遠く望むの歌 3





思わず走り出したものの、水場から厩舎にどうやって行くのかわからないという 間抜けなことに気づいたのは、わりとすぐだったが。
はたと迷う前に、先頭を切っていたフェイロンが、建物の角を曲がろうとした とたんに。 なにかにぶつかったように見事にのけぞって、すぐ後ろを走っていた パジャを巻き添えにして地面にごろんと転がった。
とっさに受身を取ろうにも取れなかったらしく、喜劇的な転びようだった。
ちなみにパジャの隣にいたエイカは、勘がいいのか要領がいいのか、ちゃっかり 難を逃れている。
「ってえ……」
「なにやってんだ馬鹿――」
後ろ向きに倒れたフェイロンの体が足に乗っかった体勢で、文句を言いさして。

「お?」
エイカの惑う声に、顔を上げた。
見れば、フェイロンの正面にもひとり、薄汚れた身なりの少年が、仰向けに倒れて いる。 痩せて小柄だけれど、たぶん年は自分とそう変わらないなと、漠然とパジャは 推測した。
「……っつう」
と、少年が額をさすりながら起き上がる。
大丈夫か、と言いながら手を貸そうとしたエイカの顔を、次にはフェイロンたちを ゆっくりと見回していた少年の顔が、なぜか青ざめていく。
う、と息を呑んで勢いよく立ち上がった少年の手に携えられたものに、パジャの 意識が尖る。

粗末な造りの、手製の弓。
脳裏をよぎったのは、馬の鼻面にあった、矢傷のように抉れた傷。
「おまえ……」
まさか、と繋げようとしたパジャの険しい目線の意味に気づいたのか。 少年は身を 翻すと、転びそうに前のめりになりながら、町のほうへと駆け出していった。
「あ、こらっ」 あわてて膝の上のフェイロンを放り出して、パジャはその後を追うべく立ち上がる。
「ど、どうしたんだよパジャ?」
「馬、騒動は、弓の、あいつっ……」
あわてると舌がもつれる性質なのか、幼子のようなたどたどしさで単語ばかりを紡ぐ と、ええいやってられるかとばかりに首を振って、パジャは一同の困惑も無視して 走り出した。

……困ったのは、後に残された面々で。
「……パジャ、なにが言いたかったのかな?」
「馬。 騒動。 弓。 あいつ。 あいつって、あの小汚い子だよなあ?」
リャンとエイカが眉を寄せる傍らで、フェイロンがたむと手を打つ。
「なあ、もしかしてさ。 『馬が暴れる騒動を起こした原因は、あいつが作った』とか 言いたかったんじゃねえの?」
虫食い文どころではないパジャの単語文を、脳天気そうな見かけに反した思考力で 推理して、フェイロンはそれしかないと強く言い切る。
ああなるほどと続いて手を打って、しかしエイカはひとつ突っ込んだ。
「じゃあ、弓ってのは」
「弓矢でなんか仕掛けたんじゃねえのかな。 予想だけどよ」
「たぶんそうだね、辻褄が合うよ。 ……でもよくわかるね、フェイロン」
パジャのあわてように納得しつつ、リャンは素直に感心する。
フェイロンはすでに彼らの後を追う体勢に入りかけていたが、リャンの言葉に留まる と、黒髪をかきむしりつつ、あーだのうーだのとうなってから応じた。
「そりゃさ、仲間だし。 友達になりてえなとも、思ってるからよ」
言ってから、ちょっとというかかなり恥ずかしい科白だったとでも思ったのか。
「んじゃま、俺あいつら追うから。 馬のほうは頼んだぜ」
フェイロンは照れ隠しのように鼻の頭をかいて、もう姿も見えない少年とパジャを 探しに、地を蹴った。



……初めて道場で会った時。
悲しそうな、寂しそうな目をしていると思った。
故郷を失って流れてきたらしいとトゥヤ老師から聞いて、かわいそうだと思った。
同情なんて、たぶん嫌がるだろうけれど。
理解しようと働きかけることは、きっと無駄ではないと信じている。
彼が失ったものの大きさは計れないし、大事なものを失くして開いた心の穴を 埋めてあげることなんて、できやしないと知っている。 知りたくなくても、知って いる。 代わりになんて、なれやしない。
それでも。

