すべての魂が泡沫の快楽に惑わされ魔のものにその身を滅ぼされてしまわぬように
すべての魂が真実の平穏に気づかず魔のものにその身を滅ぼされてしまわぬように
そしてすべての魂が再び転生することができるように
我は導く
そして願わくはすべての人が永久の平穏を
失われることのない思いを持ちつづけてくれますように
我は祈る
冷え切った空気、湿った室内、小さく揺れる蝋燭、カビと埃のにおい、硬いベッド、頑丈な扉、それについた小さな窓、そしてそれについた小さな鉄格子。それ以外のものはここには何もない。
ここは、牢屋だ。
あの後、私がけいいちろうに名前を告げた後、私は強制的に冥府に連れ戻された。いつの間にか冥府の門の前に立ち尽くしていた私の前に、白服の死神と天使が現れた。二人に先導されるまま、門をくぐり、雪のつもったレンガの道を歩く。途中で偶然、授業をサボっているステフに会った。でも、声をかけることは許されなかった。ステフは不審に思っただろうか。そして、たどり着いたこの牢で、その後の沙汰を待つように言われたのだ。
「けいいちろう」
暗くて重いこの牢屋の中は、ここにいるだけで私を押しつぶすようなプレッシャーがある。でも、今私の心の中にあるのは、けいいちろうのことだけ。彼が今、どうしているのか、ただそれだけ。
どれぐらい待っただろうか。
何の音もないこの牢屋の中では時間の感覚も曖昧に思える。
不意に木のドアが軋む音がして、いくらかの足音。ゆっくりと牢の扉が開かれて、先ほどの死神と天使の二人組に連れられ、私は外へ出た。
「これからどうなるんですか?」
「私には分からない。分からないことが多すぎるからだ。ただ一つ言えることは、これからお前の裁判が行われるという事だけだ」
それ以外に死神は何も言わなかった。隣を歩く天使も睫を伏せていた。
これから、裁判が行われる。もちろん、私の裁判だ。
生者に名を告げてはいけないという、鋼鉄の掟を破った私の裁判。
過去にこの掟を破ったものがどうなったかを正確に知るものはいない、と、聞いたことがある。
次の転生の時まで牢に入れられるのか・・・
それとも次の転生を望むべくもなく消滅させられるのか・・・
その答えがもうすぐわかる。
裁判が始まって一時間。一向に話は進展する様子がなかった。
「魔のものが人間の魂に住みついているなど・・・聞いたことがない」
私がすべての事情を話したとき、裁判官が言った始めの言葉だ。これが、裁判を長引かせている。
前例のない事態。
魔のものは絶対に打ち滅ぼすべき存在である。しかしそれが人間の魂を楯に取っている以上冥府ではどうすることもできないと主張する一派と、すぐさま冥兵を派遣してけいいちろうもろともその存在を消滅させようと主張する一派の二つに完全に分かれ、私への待遇については保留されている。始めは裁かれる側だった私も、今は、唯一のすべてを直接見た重要な証人としてこの場に立っていた。
「そうですなぁ・・・体に憑いているというのならこれまでにも多々ありましたし・・・簡単に祓えるのですが・・・」
ある死神が言った。私も聞いたことがある。悪魔憑きとか狐憑きとか言われてきたものだ。これも、けいいちろうと同じように魔のものが取り憑いているんだけど、けいいちろうのように魂に同化しているのではなくて、体の上に乗っかっただけだから、冥兵の槍で一突きすればたちまちその人は開放される。でもけいいちろうは・・・
「あれほどの力を持ちながらそれに接触した儀式道具の反応がCランク・・・もはや完全に少年の魂と同化し、その中の深いところに潜んでいるとしか考えられないでしょうな」
「しかし証人の話ではそいつは少年の体を操ったというではないか。この、魔が表面化した時ならば・・・」
「いや、ヤツは周到なのだ。あの時少年の体を操るために表面化したのは、ヤツのごく一部だけだったと考える方が良いだろう。そうだとすれば、表面に現れている魔のみを撃滅したとて事態は一向に変わらぬ」
「だからこそ、答えはすでに決まっておろう。一人の生者を生かすために数多の死者を犠牲にするわけにはいかぬ。少年もろとも魔を撃滅すべきだと」
「確かに我々の職務は死者を護ることだが・・・そのために生者を葬り去ることなどできようはずがない」
「それではどうすれば良いと言うのだ。魔のみを撃滅せしめる方法があるとおっしゃるのならばそれを示していただきたい」
裁判・・・というよりもむしろ会議はこの調子で堂々巡りするだけ。具体的な解決案がある分だけ、やや撃滅派が優勢なように見える。私はもちろん撃滅派ではない。だからといって撃滅案を覆すだけの案があるわけでもなかった。それは非撃滅派のすべてが同じだろう。
「死神葉月、あなたはどうするべきだと思いますか」
議長を務めるある死神が証言台に立つ私に意見を求めた。場は静まり返り、十数の視線が私に集まる。
私の考えは初めから決まっている。
「私は・・・・けいいちろうに生きていて欲しいです。けいいちろうが滅びてしまうなら・・・私はこの魔を滅ぼすことに賛成できません」
「その事で失われる死者の魂があったとしても・・・?」
強い口調で訊き返してくる。
「・・・・はい」
「ふざけるな!!我々は死者を護ることが務めなのだ!!」
「お前は生前に交流のあった件の少年を贔屓している!!」
撃滅派のヤジだ。予想していたこととはいえ、かなりこたえる。涙が出そうだ。でも私がここで退くわけにはいかない。
「・・・・魔を一つ野放しにすることで失われる死者の魂があるのなら、魔よりも早く死者の魂を回収すれば良いだけのこと!それが・・・我々死神の仕事だと考えます!!」
「それができるのならば・・・とうの昔に魔は滅んでおるわ・・・・」
私の叫びに返すように、諦めの混じった声でそう返ってくる。確かにそうだ。それは私だってわかっている。
死神が魔のものよりも早く死者の魂を冥府へ運ぶことができていれば、死者の魂を糧とする魔のものはすでに滅びていただろう。しかし、それができないのが現状なのだ。死者の魂をすべて回収するには死神の絶対量を増やすしかない。現在、死神が完全な資格制で完全に管理されているのは、死者と生者の間にできるだけ明確な区切りを確立するため。死神を増やすことは簡単だけど、それをすれば死者と生者、冥府と現世の区別は曖昧なものとなる。それは避けるべきことだと、ずいぶん昔に決まったらしい。いろんな歴史があってこういう風に落ち着いたのだから、それを覆すべきではないとされているのだ。
「・・・とにかく、今は情報が足りない。すでに、特に信用できる死神を数人、少年のそばに送ってある。また同時に世界中の死神に今回の事例を通達し、何か気にかかることがあったならばすぐに報告するように言ってある。今日のところはこれで閉廷としたい。今後の予定については・・・」
議長の一声で会議は中断し、私は再び牢に戻されることになった。
私は、始めに牢に案内された時と同じ死神と天使に連れられて、議事堂を出た。私が冥府に連れ戻された時、こっちではまだ昼前だった。なのに、辺りはもう完全に暗くなっている。ただでさえ寒い冥府の夜が、今日は特に寒く感じた。
「葉月っ!!」
外に出るとすぐに、ガサッ、と茂みの陰から見知った顔があらわれた。
「ステフ・・・」
ステフは制止に向かった天使を振り切って駆け寄ってくる。
「止まりなさい!!」
ステフの前に、今度は死神が立ち塞がる。
「うるさい!!私は葉月の友達だよっ!!少しぐらい話をさせてくれたっていいでしょ!?それとも何か私には言えないような理由があるっていうの!?」
