第6章「君がいた想い出と 君が忘れた僕(1)」
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目の前にいる彼女が笑顔を自分に向けている。
そんな当たり前のような事なのにクエイドは容易には信じる事が出来そうにもなかった。
だって、そうじゃないか。
サリーナは……目の前のこの少女は自分の事を知らないはずだ。
逢える可能性なんてゼロにだって等しかったはずだ。
それなのに彼女は自分の目の前で微笑んでいる。
その事を簡単に信じられるだろうか。
だけど……彼女は確かに微笑んでいる。
クエイドは声も出せずにただ呆然と目の前の彼女を見詰めていた。
「気が付いたんだ。大丈夫?」
彼女の言葉に動揺はない。
やっぱり……俺の事を覚えてはいないのか。
それとも……サリーナじゃ……ないのか?
そんな一抹の不安を覚えながらクエイドは頷いた。
その様子を見てからサリーナは言葉を続けた。
「左肩の怪我は魔法で治しておいたけど、無理はしない方がいいよ。多分、気だるさが残るだろうし。」
「……君は、魔導士なのか?」
魔法が使えるのだから魔導士なのは当たり前だ。
クエイドがこの言葉を言った理由は別の所にある。彼女がサリーナ本人であるという確証が欲しかった。そのために彼女の口から情報を引き出さなくてはならない。
彼女はクエイドの真意など気付きもせずに、変わらぬ笑顔で言葉を紡ぐ。
「うん、そうみたいだね。魔法を使える人の事を『魔導士』って言うらしいんだね。」
そのサリーナの言葉を受けてクエイドの瞳に光が宿った。
その言葉を待っていた。
彼女の口から真実を引き出すためにクエイドはその言葉を呟いた。
「……おかしな話だな。魔法は生来使えるものだ。君の口ぶりはまるで最近『魔導士』になったような言い方だ。」
少し刺のある言い方だったが、彼女がサリーナであると証明しなければならない。彼女が口を閉ざすかと思ったが、変わらない口調で言葉を続けた。
「ああ……私、昔の記憶ないから。自分の名前以外全然覚えてないの。魔法が使えるって知ったのも最近なんだ。自分の事なのに変な話だよね。」
サリーナは苦笑気味に話していた。
彼女の苦笑いは普通の笑顔が鮮やかな分、影がより濃く見えてしまう。
「すまない。立ち入った事を聞いてしまって……」
クエイドは少し頭をもたげた。
その様子に彼女は頭を振った。先ほどの華やかな笑顔をクエイドに向ける。
「気にしないでいいよ。私の事を知っている人は大抵みんな知ってるから。」
どこまでも前を向き続けている少女の言葉。
その言葉を聞いて、クエイドはサリーナに見えないように口元を緩ませた。
間違いない。
今、確信した。
この目の前の少女はサリーナに間違いない。
変わっていない。想い出のままの笑顔を彼女は今も讃えている。そして、心も。
「あ……まだ私の名前を言ってなかったね。私は……」
知ってるよ……忘れる訳ないよ……
君の名前は……本当に大切な君の名前は……
「私は、サリーナ。サリーナ・レイフォンスだよ。」
クエイドは瞳を瞑っていた。彼女のその名前の一文字すらも聞き逃さないように。
また、逢えた。その事に震え出しそうな自分を必死に制してクエイドは瞳を開けた。そして、彼女の瞳を見詰め、静かに再び物語の幕を開ける。
「俺は……クエイド。クエイド・ラグナイトだ……。」
物語が再び始まった事を知ったのはクエイドだけだったけど、サリーナも後になって、この時の事を忘れる事はなかった。
想い出に勝るとも劣らない程、この瞬間は光包まれ、輝きを放っていた。
「でも、どうしてクエイドさんはあんな所で怪我してたの?」
その情景を全く無視したような発言とずっと前にも言われたけど、サリーナに「さん」付けで呼ばれる事が何かしっくりこなくてクエイドは思わず微笑を漏らした。
「クエイドでいいよ。俺もサリーナって呼ぶから。」
「あはは、そうだね。でも、良かった。あんな怪我してたからクエイドって、実は怖い人なのかと思ってたんだ。でも、全然そんな事ないね。」
