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第6章「君がいた想い出と 君が忘れた僕(3)」
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静かな空間。沢山の書物と窓から零れる陽光が部屋を所々白くさせている。古びた木製の本棚、そして机。机の上には羽ペンと詰まれた本の数々。
この知的な空間で本を楽しむのが良かった。
本とは実に優れている。あらゆる事象をその中に収め、そして読む者の頭の中でその情報を支配する事が出来る。これほど便利なものはない。
その至福の時を破る様に、同じ木の扉がコン、コンと音をたてる。その事に軽い嫌悪感を覚えなかった訳ではない。だが、これから始まる本当の嫌悪に比べれば些細な事だ。
「……どうぞ。」
年齢を帯びた、若々しくはないその声が響いて、同じく歳月を帯びた木の悲鳴が静かなその空間に響き渡った。現われた青年は私に一礼してから部屋に入ってきた。
私は顎を撫で彼を見た。
だが、その瞳には思っていたような光りはなかった。
(……ふむ。サンクスが言っていた様な全てを拒絶するような鋭い光はないな。……それよりも、彼の瞳は葛藤を含んでいる。)
そう内心で分析してから、私は席を立ち彼に椅子を勧めた。
(……さぁ、君がどういう人間か、見極めさせてもらおう。)
そんな内心を少しも見せず、温和な表情さえ見せて私は腰を下ろした。
 

クエイドは勧められるままに椅子に腰かけた。少し緊張している。そう感じて、息を一つ吐いた。そして、不自然のないように少しだけ周りを見渡して呟いた。
「すごい本の数ですね。」
その言葉に初老の男性はにっこり笑みを浮かべて周りを見渡した。
「はは……本を読むのが好きでね。暇さえあればこうして本を読んでいるんだよ。今じゃ、本棚に収まりきらなくなってな。汚い部屋で悪いね。」
「いえ……」
クエイドは首を振った。確かに床の上にさえ、所狭しと本が積まれている。確かに綺麗な部屋とは言えないかもしれないが、長い歳月を掛けて積もった知識の重さ……その雰囲気の様なものがクエイドにも分かった。
「ああ、そう言えばまだ自己紹介もしていなかったね。私はサンクス。ここで宿屋兼食堂を経営しているんだ。一応、みんなには店長なんて呼ばれているがサンクスで結構だよ。」
いつも笑みを絶やさない人だ。
クエイドはそう思い、自分も自己紹介をした。
「俺……いや、僕はクエイド・ラグナイトです。A級ギルド派遣員です、一応……」
「一応?」
「……ええ。正直、まだ僕がギルド派遣員でいられているかどうか……分からないもので。」
その言葉だけ聞いて、サンクスは顎を一つなでて頷いた。
「色々と事情があるんだろうね。まぁ、その事について詳しく詮索するつもりはないよ。……しかし、これから話す事はそれと少しは関係があるかもしれないが。」
「……え?」
クエイドは思わず声を上げた。一瞬、サンクスの瞳に今までに見せなかった鋭い光が見えたような気がした。だが、それはすぐに穏やかな表情に沈み、姿を見せようとしなかった。
「話と言うのはサリーナ……彼女についてだ。」
サンクスの言葉にクエイドは息を呑んだ。その様子を知ってか知らずかサンクスは話を続けた。
「彼女には記憶がない。そして、今は私の元にいる。君は何故、私の元に彼女がいるのかが知りたい。そして……私とカイラスの関係を知りたい。違うかね。」
変わらない笑顔。だが、今はそれが底の見えない闇に見えてしょうがない。
クエイドは言葉もなく、ただ黙っていた。
「その理由を話す前に幾つか私の質問に答えてくれ。君はカイラスに……いや、正確にはガーランドにか。彼らに言われたはずだ。君の力では彼女は……サリーナは守れないと。だが、君は現われた。何故だ?」
クエイドはサンクスに見えない位置で拳をきつく握った。その握られた拳が知っている。カイラスの言動を。ガーランドの言葉を。非力だった自分自身を。震えるその拳が開かれた。そして、クエイドはサンクスの瞳を見て、口を開いた。
「……俺が彼女の前に現われたのは……偶然です。カイラス、そしてガーランドに言われた言葉は忘れてはいません。俺が彼女の側にいれば、彼女に危険が及ぶのも分かっています。そして、その危険から俺が彼女を守れるかどうかも分からない事も。」
「……だったら、すぐにこの場を離れるか?彼女に何も言わずに?」
クエイドは口を噤んだ。
今まで自分自身の中で葛藤していた事を、人の口から問われるとは正直思っていなかった。彼が期待しているだろう言葉は分かっているつもりだった。そして、それが双方にとって最善だという事も。だけど、だけど……
「……正直迷っています。今、俺は……巨大な敵に狙われています。状況はサリーナと一緒にいた頃よりも悪化しています。でも……俺は……彼女の側を離れたくないんです。」
クエイドは正直に現状を述べた。嘘を付けばよかったのかもしれない。でも、それでは状況は変わらない事も分かっていた。誰よりも現状の厳しさを知っているのがクエイド自身だったからだ。
クエイドの言葉にサンクスは沈黙を守っていた。クエイドを真摯な眼差しで見定めようとしているようだった。
両者が沈黙した。穏やかな日差しがクエイドに降り注ぐ。影になっているのはサンクスだった。日を背負い、表情に影を濃くしたこの男性の口がゆっくりと動いた。
「……君は迷っていると言ったね。何故、迷う必要があるのかな?」
サンクスの言葉にクエイドは苛立ちを覚え、言葉を返そうとした時、サンクスは尚、言葉を続けた。
「君は状況を理解している。そして、自分はサリーナの側にいるべきではないという事も分かっている。なのに、何故彼女の側にいたいと思う?……彼女を愛しているからか?」
クエイドは少し間を取ってから、彼の瞳を見詰め、言った。
「そう……だと思います。『愛』がどういうものか正直、理解していませんが……サリーナの事を大切に思っています。」
その言葉を聞いて、サンクスは俯くと体を震わし始めた。最初、クエイドはこの男に何が起こっているのかまるで分からなかった。だが、しばらくして理解出来た。