死神は言葉に詰まった。私が生者に名を告げたこと、投獄されていること、けいいちろうと私の関係、それらすべてを冥府は隠蔽することに決めていたからだ。やがて死神は諦めたように、少しだけだからな、と念を押して彼女を通した。お前も余計なことを言うな、と死神の目が言っていた。
「葉月、何があったの?急に戻ってきたと思ったら護衛みたいなのがついてるし・・・妙な通達は出るし・・・エレノアも極東方面に向かう指令が降りたし・・・」
じっと目を見つめ返してくるステフに、私が何も言えないでいると、やがて諦めたようにため息をついて
「エレノアは明日の朝には帰ってくるって言ってた。誰かの見張りなんだって」
と教えてくれた。そうか、議長の言っていた「信用できる死神」のなかにエレノアはもう含まれているんだ。すごい。掟を破って投獄された私とは大違いだ。それに・・・エレノアがけいいちろうを見てくれているなら・・・私も安心だ。
「事情は話せるようになってからでいいから・・・私にじゃなくて、エレノアに話してあげて。エレノア・・・私が葉月のこと話したら・・・とっても心配してたから・・・」
「ごめん・・・」
「ばかっ!謝らないでよ・・・謝らないでよぉ・・・ぅぅっ」
うつむいて、私の胸をトンと叩く。
「もういいだろう・・・」
死神が私達の間に割り込むようにして引き離す。ステフは二、三歩後ずさってうつむいたままだった。私は死神と天使に手をひかれて、その場を離れさせられる。角を曲がったところで振り向いてみても、まだ雪の中でうつむいて立つステフがいた。
「ごめん・・・今はまだ・・・何も言えないから・・・」
こんなこと言ったらまたステフに叩かれそうだけど、それでも私は謝るしかなかった。
眠れぬ夜を牢屋で過ごして、翌日、私は再び牢屋から出された。そしてそのまま、昨日と同じ道を通って再びあの議事堂へ入った。そこで待っていたのもまた昨日と同じ人たちだったけど、昨日はいなかった死神が二、三人、増えている。その中にはエレノアもいた。すれ違いざまにチラっと彼女を見ると、冷静な眼差しでツンと前だけを見て席に着いていた。
私は案内されるままに、証言台のすぐ後ろ、一番前の席に着く。円形に配置されたすべての席から、視線がすべて集まってくるみたい。少し・・・いや、かなり居心地が悪い。ちょうど真正面には議長の席があるけど、まだそこに議長はいなかった。開廷にはまだ少し時間があるのだろう。
ふう。
何もすることがないのであたりを見渡してみると、ふと、エレノアと目があった。彼女は何も言わずにじっと私の目を見て、それからまた何事もなかったかのように視線を外すと、備え付けられてあったらしい資料を手に取り、読み始めた。その資料は私の席にもあったから、私も目を通すことにする。
驚いたことに、その資料には私のことはほとんど書かれていなかった。私についての記述は、私がけいいちろうの中に潜む魔のものを発見した、ということだけだった。
資料の中にはけいいちろうのことも書いてあった。七歳の時、交通事故で父親を亡くす。その半年後、再び交通事故に遭遇。入院した先の病院で仲良くなった少女(私のことだけど、それはここには書いていない)が治療のかいなく死亡したことから心神を喪失。その絶望が魔のものを呼び寄せた。魔のものがそれを発見した死神(これは私のことだと書いてある)に言ったことには、どうやらその時、魔のものに心の奥深くに取り憑かれてしまったらしい・・・と。
資料には世界中に散らばる死神が調べた、今回の事例に似た事例がいくつかあった。疑わしいと判断されたものだけでも十二例載っている。中には五十年以上魔のものに取り憑かれていた可能性があるという女性もいた。もちろんこれに載っている事例だけがすべてじゃないはずだ。今後、『魂に寄生する魔』にどうやって対処するか、それが今回の会議で決まる。はずだ。
資料を元の場所に戻して、少し考えてみる。これから私が・・・そしてけいいちろうがどうなるのかを。昨日の感じでは、どうもけいいちろうごと魔を消滅させることになりそうな気がするけど・・・それはどうしても避けたい。いや、そうじゃない。避けなければならない。だからといって他に何か有効な手だてがあるとも思えないのが現状だ。
そうこうしているうちに、議長が姿を現した。当然というか何というか、昨日と同じ議長だった。
「只今より・・・魔のものに関する緊急会議を始める」
始まったのは私の裁判ではなく、けいいちろうの対策会議だった。
「まず、これまでの経過を報告してもらおうか」
議長に促されるように、脇で待機していた白服の死神が資料を読み上げ始めた。みんな黙ってそれが終わるのを待つ。
「ここまでのことで何か質問はあるかね?」
議長が言うが、誰も発言しなかった。君は?と言う目で私を見てくるけど、私は何もありません、と首を横に振った。
「・・・では、続いて、件の魔のものの現在の状況について報告してもらおうか」
その声で立ち上がったのは、エレノアだった。ゆったりと落ち着いた物腰で立ち上がると、小さく髪をかき上げ、咳払いをしてから言葉を続ける。
「あれから『少年』は大した変化もなく容態も安定しています。これは偶然友人関係にあった『能力者』がいち早く『魔』を封じる呪法を施したからだと考えられます」
能力者、というのは、たぶん鈴子さんのことだ。冥府では鈴子さんみたいに死者が見えたりする人のことを『能力者』と呼ぶ。
「現在は『能力者』の呪法と冥府の施した呪法の力によって二重に封じてあるため、現在の弱った『魔』の力ではよほどのことがない限り、表面化することはないでしょう。ただし・・・あちらは現在夕刻、魔の動きが活発になる夜に『魔』がどれほどの回復を見せるのかは現時点では何とも言えませんが、二重の呪法を破ってくる可能性はゼロではありません」
それだけ言うと、エレノアは再び着席した。
「『魔』の力が弱っている・・・とはどういうことかね?」
議長からの質問。エレノアは立ち上がり、それに答える。
「『魔』は『少年』の魂とほぼ完全に同化しています。そのためでしょうか、『少年』が『魔』を祓おうとしたことで著しく力を消耗したのではないか、と私たちは考えています。現在、二者の力は拮抗していますが夜になるとおそらく『魔』の力が顕在化するでしょう」
それを受けて、別の死神が発言する。
「『少年』が自力で『魔』を祓うことは考えられるかね?」
それに対して、まだ立ったままのエレノアは
「それはないでしょう。『少年』の力は明らかに『魔』に劣っています」
とハッキリ否定した。
あの魔のものは十年前、けいいちろうが自分を呼び込んだと言っていた。けど、今は違う。けいいちろうは自分の中の魔のものを追い払おうとしているんだ。十年前のあの日、私が死んだあの日、その悲しみが魔のものを呼び込んだ。でも、死んだはずの私が前に立ったことで何か変わったのだろうか。けいいちろうを混乱させただけではなかっただろうか、そんな心配をしてたんだけど、どうやら逆に魔のものを追い払おうとしているみたいだ。もし魔のものを祓えれば・・・冥府もけいいちろうごと魔のものを消滅させようとは考えないはずだ。私が掟を破ったのも無駄じゃなかった。
「では・・・『少年』の力を何らかの手段によって『魔』より強くなれば・・・『魔』は『少年』からはねのけられますか?」
私が思いきってエレノアに訪ねると、彼女はしばらく考えてから「その方法があるのなら・・・そういうこともあるかもしれません」と言ってくれた。
「しかし一つ・・・わからないことがあります」
エレノアは資料をテーブルに置くと、一息ついてからそう言った。