サリーナのその言葉を聞いた時、「サリーナだから……」って言葉が喉元まで出かかった。でも、それを口にする事はなかった。ただただ、微笑を浮かべるだけだった。……もしかしたら、それは苦笑だったのかもしれないけど。
「……ちょっとガラの悪い人達に因縁を付けられてね。まさか銃で撃たれるとは思わなかったから。」
嘘としては出来のいいものではなかったかも知れないが、サリーナにはこれで十分だとクエイドは確信していた。
「そうなんだ。この辺、そんなに治安が悪い方じゃないのに……災難だったね。警察にはまだ届けてないんだ。クエイドにも事情が色々あるかと思ったから。どうする?警察に届けようか?」
この何処までも人を信じてしまう少女は人を疑う事を知らない。
いや……でも……
(……まさかな。)
クエイドはその考えを霧散させて、サリーナに聞かれた事に思考を切り替えた。
ここで警察を介入させるべきか……クエイドは迷う事無く答えた。
「いや。問題を大きくしたくないんだ……。体が少しでも動くようになったらすぐに出て行くよ。」
クエイドの言葉にサリーナは首を振って笑顔で答えた。
「そんな……全然迷惑なんかじゃないから。ゆっくり怪我を治してよ。私、今住み込みで働いているんだ。ここの店長さんにもクエイドの事言ってあるから。だから気にしないで。」
サリーナの言葉にクエイドは思案した。
もしもサリーナが一人暮らしだったなら、サリーナが迷惑じゃないと言っても出て行くつもりだった。やっぱり、一人暮らしの女の子の家に男が泊まるという事に少なからず抵抗を覚えたからだ。それに、今自分は軍隊と思われる特殊部隊に命を狙われている。それにサリーナを巻き込む訳には絶対にいかない。サリーナの生存が分かれば、絶対に行動を起こしてくる。
しかし……
クエイドはサリーナを見た。
今、ここを離れてしまえば、サリーナとの接点がなくなってしまう。やっと逢えたのに……二度と逢えるとは思っていなかったのに逢えた。だけど、今サリーナと離れてしまえば、今度こそ彼女と会えなくなってしまう。
それがクエイドには怖くて堪らなかった。
だから、クエイドはサリーナの言葉に甘える事にした。
「……ありがとう。サリーナの言葉に甘えさせてもらうよ。」
クエイドのその言葉にサリーナは何処か安堵の表情を見せたような気がした。
「それじゃ、ゆっくり休んで。私、下にいるから。時々様子見に来るね。」
「ああ……すまない。」
サリーナは軽く笑顔を振り撒いて部屋を出て行った。
閉められた扉の音が淋しく響いた。そして、シーツから香るサリーナの香りに気付いた。
その胸を好く香りにクエイドは瞳を細めた。
サリーナはやっぱり自分を覚えていなかった。
記憶を失って生きていた。彼女の表情を見る限り、今の彼女は幸せのようだ。
周りの状況も彼女を助けているみたいだ。
俺は……必要ないのかもしれない。
でも……
「……ダメだな、俺……」
クエイドは手で顔を覆った。どうしてもサリーナから離れられない。
サリーナに対する愛情が暴走し、ただ坂を転がるようにどこまでも堕ちていく。
彼女に堕ちていく。どこまでも、どこまでも。
闇に塗れた俺が光輝く彼女に惹かれていく。彼女に溺れていく。
そして……どうなるのだろう。
分からない。分からなかったから、怖かった。だけど、どんなに怖くても彼女から離れられない。愛の海から這い上がる事が出来ない。
最も甘美で最も危うい麻薬……クエイドにはそれが『愛』のような気がしてならなかった。
本当はもっと綺麗なはずなのに……
どうして、俺の場合はこんなにもドロドロと醜く、危うさを引き連れているのだろう。
愛への渇きが欲情と狂気を引き連れてクエイドを犯す。
そして、そのクエイドがサリーナを……
その狂気の妄想をクエイドは頭を振って、必死に打ち消す。しかし、その残骸となった微熱がクエイドの心と体を火照らす。
