Der Tod Kanon -死神ノ歌

第一章 死者聖典

葉月

 いつからここにいるのかよくわからない。
 ただ、私の覚えている景色は、この窓から見える景色と、屋上から見える景色だけ。
 私はずっとここで、この病院の三階の病室の一番窓側のベッドの上で、ただ時間が過ぎるのを待っている。
 朝がきて、昼がきて、夜がきて、また朝がくる。
 春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がきて、また春がくる。
 私はずっとここで、ここにずっといたいと願っていた。
 私はずっとここで、外を眺めて外に出たいと願っていた。
 そして、その日は・・・私の七歳の誕生日のその日は、いつものように訪れた。

 七月三日。
じっとしていても汗が浮かんでくる。その日はいつもと同じように起きて、ご飯を食べて、検査して、またベッドに横になっていた。病室はクーラーが効いていたから涼しかったけど、ぴったりと閉じられた窓から浸入してくるかすかなセミの声が、また夏が来たぞ、って教えてくれた。
 昼過ぎになって、私と同い年ぐらいの男の子が交通事故でこの病院にやってきた。私のベッドに向かい合うように置かれたベッドに、その男の子は左足をつられて、右腕を固定されて、寝かされた。
「こんにちは。私、はつき。よろしくね」
「・・・・」
私が挨拶しても、その子は黙ったままで何も言わなかった。
「ほら、あんたも挨拶しなさい」
男の子は付き添っていた母親にせかされて、ぽつん、と名前を言った。
「けいいちろう」
けいいちろうは、それだけ言うと、ぷい、と不自由そうに首を横に向けて、布団を頭までかぶった。
「じゃあね、敬一郎、母さんは仕事があるからもう帰るけど・・・迷惑かけないように大人しくしてるんだよ」
けいいちろうの母親はそれだけ言うと足早に病室を出て行った。忙しい人だ。
 けいいちろうは母親が出て行くのを待っていたみたいに、布団から顔を出して、「ばか」って、誰にも聞こえないような声で小さく呟いた。私にはそれが聞こえちゃったけど、どうしてけいいちろうがそんなことを言うのかわからなかった。でも、けいいちろうがなんだかかわいそうに思えたし、お友達にもなりたかったから、私はけいいちろうに声をかけてみることにした。
「けいいちろう」
私が呼ぶと、けいいちろうはめんどくさそうに首だけを私に向けて、
「なに?」
とぶっきらぼうに言った。
「いまの、けいいちろうのおかあさん?」
この質問に特に意味はない。ほかに何も思いつかなかったから、言ってみただけだから。でも、けいいちろうは何も答えてくれなかった。
「いまの・・・」
「そうだよ。でも・・・ちがう」
私がもう一回聞こうと思った時、けいいちろうが少し怒ったみたいに私を見て、それだけ言ってまた布団に潜ってしまった。
 七月四日。
結局、昨日はけいいちろうがあれから熱を出して、今日のお昼まで眠ったままだったから、全然お話できなかった。
 私はトイレから帰ってきたけいいちろうに声をかける。
「けいいちろう」
「・・・・」
名前を呼んでも、けいいちろうは何も応えてくれなかった。ちょっと寂しくなった。
 七月五日。
外は雨。けいいちろうはギプスの中が痒いのか、あんまり動かない手で足の辺りをさすっていた。でもうまくいかなかったみたいで、包帯がくちゃくちゃになっただけだった。私はつい笑っちゃった。そしたら、けいいちろうはムっとした顔で私を見て、布団の中に隠れてしまった。
 七月六日。
今日も雨。けいいちろうは気の抜けた顔で窓の外を眺めていた。私が声をかけても、やっぱり何も応えてくれなかった。
 七月七日。
今日は晴れ。七夕だから、夕方から病院の前庭で小さなお祭りをした。短冊にお願い事を書いて、笹にくくりつけた。けいいちろうは車椅子に座って、左手で何回も何回も書いて、破って、書き直していた。しばらく見ていると、私に気づいてきつい目で睨み返してきたから、私は笑顔を返した。
 七月八日。
昨日はしゃぎ過ぎたせいか、朝から微熱が出た。いつもより多めにお薬を飲んで、ベッドの中でじっとしていた。
 七月九日。
「もういいの?」って、けいいちろうから初めて話しかけてくれた。私が、いつものことだから、って答えたら、けいいちろうは「そっか」ってだけ言って、読んでいた漫画に目を戻した。
 七月十日。
けいいちろうの母親が一週間ぶりにお見舞いに来た。けど、すぐに帰ってしまった。
 七月十一日。
「ねえ」って、けいいちろうが私に声をかけてきた。「はつきはさ、どうして入院してるの?」だって。
 その質問に、私は「わからない」って答えた。けいいちろうはしばらく考えてから、「そっか」ってだけ言って、また漫画を読み始めた。
 七月十三日。
今日はけいいちろうにたくさんお見舞いの人がきた。けいいちろうは小学校に行っているから、その友達だった。みんなが作った千羽鶴をもらって、けいいちろうはうれしそうだった。
 七月十四日。
今日はけいいちろうとたくさんお話しした。
私は小学校に行ったことなかったから、けいいちろうの小学校のお話はとても面白かった。そして、うらやましかった。
 七月十六日。
午後から咳が出た。けいいちろうが心配して声をかけてくれたから、うれしかった。
けいいちろうに元気をわけてもらって、夕方には大丈夫になった。
 七月十七日。
先生はまだ早いって言ってたけど、けいいちろうが松葉杖で歩く練習を始めたから、私はそれを横でじっと見ていた。けいいちろうはバランスを崩すたびに私のほうを見て、照れくさそうに笑った。
 七月十八日。
今日もけいいちろうは松葉杖の練習をしていた。私も横でそれを見ていた。今日は藪先生も一緒に、いろいろお話した。
 七月十九日。
けいいちろうの松葉杖さばきもだいぶ上達して、たった三日しか練習していないのにもうだいぶ歩けるようになっていた。私も少しうれしい。
 七月二十日。
けいいちろうの学校の先生がお見舞いに来て、お手紙を渡していた。夕方近くにその先生と入れ替わるようにしてけいいちろうの母親が来た。先生と少し話してから、けいいちろうの枕もとにあった通知表を手にとって、もう少し頑張りなさいね、ってだけ言って、帰ってしまった。けいいちろうは布団にもぐりこんで出てこなかった。
 七月二十一日。
