールは幼い姉弟に近づくと、彼らにどうしたのかと尋ねた。
問われた少女はその大きな翡翠のような碧の瞳に激しい怒りの炎を燃やし、リュミエールを睨みつけた。「何。あんたも私たちを食い物にするやからなの?」
彼女の第一声は、リュミエールの心を引きさいた。
ショックを隠せないリュミエールに、少女はなおもその荒んだ激しい怒りを彼にぶつけた。「私たちに声をかけてそれでどうするの。牛や馬のようにムチを打って仕事をさせるつもり?それともなに?あなた私を慰め者にする変人?」
「なぜ君はそんな哀しいことを言うの?」リュミエールはこんな幼い少女の口から、こんなひどい言葉を聞いて、この二人の姉弟が歩んできた歴史を思って涙を浮かべた。
その涙にアンジェリークは驚いた。
自分のために涙する人間を彼女は見たことがなかった。
マルセルなど人間恐怖症になっていて、ここ最近口もきけない。
彼女たちは、マルセルが生まれて間もなく親に捨てられ、その後いろんなひどい大人達にまるで家畜のように扱われてきたのだった。
そしてマルセルが口がきけなくなったことで、姉のアンジェリークはそんな大人達がいる場所からやっとこの古い教会まで逃げてきたのだった。
そんな、なにもかもが信じられ無くなった愛情知らない二人は、自分たちに優しくするものがいようなどとは思っていなかったのだ。「なんで泣くの?」
「君たちは、まだそんなに小さいのにきっとひどい目にあってきたんだね。私は君たちをそんなふうにしてしまった大人達がいることが哀しい。君たちを救うことができないことが哀しいんだ。」人の涙が美しいと思ったのは初めてだった。
このときからアンジェリークはずっとリュミエールにあこがれ、恋している。