瞳を閉じても、闇の中に彼女の姿が見える。一時でもサリーナを失う事を恐れている。そして、彼女を欲して病まない。
ほとんど病気だった。こんなにも恋する事が辛いなんて思いもしなかった。彼女に再会して、本当にそう思った。
誰もがこんなに苦しい想いをしているのだろうか。それとも俺だけなのだろうか。
その答えが分からなかったから、クエイドは苦しまなくてはならなかった。
俺は『普通』なのか。
俺は『異常』なのか。
冷静と激情を抱えて、クエイドは天井を見詰め続けていた。
当分、眠れそうにはなかった。
サリーナは二階から降りる階段の所で足を止めて振り返った。
視線の先にはクエイドが寝ている自分の部屋の扉が映っていた。
サリーナはその心の疼きを抱えながら、戸惑っていた。
初めて、彼を……クエイドを見た時から始まった心の疼き。何故だから分からないけど、心の何処かが確かに痛い。まるで霞の中で必死に手探りで見えない何かを探しているように。それが何かすらも分からないまま、両手の指を血に染めながら必死で探しているように。心が……痛かった。
揺れる心とそれを理解出来ない感情。それがサリーナを悩ませた。
(私は……彼を……知っている?まさか、そんなはずないよ。そんなはず……)
それを否定出来ない事をサリーナは知っていた。
自分には記憶がない。
誰もが当たり前に持っているはずの記憶がサリーナには存在しない。その失っている記憶の中で誰と知り合い、どんな事をしたのかそれがまるでサリーナ自身には分からない。
それがどれほど恐怖心を与えるか。どれほど不安にさせるかは想像に難くない。
クエイドに聞けば自分が何処の誰なのかも知る事が出来るかもしれない。
だが、サリーナにそれを聞く勇気はなかった。
他人に愛想が良くて、何でも信じてしまう自分の性格。
それは避けられるのが怖いから。
裏切られるのが怖いから。
誰かを信じているようで実は誰も信じてはいない。みんな同じにしか見えていない。
表情など何も無い笑顔の仮面を付け、同じように能面のような表情でしか人を見る事が出来ない。
他人の領域に踏み入れなければ、他人が自分の領域に踏み入れる事もない。馴れ合いの関係がサリーナには酷く心地よかった。
だけど……
サリーナはそっと胸の前で手を握る。小さな手で震えを隠すように力強く握っている。
あの青年の蒼い瞳……
あの瞳に安らぎと恐怖を感じてしまう。
決して立ち入ってこないはずの心の領域にあの蒼い光だけは侵入してくる。そして、それに震える臆病な心が喜び、怯えている。
自分にとって彼は幸福を呼ぶ使者なのか、不幸を呼び込む悪魔なのか。
サリーナにはそれがまだ分からなかった。だけど、サリーナは誤解していた。
クエイドは幸福の使者でも不幸の悪魔でもないことを。
ただの『人間』である事をサリーナは忘れていた。
始まったな
そのいつものような沈んだ、自信に満ちた声。それが誰なのかなんて考える必要もない。
クエイドは舌打ちしてからゆっくりと嫌そうに口を開いた。
「……勝手に何でも始めろよ。あんたのその持って回った言い方にはうんざりしているんだ。」
クエイドの渾身の嫌味にも『あいつ』は含み笑いで返すだけだった。そして、しばし笑った後にゆっくりと言葉を吐いた。
そう言うなよ
これはとても重大な事なんだ
クエイドはついにその瞳を開けた。
同じような暗闇の中で浮かんでいる俺と『あいつ』。いつものような二人のクエイド。空中に佇む自分と『あいつ』の足元には地面はなく、ただ広がる海のような水面が暗闇の中で波立たせる事もなく二人のクエイドの姿をその湖面に映している。
クエイドは髪を苛立たしげに掻き揚げ、『あいつ』を睨みつける。
「どんな重大な事が起ころうが、あんたはいつも俺を戸惑わせるだけでその真意を教えようとはしない。それで俺に何か期待する方が間違ってるんじゃないのか?」
その言葉に『あいつ』がどんな言葉を言ってくるかと思ったが、言われた言葉にクエイドは思わず双眸を吊り上げた。
今のお前に理解出来るとでも言うのか?
