★In the Past....
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Act.3 Escape
アベル・エレザールは近寄る人の気配に身を堅くする。背中に庇うアディラの手を、勇気づける様に握り締めた。そのまま、階段の下に身を潜める。2人も居るとは言え、7歳を漸く迎えた子供の体は、幸い、資材の積まれたこの物陰に旨く隠れる事ができたようだ。研究員は、アベル達に気づく事なく、廊下を過ぎて行った。
「……もういい?」
アディラがその紫の瞳を潤ませながら、アベルに尋ねる。アベルは、同じ色の瞳を彼女に向け、力強く頷いた。
「大丈夫。急いで――下でアロン達が待ってる筈だから。エースが騒いでないと良いけど」
歳に似合わぬ苦笑を漏らしながら、アディラの手を引いて、階段を静かに降りて行く。
彼らは[E−ナンバーズ]エレザール姓を与えられる子供達であった。
最初は何の疑問も感じずに居た。物心付いたころから、研究室で暮らして居たからだ。特定の両親が居ない事も、ゲージの中に居なくちゃならないことも、機械に繋がれて毎日毎日データを取られても、注射を沢山されても、何も変だとは思っていなかった――最近までは。色々な知識も吸収した。覚えることは楽しかった。複雑な数式を解くことも、身の回りの全ての物を化学式で表す事も、与えられた駒を使って戦術を組み立てるのも、面白くて仕方がなかった。そして、ある時。エレザールのひとりであるアベルは突然気が付いた。自分達はどうして――此処で実験体の様に管理されているのだろうかと。人と何ら変わりがない。いや、やもすれば常人より優秀かも知れない。なのに、どうして自分達には主権がなく、ここで実験体として扱われているのだろうかと。おかしいと思った。こんな事はあり得ない。――お母様には知られないよう、研究員の何人かを誘導尋問に掛けた。どうやら、此処ではこの扱いしかされない事が解った時、アベルは自分自身の意志で生きる事を決意し、ここから逃げ出すことに決めたのだった。計画は、自分の頭の中で全て考えた。決して記録を残さなかった。お母様に見つかったら――いや、所員に見つかるだけでも阻止されてしまう。自分達が己自身で生きるためには、まず此処から出なくてはならない。機会を待った。人間の行動には必ずミスが発生する、その時がくるのを。
それは以外と早く訪れた。夜勤担当者が鍵を掛けるのを怠った。単純なミスだが――エレザール達には願ってもない瞬間だった。
監視装置に偽装を施し、部屋を出る。朝までは誰も来ない筈だ。後はシンクタンクのセキュリティの穴を縫って――此処を脱出する。
1階まで降りると、アロン達3人が待っていた。アベル達が降りてくる間に、アイオロスが単純な警備システムの配線を切断し、一部のブロックを完全に無力化していた。そっと、扉を押し開ける。
「よし、行くぞ」
そうして、5人の子供は逃げ出した。
Act.4 ....Fold?
ラヴィアンはシンクタンク最上階の自分の部屋で、不意に目を覚ました。妙な気配がしたからだ。じっと、耳を澄ます。時計を見ると、午前3時を回っている。
シンクタンク・デルタはその内容の特殊性から、街から外れた小山の麓に建っている。建物の裏手は、人の手の入らない林がある。
普段なら、この時間でも虫の鳴き声が時折する筈だ。それなのに――何も聞こえない。ラヴィアンは明かりを落としたまま、窓に歩み寄る。そのまま、無言で見下ろした。
小さな陰が幾つか動いた。林の中で。ラヴィアンがすうっと目を細める。暫くその動きを追うと、ラヴィアンはベッドの傍らの剣を手に部屋を後にした。
○
アディラは驚いた様に後ろを振り向いた。前を行くエースが、彼女の様子に気づき、
「何かあったのか?」
アディラの視線の先にある、シンクタンクの建物をじっと眺める。
「ううん……何か、視線を感じた……ような、気がしたの」
アディラは消え入りそうな声で呟いた。
「大丈夫だよ。明かりは消えたまま。僕達が出た時と、変化はないよ」
アイオロスがあやすように告げる。エースもその言葉にうんうんと頷いた。
「見つかったなら、もっと騒いでいる筈さ」
「だと、いいんだけれど……」
アディラは表情を変えず、シンクタンクに背を向けた。脅えるように自身を抱き締める。
「何か、ねっとりと背中に絡み付くみたい。すごく、いやな感じ」
アベルも、その言葉に、ふと視線をシンクタンクに向けた。何度も、確かめる様にして瞬きをする。何かおかしい? よく解らない。いつもと何かが違う? でも、漠然とした憔悴感が、微かに心の奥底から沸き出して来るような気がする。何かが引っ掛かる。何か――ボタンを掛け間違えている様な。それは些細な違いなのだけれども、あるべき姿と何か掛け離れているような。
「反発を伴う“嫌”じゃないの。……駄目なの。“否”なの。私達、こうするのが本当じゃなくて……」
苦痛に表情を歪ませる。閉じられる瞳。
「“そうじゃない”って意識が絡み付く感じ。これって本当に私が思っている事? 私の心の奥底から出て来る感情? 私がここから出たくないの? それとも――」
アディラはふと面を上げた。
「そう惟わされているのかしら?」
「まさか」
アイオロスがアディラの言葉を笑顔で否定して見せる。
「大丈夫だよ。不安なだけ。落ち着けば、なんでもないって解るよ」
アイオロスの言葉を聞きながら、アベルはまだ自問していた。全ては万全か? 見落としはないか? 異質な事はないか? ありとあらゆる事象を考えて、アベルはようやく気が付いた。
――――虫の声が消えてる。
――――深遠に落ち込むような、静寂。
自然から外れたものは決して自然の中には溶け込めない。異質である彼らが弾かれるのは当然の事であり、そしてそれが――暗黒の刻の始まりであった。
《続く》