この男は笑っている。酷く、歪な笑みを浮かべて嘲っている。

声をかみ殺し、酷く可笑しそうに嘲っている。その事にクエイドは心の底から怒りを感じ、立ち上がろうとした時、切り裂かれた様な歪な笑みを顔に貼り付け、クエイドに言い放った。
「それは『愛』じゃない。『欲望』だよ。異性に対する関心、『肉欲』に過ぎない。」
その言葉にクエイドは怒りを失った。浮き掛けていた腰が深く椅子に落ちた。
「……欲……望……?」
「そうだ。自分本位の欲望に過ぎない。君は彼女を大切にしていると言ったね?だったら、何故、彼女に危険を及ぼそうとする?……答えは簡単だ。君は彼女を愛しているのではない。ただ、彼女を手に入れたいだけ。それだけだ。」
サンクスの言葉にクエイドは言葉を失っていた。言葉だけじゃない。
失っていたのは今まで彼女に当然の様に抱いていた感情……その全てが否定された気がした。今まで宝石の様に思っていたものが急におぞましくに感じられた。
吐き気がした。自分自身への嫌悪で胸がムカムカしてきた。
「……君の望みがそうならば、君のやり方で彼女を取り返せばいい。」
サンクスはそういうと引き出しからある物を取り出し、それを机の上に置き、彼の前に差し出した。
クエイドはそれを疲れきった瞳で見詰めた。
俺の……短剣。
胸中でそう呟いた。その呟きさえ心の中で空しく響き渡る。
「彼女が君を保護した時、持っていた君の短剣だ。私が預かっていたんだよ。その短剣を使って、彼女を手にいれるか?私を殺して……」