「……その資格すら今の俺にはないという事か?」
クエイドは瞳を細め、『あいつ』から視線を外してそう呟いた。『あいつ』は言葉でそれを肯定してはこなかったが、ただその不敵な笑顔を讃えている姿を視線の端で見て、その事実を認めているとクエイドは確信した。
「……で、何が始まったって?」
クエイドは他に言う言葉が思いつかなかったので、話を戻した。しかし、それに『あいつ』はすぐに答えてきた。
プログラムだ
「プログラム?」
想像にもしなかった言葉にクエイドは思わず鸚鵡返しにその言葉を呟いた。
プログラムが始まった?
その意味不明な言葉にクエイドが困惑している様子をしばし楽しんでから『あいつ』は再び口を開いた。
あの娘と再会しただろう?
その時点でプログラムが再び動き始めたんだ
『運命』に関する二つのプログラムがな
プログラム『フェイト』とプログラム『EARTH』
「プログラム『フェイト』……プログラム『EARTH』……」
運命と星のプログラム?
それが俺とサリーナが再会して動き始めた?
クエイドは新たに与えられた情報を必死に整理しようとした。クエイドは一度こいつに体を支配されてから決意した事があった。
今の自分は間違いなくこいつの掌で操られている。俺がそこから脱するためにはこいつが提供する情報を整理し、自分が取るべき行動を明確にしなくてはならない。簡単にこいつの術中にはまり暴走するわけにはいかない。サリーナと再会した今はそれが尚更だ。
「それがどう重要だって言うんだ?」
クエイドの言葉に『あいつ』はニヤリと口元を歪ませた。まるでその言葉を待っていたように嬉々として語り始めた。
このプログラムは本来ならばそれ程の物ではない
お前とあの娘にとっては凄まじく重要だがな
だが、このプログラムにオレが組み込まれた時点で話は変わった
ミクロな影響がマクロにまで影響を与えてしまったんだ
『個人』の問題に過ぎなかったものが『星』の生死にまで関わってしまった
『悲劇』の規模が桁外れに広がってしまった
クエイドは黙って『あいつ』の言葉を聞いていた。
言う事は……何となく分かりもするし、全く分からないとも言える。
ミクロの事象がマクロにまで影響を及ぼすのは何となく理解出来る。言ってみれば、前回のローグィン市での騒乱だ。奴らは俺を確保するというミクロの問題をローグィン市全域にまで及ぶ軍事行動というマクロの形で実行した。
奴の言うプログラムという物に『あいつ』が組み込まれた事によって、その規模が飛躍的に広がったという事なのだろう。
だが……個人の問題が星の生死……世界の破滅にすら広がるなどという事があり得るのだろうか。そして、人にプログラムなどいう物を植え込む事が可能なのだろうか。
その疑問を口にしてみることにした。
「……人間にプログラムを植え付けるなんて事可能なのか?」
その疑問に『あいつ』は鼻で笑った後にゆっくりと諭すような口調で話始めた。
可笑しな事を言うものだな
お前達は呼吸をしなければ生きてはいけないだろう?
全ての生命体が死ぬ事を運命付けられているだろう?
それこそが『プログラム』だ
自由意志で行動する者に制約を付けられているのは自然の摂理だ
それはお前達『人』も、最強の生体兵器である『モンスター』も変わらない
(なる程……そういう論理展開で来るか……)
クエイドは黙ってそう思案した。言わば言葉遊びのようなものだ。クエイドが知りたいのはそんな事ではない。その『運命』に関するプログラムとやらが自分とサリーナにどんな影響を及ぼすか、それが重要なのだ。……『悲劇』という言葉に尚更、それを知らなければならないという使命感が湧き上がる。
「その二つのプログラムにはどんな役割があるんだ?」
単刀直入に聞きたい衝動を押さえ、言葉を必死で選んだ。重要な事を『あいつ』は教えない。周りの堀から埋めていかなくてはならない。
運命を作るプログラムとその運命を殺すプログラムだ
言わば、お前とあの娘が出会ったのはプログラムの範疇という事だ
そして、お前が恋焦がれたこの再会もな
最後の言葉がカンに障った。
駆け引きを考える事も出来ずに吐き出すように言ってしまった。
「……余計な事はどうでもいいんだ!その『運命』とやらは俺とサリーナにどんな影響を与えるんだ?!」
その言葉が完全に失策だと理解した時には遅かった。『あいつ』はその言葉に秘められた激情を読み取り、嬉々としてカンに障る声で話す。
オレがそれをお前に教えるメリットは何処にある?