今日も私はけいいちろうの松葉杖の練習を横で見ていた。休憩の時にけいいちろうが「はつきにはお見舞いの人、来ないの」って言ったから、私が小さく頷くと、また、「そっか」ってだけ言って、それからなにも喋らなかった。
 七月二十二日。
けいいちろうがだいぶ歩けるようになったから、私とけいいちろうと藪先生の三人で病院の中を探検した。
 私は途中で少し熱が出たから、部屋に戻って休んでいた。けいいちろうはしばらくたってから戻ってきて、いろんなことを教えてくれた。
 七月二十三日。
昨日の熱が下がらない。でも、けいいちろうが松葉杖の練習を休んで一緒にいてくれたから、平気だった。
 七月二十四日。
熱は下がったけど、体が思うように動かない。そのかわり、けいいちろうとたくさんお話できた。学校のこと、今まで読んだ漫画のこと、テレビのこと、いろいろお話した。
 七月二十五日。
外は雨。でも、私は元気。今日はけいいちろうとふたりで、ずっと窓の外を眺めていた。
あんまりお話しなかったけど、楽しかった。
 七月二十六日。
昨日の雨がウソみたいに、おひさまが笑っていた。けいいちろうと二人で屋上に行って、水たまりで遊んだ。あんまりはしゃいだから、「また熱がでたら大変よ」って看護婦さんに怒られた。
 七月二十七日。
今日もけいいちろうと一緒。ふたりで病院を歩き回って、いろんな人とお話した。私はもうずっとこの病院にいるから友達も多い。今日はその友達をけいいちろうに紹介できたから、よかった。
 七月三十日。
今日は花火大会の日だ。病院の側の川から大きな花火が次々と打ち上げられるのを、私はけいいちろうと一緒に病室から見ていた。川面に映る花火がきらきらと、とっても綺麗だった。
 七月三十一日。
久しぶりにけいいちろうの母親がお見舞いに来た。けど、けいいちろうはやっぱり不機嫌そうに布団にもぐっているだけだった。私なら、お母さんがお見舞いに来てくれたらとってもうれしいのに。けいいちろうはどうしてお母さんのこと嫌いなんだろう。
 八月一日。
今日は検査の日。一日中かかっていろんなことを調べる日だ。ずっと検査だったから、今日はけいいちろうとほとんどお話できなかったし、とっても疲れた。
 八月二日。
お昼前に、同じ病室のおじさんが退院した。けど、夕方になって新しい人がすぐに入ってきた。交通事故だって。
 八月三日。
けいいちろうの右手のギブスが小さくなって、包帯も取れた。けいいちろうは「腕が白くなった」って騒いでいた。
 八月四日。
今日はけいいちろうが本を読んでくれた。鬼を退治するお話や、亀を助けて海の中のお城に行くお話とか、たくさん読んでくれた。
 八月五日。
急に、けいいちろうが私の誕生日を聞いてきた。私は、「今月の二十二日だよ」って教えてあげたら、けいいちろうは「そっか」って言って、また本を読んでくれた。逆に、私がけいいちろうに誕生日を聞いたら、けいいちろうは「十二月十六日」って教えてくれた。まだだいぶ先だ。
 八月六日。
また熱が出た。今までで一番高い熱だったかもしれない。私はベッドから一歩も出られなかったけど、けいいちろうが心配そうに見ていたから、できるだけ笑っていようと思った。
 八月七日。
熱はだいぶ下がったけど、まだ大丈夫じゃない。藪先生が、熱を出す間隔が短くなってきてるから個室に移ったほうがいいかもしれないね、って言った。
 八月八日。
結局、個室に移ることになった。けいいちろうと離れることになるけど、すぐ会いにいける。
 八月九日。
久しぶりにお母さんが来てくれた。お父さんもお母さんもとっても忙しくて、ほとんど病院に来られないから、とってもうれしくて、けいいちろうのこととか、病院のこととか、いろいろお話した。お母さんは笑顔で私の話を聞いていたけど、夕方ぐらいになって帰るころには、なんだか涙を我慢しているみたいだった。
 八月十日。
けいいちろうが来た。左手で松葉杖をもって、右手に本を三冊ぐらい抱えて来てくれた。
その日は二人でその本を読んだりして遊んだ。
 八月十一日。
今日は体調が良かったから、こっちからけいいちろうのところに行こうと思って部屋を出た。エレベーターを待ってる間、話し声が聞こえたから階段のほうを見たら、黒い服の男の人が羽根の生えた金色の男の人を連れて、女の人と話していた。よく見ると、その女の人は透けていて、向こう側の壁が見えていた。私がしばらく何も言わないでそれを見ていると、黒服の男の人が気づいて、階段を下りてきた。
「おじさんたち、何をしてる人?」って聞いたら、男の人は驚いた顔をして、「彼女の姿が見えるのか」って言った。私が頷くと、男の人は悲しい顔をして、「君には素質があるのかも知れないね」と言ってまた階段を上っていった。
 八月十二日。
今日もお母さんが来てくれた。私は昨日見た男の人と、天使さんと、透けた女の人の話をした。昨日話したけいいちろうは信じてくれたけど、お母さんは信じてないみたいだった。
 八月十三日。
また、この前会った男の人に会った。今日は一人で屋上に座っていた。けいいちろうと一緒に話し掛けようとすると、男の人は何も言わずに病院の中に戻って行った。
 八月十四日。
今日も熱っぽくて、一日中ベッドに横になっていた。けいいちろうが様子を見にきてくれたけど、私がいつの間にか眠っちゃったから、いつの間にか部屋に戻ったみたいだった。枕もとに、私の大好きなみかんを置いていってくれた。
 八月十五日。
目が覚めた時、まだ夜中だった。薄いカーテン越しに月の光がさして、部屋は結構明るかった。
 誰かいるような気がして起き上がってみると、入り口の側にこの前の男の人が立っていた。男の人は「起こしたかな」って言って私のほうに歩いてきて、椅子に座った。椅子に座ると、男の人は「僕は死神なんだ」って言った。
 死神って何、って聞いたら、「死んだ人を死んだ人の世界へ連れて行くんだよ」って言った。「この前の女の人は死んじゃったの?」って聞くと、死神さんは「そうだよ」と小さく言った。「天使さんは?」って聞いたら、死神さんは一瞬驚いた顔をして、それから悲しい顔になった。そして、小さく、「天使の姿も見えるのか」って言った。
 それから少しお話ししたと思うけど、いつの間にか眠っていて、次に目が覚めた時には死神さんはいなかった。
 八月十六日。
廊下で偶然けいいちろうに会った。けいいちろうは驚いて、手にもっていたものを後ろに隠した。「何?」って聞いても、「別に」としか答えてくれないから、少し悲しかった。
 八月十七日。