「何かね?」
「なぜ『少年』が今になって『魔』の存在に気づいたのか、また、、なぜ今になって『魔』を拒絶し、祓おうとしているのか、それがわかりません。なにしろ十年もの間取り憑かれていたのですから。もし引き金になるような事柄が存在したのなら・・・そこから解決の糸口が見えるような気がするのですが」
エレノアは昨日の私の裁判には出席していないから、何も知らされていない。知っていることと言ったら、ステフから聞かされたであろう、私があの事件の後ここへ帰ってきたことぐらいで、私が引き金になっていることも、私とけいいちろうの関係も何も知らされていないはずだ。それでも聡明な彼女は私がここにいるということだけでそれを推測したのかもしれない。現に彼女はこの質問を議長ではなく私の目を見て発したのだから。
議長は脇に控える白服の死神二人と一言二言言葉を交わした後、観念したかのように深呼吸すると、私に証言台に立つように言った。
「彼女は今回の当事者、死神葉月だ」
「存じております」
「・・・これは昨日の・・・会議に出席していたもの以外知らぬことなのだが、彼女は生前『少年』と面識があった。十年以上も前の話だがね」
「それではもしや・・・資料にある『少年』が魔を呼び込む原因となった少女の死とは・・・」
「彼女のことだ。その彼女が・・・死んだはずの彼女が目の前に現れたのだからな。それに・・・」
そこまで言って、議長の顔が曇った。
「それに・・・何ですか」
私がけいいちろうに名前を告げてしまったこと、それを伝えるべきかどうか逡巡しているのだろう。名前を告げてしまった死神がどうなったかを知る者がいないということは、裏を返せば誰が名前を告げたかが公にされていないということでもある。
「名前を告げてしまったのですね?」
議長が言うより早く、エレノアが突然言った。それは確信に満ちた口調だった。
「・・・まぁそういうことだ」
そう呟いた議長の顔はどこか安心したようだった。エレノアの方はというと、それを聞くと、ふぅ、と一息ついてから私の方を見る。
「議長、私は今回の件、彼女に一任するのが良いと考えます。少年が魔を引き入れたのは彼女が原因であり、その彼女が目の前に現れることによって少年は多少なりとも魔に抵抗する力を得ました。その力はまだ微々たるものですが・・・」
「もし少年が魔のものを祓うことができるとしたら、その力になれるのは彼女しかいない、ということであろう」
コクン、と、その言葉にエレノアは頷いた。
「それは我々も考えた。しかし彼女は『掟』を破ったのだ。本来ならば・・・このような場所にいられる者ですらない。現世へ戻すなど・・・」
「私の『願い』を使いましょう。必要ならば私がこれから先に叶えることができる『願い』をすべて使ってしまってもかまいません」
・・・・え?
エレノアの言葉に誰もが我が耳を疑い、互いに顔を見合わせる。他の死神のために自分の『願い』を使う、それだけでもとっても奇特な行為なのに、掟破りの帳消しを求める『願い』なんて・・・一体どのくらいの魂を導けばいいのか・・・私には見当がつかない。もしかすると一生タダ働き・・・かもしれない。前借りとかできるなら、だけど。
「そ・・・そんな!エレノア!!それじゃぁエレノアが・・・」
「いいの。葉月。私には特に叶えたい願いがあったってわけでもないんだから。ここで、あなたのために使わせて」
「でも・・・」
反論しようとしたけど、エレノアの真剣な眼差しに、私はこれ以上何を言っても無駄だと悟った。
「私も・・・けいいちろうが助かるなら・・・他にどんな『願い』もいらない・・・」
だから・・・
「だから・・・」
だから・・・
「私を・・・・けいいちろうの側に行かせてください!!」
しん、と、水を打ったように静まりかえる。誰もが、議長の次の一言を待っていた。私も、エレノアも。
議長は腕を組み、目を伏せて考え込んでいる。考え込んでいると言うよりも、悩んでいるといった方が良いのかもしれない。
そして、どれぐらいたっただろうか、議長はゆっくりと前を向き、慎重に口を開いた。
「わかった。いいだろう。ただし今回限りの特例だ」
わぁっ、と、再びざわめき出す場内。
「死神葉月、あなたはまだ一人として冥府へ死者を導いてはいない。一人でいい。死者を導いてきなさい。そうすればあなたが現世に戻ることを認め、今回の件はあなたに任せます。そのためにあなたに時間を三十分だけ与えましょう。その限られた時間を使って、一人の死者をここへ連れて来なさい」
議長の隣に立つ白服の死神が言った。
一人。一人で良いから、死者を導くこと。
それが冥府から私に示された、条件だ。
「・・・・ありがとうございます」
やるしかない。私は深く頭を下げると、その場を後にした。
議事堂を出たあたりで、エレノアが駆け寄ってくる。
「ごめんね、エレノア・・・あなたの『願い』まで使わせることになっちゃって」
「いいのよ。私が好きでやったんだから。それより気になるのは議会ね。思ったよりあっさり私の『願い』を聞き入れた・・・」
それはたぶん・・・
「おそらく・・・あなたが失敗したら、擁護派のあなたにすべての責任を押しつけて冥府は『少年』ごと魔を消滅させてしまうでしょうね」
エレノアの言葉は私の想像通りだった。たぶん、そうなるだろう。私に失敗は許されない。けいいちろうを助けて、魔のものを滅ぼして・・・誰も傷つかないようにするには、私に失敗は許されないのだ。
「それにしても葉月、まだ一人も連れて来てないなんて・・・三日間何やってたの?」
「そっ、それは聞かないでっ・・・・」
私たちは現世へと急いだ。
冥府を出ると二、三分で藪総合病院の屋上に着いた。冥府はまだ昼だったけど、ここはもう日が落ちていた。近くにある時計を目をやると、六時を回ったところだった。
「意外と早く着いたね」
「目的地がはっきりと分かっていればすぐに着きますよ」
とん、と、天使さんの背中から降りて、屋上に降り立つ。エレノアも同じ。とりあえずエレノアの天使さんは冥府に返して、私の天使さんはそのまま。なおちゃんと一緒に冥府に帰るのにわざわざ呼ぶのも馬鹿みたいだからね。
それにしても・・・昨日来たところなのに、なんだかとっても久しぶりみたいな気がするから不思議だ。
「ここは・・・病院ね?なるほど、ここなら死者の一人や二人ぐらいはすぐに・・・」
「見つかるよ」
エレノアの言葉を遮るようにして、言う。
「約束したから。冥府に連れて行ってあげる、って」
「・・・・へぇ」
なら連れてくれば良かったのに、と、エレノアは不思議な顔をした。
「たぶんどこかの踊り場にいると思うから、急ごう」
「ええ」
とりあえず病院に進入するべく、ドアに手をかける。
・・・・
・・・・・・・・
ドアは開かなかった。いくらガチャガチャ回しても開きそうな気配はない。
「鍵かかってる」
「あらら」
まさかこんなところで足止めを食うなんて。幸先が悪いと言うか何と言うか・・・
「仕方ないわ。一旦下に降りて入り口から入りましょう」
「そ、そうだね」
と、振り向いたそのとき、
「あれ。しーちゃん、なにやってるの? こんなところで」
ドアからにょきっとなおちゃんが首だけ出していた。
「な、なおちゃん・・・・」
「これが約束した死者ね?」
「あ、うん、そう」
「なに?なんのはなし?」
よ、と、なおちゃんはそのままドアを突き抜けて屋上に出てくる。便利だ。私たち死神ももとは死者なんだから、これぐらいの芸当ができても良さそうなものだけど、とも思う。
「あ、しーちゃん、ごほんみつかったんだね」
「うん、おかげさまで。ありがとう、なおちゃん」