オレはオレにとってメリットのある情報はお前にくれてやる
だが、あくまでオレとお前は……
「……敵、か?」
クエイドは不敵な笑みを浮かべて『あいつ』の言葉を遮った。その事に満足したように『あいつ』も不敵な笑みを作っている。
そして、クエイドと『あいつ』の足元に広がる水面が突如、波立ち始めた。その様子を訝しげに見詰めていたクエイドに突如『あいつ』から声が掛かる。
あの娘は間違いなくお前を選ぶ
オレではなくな
だが、オレにはそんな事どうでもいいんだ
愛という名の血の海にあの娘を沈められればオレはそれで満足だ
そして、世界すらもそれに浸してやる
非力なお前にそれを止められるか?
そして、水面が再び平静を取り戻す。一つだけさっきまでと違った光景を映し出し、二人のクエイドがその激しい視線を交錯させる。
水面にはサリーナの姿が映っていた。巨大な水面に映るサリーナの姿の上でクエイドと『あいつ』がその全存在を賭け、相対している。
「サリーナは……俺が絶対に守る。お前には手出しはさせない。世界の運命にも、星の命にも興味はない。だけど……もしも、サリーナや俺の仲間の居場所さえ壊そうとするなら、俺はお前を許さない。」
その言葉が二人だけの空間を静かに振動させる。その木霊が皮膚に刺激を与えているのを感じながら、『あいつ』は静かに消える事にした。
そして、『あいつ』の去った漆黒の闇の中でクエイドはたち尽くす。俯けば、足元に自分の守るべき人がいる。
その微笑みを守るためだけに。
それだけに自分の存在意義の全てを賭けて。クエイドは佇む。
そして、クエイドの目の前に小さな紙が降りてきた。その紙は水面に落ちると、その書かれている文字はクエイドの瞳に捉えて話さなかった。
クエイドはその言葉を読んで、ゆっくりと天空を仰いだ。星さえも見えない本当の闇。その闇を見据えてぽつりと書かれていた言葉を反芻した。
『運命は生きるのか?死ぬのか?』
その答えを知ったのは以外にも早かった。
だが、その答えを知ったその時から、二人は自分たちの本当の物語を綴る事になる。
『運命』が生きれば、用意されている未来の扉が。
『運命』が死ねば、未知なる未来の扉が。
クエイドとサリーナが開く扉は……どちらの扉なのだろう。
しかし、そのどちらの扉にも……『悲劇』は口を開けて待ち構えている。
クエイドは瞳を開けるとゆっくりと起き上がった。まだ、気だるさは残るが動けない事はない。銃で撃たれた左肩も多少ぎこちなさを感じるものの、動かす事は十分出来る。窓からは赤い光が差し込んでいる。その赤い光によって、サリーナの部屋は一面赤一色に染められていた。太陽は地平に吸い込まれようとしていて、その最後の輝きを放っている最中だった。夕焼け……クエイドはそう思った。まさか、朝焼けという事は無いだろうと考え、ゆっくりとベッドから這い出した。
『あいつ』との邂逅という機嫌の良いとは言えない状況だったが、サリーナの香りのするシーツは酷く心地よく、比較的深い眠りに落ちる事が出来た。そのお陰で大分疲れをとる事が出来たようだ。
小さく背伸びをすると多少ゆっくりとした歩調で扉へと向かう。ノブを少し回すと木の軋む音と共に扉が開いた。サリーナの部屋から出てみると木造の二階建ての建物という事が何となく理解出来た。サリーナの部屋とは打って変わって汚れが幾分目立っていた。
(そう言えば、住み込みで働いているって言ってたな。)
クエイドは辺りを見渡すとサリーナの部屋と同じような扉が他に二つあるのが分かった。細い廊下の先にはかなり急な木造の階段がある。クエイドはそれを慎重な足取りで下りていった。
(しかし、サリーナが働いているなんて……ちょっと想像出来なかったな。)
初めてサリーナと会った時の事はよく覚えている。かなりいい家に住んでいて、世間知らずという印象すら覚えた。あの小さな手の、あの綺麗な指先には家事などは向かないと思った事もあった。どんな感じで働いているのか、興味がないと言えば嘘だった。
急な勾配の階段を下りると扉が目に止まった。それを開いて閉じる。その扉には張り紙で「関係者以外立ち入り禁止」の文字が書いてある。どこか子供っぽい字でサリーナが書いたのではと変な勘ぐりをしてしまいそうな字だった。
そして、扉を越えて気付いた事があった。奥の方から人の話し声、笑い声が聞こえてくる。
喧騒に取り残されたようにクエイドのいる空間だけが、淋しかった。