髪の毛が少し抜けた。藪先生はお薬のせいだろうって言った。
けいいちろうが来た時、私は恥ずかしかったから、藪先生に帽子を借りてずっとかぶっていたら、けいいちろうが「なんで帽子かぶってるの」って聞いてきた。私が「なんでもないよ」って言うと、けいいちろうは「そっか」ってだけ言って、もう帽子のことは聞かなかった。
 八月十八日。
今日もお母さんが来てくれた。午後からずっと一緒にいたから、お母さんにけいいちろうを紹介できてよかった。けいいちろうは「きれいなお母さんだね」って言ってくれた。私が「けいいちろうのお母さんも美人だよ」っていったら、「そんなことない」って怒った。どうしてけいいちろうが怒ったのか、私には全然わからなかった。
 八月十九日。
久しぶりにお父さんに会った。本当に久しぶりだったから、いろんなことをたくさんお話した。たくさんお話したから、とっても疲れて、いつのまに眠ったのかもよく覚えていない。
 八月二十日。
熱が出たわけじゃなかったけど、自分の体が自分の体じゃないみたい。全然言うことを聞いてくれない。けいいちろうが会いに来てくれたけど、全然お話しできなかった。なぜだか涙が出てきて、横に座っていたけいいちろうは困っていたみたいだった。
 八月二十一日。
今日はけいいちろうの退院の日だ。けいいちろうはもらった花束を持って、私に会いに来てくれた。本当は私が会いに行きたかったんだけど、体が動かなかった。夕方まで一緒にいたら、けいいちろうは迎えに来た母親に連れられて、病院を出て行った。私は窓からけいいちろうが見えなくなるまでずっと目で追っていた。
 部屋に残ったのは、けいいちろうが私にくれた半分の花束と、忘れていった本だけだった。
 八月二十二日。
今日は私の七歳の誕生日。朝からお母さんとお父さんがお見舞いに来てくれたから、藪先生と看護婦さんと一緒に小さな誕生会をやった。本当はけいいちろうが来るまでやりたくなかったんだけど、お父さんが午後には帰るから、けいいちろうを待てなかった。
 お昼近くなって、そろそろお父さんが帰ろうかと言い出した頃、咳が止まらなくなった。薬を飲んでも全然治まらなくて、いつのまにか、私の手と、パジャマと、お布団が真っ赤になっていた。私は特別な部屋に移されて、体中にいろんな管が付けられた。お父さんとお母さんが部屋の外で待っているのが、そばの大きなガラス窓から見えた。お母さんが泣いていた。それを見ながら、私はいつの間にか眠ってしまった。
 八月二十二日、夕方。
気が付くと、私は特別な部屋の前に立っていた。すぐ隣にお父さんとお母さんが立っていたけど、二人は心配そうに部屋の中をのぞくだけで、私がいくら話し掛けても気づいてくれなかった。私はいつもの部屋に戻ることにした。途中、何人か知ってる人とすれ違ったけど、誰も私に気がついていないみたいだった。
 部屋の前につくと、ドアは開いていた。中に入ると、けいいちろうが手にリボンのかかった紙袋を持ったまま、何も言わずに椅子に座って、赤く染まったベッドを眺めていた。
「けいいちろう」って私が呼んだら、けいいちろうは一瞬顔をあげたけど、正面に立っている私に気がつかないで、また何もなかったみたいにベッドを見た。
 誰かに呼ばれた気がして、部屋を出る。そこには、死神さんが暗い顔で立っていた。
「この日が来てしまったんだね」死神さんが言った。
 誰かの泣く声が聞こえて、部屋をのぞいてみると、けいいちろうがうつむいたまま泣いていた。胸が痛かった。
「私・・・死んじゃったの?」って聞いたら、死神さんは静かに首を縦に振った。
 とぼとぼと病院の中を歩き回って、お父さんとお母さんの隣に座って、少し考えた。
「もう少しだけ・・・ここにいさせて」
私がお願いすると、死神さんは頷いてくれた。
 八月二十四日。
私は家に戻った。久しぶりに戻った我が家は、重く、どんよりした空気が支配していた。昼前から降り始めた静かな冷たい雨が悲しかった。
 夜、けいいちろうが母親に連れられてやってきた。学校の制服を着て、両手でリボンのかかった紙袋を大事そうに持って、静かに目を閉じている私の側に座った。けいいちろうは泣いていた。目を真っ赤にしながら、何を言っているのかわからないけど、叫んでいた。私はそれをすぐそばで見ていることしかできなかった。
 しばらくすると、けいいちろうは持っていた紙袋を開けて、中からピンク色のかわいいウサギ絵のついた筆箱を取り出して、私の手ににぎらせてくれた。
「遅くなったけど、誕生日プレゼント」って泣きながら言って、そのまま逃げるように出て行ってしまった。
 もうここにはいられない。突然、そんな気がした。
 私はけいいちろうの後を追うように家を飛び出した。玄関の前には死神さんが天使さんと並んで立っていた。
「もう行こうか」
死神さんが言う。私は頷いた。
 すぐ側で、母親に泣きついているけいいちろうが見えた。けいいちろうはお母さんのことが嫌いだったみたいだけど、仲良くしてくれるといいな、と思う。
 ゆっくりと天使さんが近づいてきて、私を抱きかかえて、大きな白い翼を広げた。
 そのまま、私たちは冷たい雨の降る夜空に舞い上がる。
 もうここに戻って来ることはないかもしれない。
 もうけいいちろうに会うことはないかもしれない。
 けど、私はまだけいいちろうに「ありがとう」って言ってない。それが、悔しかった。
 悔しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
 叶うなら、もう一度けいいちろうに会って、ちゃんとお礼が言いたい。
 叶うなら・・・もう一度・・・・
 本当はずっと、一緒にいたい。

 静かな夜だ。
 すぐ隣で眠る鈴子さんの静かな寝息のほかには風の音すら聞こえない。
 暗い月明かりがぼうっと部屋を照らしているだけ。
 私は自分が涙を流していることを知った。
 昔のことを思い出したせいだ。
 私は少し大きめのパジャマの袖で涙を拭った。
 再会の時は近い。
 希望が私に見せた、哀しい別れの夢。

再会

 私は、鈴子さんと約束して、学校の校門の前で鈴子さんがけいいちろうを連れてくるのを待っている。今日はとっても寒いから、できれば早く来てほしいんだけど。
 昨日はいろいろ鈴子さんに聞かれたけど、結局私はほとんど何も言わなかった。鈴子さんは始めはしつこかったけど、そのうちに飽きたのか、何も聞かなくなった。私は朝、鈴子さんが学校に行くのを見送ってから、本を探しに町へ出た。まだ、本をけいいちろうが持ってるって決まったわけじゃないから。