お礼に頭をなでてあげるとかわいい笑顔でとっても喜ぶ。
「葉月・・・・あなたまさか、儀式道具無くしてたの?」
あきれ顔でエレノアが言った。面目ないです。
「まさか無くさないだろうって思ってたんだけど・・・あんな大きなもの」
「ちょっと天使さんに送られてここに来る途中で・・・風に吹かれて・・・その・・・落としました」
「・・・・あきれた。今度から紐つけておくと良いわね」
「う・・・・そうするよ」
と、そこまで喋ったとき、くい、となおちゃんにスカートを引っ張られた。
「はつき、って・・・しーちゃんのなまえ?」
あ・・・そうか、さっきエレノアが私のこと葉月、って呼んだから・・・
「そうよ。彼女は葉月。私はエレノア。よろしくね、なおちゃん」
言いながら、エレノアが微笑みかける。
「ちょ、いいんですか?名前・・・・」
「いいの。なおちゃんはもう死者なんだし、これから冥府へ行くところなんだから。ステフに名乗るみたいなものよ」
そう・・・なのか。私は『生者に名を名乗ってはいけない』という掟は『現世で名乗ってはいけない』ぐらいのつもりで考えてたけど、そう言うわけではなかったみたい。
「なおちゃん」
「なに?しーちゃん、ってもうはつきおねえちゃんか」
私のことをどう呼ぶべきか、迷う姿もかわいらしい。
「どっちでもいいよ。あのね、なおちゃん」
「なに、しーちゃん」
どうやら『しーちゃん』で通すつもりらしい。
私は腰を落として、なおちゃんと目線を合わせる。そっとなおちゃんの肩に手を置いて、優しく語りかける。
「今なら私と一緒に冥府に行けるんだけど・・・来る?」
なおちゃんは目を閉じて黙り込む。何か考えてるみたい。未練があるなら、あんまり時間はないけどできる限り叶えておいてあげたい。
「なお、しーちゃんといっしょにいくよ。でもね、そのまえに、りんこおねえちゃんと・・・すこしおはなししたい」
そう言ったなおちゃんは、笑顔だった。
「うん。わかってる。今から鈴子さんに会いに行こうね」
「うん」
「葉月、もうあんまり時間ないんだけど・・・」
エレノアが腕時計をちらちら気にしながら、言った。確かにそうだ。冥府に帰る時間を考えたらあと十五分ぐらいしかない。鈴子さんがどこにいるかもわからないし、すぐに見つからなかったらなおちゃんを無理やり連れて行くみたいになる。それはイヤだ。
「わかってる。けど・・・これが私のやり方だから。ちょっと待っててね、天使さん。あと十分ぐらいはここにいられるでしょう?時間いっぱいまで・・・待ってて」
「葉月ならそう言うと思ってたわ」
ふふ、と、エレノアが笑った。
「なおちゃん、鈴子さんがどこにいるか知ってる?」
聞くと、なおちゃんは小さく首を振った。知らないらしい。
「じゃあ鈴子さんを探しに行こう。神社に行けばいるかな?」
「その必要はないよ、しーちゃん」
キィ、と扉がきしんだかと思うと、ゆっくりと開いて、鈴子さんが現れる。その手には初めに会った時と同じで日本刀が握られていた。
「や、昨日ぶり。しーちゃん」
「あ、どう・・・も」
私との挨拶はこれだけ。ホントはもっといろいろ聞きたいんだろうけど(顔にそう書いてあるし)・・・なおちゃんにいらない心配をさせないように気を遣ってくれてるんだと思う。
鈴子さんはなおちゃんの側まで来ると、しゃがみ込んで、ぎゅ、っと抱きしめた。なおちゃんはちょっと苦しそうにしてたけど、それでもうれしそうに笑った。
「おわかれだね、りんこおねえちゃん・・・・」
「ん・・・そう、みたいだな」
ぽん、と頭をなでる。なおちゃんは笑っていた。
「よかったよ。これ取りに神社に戻ってたんだけど・・・何か降りてくるのが見えたから急いで来て。なおにお別れ言えなくなるところだった・・・」
鈴子さんは日本刀を脇に置くと、なおちゃんの背中を押して私に預ける。
「あとは任せた」
「任せられました」
二人でお辞儀して、小さな儀式を行う。何の意味もない、ただの格好だけの儀式。お別れの儀式だ。
「ばいばい、りんこおねえちゃん」
「・・・ん」
なおちゃんは笑顔で手を振っていた。鈴子さんも笑顔で応える。
「しーちゃん・・・」
「はい?」
「次は・・・いつこっちに来れるの?」
「・・・・すぐにでも戻ってきます」
「ん・・・そっか。分かった。河原で待ってるから」
「・・・はい」
それで終わり。
今はなおちゃんがいるからそれ以上のことは何も言えない。それが鈴子さんもわかっているから、何も聞かない。
「・・・そろそろ時間よ」
「うん、そうだね。じゃ、鈴子さん、またね」
「ん」
「またねー、りんこおねえちゃん。ってなおはまたね、じゃないか」
照れたように笑うなおちゃん。暗い雰囲気が一気に晴れた。
「ん。あと八十年ぐらいしたら会おうな、なお」
こつん、となおちゃんの額を軽くつついて、冗談めかして言う。
そのとき、ピピ、と、本が小さく音を立てた。魔法円が赤く輝いている。いよいよ来た。帰還命令だ。それを受けて、今まで遠くで成り行きを見ていた天使さんが近づいて、私の肩に手を置いた。
「戻りますよ」
「うん」
なおちゃんを天使さんの肩の上にのせてもらって、私は天使さんにしがみつく。ふわっと、翼を広げると、光が広がってあたりがほんのり明るくなった。不意に体が軽くなるような感じがして、次の瞬間には足は地面から離れていた。わ、と、なおちゃんが歓声を上げる。それから、ばいばい、って小さな小さな声で呟いた。なおちゃんの笑顔からは大粒の涙がこぼれていたけど・・・私はそれを見ていないことにした。
そうこうしている間に、ぐんぐん高度を上げていく。あっという間に鈴子さんも、エレノアも、見えなくなった。あたりを見渡してみる。来たときと同じ、真っ暗な夜。大きな川に月明かりが反射している。宝石をぶちまけたみたいな町の灯りも、全部、前に来たときと同じだ。でもなぜか、その時には感じなかった不安を感じさせる何かがある。そんな気がした。
もう町も見えなくなった頃、天使さんが大きく翼をはためかせた。次の瞬間にはあたりは光に包まれる。まぶしくて目を閉じると、たぶん次に目を開けたときにはもう冥府に着いているはずだ。
冥府に着くと、そこには議長を始めとする五人の死神が待ちかまえていた。彼らになおちゃんを引き渡すと、代わりに紙切れを渡される。今回の件に関する一切の権限を与える、そんな内容の証明書のようなものだった。
私はそれを受け取ると、一礼して踵を返す。今は・・・一分一秒でも惜しい。早くけいいちろうのところに行かないといけない、そんな強迫観念だけが胸にある。
「しーちゃん」
と、なおちゃんに呼ばれて、立ち止まる。
「がんばってね」
なおちゃんはそれだけ言うと、白服の死神達に連れられていった。なおちゃんの言葉は漠然とした私の不安を少し、ぬぐい去ってくれた気がする。小さな女の子のたった一言が、今は心強く感じた。
「行こう。けいいちろうのところへ」
冷たい十二月の夜風を切り裂いて、一気にあの町へ戻る。目的地は病院のすぐ脇の河原。そこで鈴子さんは待ってるって言ってた。きっとそこには・・・けいいちろうもいる。
「天使さん、川に沿って進んで。きっとどこかにエレノアがいるから」
「はい」
そしてそれはすぐに見つかった。川に架かる一番大きな橋のたもとに四人、ただ無言で立っていた。鈴子さんとエレノア、そして・・・けいいちろうと北村さんだ。
ちょうど真上にさしかかった頃、ピーピー、と、本が鳴る。見ると、魔法円が緑色の光を発していた。私はいても立ってもいられなくなって、天使さんの背中から飛び降りる。結構高さがあったけど、そんなことは今の私にはどうでもいいことだった。天使さんも何も言わず、私が飛び降りるとそのまま冥府へ帰っていった。