その声に誘われるようにクエイドは再び歩き始めた。近づくたびに声が徐々に大きくなっていく。そして、最後の扉を開くとその声は最高潮に大きくなる。
クエイドは何となくその場違いな空間に取り残されたように見渡していた。
活気に溢れている食堂兼宿屋……そんな感じだろうか。今時誰も使わないようなランプの明かりの中で人々が酒を酌み交わし、笑い声を響かせている。木造の建物にランプの薄明かりは非常に幻想的な雰囲気をかもし出していて、そこだけ現実世界に取り残されているような感覚にクエイドは襲われていた。客の数はさほど多くはないが、皆の顔に張り付いている笑顔は全て真実のような気がした。表情を作っていないのはクエイドだけの様な気がした。
そんな喧騒の中でサリーナの声が聞こえた。
その声がした方向に向くとサリーナがウエイトレスの制服のような物を着て、客の注文を取っている姿が見えた。忙しそうだったけど、楽しそうに仕事に励んでいる様がクエイドにも分かった。
(何だ……意外にしっかり働いているんだな。)
その様子にクエイドは安心と同時にどこか淋しいような気持ちになった。どうして自分が淋しいと感じたのかは分からなかったけど、何処かサリーナが他人に見えてしょうがなかった。
(……そうだな。俺とサリーナはまだ『他人』だよな。俺にとっては……サリーナは大切な人だけど……今のサリーナにとって俺は……他人かもしくは知り合い程度でしかないんだよな。)
その事実を確認して、クエイドはため息をついた。それは仕方ない事だろ、と自分を必死で納得させていた。それが妙に情けなくも感じた。
そして、ふと振り向いたサリーナと視線が合った。サリーナは一瞬驚いた様な表情をしてから、笑顔をクエイドに向けてきた。クエイドはそれに片手を上げて答えた。
サリーナは小走りでクエイドに近づいてくると額の汗を拭いた。
「もう起きても大丈夫なの?まだゆっくりしてればいいのに。」
「ああ。お陰さまで。ゆっくり休めたよ。……結構忙しそうなんだな。」
クエイドはぐるりと回りを見渡してから、そう呟いた。
「うん。働いているの、三人くらいだから。店長は料理を作っているからオーダーを取るのは私ともう一人だけだし。でも今は忙しい時間帯だから。もう少しすれば結構空き時間も多くなるんだよ。」
サリーナは楽しそうに笑顔でそう語っていた。クエイドはその言葉で店長を探そうとしたが、厨房の奥にいるのか姿を確認する事は出来なかった。サリーナと一緒に働いているというもう一人の人はすぐに見つける事が出来た。少し細めで黒髪を立てている青年。少し気の強そうな感じ受ける青年だった。サリーナと同じように制服を着ているからすぐに分かった。その青年がこちらに気付くと声を張り上げた。
「サリーナ!!オーダー、頼む!!」
「あ、はい!今、行きます。」
サリーナはそう言うとクエイドの表情を覗き込んできた。それにクエイドは肩をすくめて答えた。
「ごめんね。また、あとでゆっくり話そうね。色々聞きたい事あるし。」
サリーナはそう言うと小走りに駆けていった。彼女の背中越しに見えたあの一緒に働いている青年が自分を睨んだように見えたが、クエイドは意に介さなかった。
それよりも今はサリーナの言った事が気になった。
(色々聞きたい事がある……か)
それはクエイドとしても同じだった。彼女がどういった状況にいるのかもう少し正確に知る必要があった。それに……ここの店長にも会わなくてはならない。
(恐らくは……あの化け物の知り合いだろうからな……)
クエイドは思わず瞳を細めた。そして、両手を組んだ。震えそうな自分を必死で制する必要があったからだ。
今思い出しても震え出しそうだった。恐ろしい力を持つ老人……カイラス。
それと対峙して生きていられたのは奇跡に等しい事だった。その老人がサリーナを連れ去り、ここに預けていったとすればここの店長とやらも只者ではないだろう。
「……とにかく、やらなければならない事が沢山あるな。」
クエイドはそう呟くとその場所から去った。扉を閉めるとまた喧騒が遠のいた。まるでサリーナとは生きる世界が違うと言われているようにクエイドは静かな薄暗い廊下へと続く道を歩いた。
リーザは軍服に身を包み、白い廊下で靴音を響かせて歩いていた。脇に抱えられた封筒には腕の隙間から丸秘の赤い文字が微かに見て取れた。
リーザの視線は廊下の先を見ているようで実は夢想の世界を見詰め続けていた。
(……何が起こっているというの?)