 とりあえず私たちは学校が終わったら会う約束をしている。だから、こうして門の前に立っているのだ。結局本も見つからなかったし。さすがに十二月だから、いくらこの時間でも、外でじっとしていると体が冷える。かといって他にやることもないから、私はすぐ横の花壇のふちに腰掛けて、鈴子さんを待った。
 ちらっと時計を見ると、ちょうど三時半を指していた。鈴子さんとの待ち合わせの時間だ。帰宅する生徒の姿がちらほらとあるから、授業は多分終わっているんだろう。
 十分ぐらいたった時、鈴子さんが頭に包帯をぐるぐる巻いた男の子の腕を引っ張って走ってきた。昨日アルバムで見たけいいちろうに間違いない。
「や、ごめんごめん。いろいろあって少し遅くなった」
「あ、別にそんなに待ってませんから」
鈴子さんと私が一言二言交わしていると、けいいちろうが心配そうな声で話し掛けてきた。
「あのですね、僕はどうして連れて来られているんでしょうか・・・」
鈴子さんのことだから、ろくに説明もしないでむりやり連れて来たんだろう。私はその場面を想像して、つい吹きだしてしまった。
「・・・・あれ?」
ふと、けいいちろうが私の顔を見て、考え込んだ。私のこと、覚えてくれているんだろうか。覚えていてくれたらうれしいんだけど、それはそれで困ったことになりそうな気もする。
「あれ・・・えーーと・・・なんだっけな・・・」
けいいちろうは腕を組んで、うーーん、うーーん、って唸り始めた。ちらっと鈴子さんを見ると、心配そうな顔で私のことを見ていた。
「ごめん、えーと、誰だっけ?」
けいいちろうが申し訳なさそうな顔で言った。あんまり申し訳なさそうな顔だったから、つい笑ってしまった。
「はじめまして、ですよ」
安心したような、残念なような、複雑な気分だ。けいいちろうはまだ納得していないみたいだけど、私は名乗れないから、向こうに思い出してもらうしかないもんね。はやくお礼を言いたいけど、まだその時期じゃない。
「ところで近江君」
納得しないけいいちろうをよそに、鈴子さんが話を進めようと口を開いた。けいいちろうは鈴子さんが怖いのか、ちょっとびくついた感じで様子を窺うようにしている。
「おとといの夜のことだけど・・・覚えてる?」
「あ、おとといの夜なら病院のベッドで寝てましたね。なんか空から降ってきて・・・」
ほら、これがその時の傷です、と、けいいちろうは自分の頭をぐるぐるまきにしている包帯を指差した。
「空から降ってきたって、もしかして本じゃなかった?」
鈴子さんが言うと、けいいちろうは「そうですよ」と言って不思議な顔をした。
「なんか皮のハードカバーで・・・漫画雑誌ぐらいの大きさだったかな。わりと古い感じで。中は日本語じゃないみたいだったから何の本かはさっぱり分からなかったけど」
間違いない。私の本だ。そもそも空から降ってきた時点でもう間違いないような気はするんだけど。
 鈴子さんが私を見ていたから、私は小さく頷き返した。
「なるほどね。ところで近江君、その本、実はこのしーちゃんの本なんだ」
「そうなんですか?それが何で空から・・・」
けいいちろうは私のほうを見ながら、やっぱり不思議そうな顔で呟いた。
「ん、いや、ちょっとほらアレよ。風で飛んだんだよ」
「あんな分厚い本がですか?」
「うっ・・・」
私たちは困った。いきなり「私が天使さんの背中から落とした」なんて言ってもけいいちろうを混乱させるだけだろうから。
「まぁ、世の中には科学では解明できない深ぁい謎がまだまだたくさんある、ってことなんだな。近江君」
「なんか納得いかないなぁ・・・」
けいいちろうが言うと、鈴子さんは少々頭に来たらしく、怒った口調で叫び出した。
「とにかくっ、あの本はこの子のなの。アンタは黙って、おとなしく、素直に本を返してくれればそれでいいから!」
ちょうど下校時間の校門の周りにはたくさん人がいて、みんな何事かとこっちを見ていた。けいいちろうは鈴子さんの迫力に圧倒されて、青い顔で小さく「はい」と応えた。

家捜し

 けいいちろうの家は、学校から橋を渡って三十分ぐらい歩いたところにある十三階建ての立派なマンションの一室だった。マンションの周りには木がたくさん植えられていたけど、葉はほとんど散ってしまっていた。何人かのおばさんたちが世間話をしながら落ち葉を掃いている前を通り抜け、オートロックの扉を抜けると、広々としたエレベータホールに着いた。私たちはエレベーターが来るのを待つ間、どうでもいいようなことを話していた。
「ここ、高いだろ?」
「そだね。十三階まであるし」
「ばか。高さのことじゃないよ。家賃だよ、家賃」
「僕が払ってるわけじゃないから良く分からないけど・・・たぶんそうなんじゃない?」
けいいちろうは少し怒ったような声で呟くように言った。まだお母さんのことが嫌いなんだろうか。もしそうなら、少し寂しいと思う。
「近江先輩」
もうすぐエレベーターが来るな、って思ってたら、後ろから鈴子さんと同じ制服を着た女の子が小さく声をかけてきた。短い三つ編みのかわいい女の子だった。
「北村さん・・・」
「誰?」
鈴子さんがまるで威嚇するような目つきで北村さんと呼ばれた女の子を睨みつけた。気丈にも北村さんはぐっと鈴子さんを睨み返すと、けいいちろうに駆け寄ってその右腕にしがみついて言った。
「北村翔子、十五才。これでも近江先輩の彼女です」
「一応そういうことになってます」
けいいちろうも照れながら、それを肯定する。鈴子さんが「ふーん」と気のない返事を返しながら、私の方をチラッと見た。
「な、何ですか?」
「ん・・・別に。意外と平気そうだな、と思って」
「だから何がですか?」
「気にしないならいいよ」
 鈴子さんと小声でそんなやり取りをしている間に、エレベーターが到着した。私たちがそれに乗り込むと、けいいちろうが七階のボタンを押す。ドアが閉まると小さな振動と一緒に一瞬体が重くなる感覚があって、誰も何も言わずにいるうちにエレベーターは七階に到着した。チン、と小さく鳴って、ドアは開く。
 私たちはけいいちろうの後ろについて歩いて、エレベーターホールから五つ目の扉、708号室のけいいちろうの家の前に着いた。けいいちろうは慣れた手つきでカバンからカギを取り出すと、カギを開けて中に入る。私たちもそれに続いた。