クエイドはゆっくりとその短剣を握った。

「……彼女をその短剣で脅して……」

そして、立ち上がる。

「……力でねじ伏せ……」

鞘から抜き放たれた刃が陽光を反射させ、銀光を放つ。

「……彼女を犯すか?」

……滑るような音。そして、金属音。

勢いよく鞘に滑り込まれた刃は金属音の残響を部屋の隅々まで染み渡らせた。
クエイドはその短剣を持つとゆっくりと扉に向かって歩き出した。そして、扉の前に立つと振り返ることなく静かに呟いた。
「……欲望……か。そうかも知れないな。俺は今、彼女に必要となんてされていない。俺が一方的に彼女を必要としているんだからな。」
そう呟いてクエイドは退室しようとノブに手を伸ばした。
「待ちたまえ。まだ、サリーナが何故私の所にいたのか言っていなかったな。」
サンクスの言葉にクエイドは微笑を浮かべた。そして、振り返らずに呟いた。
「……もうその必要はないよ。」
そして、クエイドは扉を開いた。その扉がゆっくりと閉まっていく様子を見ながら、サンクスの瞼が徐々に落ちて行く。そして、扉の閉まった音がサンクスの耳に届いた時、彼の瞳は閉じていた。
サンクスは息を一つ吐くと腹の上で手を組んだ。
そして、瞳を開けた時目の前に厳しい老人の表情があった。皺に隠れる事のない強すぎる意思と力を秘めた瞳。その瞳を見据えてサンクスは呟いた。
「カイラス……」
「何故、クエイドがここにいる?」
カイラスの言葉にサンクスは小さく笑みを零す。
「さぁな。運命という奴かも知れんな。ここに近づく前にクエイドを始末しておけば良かったんじゃないか?」
「今のわしにレイラインは使えん。」
その言葉と一緒にサンクスは息を吐き出した。天を仰いでみるが、蒼天は望めない。見えるのは薄汚れた天井がせいぜいだった。
「……ならば、知らぬかもしれんな。五日程前から各国の諜報機関が活発にここで活動しておる。……サリーナの生存が奴らに分かるのも時間の問題だな。」
「……そうか。」
カイラスは何の感慨も沸かずに呟いた。そして、置かれている本を手に取ると表紙の文字を皺のある指でなぞった。
「……あの娘を殺すぞ。」
カイラスの言葉が消え、静寂だけが部屋を支配した。カイラスの瞳には何の感情もない。彼の瞳には感情もないばかりか何も見ていない。そうサンクスには思えた。サンクスは音もなく立ち上がり、カイラスに背を向ける形で窓の外の世界に視線を向けた。
「だったら、急いだ方がいいな。あの娘、クエイドを連れて街に行くつもりのようだ。クエイドがどうするかは分からないがな。レイラインはネットワークとしては非常に優れているが、何を考えているかは分からないし、許容量にも限界がある、また一つに集中し過ぎると他が疎かになる。それが欠点だな。陰謀には向かないが、使わざるを得ない。」
その言葉にカイラスは冷笑を浮かべた。
「冷徹だな。少しは一緒に暮らしたんだ。情はないのか?ホワイトドラゴン・『白竜』よ。」
「どっちもどっちだろう?大局の前だ。人一人の命などどれほどの価値もない。例え彼女が方舟の正当な『後継者』だろうが関係ない。何故、今までお前がその決断を下さなかったのか不思議でならないよ、私は。」
笑みすら浮かべる事無く、サンクス――いや、白竜は外を見ながら呟いた。
「……互いに牽制させるためには必要なファクターではあったからじゃ。だが、今はそのファクターが全面戦争への引き金になりかねん。ローグィン市の騒乱の比ではない。あの娘の生存が知れれば人類側最強の部隊が出てくる。」
カイラスはもう一つの真意は隠した。ドラゴン種の王とは言っても心までは読めない。その事に軽い安堵を覚える。
「特務遂行群か。さほど重要視すべき対象ではないと思うが?」
それはそうだろう。
カイラスはそう心の中でごちた。
最強を冠するドラゴンの王である彼にとって、人類側の『最強』など彼にとっては毛ほどの力も持ってない。だが、カイラスにとっては違う。
確かに人類で彼と並ぶ程の魔力とその制御力を有する者などそうはいないだろう。
だが、どこまで強くても彼は人間以上にはなれない。
血も流せば、骨も折れる。肺が潰れれば呼吸も出来ないし、心臓が止まれば死ぬ事になる。そんな彼にとって、人類側最強は間違いなく最強なのだ。
「気に喰わないんじゃよ。」
白竜はゆっくりと振り向いた。その全く表情のない顔がドラゴン種を強く意識させる。
「気に喰わない?」
「誰かの……いや、ガーランドのシナリオに沿って事象が変移していく事がな。お前達五竜がそれを自覚しているかどうか分からんがな。」
白竜は小さく笑みを浮かべる。そして、一瞬で真顔に戻る。
「魔王のシナリオか……それ自体星の意思とは思わんか?星の意思が人類を抹殺する。お前の守りたい人類は絶望的だな?」
カイラスはその言葉を聞きながら、静かに嘆息した。
絶望……そうだな、絶望だ。だが――
「人に『神』はいない。そして、自律もしない。だが、絶望もしない。」
「本当の『絶望』を忘れているだけだ。」
白竜は気にも留めずそう反論してきた。だが、カイラスはそう確信していた。
 