悲しさを忘れられないのならせめて、傷ついた心を紛らわしてあげたいと思った。
一緒にいる時くらい、悲しさを忘れた笑顔でいさせてあげたいと。 ……あの時から、 ずっと。
……気づいていないだろうけれど、ずっと。



「この……っ!」
裏路地。
あからさまな貧民窟ではないが、あまり生活の豊かでない人々の暮らす界隈に繋がる 暗い道を、ゴミやだれている犬猫人を飛び越えながら、パジャは少年を追った。
あまりよい子が来てはいけないような場所だ。
都に来たばかりのころ、不慣れで迷い込んでしまった時、口にしたくないような趣味 の男に絡まれて、あわやという目に遭ったことのある身としては、あまり近寄りたく ないところではあったが、いまはそうも言っていられない。
はじめこそ、距離があるから追ってこられまいと高をくくっていた少年だったが、 自分より遥かに軽い足取りと速度で距離を詰めてくるパジャに、だんだん焦りの色を こぼしはじめる。

焦燥が足を絡め、いつもなら軽く踏み越えるはずの小石にけつまずいて、少年が 膝をつく。 そこで一気に加速して、パジャが少年に追いついた。
立ち上がって駆け出すには時間が足りないと感じたのか、少年は不安定な姿勢のまま、 パジャに向き直った。 自棄のように、その右の拳が繰り出される。
あわてず騒がず、トゥヤ老師直伝の体捌きで 半歩間合いの外に出てそれを避けると、 パジャは空振りに終わった少年の右の腕をつかんで、そのまま足を引っかけて地面に 打ち倒した。 ぐ、と少年が息を詰める音。
動かないよう軽く腕をひねる。
馬乗りに似た体勢で少年をたやすく押さえ込んで、ほっと一息。

「……放せよこの野郎……っ!」
唾棄するように少年がかすり傷だらけの顔を歪め、ここでは言えないような罵詈雑言 を並べ立てるのに、パジャはうんざりとため息をついた。
「おまえがなにもしていないなら、すぐに放すけどな。 ……厩舎の馬を暴れさせた のは、おまえだろう? その弓と矢で」
一瞬逸らされた視線が、懐からこぼれて傍らの地面に転がっていた弓のところに 向けられたのを見て、確信する。 とすると、この前厩舎で感じた不審な気配も、この 少年のものだったのだろう。

やはり、と思うと同時に。 なぜ、という思いが胸からわいた。
「なんでそんな、馬鹿な真似を。 祭の目玉を台無しにする気か」
ため息のようにパジャのくちびるからこぼれた言葉に、少年が視線をきつくする。
「……てめえなんかに、なにがわかるんだよ」
「なんだと?」
訝しげに問い返すパジャに、少年は自棄と行き場のない憤りに似たぎらつきをはらんだ 目を据える。 その目の表情に、確かに覚えがあって。
「なにが祭だってんだよ……祭なんか、潰れちまえばいいんだよっ」
「な……」
あまりのことに言葉を失うパジャの面食らった表情に向けて、少年は血の滲む口で 荒んだ声をぶつけた。 呪うように。 切りつけるように。
「おまえらみてえに気楽に祭を楽しめるやつらになんか、わかるもんか! 俺ん家は 貧乏でお袋は肺病で……なのにくそ親父は、酒飲みで……俺に、祭の人ごみに紛れて、 酒代かっぱらってこいとかほざきやがるっ。 なにが祭だ! 幸せそうなやつらの顔 なんて、見てると腹が立つんだよ!」
血を絞り出すような、無様にかすれた声音。
単なる逆恨み、妬みと言い切るには辛すぎるような悲哀が、彼の目にちらつく。
パジャは、我知らず茫然としていた。

よく似た想いを、抱いた過去が心の水底から浮かび上がる。
……色街を、少し離れれば、そこは普通の市街。
時折使いで赴くたびに、いたたまれなくて、早足で妓楼に帰った。