「僕は本を探してくるから、三人は居間で待ってて」
けいいちろうはそう言うと、私たちを居間に押し込めて、自分の部屋に本を取りに行った。
 ソファに腰掛けると、早速北村さんが口を開いた。
「あの、お二人は近江先輩とはどういう関係で?」
「ん。別に。私はただのクラスメイト。この子は近江君の拾った本の落とし主。ただそれだけだけど」
鈴子さんが言ったのを受けて、北村さんが私を見た。私はとりあえず頷き返しておく。
「そうですか・・・じゃあ、お二人は違うんですね」
ほっ、と、北村さんが胸をなでおろす。
「違う、って何が?」
私が聞くと、北村さんは不意に表情を曇らせて、暗い声で答える。
「最近・・・近江先輩、ちょっと様子がおかしいんです。あたしが何言ってもあんまり聞いてくれてなくて。おとといくらいからは特にそうなんです。あたし、もしかしたら、って思って・・・だからさっきエレベーターの前でお二人と近江先輩が一緒にいるのを見て・・・それで・・・」
なるほど。よくわからないけど、北村さんはけいいちろうの様子が最近少しおかしい原因が私たちにあるんじゃないか、って思ってるわけか。
 そこへ、けいいちろうが困った顔で戻ってきた。
「あの、ごめん。確かに机の上に置いたと思ったんだけど・・・見つからないんだ。もうちょっと時間がかかりそうなんだけど・・・いいかな?」
「ん。別に私たちは何時まででも待つけど・・・」
「あたしも待ちます」
言いかけた鈴子さんの言葉に重なるように、北村さんは言った。
「え、いや、北村さんはもう帰ってくれていいんだけど・・・」
「大丈夫です。家はすぐ下ですから」
「いや、それは知ってるけど・・・」
「それとも何か、あたしが帰らなきゃならない理由でもあるんですか?」
キッ、と、険しい表情で見つめ返す北村さんに、けいいちろうもとうとう折れる。
「分かったよ・・・」
ふぅ、とため息混じりに言ってから、けいいちろうはまた本を探しに自室に戻った。それを待っていたかのように、北村さんはゆっくりと口を開いた。さっきまでとは打って変わって、自信なさげな、暗い声だった。
「あの、お二人はなにか知りませんか?近江先輩がぼーっとしてる理由・・・・」
「ん・・・・クラスメイトといえども残念ながら今日が初対面のようなもんだからねー。私はなんとも言えない」
鈴子さんが答えると、北村さんは「そうですか」と首をうなだれた。
「大丈夫だよ。けいいちろうはちょっと調子悪いだけなんだと思う。私が最初に会ったときに比べたらずっといい顔してるから。ちょっとひとりで考え込む癖を持ってるみたいだけど・・・北村さんがいれば多分大丈夫だよ・・・・」
私は視線を感じて目を上げた。案の定、北村さんと鈴子さんが私を不思議そうな顔で見ていた。
「昔からの・・・知り合いなんですか?」
怪訝そうな顔と声。私は北村さんを元気付けようとして言ったんだけど・・・またちょっと失敗したかもしれない。北村さんにしてみれば私は「けいいちろうの拾った本の持ち主」ってだけだったんだから、「昔」のことを出すべきではなかったんだろう。
「えと・・・・ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、っていつですか?」
ずいっ、と、北村さんが険しい顔で前に乗り出してきた。
「じゅ・・・十年ぐらい前・・・・かな?それから全然会ってなくて、きっとけいいちろうは私のこと忘れてるけど。ほら、鈴子さんならわかるでしょ?今日会ったときに・・・」
「ん。たしかに誰だかは分からなかったみたいだな。なんか引っかかりはあったみたいだけど・・・」
私はあわてて取り繕ったけど、北村さんは私たちの言葉はほとんど耳に入っていないみたいだった。
「・・・・おとといとかは会ってませんよね?」
今日久しぶりに会ったんだよ、と私が深く頷くと、北村さんはやっと納得したようにほっとした顔を見せてくれた。今度からはこんなことにならないように、もっと注意して喋らないとね。
 そんなことを話していると、けいいちろうが申し訳なさそうな顔で戻ってきた。きっと本は見つからなかったんだろう。
「ごめん、やっぱりない」
そう言うと、けいいちろうはますます申し訳なさそうに背中を丸めてしまった。
「親が勝手に捨てちゃったとかは?」
鈴子さんがぶっきらぼうに言うと、けいいちろうははっきりした口調で
「それはないよ。母さんは僕の部屋には入らないから」
と言い切った。母親持ち出し説は完全に消えたかな。
「それじゃぁお父・・・」
鈴子さんがそう続けようとしたから、私は慌てて鈴子さんの袖を引っ張って、もういいよ、と言って制止した。
「あの、本はいつでもいいですから、見つかったら知らせてください。えと・・・」
「秋篠神社に電話するといい」
「です」
鈴子さんが近くにあったメモ帳に電話番号を書き終えるのを待ってから、けいいちろうの家を後にする。
 別れ際にけいいちろうがごめんね、って辛そうな顔をするから、大丈夫ですから、見つかったら教えてください、と念を押して別れた。鈴子さんが不思議な顔をしてたから、ドアが完全に閉まるのを確認してから、私は言った。
「・・・・けいいちろう・・・お父さん、いないから」
鈴子さんは始めはきょとんとしていたけど、ふと優しい顔になって「そうか・・・アリガト。止めてくれて」と呟いた。

死者聖典

 次の日。
 朝鈴子さんの家を出て、しばらく街中を探索して、お昼前に病院に行ってなおちゃんとお話して三時ごろに学校へ向かうのが二日目にしてもう日課のようになってしまった。もうずっと前からこうしているような、そんな気分になる。早く本を見つけないといけないのに。
「あ、そろそろがっこうがおわるじかんじゃない?」
屋上のドアの上に乗っかっている古びた時計をみると、確かに三時を指していた。今からここを出ればちょうどいいぐらいで学校に着くだろう。
「そうだね。じゃぁ私そろそろ行くね」
「うん。しーちゃんも、きょうこそごほんがみつかるといいね。なおはここでしーちゃんのおはなしをきくことしかできないけど・・・」
「いいよ。それだけでも。ずいぶん助かってるよ」
「うん」
きゅっ、って抱き合ってから、私はその場を後にする。なおちゃんは笑顔で見送ってくれた。でも私は知ってる。帰るときの笑顔と来た時の笑顔の違いを。だからこそ早く本を見つけて、なおちゃんを冥府に送らなければ、と思う。