 

「絶望はしない……か。」
ガーランドは公園のベンチの背もたれに深く体を預け、思わず含み笑いを零した。
確かにそうだろう。
人は愚鈍だ。過ちを過ちと思わず、例え気付いたとしてもまた繰り返す。人の歴史が似たような事件で埋め尽くされているのが最もな例だ。ただ、起こした者と場所と時間、そして規模が違うだけ。だからこそ、絶望しないのだ。ほのかな希望を見出す術には長けている。そして、繰り返し続ける。
「そうは思わないか?」
昼間の公園のベンチで独り言を繰り返す彼を誰かが見ていれば気味悪がったかもしれないが、そんな時間に公園にいる者などそうはいない。誰からも何も言われずにガーランドは呟き続けた。
「興味ないか。まぁ、そうだな。分かっている、だが貴方達の望みを叶えるには必要不可欠だろ?特務遂行群には動いてもらう。もちろん、ニルヴァーナ機関にはあの娘を確保してもらう。それで舞台は整う。あとは方舟で迎え撃つだけだ。」
黒のコートに黒のスーツ。おまけに黒いサングラスに黒い髪。まるで全身で黒を主張しているような男だった。だが、彼の丹精な顔はそれらの中で一際印象深かった。
「トリニティ平和維持軍が消える事に関しては利害関係が一致している。各国に知られる事なく、消すにはそれ以外にないだろう?自分達が器用には振舞えない事をもっと自覚すべきだな。そのために俺は人の形態を取っているんだ。その星の意思を理解してもらいたいな。」
ネクタイを正し、瞳を空に向ける。流れていく薄い雲を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「自分の役割は十分に理解しているつもりだ。そのための力であり、そのための姿だ。貴方達の役割を変えろとは言ってない。ただ力を貸して欲しいだけだ。NOVA抹殺を完全にするには人の力を殺ぐ必要がある。核兵器?さぁな。保有している可能性は完全には否定出来ない。レイラインはそれ程完璧ではない。特に『今』はな。『神の槍』なら問題ない。腐海を発動させる事態は絶対に起こらない。」
心配症に少しうんざりしかけた所で子供がこちらを見ながら小首を傾げているのに気付いた。その子供に少しだけ微笑みを向ける。そのままの笑顔で相槌をうつ。
「忘れてはいないさ。俺の立場は貴方達よりも上位なんだ。俺もこの星を失いたくはない。」
子供が自分から視線を逸らしたの見て、ガーランドは苦笑を滲ませる。その『言葉』が以外にも魔王に相応しくないものだったからかもしれない。謀略を巡らせ、星の心配をする魔王というのは格好が付かないと自分でも思っていたからかもしれない。
今度の沈黙は長かった。暇を持て余しさっき子供がいた所を見ると母親だろう中年の女性に手を引かれて公園から去っていく所だった。
「ああ。」
ガーランドは頷く。
「それで構わない。もちろん俺も方舟へは行く。奴らに方舟を渡すつもりはないからな。方舟も結局は三国の力を殺ぐための布石でしかない。」
風がガーランドの頬を優しく撫でた。巨大なビル群が蜃気楼の様に遠くに見える。排気ガスや二酸化炭素が多い、そんな風が吹き抜けるたびに落胆が大きくなる。
「……NOVAの抹殺。悲願だな。分かっている。そして、必要なら人類の抹殺も行おう。星がそれを望むのなら断罪は下される。俺は星の代弁者だからな。」
天を仰ぐと青い血が流れている。そう思わずにはいられない色素の薄い青が流れている。もうすぐ嵐が来る。
全てを根幹から覆す嵐が。そうなればあの蜃気楼のようなビル群も。不純物の混ざりすぎた風も全て一掃される。
そして、俺も消えるだろう。多くの生命を引き連れて。それが俺の『役割』だから。
 