「・・・・はつき」
私が地面に降り立つと、けいいちろうが私の名前を呼んだ。今まで通りのけいいちろうだった。よかった。まだ魔のものに乗っ取られてはいないらしい。
「・・・お帰り、って言えばいいのかな?こんなこと初めてだから・・・僕よくわからないや」
けいいちろうが少し照れながら、言った。
「ただいま、けいいちろう」
けいいちろうに駆け寄ろうとすると、また本が音を発する。その音を聞いたけいいちろうの顔が曇った。
「・・・もうそれ以上近づいてこないで。お願いだから」
けいいちろうに拒絶された。胸が締め付けられるみたいに苦しい。でもそれはけいいちろうに拒絶されたからじゃなくて、ましてやけいいちろうに取り憑いた魔のものの仕業でもなくて、ただ、けいいちろうがつらそうにしていたからだ。
「僕は・・・化け物になってしまったんだ。十年前・・・はつきが死んだときに・・・僕は生きてる意味なんか無いって・・・思ったんだ。その時に・・・僕は化け物になってしまったんだ」
悲痛なけいいちろうの叫びが冷たい夜に響く。
「でもそれは・・・魔のものが・・・」
私は必死に反論しようとしたけど、けいいちろうはそれを制して言葉を続けた。
「その事はこっちの死神さんに聞いた。僕の魂には魔物が巣くっていて・・・それが夜な夜な死者の魂を貪っているんだ、って」
「でもそれはけいいちろうのせいじゃないよ!!」
「そんなことは・・・関係ない」
何を言っても無駄、そんな雰囲気だ。
「誰にも話さなかったけど・・・十年前から時々見る夢があるんだ。山奥で・・・道ばたで・・・病院で・・・学校で・・・とにかくいろんなところで・・・僕が人を襲っている夢。でも今ならわかる。それは夢じゃなかったんだ、って。僕の中にいる魔物が・・・死者を襲って喰っているのを見ていただけなんだ、って」
私は何も言えなかった。私だけじゃない。ここにいる全員が何も言えずに、ただ、けいいちろうの次の言葉を待っていた。
「今もそうだ・・・ちょっと油断すると魔物が僕を乗っ取って・・・はつきを・・・殺そうとする」
「私を・・・殺す・・・?」
私の言葉に、けいいちろうは小さく頷いた。
「はつきがいるから・・・今僕はこうして魔物を押さえつけることができている。でも・・・それが、こいつには気に入らない。だからはつきを殺す、って・・・さっきからずっと・・・そう叫んでるんだ」
じわっ、と、月明かりが作ったけいいちろうの影が一瞬にじむ。みんなに一瞬緊張が走ったけど、結局それ以上何も起こらなかった。
しばらく誰も何も言わない時間が続いて、何かを決心したような表情でけいいちろうが問いかける。
「秋篠さん・・・あれ、持ってきてくれた?」
「・・・・ああ」
鈴子さんは短く押し殺した声でそう返した。一体何の話なのか、私にはわからない。
と、鈴子さんがおもむろに抜刀する。銀の刀身を露わにしたそれは月明かりもあって幻想的な光を発していた。
「その剣で・・・僕を殺してくれ。僕の中にいる魔物ごと・・・僕を」
なっ・・・・
一瞬、けいいちろうが何を言ったのか理解できなかった。
けど、どうやら聞き間違いってわけでもなかったらしい。
「早くしてほしい。僕にはもう・・・そんなに時間が残されてないから」
けいいちろうの方から鈴子さんに歩み寄って、刀身をつかむ。そして、それを自分の胸元に押しあてる。あと少し力を込めるだけで、それはけいいちろうの胸に突き刺さるだろう。
「・・・そんなの」
そんなの・・・なんか間違ってる。
けいいちろうがどんな風に考えたかは私にはわからないけど・・・それでも・・・自分から死のうと思うのは・・・やっぱり、間違ってると思う。
「ばかっ!!」
パン、と、乾いた音が響く。手がじんとする。けいいちろうは何が起こったのかわからずに、呆然としていた。
「は・・・つき?」
「ばかぁっ!!私が何のために戻ってきたか・・・知らないからって・・・勝手に死ぬとか言わないでよっ!!」
前が見えないぐらい涙でぐしゃぐしゃ。こんな顔・・・けいいちろうには絶対に見せられない。
「私は・・・まだ何か方法があるはずだから・・・それを探しに・・・戻ってきたのに・・・!!」
けいいちろうはしばらく何も言わなかったけど、慎重に、私を諭すような口調で語り始める。
「僕が今こうしている間にも・・・あいつは僕を喰ってさらに大きな力を得ようとしているんだ。もう・・・自分の存在を隠す必要が無くなったから、僕のこともいらなくなったから・・・あいつは・・・」
始めはゆっくりだったけいいちろうの言葉が、もっとゆっくりになって、切れ切れになって、震えてながら消えていく。そうか、けいいちろうも怖いんだ。
「もう・・・どちらにしても僕は消えてしまうんだ。それなら・・・まだこの体が自由に動くうちに・・・僕は魔物を殺さなきゃ」
ぐっ、と、けいいちろうの腕に力がこもった。私は鈴子さんの腕にしがみついて、必死でそれを阻止する。と、刀はあっけなくけいいちろうの手から離れて、鈴子さんはそれを素早く鞘に収めた。
「どうして・・・・・」
握りしめたけいいちろうの両手から、赤い血がぽたり、ぽたり、と滴り落ちた。
「ん。私はしーちゃんの味方だからね。しーちゃんが戻ってきた以上私はしーちゃんの意向に従う」
とりあえず簡単にけいいちろうのケガの治療をしてから、鈴子さんが私に言う。
「で、どうやって魔物を退治するのかね」
正直、困った。なにしろ・・・そんな方法全く考えてなかったから。そんな私を見かねたのか、エレノアが助け船を出してくれる。
「魔のものを彼の魂から追い出すことができれば、あとは私たちが魔のものを消滅させることができます」
そう、そうだった。
「ですから・・・その方法を考えなければなりません」
結局話はまだ何も進展していない。私が戻ってくればそれだけで何とかなるなんて考えていたわけじゃないけど、それでも何の進展もないのは少しショックだった。
「もう、いいよ」
おもむろにけいいちろうが口を開いた。
「もういい。僕より魔物の方が何倍も力が強いし・・・今も昨日かけてもらった術でなんとか押さえ込んでるような状態だもの。どうやったって・・・そんなことできっこない。その術も・・・もう解けそうだもんなぁ!!」
豹変、まさにそう呼ぶのにうってつけの状況だった。それまでずっと伏せていた顔を上げたかと思うと、その顔は怒りの気に包まれて、醜くゆがむ。けいいちろうであってけいいちろうでない顔がそこに現れた。みんなに一斉に緊張が走る。
「手こずったぜぇ。二重の封印だったからなぁ!!」
素早く立ち上がると、腕に力を込める。すると、百枚のガラスを一斉に砕いたような大音響があたりに響き渡る。それと同時にけいいちろうの体から光の鎖の残骸が飛び出し、それは地面に触れると蒸気になって霧散した。
「ほらよ、もう一丁!!」
もう一度力を込めるとけいいちろうの周りに数枚の紙切れが浮かび上がった。けいいちろうがそれを一枚引きはがすと、残りのものはすべて燃え落ちた。
「術が・・・破られた・・・」
そう呟いた鈴子さんの額からは一筋の赤い血が流れている。
「けいいちろうは・・・・どうしたの」
魔のものに問う。魔のものはまるであたりまえのように「喰っちまった」と返した。
「・・・と言いたいところだが・・・まだ生きてるぜ。もっとも今すぐに喰っちまってもいいんだが・・・俺の大事な非常用食料だからなぁ!!せいぜい大切にさせてもらうよ」
ははははは、と、魔のものの笑い声が夜空に響く。
がっ!!