 学校に着くと、すでに鈴子さんが少し苛立った様子で校門の前に立っていた。なぜかけいいちろうと、それから北村さんも一緒だった。
「何?何かあったんですか?みんな揃って・・・」
「ああ、あったんだよ」
きょとんとする私と対照的に、ぶっきらぼうに吐き捨てる鈴子さん。
「昼休みに正臣から連絡があった。しーちゃんの本らしきものが見つかった、てさ」
「見つかったんですか!!?」
「ああ。改めて特徴を確認したんだけど、近江君の拾ったのもそれと全く同じだったんだな」
「はぁ・・・」
私にはなぜ鈴子さんがいらだっているのかわからなかった。
「見つかった場所が問題でさ。古本屋だったんだ」
そこまで言ってから、鈴子さんは横目でけいいちろうを睨みつける。当のけいいちろうは困惑した様子で立ちすくむだけだった。
「コイツ売っ払ってたの」
「いや、だから誤解だって。僕は断じてそんなことはしてないって何度も言ってるじゃない」
「ん。そんなこと言ってられるのも今のうちさ。今からその古本屋で正臣と待ち合わせなんだ。そこで店主に聞けばすべてがはっきりするだろ」
「僕は無実だっ!!」
「ほら、そういうわけだから、急ぐよ!!」
「無実だって!!」
けいいちろうは鈴子さんに後ろ襟をつかまれてズルズル引きずられていった。後に残された私と北村さんはしばし顔を見合わせてから、二人の後を追って行く。
 目的の古本屋さんは結構遠かった。いや、かなり遠かった。途中電車に乗る待ち合わせ時間をいれて、だいたい三十分ぐらいかかっただろうか。その店の前に着いたときにはもう四時になろうかという頃だった。
「たのもー!!」
鈴子さんが威勢よく引き戸を開けて中に入る。私たちもそれに続いた。店の中には誰もいなかった。でも耳を凝らすと店の奥で談笑している声があった。間違いなく正臣さんの声だ。もうひとりは・・・きっとこの店の店主さんだろう。その声を追って店の奥へと入って行くと、制服のままの正臣さんが気の良さそうなおじいさんと話をしていた。
「お、来たな」
私たちに気がつくと正臣さんは部屋の隅に置いてあった本を手にもって近づいてくる。
「ダメモトでこの辺りの古本屋回ってたら、ここで見つけたんだよ。ほら、これだろ?」
そういいながら正臣さんが差し出したのは、まぎれもなく、あの日、私が天使さんの背中の上から落としたあの本だった。どうだ?と私を見ている鈴子さんに頷き返す。
「これです。間違いありません。ありがとうございます」
ぺこり、とお礼をすると、仕事だからね、と言って、私たちに上がってくるように言った。
「遠慮しなくていいからね」
店主さんもこう言ってくれてるし、それにお礼もしなきゃいけないから、私たちは少しの間ここにいさせてもらうことにした。
「あ、そうだ・・・本の代金・・・」
私がいいかけると、正臣さんがそれを制止した。
「俺が払っといた。と言ってもじいさんが本を買い取った金額で、だが」
「おっ、気が利くじゃん、正臣」
ひゅー、と面白がって茶化すように言う鈴子さん。
「秋篠の家にはいろいろ借りがあるからな。金のことは気にしなくてもいい」
「そう・・・ですか?」
「そうそう。どうせたいした金額じゃなかったしな」
「では・・・あらためまして、ありがとうございます」
正直、助かった。実はあんまりお金持ってないから。なにしろ冥府から支給される活動資金はほとんどあてにならない、とみんな言っているぐらいだから、その通り私もほとんど支給されていないに等しかった。さっきの電車賃だって結局は鈴子さんに払ってもらったし。
「ところで、だ」
鈴子さんが店主に詰め寄る。
「この本を売っていった人間のことを覚えていますか?」
質問をしてからしばらく間があって、やがておじいさんはゆっくりと口を開いた。
「はてーー・・・高校生ぐらいの男の子だったと思ったんじゃが・・・どんな顔だったかまでは覚えとらんのう。あんまり見る顔でもなかったし」
それは・・・と、けいいちろうの襟首を引っ張っておじいさんの前に突き出す。またしばらく間があって、ゆっくりと喋り出すおじいさん。
「おお、このコじゃ。間違いない」
「ウソっ!!」
一番先に、一番驚いたのは他でもないけいいちろうだった。
「そんなバカな!!僕はこの店には来たことないですよ!!?それに古本屋だったら学校の近くにもあるじゃないですか!!なんでわざわざこんな遠いところまで・・・」
「やましいことをする時はわざわざ遠いところの店まで行くもんさ」
鈴子さんの言葉に、ぐっ、とけいいちろうが言葉に詰まる。
「で、でも、僕じゃない!!きっと僕にそっくりな誰かが・・・」
「そういえば頭に包帯巻いとったの」
「誰かが・・・僕が拾ったのと同じような本が頭に当たってそれで・・・なわけないか・・・」
いいながらけいいちろうの自信が見る見るなくなっているのがわかる。
「そうそう。頭怪我してるんだから、忘れてるだけなんじゃないの?」
「む・・・だんだんそんな気がしてきた・・・」
それ見たことか、と勝ち誇った顔をする鈴子さん。私たちは完全に蚊帳の外だった。
「ん」
うろたえる北村さんの前でけいいちろうを足蹴にしていた鈴子さんが、何かに気づいたような声を上げた。
「しーちゃん、その本、ちょっと光ってない?」
「何言ってんだ、鈴子。そんなわけないだろ」
正臣さんが言う。けいいちろうも、北村さんも、店主さんも、みんな否定した。けど、鈴子さんの言うとおりだった。本がうっすらと緑色の光を出している。
「えーと・・・・」
緑色、って何の色だっけ?たしか赤、黄、緑の三色があって、赤が帰還命令で・・・黄色が情報で・・・緑がたしか・・・
「警告・・・」
そのことに気がついた私は、本を持って部屋の端っこに移動する。みんなが何事かと私のことを見てるけど、気にしている場合ではない。天使さん言ってたもんね。『緑色警告は持ち主の近辺に魔のものが存在している場合が多いのです』って。だとしたら、その対策のために本を開くべきだ、とかも。
 表紙をめくると、ぱらぱらと数ページ勝手にめくれて、止まった。声に出さないようにそれを読んで行く。
 警告。
 「魔」との「接触」あり。
 術者の極めて近くに「魔」の存在を確認。
 ランクCマイナー(極めて微弱な反応)
それは、魔のものがこの本に触れた、という内容だった。けど・・・一体いつ?私が本を手放してから今までにこの本に触れた?けいいちろうの家で?それともけいいちろうに似た誰かの家で?それとも・・・ここで?