そう胸中で呟いてみるが答えは暗闇の底から浮かんでくることはなかった。
しばらく前、陸軍情報部を統括する陸軍中将リチャードはリーザが部屋に入った時、大きな両開きの窓の前で手を後ろに組み、後ろを向いて立っていた。その直立不動の姿勢に何か、胸騒ぎを覚えながらもリーザは敬礼をして強い語気ではっきりと言葉を発した。
「リーザ・ウェルフォード大尉、召還命令によってただいま戻りました。」
その言葉を聞いて、リチャードはゆっくりと振り返った。背後の開き窓から漏れる木漏れ日を背に受け、影に包まれたその横顔に胸騒ぎはさらに強まった。
「……リーザ大尉、楽にしたまえ。」
「はい。」
その言葉を受けて、リーザは敬礼を解いて、軍隊式の楽な姿勢を取った。しかし、それは普通の人の目か見れば酷く違和感のある姿勢だった。まるで背骨に一本太い柱が入っているようにピンと背筋を伸ばしたその様は何か寒さを覚えるものだった。
「……レイキャンベルの極秘任務、ご苦労だった。報告は受けている。」
「……はい。」
リチャード中将が何を言いたいのかを推し量りながら、リーザは注意深く同意を表す言葉を発した。その言葉に納得したのか、リチャードは言葉を続ける。
「特務遂行群によるニルヴァーナ機関部隊掃討。以降のレ軍部隊の活動報告。IIA、CIT、国家公安調査庁を含む各国の諜報機関の動向。それらの報告は他のチームとも合致する内容だ。しかし、他のチームでは不明となっていたニルヴァーナ機関部隊によるローグィン市での偽装テロに関してその活動理由を君は推測という形ながら報告して来た。君からその真意を直接聞きたく思ってな。」
リチャード中将の言葉を静かに胸で受け止めて、リーザは口を開いた。この重い雰囲気に少なからず抵抗を覚えたが、長い軍務でそれには慣れ始めていた。
「ニルヴァーナ機関部隊の行動経路は明らかに奇妙な点が多数見受けられます。まず、ローグィン市南部で発生した爆発を皮切りに部隊は以後、北部、西部、東部、そして南部とまるで何かを追っているように規則性を持たずに移動、または部隊の展開を行っています。これが後の特務遂行群の任務達成を容易にしたと判断します。ローグィン市そのものに破壊活動を行わなければならない何かが存在していたのだとすれば、ここまで部隊を散開させるような事をしないと思われます。しかも、ニルヴァーナ機関部隊は以後10時間にも渡りローグィン市に駐留していました。この行動にも疑念が残ります。」
リーザの長い説明を聞いて、リチャードはあごに手を当てた。
「……素晴らしい状況分析だ。情報集約室でも君と同様の見解を出している。ニルヴァーナ機関が『プロジェクト・ノア』のために活動しているのは確かだ。そのためにローグィン市で破壊活動を行ったと見て間違いない。レイキャンベルに駐留する帝国軍の後のローグィン市での事後確認作業でもニルヴァーナ機関が標的とする対象物の発見は出来なかった。……つまり……」
そこでリチャードは口を噤んだ。今まで語った言葉がゆっくりとリーザに染み込んでいくのを待っているように。
そして、時を置いて静かにリチャードは語った。
「……ローグィン市に『プロジェクト・ノア』に関する重要な『何か』が存在し、それが消えた……と言う事だ。」
その言葉にリーザの肌が総毛立った。
「……一体……ソレは……?」
リーザの震える言葉にリチャードは頭を振った。そして、ゆっくりと話した。
「……プロジェクト・ノアに重大な要因を持つとされていた最重要関係者・マルタイS(サリーナの事)についてはその死亡が確認されている。他のルビア村生存者がいたという報告は今までに一例も挙がってきてはいない。……そこでだ……」