私はいても立ってもいられなくなって、魔のものに殴りかかった。すると、魔のものは避けるそぶりすら見せずに私に殴られた。
「・・・テメェ」
口元が少し切れて赤い血がのぞく。魔のものはそれを拭い、微笑みを浮かべた。
「いいのかい?この体はあいつの体でもあるんだぜ?たとえ俺をここから追い出したとしても体がボロボロじゃこいつはすぐにでも死んでしまうだろうなぁ!ああ、かわいそうに」
くっくっく、と、本当におかしそうに笑う。後ろで鈴子さんが刀をしまうのが見えた。これではけいいちろうを人質に取られているようなものだ。
「しーちゃん!!右!!」
その声が聞こえたときにはもう遅かった。何かに殴られた感覚があって、私の体は軽く四、五メートルは跳ね飛ばされた。
顔を上げてみると、けいいちろうの側にもう一人の魔のものが立っていた。
「そ・・・それは・・・?」
「こいつは俺の一部だよ。ずっと昔から俺のためにエサを狩りに行っていたのさ」
そう言っているうちにも、魔のものは一人また一人と増え、いつしか十人近くにまでなっていた。けいいちろうの姿をした魔のものはそいつらを次々と飲み込んでいく。それにつれてけいいちろうの周りにしみ出す影が濃く、暗くなっていった。
「な・・・なんなんだよ・・・」
その光景のあまりの不気味さに誰も声が出ない。
「ふふふ・・・・溢れるぞ・・・力が!!」
本がけたたましい音を立てた。エレノアの十字架も同じだ。もう中を見るまでもない。
「こんな・・・まさかこれほどまでの力を・・・・!?」
サッとエレノアが十字架をかざし、天を仰ぐ。さらに十字を切って叫んだ。
「冥兵!!」
叫ぶと同時にエレノアの側に巨大な光の柱が現れ、その中から騎士が姿を現す。実物を見るのは初めてだけど・・・冥兵だ。冥兵は冥府が創り出した対魔兵器。黄金の鎧を着て光の槍を装備するそれは、だいたい私の倍ぐらいの高さがあり、すさまじいまでの威圧感を放っている。
冥兵の槍が一閃すると軌跡にあった魔のものが瞬間的に蒸発して光の粒になった。蒸発した魔のものも決して弱くはない。最低でもランクAの魔のものだったと思う。それほどまでの力を冥兵は持っている。
「そこまでだ!!」
魔のものが叫ぶ。見ると、自分の首筋に手刀を当てていた。これ以上やればけいいちろうを殺す、ということなのだろう。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。エレノアは苦い顔で冥兵を退かせるしかなかった。
「そうだ、それでいい」
ただ見守ることしかできない。それはとても歯がゆい。けど、今の私たちにはどうすることもできない。そうこうしているうちにも、けいいちろうの姿をした魔のものは他の魔のものをすべて吸収して、いっそう禍々しい気を発し始めていた。
「さぁて・・・これからどうするか、だ。もう冥府に面が割れちまってるからなぁ・・・別の体を探さないとなぁ」
ざっと私たちを見渡して、それからさらに続ける。
「まぁそれよりもまずは・・・テメェらを喰っちまう方が先だ!!」
にたり、と醜い顔で笑う。ゾクッと背筋に悪寒が走った。
その時、ついにエレノアがしびれを切らしたのか、後ろに退かせていた冥兵を前に出した。冥兵の槍がぐんぐんけいいちろうに近づいていく。このままじゃ、けいいちろうまで死んじゃう!
「ダメッ!!」
私はすんでの所で冥兵にしがみついてそれを止める。服の端が槍に触れて蒸発しちゃったけどそんなことを気にしている余裕はなかった。
「はっはっはっ!こりゃ傑作だ。こいつは思った以上に上等の人質らしい!!」
「離しなさい!!もうこうするしか方法はないの!!」
「それでもダメなの!!けいいちろうが・・・けいいちろうが死んじゃうからっ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ」
「ダメなの!!」
叫ぶと同時に懐にしまってあった例の紙切れが光り、その光に包まれた冥兵は次の瞬間にはもうそこにはいなかった。
「・・・?」
エレノアは何が起こったのかわからないみたいだった。私は涙を拭いてから紙切れを取り出してエレノアに見せる。
「お願い。私の好きにやらせて・・・」
エレノアは渋々でも「わかったわ」と言ってくれた。
「でもね、これは私の意見として聞いて。私は彼に取り憑いている魔のものはせいぜいランクAAのものだと思っていたの。でも、実際には違った。実際のあいつは・・・きっとこれまで冥府が確認した魔のものの中でもトップクラスに属するわ。それもおそらくAAA以上の規定外ランクのはず・・・」
私にもそれはわかる。さっきの警告音からも、魔のものの力が尋常でないことはわかっていたことだ。現在冥府が設定している魔のもののランクはCからAAAまであって、ランクが一つあがると数倍の力を持つとされている。つまり、目の前にいる魔のものは予想の範疇を遙かに超えた力を持つと言うことだ。
「私はランクAAまでの魔のものならまだ勝機はあると思ってた。そのランクまでなら一瞬でも魔のものが分離すれば冥兵の力で無に返すことができるから。でも・・・今は・・・」
「一瞬どころか完全に分離しないと無理・・・しかも、魔のものを引き離すのに必要な力もまた大きくなってる・・・」
引き継いで言った私の言葉にエレノアは頷いた。
「そこまでわかっているのなら・・・あなたにもわかるはずよ。もう迷う道はない。ただ目の前の魔を滅ぼすのみ、って」
確かにそうだ。エレノアの言うことは確かに正しい。他の道なんか無いのかもしれない。それでもまだ諦めるわけにはいかない。私はそれがどんなに細い道でも他の道を探す。けいいちろうだって死ぬことを望んでいる訳じゃない。私が諦めたら・・・その瞬間にすべてが決まってしまう気がする。他のすべての道を閉ざすことになる。それだけは絶対にやりたくない。
「それでも私はけいいちろうが生きている間は・・・助かる可能性がわずかでもある間は・・・それはできません」
私がそう言うと、エレノアはとうとう諦めた様子で「わかったわ。もう何も言わない。あなたの好きなようにやりましょう」と言ってくれた。
気を取り直してけいいちろうに向き直る。魔のものはそれを待っていたように「作戦会議は終わったのかな」と、笑った。
「もう何をやっても無駄だぜ?さっき俺を殺さなかったことを後悔することになるだろうなぁ」
ずぶっ、といやな音を立ててけいいちろうの影が揺らぐ。けいいちろうはその影に飲み込まれるように消えた。
「さて・・・死神を喰うのは初めてだが・・・さぞ旨いだろうなぁ」
「!!」
消えた次の瞬間にはもう私のすぐ後ろに立っていて、冷たい手を私のノド元に当てていた。ちょっとでも力を入れるだけで首を絞められる、そんな体勢だ。私は慌ててその手をふりほどいて、距離をとる。
「ほう、生きも良いな。こいつは上質の力になりそうだ」
魔のものはまた笑った。
「とりあえず最初の獲物はお前だ。お前さえいなくなればこいつはもう永久に目覚めることはない」
スッ、と魔のものが私に手を伸ばす。その手からいくつもの闇の礫が私に襲いかかってきた。この程度の攻撃なら、避ける必要はない。本の力ですべてはじくことができる。そう思って本を掲げると、やはり礫はすべて私を逸れていった。
「いただきます」
ひた、と、首筋に冷たい感触。しまった!さっきのは囮だったんだ!