家族とともに、愛した人とともに、穏やかな笑顔を浮かべながら 明るい道を行く 人々を、無意識のうちにひがんでいた。
……姐さんたちは、夜毎、辛い想いばかりしているのに。
……自由に街を行くことすら、できないのに。
……好きなひとと、暮らすことさえできないのに。
……俺だって、魔族だって蔑まれて、いつも苦しいのに。

あんまりにも不公平じゃないかと、誰ともなく恨んでいた。
そんなひがみに意味はないと知っていても、ずっと。


は、と気づいた時には、少年は力の抜けたパジャの腕の下から抜け出していた。
痩せた背が、走り出した。
いけない、と慌てて我に返って腰を上げるより早く。
「パジャ伏せろーっ!!」
裏路地でたいそうよく響く馬鹿でかいかけ声に、思わず従う。
頭上をなにかが通り過ぎる気配。

ばごん、と滑稽な音がした。

呆気にとられているパジャの目の前で、少年が前のめりに倒れ伏す。 気絶したのか、 今度は起き上がろうとはしない。
ごろんごろんごろんと朗らかな音を聞かせながら、少年のすぐ横で、小ぶりの古い 木桶が転がっている。
……この木桶を投げ当てて、少年の足止めをしたのだろうが。
もうちょっと見栄えのする対処方法はなかったのかと、眉間に皺が浮かぶ。

「なーにやってんだよパジャー。 あんなの取り逃がすなんて、らしくねえぞ」
素っ頓狂なことをやらかした素っ頓狂なフェイロンが、軽く咎める調子で言いながら 近づいてきた。
「悪い。 ……でもあの桶、なんなんだ?」
「うん、ちょうどそこに転がっててさ。 これはよしと思って」
深く考えずに投げてみたら 幸運にも当たったと、そういうことらしい。
それを誇らしげに語られて、パジャはなんだか いまさらになって、通し稽古の疲れ が出てきた気がした。




結局団員の手に引き渡された少年は、厳重注意を受けた上で、家に帰された。
まだ幼いからという同情が、団員たちの判断を甘くしたのだろう。
もちろん両親のほうにも、事情は伝えて反省を促したという。


「性質の悪い悪戯しやがんなあ、まったく」
厩舎と劇場の片付けを済ませた後。
布で髪に染み込んだ汗を拭きながら、フェイロンが憤然とまでは行かないものの、 むっとしているような表情で呟いた。 いつも明るい表情の彼には珍しく、迷惑な 真似をした少年を、度しがたく思っているようだった。
「……でも、同情すべき点はあると思うけどな」
解いた長い髪に風を通しながら、パジャは先刻の少年の声を、思い出していた。
鮮やかに灼きついたあの激情に引きずられて、思い出したくないことまで思い出して いるらしく、その涼しい目もとに、暗いなにかが翳っている。

「へ? なんで」
当然のように訊き返されたパジャは、フェイロンにあの少年の言葉を教えた。
神妙な顔をして聞いていたフェイロンだったが、パジャが話を終えたとたんに、勢い よく言い捨てた。
「なんだよ、それ。 単なる逆恨みじゃん。 馬鹿みてえ。 パジャ、同情する必要 なんかねえよ」
……冷静に判断できたなら、自分に重なるところがなかったなら、その時のパジャは きっと義憤とともにフェイロンの言いようにうなずいていただろう。 だがこの時の 彼は、いささか自分の感情の揺らぎを もて余し気味だった。

思わず、きつく言い返す。
「おまえに、なにがわかる」
「……は?」
「何不自由なく、ずっとのんきに御曹司の暮らしをしていたやつに、なにがわかる。 普通に人並みに暮らすことさえできない人間の気持ちなんか、知らないくせにっ」
八つ当たりと、気づいていても止まらなかった。
ここ数日間 燻っていたやり切れなさが、苛立ちに姿を変えて、パジャの言葉を尖らせ ている。 口に出した以上は引けず、妙に固い意地が、彼の気持ちを頑ななものにして いた。