 

クエイドは空を見ていた。
簡単な魔法でサリーナの家の屋根に登って寝そべっていた。
流れる雲を見ながら、クエイドは小さくため息をついた。
これで良かったじゃないか。
結果的にサリーナから離れる口実は出来たんだ。
そう自分に言い聞かせようとしてもそれを考える事自体が正直――辛い。
「……俺がサリーナの側から離れれば、サリーナが見つかる危険性はほとんどない。俺がサリーナと一緒に行動すれば俺に巻き込むだけじゃなく、サリーナ本人が狙われる。」
小さな声で呟く。事実を事実として。だが、真実はその言葉には一遍たりとも出てはこない。
――気付けば頬が引きつっていた。嘲っているのだろうと、冷え切っていた心が認識する。
現実は残酷だと嘲っているのだろう。
どうあっても俺はサリーナの側にはいれないらしい。
「しょうがないよな。」
呟いて出た声は俺自身への慰めだったのかもしれない。そして、起き上がろうとした時、忘れられない声が不意に飛び込んできた。

「それでいいんじゃな?」

声も出なかった。
喉が引きつったように痛んだ。衝撃のように頭の中でその声が反響していた。
それが我慢出来ずにクエイドは飛び跳ねるように立ち上がり、その声のした方向に身構えた。
そこには老人が立っていた。
かなり昔のパラメキア諸国の王室に使える宮廷魔導士のような黒いローブを着込んだ老人。その瞳は忘れられない。老獪すら超越したその瞳。その瞳の鋭利な光に晒される事がどれほどの惨劇を呼ぶか、クエイドは身にしみて理解していた。
獣魔術士――
人であって、人為らざる存在。
「……カイラス……」
発した声が恐怖で歪んだ呻き声の様だった事にクエイドはいまさらながら、小さく叱責した。内に宿る戦闘技能が自然と右手を腰の短剣へと導く。
「……何故、あんたがここに……なんて聞くのは愚問か?」
自分が冷や汗を掻いている事を自覚しながら、クエイドは右足を僅かに引いた。
その様子を見ていたカイラスの瞳が細くなっていくのを見逃さなかった。
「愚問じゃな。あの娘をここに連れてきた本人じゃからな。」
その言葉をクエイドは鼻で笑った。極度の緊張からくる頭痛を感じながら、尚もさらにカイラスの動きに全神経を集中させた。
カイラスの動きは人間のそれを超越している。初手が勝敗――明確な生と死を決める。
そんなクエイドの様子をカイラスは鼻で笑い飛ばし、大げさに肩をすくめて見せる。
「無駄な足掻きに過ぎんの。」
「何?!」
叫んだ瞬間、カイラスの体が膨張した。
違う。膨張した様に見えただけだ。本当は――
激しい胸部への衝撃。そして、暗転する視界。体がきりもみ状態で落ちて行くように上下左右全ての方向感覚が一瞬でなくなった。体中のあちこちが痺れるように痛む。
「ぐっ……!」
うめいてクエイドは自分の目の前にある壁を押した。
――それも違った。壁と思っていたのは屋根だった。クエイドはうつ伏せに倒れていた。

