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アンジェリークはオスカーに婚約のことを知られて涙が出るほど哀しかった。
もともと納得が言った婚約ではないのだ。
それなのにリュミエールは婚約しているのだと、オスカーに告げてしまった。
初めて知った胸のときめきが実る前にもぎ取られてしまってアンジェリークは言い知れない悲しみに暮れたのだ。
舞踏会から戻ってアンジェリークは自分の部屋に閉じこもって、いくらクラヴィスが心配して部屋のドアをノックしても一向に部屋から出てこなかった。
唯一部屋に入室を許されているのは末弟のマルセルだけだった。「姉上?いったいどうしたの?兄上が心配して御部屋でうろうろ回ってるよ。」
「だってひどいのよ!お兄様なんて大嫌いよ!」そう言って涙に暮れるアンジェリークを困った顔でマルセルは見つめていた。
「で何がひどいの?」
「だってお兄様ったら勝手に私の婚約者を決めてしまったんですもの。オスカー様はきっと私のことなんてもう気に掛けて下さらないわ。」どうやら姉は恋をした様だとマルセルは理解した。
だがなんだか聞き覚えのある名前だった。
そして考えるうちにある人物の顔が浮かんだ。「ねえ姉上のオスカー様ってオスカー・ド・フレイアスじゃないよね?」
「オスカー様を知ってるの?」姉のその返事にマルセルは頭を抱えた。
そうだ姉はそんな人だった。
マルセルは世間のことに疎いアンジェリークの人となりに思いをはせた。「姉上。悪いことは言わないからオスカー様だけはやめておいたほうがいいよ。」
「あらなんで?あなたも私がお兄様が決めたリュミエール伯と結婚した方がいいと言うの?」なんだか信頼していたのに裏切られたという表情で、アンジェリークはマルセルを見つめた。
マルセルはふぅと溜息をつくと、この世間ずれしていない姉に公爵家の立場とオスカーにまつわる噂を語った。「うそ!」
「嘘じゃないよ。オスカー・ド・フレイアスって言ったらこのフェリシア王国一のプレイボーイだってみんな知ってるよ!それにフレイアスって言ったら、今の王家とは最も近い縁戚関係なんだよ。その意味ぐらいはわかるでしょ?」マルセルの言わんとするところがアンジェリークにもやっとわかってきた。
でもこの胸のときめきをいまさら押さえることが出来るだろうか?
オスカーに抱きとめられたとき、アンジェリークはこの人だと直感してしまったのだ。
もうアンジェリークの心にはオスカーしか映っていなかった。
どんなことを聞かされてもこの初恋をなにもしないうちから手放してしまいたくなかった。
当たって砕けてしまってからでも遅くは無いと思っていた。
アンジェリークの表情から到底あきらめそうに無いことがわかって、マルセルはとうとう白旗を揚げた。「わかったよ。姉上に協力するよ。」
「ほんと!大好きよマルセル!」
「はい、はい。」うれしそうにマルセルに抱き付いてきたアンジェリークをマルセルはポンポンと背中を叩いて答えた。
アンジェリークの願いを叶えたくないと思う奴はいないとマルセルは本気で思った。
オスカーはアンジェリークがつれ去られた後、しばらくバルコニーにたたすんでいた。
オスカーにとってアンジェリークがアメジス家の者だと言うことは、かなりのショックだった。
アメジス家とは祖父の時代よりいろんな意味で争いが絶えなかった。
祖父が当主だったとき、アメジス家の当主は当時の王の王弟だった。
王弟と王は激しい王位継承争いを演じ、フレイアス公爵であった祖父は兄王の支持に回った。
そのために王弟は争いに敗れ、王家はその平安を取り戻した。
そのころからずっとフレイアス家は王家に忠実に仕えてきた。
そして反対にアメジス家とはお互い相容れぬ間柄となった。
そんな両家の関係にうんざりとしていたものの自分から関係を改善しようとは思ったことはなかった。
そこに来て今日、そのアメジス家のアンジェリークに出会ってしまった。
オスカーはよろけて倒れそうになったアンジェリークを抱きとめたとき彼女の美しさ、特にそのエメラルドの瞳に心を奪われてしまった。
美人というだけならいくらでもその眼にしたことがあったが、これほど心を奪われたことは一度もなかった。
なぜそれほどまでに心を奪われたのかはオスカーにもわからなかった。
ただアンジェリークのエメラルドの瞳がオスカーに運命というもの理解させたことだけは確かだった。
オスカーはこの運命に逆らいがたい何かを感じていた。
たとえ彼女に婚約者がいたとしてもオスカーは彼女を諦める気には到底なれなかった。
それよりも彼女を奪い去りたいという欲望にその身を焦がしていた。「…アンジェリーク…。」
その名を口に出しただけでオスカーの胸に甘酸っぱい甘美な思いがあふれてくる。
オスカーにとってこの恋は運命の恋、そしてこれから決して表れることのない最後の恋だと思えた。