「……なにが言いたいんだよ、パジャ」
返すフェイロンの声からも、明るさと余裕が失われつつあった。
広がりはじめた張り詰めた空気に、水場にいた仲間たちが、動揺する。
パジャの口調は、いよいよ鋭さを増していった。
出会った時から感じていた気持ちのわだかまりが、喉を上ってくる。
「エンレッド神王家の人間なんかに、俺やあいつみたいなやつの気持ちなんか、わかる はずないと言ったんだ」
羨ましいくらい屈託なく笑えるのは、痛みを知らないからだと思い込んで。
そんな幸福なやつと 理解し合えるはずなんてないと、どこかで決めつけている。
どうしようもない誤解に、痛んだ幼い心はまだ気づかない。

「なんだよ、それ。 ……勝手に、そんなふうに決めるなよ」
近づこうとしていた気持ちが、まるで通じていないのかと、苦しくなる。
「どうせ見下しているんだろう、哀れな魔族だって」
違う。 ……そんなこと。
そんな冷たい人間だなんて、本当は思っていない。
なのになんで、このくちびるは、この逆巻く気持ちは、止まってくれないのだろう。 もうこんなこと、言いたくないのに。
無意識に喉もとに伸びる手を止めて、パジャは心臓の上で拳を握り締めた。 乱れた 気持ちに呼応するように、鼓動がめちゃめちゃになっている気がしている。

「そんなこと思ってねえよっ。 なんだよパジャ……ずっと俺のこと、そんな嫌な やつだと思ってたのか!?」
沈着さを失ったまま、フェイロンが叫ぶ。
後ろから止めに入ろうとしたエイカの手を、鬱陶しげに振り払う。
「どうせそうだろう!? 善人ぶった顔で話しかけるな、不愉快だ!」
違う。 笑顔で話しかけられると辛いのは、そんな理由だからじゃない。
本当は――――

口にした雑言の思いやりのなさに、心中で自分を激しく罵りはじめたパジャの頬に、 突然衝撃が走った。
一瞬、誰も彼もが事態の把握に追いつかず、硬直した。

フェイロンが、パジャの頬を張ったのだと。
それが事実なのに、誰もそんなことは信じられなかった。
手合わせでは、勘弁してくれと悲鳴を上げたくなるほどの打ち込みを見せることの あるフェイロンではあったが。 こんな喧嘩の時に、自分から手を上げるような真似 は、一度もしたことがなかったと、記憶している。

「…………」
パジャは、頬に滲む痛みが遠いように、口もとを押さえて茫然としている。
「…………」
フェイロンも、くちびるをきつく噛み締めたまま、震えていた。

痛いくらいの沈黙。
恐る恐る、パジャがゆっくりと顔を フェイロンに向けた。 そして目を丸くする。

フェイロンが、見たこともない表情をしていた。
とても怒っているようにくちびるを引き結んで……なのに黒瞳は、ひどく切なそう に揺れていた。
傷つけたと気づくのに、時間はいらない。
言葉も出ないまま自分を凝視しているパジャから目を背けて、フェイロンは体を翻し た。 そのまま、声もかけられないままでいる仲間たちの横をすり抜けて、走って いってしまった。


(……フェイロン)
パジャは失語したまま立ち尽くして、フェイロンの背を見つめ続けていた。
炎々と沈む夕陽の光が、しなやかに地を蹴るその姿を、橙色に染めていた。








≪ 続 ≫





わお。 フェイロンがいいやつに見える(失礼)。
いや、原作のフェイロンて、あんまりパジャのこと意識してないとは思うんです がね。 勝手な想像の産物です、パジャ思いのフェイロン。 慰めかたを知っている 人だと思うから。 あ、それとたぶん業界(?)初、切れるフェイロン。
……しかもここまで相手のことを考え合っているふたりだったら、原作みたいな 食い違い言い争いはないようにも思うし。 ……許してください、想像です。

しかし……予定を超過して伸びそうですな、この話……理想は、あと2話くらいで フィニッシュなのですが。 当初4話で終えようとか思っていたのに、踏み込めば 踏み込むほどはまっていく、『天高』世界……懐が広いなあ、とか感心している 場合でもないですね……すんまそん。