ぐい、と、魔のものは片手で軽々と私を持ち上げ、そのまま首を締め上げる。苦しい。息ができないこともそうだけど、『力』をどんどん吸い取られているみたいな感覚がある。
朦朧とする意識の中で、鈴子さんが鞘に入ったままの刀を振りかぶって飛びかかってくるのが目の端に映った。魔のものは振り返りもせずに鈴子さんの脇腹に左拳をたたきつける。鈴子さんの体は折れ曲がり、低くうなって地面に放り出された。倒れ込んだ鈴子さんはそのまま動かなかった。エレノアも駆け寄って来ようとするけど、魔のものから一つ、影が分離して前に立ち塞がった。このままではみんなやられてしまう。私は決めた。
「・・・冥・・・兵」
けいいちろうを攻撃することはできないけど、分離した魔のものにならそれもできる。今は攻撃するときだ。
光の柱から出てきた冥兵は、エレノアが喚んだものよりもかなり小さかった。高さは私より少しあるぐらいで、武装もなぜか貧弱だ。それでもあの程度の魔のものには十分だろう。
「貴様ァッ!!」
冥兵が影を引き裂くと、魔のものは逆上して私を地面に叩きつけた。一瞬息ができなくなるけど、気を失うほどではなかった。
「ジワジワ喰ってやろうかと思っていたが・・・気が変わったよ」
魔のものは私の首を締め上げ、ついでとばかりに地面に押しつける。その腕から濃い影がにじみ出し、私の上に流れ込んできた。それは私の呼吸を奪い、目を奪い、耳を奪おうとする。
「離れなさい!!」
エレノアの声が遠くに聞こえた。反射的に魔のものは顔を上げる。その鼻先を巨大な冥兵の槍がかすめていった。
「お前・・・この男がどうなってもいいのか?」
「だからと言って、このまま彼女を失うわけにもいかないの」
ふと、私の首に掛かる力が緩んだ。魔のものの興味がエレノアに向いたみたいだ。まだぼーっとする頭で見る。魔のものに向き合うエレノアは今まで見せたことのない、恐怖に必死で立ち向かっているような表情だった。
「おいおい、大丈夫かよ。震えてるぜ?お前・・・」
呟きながら、魔のものは影の礫をいくつも作り出して、エレノアめがけて解き放った。何とかギリギリのところでかわしてるみたいだけど・・・
「巧く避けるねぇ!!だが・・・これで終わりだ!!」
叫ぶと、これまでとは比較にならないぐらい巨大な礫が数えきれないほど、空に現れる。それは一斉にエレノアめがけて襲いかかっていく。理屈とかを抜きにして、感覚でわかる。あれは・・・防ぎきれない。
「・・・・あぁ?」
ところが、礫、というよりも無数の黒い大穴は、エレノアに当たる寸前でコースを変え、あたりの地面に当たって砕け散ってしまった。見ると、魔のものの右腕に北村さんがしがみついている。そのせいでコースがズレたのだろうか。
「もう・・・やめてよ・・・近江先輩」
私からは北村さんの表情はわからないけど、声ではっきりとわかる。北村さんは泣いていた。
「あたしには何が起こってるのか全然わからないけど・・・もうやめてよ・・・殺すとか死ぬとか言うの・・・もう・・・やめて!」
「うるさい!力もない小物の分際で!」
魔のものは冷たく言い放つと、北村さんをふりほどこうと思いっきり腕を振った。でも、北村さんは離れなかった。しっかりとけいいちろうの腕にしがみついたまま、離れなかった。
「近江先輩、昨日あたしに言ったじゃないですか。はつきさんのこと・・・もう一回会えて本当に良かった、って言ってたじゃないですか。それなのにどうして今日は・・・こんなこと・・・はつきさんのこと殺そうとするなんて・・・」
「知らんな!それにそう言ったのは俺ではない!」
なおも引きはがそうと体ごと振り回すけど、それでも北村さんは離れない。次第に魔のものが苛立ってくるのがわかる。
「昨日、ホントに嬉しそうに言ってたじゃないですかっ!!」
「やかましい!!それ以上言うな!!」
苛立ちが募っていく。私には魔のものが慌てているようにも見えるけど・・・どうなんだろうか。
「忘れようとしても忘れられなかった、ってそう言ってたじゃないですか!!十年間ずっと・・・忘れられなかった、って!!」
「黙れぇぇッ!!」
とうとう業を煮やしたのか、北村さんを地面に叩きつける魔のもの。ついに、北村さんはけいいちろうから引き離された。
「近江先輩・・・」
それでも、地面に突っ伏したまま、さらに言葉を続ける。
「はつきさんのことずっと、ずっと、好きだったんだ、って!昨日あたしに言ったじゃないですか!!」
・・・・・
「そんなこと知るかッ!!」
魔のものは倒れている北村さんの脇腹めがけて思いっきりケリを入れた。北村さんのうめき声が夜空に響く。助けに行きたいけど、私も動けない。と、北村さんはその足をつかんで、縋るようにして立ち上がった。
「こうも言いました。半年前の・・・あたしの告白にOKしてくれたのは・・・あたしがどこか・・・はつきさんに似てたからかも知れない、って」
魔のものは北村さんの言葉を黙って聞いていた。
「そこまで想っていた人のこと・・・どうして殺そうとするんですか!!どうしてそんなことができるんですか!!」
・・・・
・・・・・・・・
誰も、何も言わない。
ただ、時間だけが過ぎていた。
魔のものさえも、身じろぎひとつせずに立ちつくしていた。この隙を利用して、エレノアが私を立たせてくれた。鈴子さんも今はもう立ち上がっている。もっとも、立っているのがやっとみたいだけど。
「僕は・・・」
ぼく・・・は・・・?
魔のものじゃない、けいいちろうの声だ。
「はつきを殺したいわけじゃない・・・そんなことあるわけないじゃないか・・・。はつきを殺すぐらいなら・・・僕が死ぬよ。テメェは大事な人質だから死なせるわけにはいかねぇのよ」
・・・?