反応すら……出来ないのか……
クエイドは激しい痛みに顔をしかめながら、胸中でそう呟いていた。
ふらふらと立ち上がり、口元を拭う。手の甲には赤い血の軌跡――転倒の際、歯で口を切ってしまったようだった。口の中に広がる鉄錆の味に苛立ちを覚え、赤い唾を吐き捨てる。
「御主は感情によって戦闘能力が格段と変化するんじゃな。今の状態ではわしにかすり傷を付けることすら出来んぞ?」
そう呆れているように辛辣な言葉を放つカイラスは先ほどと大して変わらない無用心な構えをしている。
(……化け物かよ)
分かっていた事を吐きながら、クエイドは再び構えを作る。
今度も同じ打撃を喰らえば、まず間違いなくあばら骨が折れる。呼吸の度に鈍く痛む胸に顔をしかめる。
あの瞬間――カイラスは凄まじい速さでクエイドに接近し、胸に掌撃を加えた。直感で後方に跳び、威力を幾分か殺していたからこの程度で済んでいた。下手をしていれば、肺が潰れていた。
「あの娘の記憶な……すでに戻りつつある。」
突然、世間話でもするようにカイラスは話を始めた。それがあまりに突然だったためにクエイドは誰の事について話しているのか理解出来なかった。
「あの娘への記憶操作は御主との再会をキーに徐々に戻るように細工をしてあったんじゃよ。あの娘もそれを何らかの形で自覚しているじゃろう。」
クエイドの表情が見る見る変わっていくのを確認してから、カイラスは今までで最も冷酷な笑みを浮かべた。
「記憶が戻ったあの娘はわしが首都高速でやった事をもちろん覚えておるじゃろう。そんな奴の下にあの娘がいると思うか?そして……そんな娘をわしが生かしておくと思うか?」

弾け飛んだ。
理性とか、冷静とか、そんな類の物が全て遥か彼方に飛んでいった。

クエイドは思い切り、地面――屋根を蹴った。案外丈夫に出来ていたのが幸いだった。先ほどの再現の様な凄まじい勢いでクエイドはカイラスに迫った。
カイラスはカウンターを狙い、拳を瞬速で放った。だが、その拳はクエイドの真芯を捕らえる事は出来ず、クエイドの頬を掠めただけだった。
カイラスの瞳はクエイドを捉えていた。拳が当たる、刹那の時、まるでクエイドが逆立ちになったかのように顔が逆さまになり、腹ぐらいの位置にまで下がってくるのを。その瞳を確かに捉えていた。
そして、次の瞬間、側頭部に凄まじい衝撃を受けていた。
そのまま崩れ落ちるカイラスを強かに見ながら、クエイドは右足をゆっくりと下ろした。

クエイドはカイラスの拳を避けるのと同時に、足をほとんど180度開き、ほぼ真上から蹴りをカイラスの側頭部から、首にかけて打ち下ろしたのだ。

クエイドは倒れているカイラスを見下ろしながら、冷徹に呟いた。
「……立てよ。大して効いてないんだろ?」
その言葉にカイラスの唇がうっすらと開き、笑みを形作った。見開かれた瞳が一瞬天空を彷徨ってから、クエイドの視線を捉えた。その瞳には狂気じみた喜びがあったように思えた。
「それでなくてはな……利用価値がないと言うものじゃ。」
「……さっきの話が本当だとして、俺に何を求めている?俺に何かをやらせる代わりにサリーナを自分の手元に置いた。そうだろう?」
淡々と呟く自分を正直怖いと思いながら、カイラスから視線を外そうとはしなかった。カイラスは短くうめくようにして肯定した。
「だが、自分に『役割』があると思うのは傲慢じゃ。御主はまだ何の役割も与えられておらん。じゃが、御主は間違いなくこのゲームの盤の上にいるのじゃよ。」
「ゲーム?」
「……暗闇のチェスゲームと言った所か。ルールも分からん。キングも何処にいるか分からん。自分がボーン(兵士)なのか、ナイト(騎士)なのか、誰が味方で、誰が敵かも。そして、盤の上から消える時のルールだけは明確ときている。」
「イカサマのゲームの賭け金としては破格だな。」
冷え切っていた心に温度が戻ってくるのを感じながら、クエイドは吐き捨てるように呟いた。
「そう。イカサマじゃよ。神の仕組んだイカサマのゲーム。計画とも言えん。ただし、賭けられているのは星の命とNOVAの命……そして、ついでに人類の存亡じゃ。」
カイラスはそう呟くとゆっくりと体を起こした。カイラスの視線から外れた事に軽い安堵を覚えながら、クエイドはカイラスの次の言葉を待った。
「……御主にはこのゲームでのわしの駒になってもらうぞ。」
クエイドは頭を掻いてから、冷笑をカイラスに向けて呟く。
「その報酬が……サリーナか?」
「悪い報酬ではあるまい?特に御主にとってはな。何なら、あの娘を洗脳し、御主の虜にしてやっても構わんぞ?」
クエイドは瞳を細めた。笑みを浮かべてやろうとしたが、とても出来そうにはない。
「ゲームだか何だか、知らないけどな……」
言葉が震えていた。そんなどうでもいい事を自覚している余裕はあるが、本質的な所ではもう自制も冷静もない。
クエイドはゆっくりと手を伸ばし、カイラスのローブの襟を無造作に掴み、そのまま力一杯持ち上げた。意外に軽い事を感じた様な気もしたがそんな事どうでもいい。
今の自分に出来る自制はこの目の前の老人を殺さないくらいだ。
「サリーナを『物』みたいに扱うな!!!」
鼻先が触れる位までカイラスの顔に迫り、そして力一杯、怒りのままに叫んだ。カイラスは何も言わず、ただクエイドの瞳を見詰め続けていた。襟を放し、クエイドは静かに宣言した。
「あんたの駒になってやる。だが、俺はいつかあんたを裏切るぞ。」
「フッ。主君に対して随分な言いようだな。御主への報酬を永遠にバラバラしてやってもいいのだぞ?」
「出来やしないさ。今のあんたにはな。俺を『駒』にするという事は俺に何らかの利用価値を見出しているからだ。俺にその利用価値がなくなるまで……あんたはサリーナには手を出さない。出せないんだよ。」
カイラスの冷笑にクエイドも同じような冷徹な笑みで返す。