どちらにしろ、ランクCマイナーということは病院にいたやつにくらべて全然弱い反応だけど(はっきりわからないけど、アレは最低でもランクAだと思う)気にならないわけはなかった。
「どした、しーちゃん」
鈴子さんにこの事を耳打ちする。
「魔、ってアレか?病院に出てきた、あいつみたいなもんか?」
「ランク的にはCマイナーの魔のものは、ほとんど検知されないクラスなんですけど・・・」
「なら気にすることはないんじゃない?」
そうだといいんだけど・・・
「何?何があったの?」
けいいちろうが心配そうに私のほうへ近づいてきた。慌てた私はつい、本を放り投げてしまった。
「おいおい、そんなに慌てなくても、誰もそんな字読めやしないって」
あ、そうか・・・
 とりあえず本を拾いに立ち上がった頃には、けいいちろうがすでに拾って来ていた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう、けいいちろう」
「え?」
私がお礼を言うと、けいいちろうはハッとしたようになって、固まってしまった。
「あの、どうかしましたか?」
もう一度声をかけると、「気にしないで」とけいいちろうは返した。
 気を取り直してもう一度本を開く。と・・・表示が変わっていた。
「あ・・・変わってる」
「何?」
 警告。
 「魔」との「接触」あり。
 術者の極めて近くに「魔」の存在を確認。
 ランクC(微弱な反応)
「警告のランクが上がってます」
「さっきの今で?」
きょろきょろ、と2人で辺りを見回してみても、それらしいものは微塵も見えなかった。
「何か見えた?」
「いえ・・・鈴子さんは?」
「私も何も見えないし、何も感じない。あの日のアレはずいぶん離れててもはっきり分かったんだが・・・」
「ですよね・・・」
先ほどまでのCマイナーならまだしも、ランクCで、しかもこの距離で、私も鈴子さんも気が付かないってことはほとんど考えられない。
「近江君か?」
「そんなはずは・・・ないです。魔のものはそれそのものだけの存在で、その姿は闇に溶け込む影そのもの。人間の形をしているなんて聞いたことありません。人間に取り憑くこともあるみたいですけど・・・それでも雰囲気でわかります」
けいいちろうは印象は昔のままだから、実は魔のものだったとは考えられないし、考えたくない。
「でもこの場合、他の可能性はもっと低いだろう?私は警告と聞いてからずっと注意してたし。それはしーちゃんも同じだろ?」
たしかに、そうだ。他の可能性はゼロに等しい。
「確かめる方法はないのか?」
「わかりません。なにしろ魔のものは我々死神が『見ればそれとわかる』ものしか存在しない、とされていますから、見分け方なんて・・・」
「そうだろうな」
ふむ、と困ったため息をつく私たち。
「そうだ、こんなのはどうだろう。『もうとっくにネタは上がってんだぞ!!正体表しやがれ!!』っての」
うーーん・・・悪くないかもしれないけど、私にはそれでうまくいくとはどうしても思えなかった。
「あのさ、二人とも、なにそんな端っこでコソコソやってんの?」
不用意に近づいてきたけいいちろうに鈴子さんは前触れもなく詰め寄ると、大きな声で言い放った。
「もうとっくにネタは上がってんだぞ!!正体表しやがれ!!」
 ・・・・
 ・・・・しん、と、水を打ったように静まり返る。私も含めてその場にいる全員が次の言葉を求めている。
「な、なに言ってんですか、秋篠さん・・・」
「違うというのなら理由を言いなさい。さもなければ強制的に無に還すまで」
今度は声量こそ多くないものの、低く重い声で言った。
 けいいちろうは無言で鈴子さんの目を見詰めていたけど、やがて胸倉をつかんでいた鈴子さんの腕を跳ね除けて、すっと立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「近江・・・先輩?」
私たちはその様子を何をするでもなく、ただ眺めていた。眺めさせられていたと言ったほうがいいのかもしれない。それぐらい、場の空気は一変していた。
「まいったねぇ・・・恐れ入ったよ」
振り返ったとき、けいいちろうの顔はついさきほどまでのそれとは全く違っていた。顔のパーツ一つ一つはまちがいなくけいいちろうのものだけど、その全体は・・・この前みた影と似た空気を発している。
「なんで分かるんだ?ええ?この方法を開発してからもう五百年は経つが・・・見破られたのは初めてだよ!!」
けいいちろうの声とは全く違う声で叫んだそれが両手を広げると、何もなかった空間から黒い影がじわじわとしみだしてくる。けど、店主さんも正臣さんも北村さんもそれが見えていないみたいで、なにが起こっているのか全く理解していない。
「答えろよ、死神ィィィィっ!!!!」
腹の底から響く声で叫ぶ。同時に、あの影の礫が私と、鈴子さんめがけて打ち出された。咄嗟に本を楯にして身を護ろうとすると、本が強く輝いて、そのほとんどをはじき返してしまった。
「す、すご・・・」
「感心してないで!!鈴子さん!!」
「ん、そうだったな!!」
反射した影が直撃した仏壇の花がみるみる枯れていく。それを目の当たりにして、他の三人も、なにかただならぬことが起こっていることを理解したようだ。つい、と本に目をやると、警告表示のランクがAメジャー(極めて強力な反応)となっていた。これは・・・明らかに危険なレベルだ。
「私が時間を稼ぐ。その間にしーちゃんは三人をどこか安全なところに!!」
「はい」
とは言っても、入り口はけいいちろうによって完全に封鎖されている。
「う、裏に勝手口があるが」
そこまで行くしかないようだった。
「なぜアンタが魔のものであることが分かったか、知りたければまずは私の問いに答えてもらおう」
時間を稼ぐための会話。
「フン、まぁいいだろう。小娘と死神一匹ぐらいいつでも始末できる。さぁ、何が訊きたい?」
不敵に笑う。
「なに、簡単なことだ。なぜアンタが近江敬一郎の姿をしているのか、ただそれだけだ」
そのことは私も気になっていたから、三人を誘導しながらも2人の会話に耳を傾ける。
「違うな。俺が近江敬一郎の姿をしているのではない。俺が近江敬一郎の中に入っているんだよ。うざったい死神どもから存在を隠すためにな」
「では本物の近江敬一郎はどうした?」
「生きてはいるよ。殺してしまっては意味がないからな。怪しまれないためには元のコイツに日常生活をさせるのが一番確実だと俺は知っているからな。これでも苦労しているんだよ」
「ならお前をその体から追い出せば近江敬一郎は本物の近江敬一郎に・・・」
「戻るだろうなぁ・・・ただし・・・」
ふわっ、とけいいちろうの前髪が持ち上がり、またもや礫を打ち出してきた。鈴子さんは何とかかわしたようだったけど、礫の直撃した家中の柱が、壁が腐って、今にも崩れそうになってしまった。
「俺はこの中から出ることはないがなぁ!!」
けいいちろうは高らかに笑いながら、なおも礫を繰り出す。嫌なにおいと、嫌な音と共に、屋根が崩れて私の上に降りかかってきた。
「しーちゃん!!」
痛みはなかった。それもそのはず、正臣さんが身を呈してかばってくれていた。