「今しかないよ。もう。あと少ししかない。早く・・・あの騎士の槍で僕を貫いてくれ。馬鹿かテメェ!こいつがそんなことできるわけネェじゃねぇか!!お前と同じでアマアマのアマちゃんだからなぁ!」
今・・・どう考えても・・・たぶん・・・けいいちろうと魔のものが同時に表に出て喋ってる、んだと思う。完全に支配することはできないけど、完全に支配されることもない、そんな微妙な状況なんだ。
「はつき!」
「はっ、はいっ!!」
急に呼ばれて、びっくりして声が上ずってしまった。
「はつきは・・・まだ何とかなるって考えてるかも知れないけど・・・もう無理なんだ。一つの犠牲も出さずにこのまま終わらせるのは。そのことが一番よくわかってるのは誰でもない、こいつに取り憑かれている、僕だ」
「そうそう、誰の犠牲も出さないなんてのは所詮はかない希望なんだよ!!叶わない夢なんだよ!!都合の良い出来事なんだよ!!」
「だから・・・その一つの犠牲に僕がなるだけ。他の誰かじゃ・・・一つの犠牲じゃ済まないんだよ」
「何を言っても無駄、ムダ、ムゥダァ!!この女にそんなことできると思うのか!?本当にそんなことできるとでも思ってやがるの・・・」
「お前はちょっと黙ってろ!!」
「・・・テメェ・・・今すぐこの場で喰ってやってもいいんだぜ?」
「そりゃ願ったり叶ったりだ。僕がいなくなれば・・・もうはつきも迷わない。それがわかってるから・・・お前は僕を喰ったりはしない」
「・・・フン」
「もう時間がないよ。そしてこれが最後だ。僕はもうヘトヘトだから・・・一度目を閉じたらそのまま深い眠りに落ちてしまう。もう二度と目が覚めることはない」
「そうしたら俺が責任もって全員皆殺しにしてやるよ!!」
「早く!!」
「テメェ分かってんのか!!?あの光の槍に触れたら死ぬんじゃないんだぞ!!?消えるんだぞ!!?その瞬間にすべてが終わるんだぞ!!」
「わかってるよ!!!そんなことぐらい・・・とっくにわかってる!!もうこれ以上僕を苦しめないでくれ!!」
もう、後には戻れない。
目の前にあった道がどんどんどんどん細くなって、やっと一人歩けるぐらいになって、今ではもうその一人も歩けるかどうかわからない朽ちかけた橋が一本あるだけ。
もう、決めるしかない。
やるのか、やらないのか。
「冥・・・兵・・・・」
本を抱いて唱えると、光の柱からさっきの冥兵が現れる。
エレノアを見ると、彼女はただ無言で事の成り行きを見守っていた。
「槍を」
言うと、冥兵は自分の携えた槍を私に差し出した。受け取れ、と言うことなのか。私はそれに従った。光の槍に重さはなかった。
鈴子さんを見ると、彼女もまた、無言でこれから起こることに神経を傾けていた。
「けいいちろう」
もう、これが最後の会話になるだろう。
「ごめんね。助けてあげられなくて・・・せっかく来たのに・・・何もできなくて・・・」
けいいちろうは首を横に振る。
「謝るのはこっちだよ。死にたいなら・・・そこの橋から飛び降りて一人で勝手に死ねば良かったのに・・・結局それができなくて・・・こんなになっちゃった」
つい、と縋ったままの北村さんを引きはがして、二、三歩歩み寄る。引き離された北村さんはその場に力なくうなだれた。
「あのね、けいいちろう」
私も、けいいちろうに近づく。
「なに?」
二人の距離はあっという間に縮まってしまった。
「責任とって私も一緒に消えてあげるから・・・・だから泣かないで」
「ばか・・・・泣かないから・・・そんなこと言うな」
くい、と静かに伸ばされたけいいちろうの指が私の涙を拭う。
「でも・・・けいいちろうが消えちゃったら・・・私が死神になった意味も・・・死神を続けていく理由も・・・全部なくなっちゃうから・・・」
「そんなことなら・・・きっといくらでも見つけられるよ。だから・・・僕が消えるからこそ、はつきには残ってほしい」
「そんなの・・・きっと見つからないよ」
「そっか。じゃあ、こうしよう。はつきは、僕のことを忘れないでいて。それでいい。それが僕がここにいた証で・・・これからはつきがここにいる理由になるから」
頬に触れていたけいいちろうの手が離れた。
もう、終わりだ。
ここで終わりにするしかない。
望んだ形ではない、ある種、最悪のエンディングだけど・・・
これより他に、道はなかった。
そう思わないと・・・気が変になってしまいそうだ。
「今ならまだ止められるんだぜ!?まだお前の言う最良の道とやらを探せるんだぜ?」
魔のものが何か言ってるけど、気にならない。
「さあ、やってくれ」
私は頷いた。
「うん」
槍を向けると、何の抵抗もなく、それはけいいちろうの胸に吸い込まれていった。
ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!!!
暗闇をつんざく魔のものの悲鳴。
その影に紛れて、けいいちろうの悲鳴も聞こえた。
もう涙で何も見えない。
「ごめんね、はつき」
小さく声が聞こえた。
私は大きく首を振って、それを拒否する。
「ごめん。さっき北村さんが言っちゃったけど・・・十年前に・・・十年前から言えなかったことを今、言うよ。ちょっとズルいみたいだけど」
声がどんどん小さくなっていく。私はその声を聞かないように耳をふさいで必死に首を振ったけど、それでもその声は聞こえてきた。
「ずっと好きだったんだ。本当だよ」
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
今更そんな言葉聞きたくない。
いまさら・・・
「テメェ!!まさか本当にやりやがるとはなぁ!!さすがの俺もビックリだ!!」
不意に、声の質が変わる。
「このまま道連れなんて・・・んなことがあってたまるかよぉ!!!」
「!!!はつき!!」
けいいちろうの叫び声が聞こえたちょうどその時、ぞぶ、と、けいいちろうの体から闇が勢いよく噴き出した。けいいちろうの体から離れたそれは垂直に天に昇ると、まるで噴水のように四方に飛び散ろうとする。何とも言えない異様な光景だった。本能的な恐怖を押しつけてくるその黒い闇は・・・間違いなく魔のものだ。
「魔のものが・・・離れた!!?」
私は慌てて槍を引き抜く。けいいちろうは崩れるようにその場に倒れ込んだ。そこへ冥兵が駆け寄ってきて、手際よく槍を拾い上げると、空で暴れる魔のものめがけて飛びかかっていった。
「馬鹿な・・・この俺が・・・千年生きたこの俺が・・・まさかこんな所で・・・こんな事で・・・・すべてが終わるというのか!!」
上空を漂う魔のものは冥兵と激しい戦いを繰り広げながら悔しそうに叫ぶ。
「なんだ・・・・覚悟したのに・・・結局うまくいったのか」
ふふ、と、倒れたままのけいいちろうが笑った。元気とは言えないけど、消滅まではいかなかったみたい。魔のものの力が大きすぎたから、それがけいいちろうと槍を遠ざけていたのかも知れない。それでも本当に消えてしまう寸前だったのだろう。疲れ果てたけいいちろうはもう小さな寝息を立てて眠っていた。とりあえず、助かって良かった。
「貴様・・・貴様が!!」
けいいちろうに気づいて、魔のものの一部は再び戻ろうとする。いや、どちからというと腹いせにけいいちろうを殺してしまおうと考えているような、そんな雰囲気だ。けど・・・それを黙って見ているほど、私もお人好しではないつもりだ。素早く間に入って、本を掲げた。ごすっと鈍い衝撃があって、魔のものを再び空へはじき返す。それでも魔のものはまだ戻ろうとする。私の方は・・・さっきの衝撃で本がどこかに飛ばされてしまった。こうなれば、私が盾になるしか・・・
「ん、そうは問屋が卸さない、ってね」
「ガァァァァァッ!!」
しん、と光が走ったかと思うと、魔のものが苦しげに後ずさった。鈴子さんの刀が魔のものを切り裂いたのだ。
「人質さえなくなればもう何も気にすることはありませんから・・・これまでのお礼も含めさせてもらうわね」
エレノアの十字架が輝き、巨大な冥兵が姿を現す。槍が一閃され、魔のものは断末魔の叫びだけを残して跡形もなく姿を消した。でも、これで終わりじゃない。まだ上に、たくさん残っている。
「冥府に連絡しないと!!私たちの冥兵の力だけじゃ逃げられちゃう!」
「その必要は・・・ないみたいよ?」
「え・・・・」
エレノアに言われて空を見ると、数十の冥兵が魔のものを取り囲むように円を描いて浮かび上がっていた。その円は見る間に縮んでいき、魔のものを次々と殲滅していく。空は黄金色に輝き、夜なのに昼間のような明るさだ。その光景はまさに完成された一枚の絵を見ているようだった。
これで・・・すべてが終わった。
そっと、私の膝の上で寝息を立てるけいいちろうの額に触れる。
あったかい。
これで・・・終わったんだね。
嬉しくて涙がこぼれた。