リチャードはゆっくりとリーザの瞳を見詰めた。そして、淡々と語った。
「リーザ・ウェルフォード大尉、及びサユリ・キサラギ少尉に特別任務を与える。このプロジェクト・ノアに重大な要因を持つ対象……『ギルティ・ノア』が何なのかを確認せよ。」
「……了解。」
静かにリーザは敬礼して答えた。その答えに迷いは少しも感じられなかった。それに満足してリチャードは言葉を続けた。
「現在、ニルヴァーナ機関部隊は行動を極秘にしながら、レイキャンベルから南下し、現在はルドラン連邦に侵入している事を掴んでいる。最終報告では場所はカイデリカ市だ。『カード』を始め、多数のエージェントをすでに派遣している。彼らと接触し、情報収集に努めてもらいたい。」
そして、一呼吸置き、瞳にさらに力強い光を込めて言い放つ。
「……尚、任務は確認・報告までだ。それ以後の行動は絶対禁止行動とする。この命令は他の命令のどれよりも優先とする。以後は陸軍情報部を通じて、帝国軍が受け持つ。」
「……特務遂行群ですか?」
リーザのその言葉にリチャードはふっと笑みを漏らして呟いた。その笑みの奥底に見える人の狂気を垣間見てしまった気がしてリーザは後悔した。
「……さぁな。だが、例え『ギルティ・ノア』が何であれ、それを破壊するためなら、気化燃料爆弾だろうが、『ゴリアテ』だろうが、『ジハード』だろうが軍上層部は投入するだろう。」
その言葉を最後に、リーザは敬礼をしてその場を足早に去った。酷く後味が悪かった。自分が気分の悪い汗を掻いている事にも気付かないぐらいに。
「……普通じゃないわ。」
未だ震える唇が彼女の動揺を如実に語っていた。
気化燃料爆弾……現在の人類が所有する最強最大の破壊力を有する兵器。単発で周囲1kmを根こそぎ破壊するその威力は想像を絶する。衝撃波は空間を伝い、一瞬にして真空状態を作り出す。その中に入れば、例え外傷がなくとも生命体は内部から細胞を破壊され、死に至る。まさに最強の破壊兵器である。
超弩級飛行戦艦型飛空艇『ゴリアテ』……帝国最大にして最強の火力を備える帝国空軍の象徴ともいうべき旗艦である。現在の世界状況では帝国軍の誇るエイジス駆逐巡洋戦艦型飛空艇が最強とされているが、ゴリアテの誇る12門の48cm砲の威力は想像絶する対地攻撃能力を保有している。また、その火器は多岐に渡り、スタンダード対空ミサイルを始め、対空、対地攻撃能力に関しては過剰なほどの火力を有している。その総火力は小さな島なら単艦で丸裸にする事すら可能だろう。それ所か……地形さえも変貌させてしまう。
そして……ARMS?N&BD01『ジハード』に関してはもう説明は不要だろう。
それら『最強』を冠する兵器を投入してでも『ギルティ・ノア』を抹殺する覚悟が帝国軍部にはあるという事だ。もしそれが都市部で発見されれば……想像を絶する被害が広がる。
その事に同じ軍属に所属するリーザとしては震えずにはいられなかった。
世界が狂気に飲み込まれようとしている。一国の思惑に世界が狂気に沈んでいく……
その事を自覚しようと平静を装うが、心の中は決して装う事は出来なかった。
しかし、狂気の引き金を引いてしまうのは……リーザ達だった。
それによって、カイデリカ市はローグィン市の二の舞となる。
今は……静かな時を過ごしているクエイドとサリーナにはそれは分からない。
全ての悲劇の始まりは……『ギルティ・ノア』をクエイドではなく、サリーナと誤認してしまう事から始まってしまう。
そして、その悲劇まで二人の生活は静かに、しかし着実に進んでいく事になる。
(Continue)
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