「怪我はないか?」
「は、はい、私はありませんが・・・」
「そうか・・・そりゃよかった」
正臣さんはそのまま店主さんと北村さんを抱えて外に出たところで力尽きたのか、ばったりと倒れてしまう。心配だったけど、北村さんががんばってるみたいだったから、そっちは彼女に任せて私はけいいちろうと向き合う。
「なんとか・・・やめさせないと」
人を見下したような態度で私たちを見るけいいちろう。全く同じ顔の別人がそこにはいた。
「ん。だけどどうする?あれじゃ人質を取られてんのと同じだ」
確かにそうだ。仮にここで天使さんに連絡すれば何とかなるかもしれないけど、前例がないだけにそれが一体どんな事態を引き起こすのか、私には見当がつかない。でも恐らく、けいいちろうごと魔のもの消滅させられる可能性がかなり高い。人を殺すという禁を犯してでも冥府は魔のものを消滅させようとするだろう。これだけの強い力を持った魔のものなら、なおさらだ。
「ここからじゃ・・・打つ手なしだね」
「ここから・・・ん・・・待てよ、ということは、本物の近江君自身ががんばれば何とかなるんじゃないのか?」
私たちの作戦会議を聞いていたけいいちろうが、今度は馬鹿にするような声で言い放つ。
「フン、そんなことができるなら、コイツはとっくに俺を追い出してるだろうよ」
「・・・どういう意味?」
「ついでだから教えといてやる。俺が『入る』のは誰でもいいってわけじゃない。俺が入り込む隙間がなきゃならねぇんだ。十年前、俺は古い体を捨て新しい体を探して彷徨ってたのさ。早くしねぇといつ死神どもに見つかるか分かりゃしねぇからな。ちょうどその時よ。コイツを見つけたのは」
一体何が言いたいのか、よくわからなかった。
「俺がコイツを選んだんじゃねぇ。コイツが俺を呼んだのさ!!心が消えかけていたからなぁ!!俺がいなかったらコイツはそのまま死んじまってたかもしれねぇ!!感謝してくれよ!!さあ!!感謝しろよ!!」
 そんなの・・・
 そんなの・・・間違ってる。
「けいいちろうはアンタなんか呼んでない!!アンタがそう決め付けてるだけなの!!」
「へぇ・・・どうして死神ふぜいにそんなことが分かるんだよ!!俺はコイツと十年いっしょにいるんだ!!コイツのことなら何でも知ってる!!十年前のあの日!!ある人間が死んだ!!ソイツはせっかく癒えかけたコイツの傷を広げていった!!その痛みに耐えかねたこいつは俺を呼んだ!!」
十年前のあの日、あの雨の日・・・
「それでも・・・けいいちろうはアンタなんか呼んでない!!」
「ウルセェ!!んなこたぁ今ではどうでもいいんだよ!!それになぁ!!ひとつだけ言っておいてやる!!俺はお前が気にいらねぇ!!」
ガッ、と、すごいプレッシャーと共に礫が飛ばされる。本で咄嗟にかばったけど、それでも髪留めを片方飛ばされてしまった。頬も少し痛い。
「アンタは何もわかってない!!けいいちろうは・・・けいいちろうは・・・」
「ひっ!!」
ビクッ、と、一瞬けいいちろうの顔が引きつる。
「・・・?」
「来るなぁ・・・来るなぁ・・・目を覚ます!!コイツが!!目を・・・ガァッ!!」
けいいちろうは苦悶の表情でよろけて、店舗のほうへ転がり落ちた。
「おい、しーちゃん。ひょっとして・・・近江君が魔を拒絶してるんじゃないのか?だからあいつ・・・あんなに苦しがってる。だとしたら・・・その近江君の背中を押せれば・・・っておい、しーちゃん!!?」
床に転げてのた打ち回るけいいちろうにそっと近づく。それに気がついたけいいちろうは私に向けて礫を放った。最初のころとは比べ物にならないほど弱々しい礫が襲ってくる。いくつかは当たらなかったけど、いくつかは直撃した。腕が痛い。カラン、とはじけた髪留めが転がる乾いた音が響く。
「けいいちろう・・・」
「来るなぁ・・・お前は来るなぁ・・・なんなんだ、死神ぃ・・・お前は・・・お前は何なんだよォォっ!!」
倒れたまま店の外に出ようとするけいいちろうを、私はぎゅっと抱きしめた。
「けいいちろう、聞いて」
けいいちろうは初めこそ逃げようと暴れていたけど、しばらく経つと落ち着いたのか暴れなくなった。
「私は・・・けいいちろうに会いに来たんだよ。そのために・・・十年もかかっちゃったけど・・・どうしても御礼言いたかったから・・・」
「お・・・れ・・・い・・・?」
声の質が変わった。いつものけいいちろうの声だ。
「ウガッ!!!」
でもそれも一瞬で、また魔のものの声でうめきはじめる。
「私の名前を言って。けいいちろう」
「お前は・・・お前の名は・・・」
「私の・・・名前は?」
「君の・・・名前は・・・・」
うつろな瞳で、消え入りそうな声で、けいいちろうは一言ずつかみ締めるように言葉を紡いでいった。
「は・・・」
 そう・・・
「つ・・・き・・・」
 そう・・・
 私は葉月。
「うん。葉月だよ。ありがとう、けいいちろう・・・思い出してくれて。それから、十年前の誕生日プレゼント、ありがとう。まだ大事に持ってるよ。それが言いたかったの。ありがとう・・・」
「は・・・・・・は・・・つき」
あは・・・なんか涙出てきちゃった。
「ごめんね・・・でももうここにはいられない。掟・・・破っちゃったから」
「はつき!!」
 ぎゅ、と、けいいちろうのほうから私を抱きしめてくれる。
「よかった。もう大丈夫だね。けいいちろう、魔のものに負けないで。心を強く持って。あなたならきっとできるから・・・私の知ってるけいいちろうなら、きっとできるから。だから・・・負けないで。私があなたの傷を広げてしまったというのなら・・・私にその傷を埋めさせてください。だから・・・負けないで・・・・昔の・・・私の知ってる・・・優しいけいいちろうに戻ってください・・・」
 いっぱいいっぱいお話したかった。けど、その時間が今の私にはもうない。
 抱き合っているはずの・・・一番近くにいるはずのけいいちろうの存在すら認識できないほどに、私の存在は希薄になっていた。
「はつき・・・行くなよ・・・せっかくまた会えたのに・・・ちょっと信じられないけど・・・また会えたのに・・・これで・・・終わりなんて・・・そんなの・・・僕・・・やだよ」
「終わりじゃないよ・・・けいいちろう・・・・きっとまた会える・・・そんな気がするから。だから泣かないで。悲しまないで。悲しみは・・・魔のものを強くするから」
「はつきっ!!」
 もう何も見えない・・・・
 もう何も聞こえない・・・・
 私は何のためにここにきたの・・・
 何のためにここからいなくなるの・・・
 もう何もわからない・・・
 もう何も考えられない・・・
 だけど・・・
 これだけはわかる・・・
 私はここに来てよかった・・・
 私がいなくなるのは・・・
 大好きな人の・・・
 けいいちろうの目を・・・覚まさせるため・・・
 私はこれでいいと思う・・・
 十年越しの願いは叶ったのだから・・・
 ちゃんとお礼が言えたから・・・
 例えこのまま消えてしまったとしても・・・
 私はそれでいいと思う・・・
 けいいちろう・・・
 ありがとう・・・
 私はここにいたよ・・・・・・・
「・・・・・・・・・・・・・・・・・は・・・つ・・・き・・・」