危うすぎる主従関係。
クエイドとカイラス。二人の思惑を乗せた天秤が揺れる。どちらかに完全に傾く時、その主従関係の終わりを意味する。裏切りと報復。弱みを握られる者と利用せねばならぬ者。
その両者の視線が絡み合い、そして決して交わらない。

「それから、白――いや、サンクスにはあの娘を殺すと言ってある。あの娘を連れてこの場から去れ。」
「サンクスはあんたの僕……じゃないのか?前のドラゴンの様に。」
クエイドの言葉に突然、含み笑いを始めたかと思ったら、声を立てて笑い始めた。その意味が分からず困惑しているクエイドにカイラスは冷たく告げてきた。
「あいつは――そうだな。このゲームのキングに最も近い者の一人――そんな所だ。」
クエイドはその意味が分からず、顔をしかめる。その様子に小さく笑みを零してからカイラスはクエイドに背中を向けた。
「……そうだ。一つ言い忘れていた。」
「なんじゃ?」
カイラスは振り返りもせず、そう聞き返してくる。クエイドは気付かれないように小さく嘆息してから短く告げた。
「サリーナは物じゃないんだ。名前くらい覚えろ。」
カイラスは沈黙してから、答えの様な事を言ってきた。
「わしも一つ言い忘れていた。記憶を完全に蘇らせるキーワードはサリーナと別れる時に御主が言ったあのクサイ告白じゃよ。」
クエイドは完全に不意をうたれ、動揺を思い切り表すが、カイラスはそれを見る事無く、クエイドの視界から背中を完全に掻き消した。
瞬間移動――転移。
人が使う魔法では絶対に出来ない魔法の一つ。
クエイドは大きくため息を付いてから、空を見上げた。空は変わらず色素の薄い青と雲の白が混ざり合おうとしているように流れていく。
「……化け物の駒……か。」
頭を二、三度掻いてから、下に下りようと歩を進めた。
まだ、太陽も上がりきっていない。サリーナとの約束は守れそうだな。
そんな呑気な事を考えようとしていた。これ以上気が重くはなりたくはなかった。
サリーナにこの後に会える事がクエイドには信じられないくらいに幸せな事だと痛感させていた。
 

「……やはり偽りだったか。」
サンクス――白竜は本を読みながらそう呟いた。視線は活字を追っているものの考えている事は別の事、つまり先ほどのカイラスとクエイドのやり取りだった。
本を読むと言う行為は白竜にとっては自分自身の世界を構築するという意味以外何の意味もない。これらの本に書かれている事は全て自分の記憶の中に理路整然と並べられているからだ。この乱雑に並べられた書棚などよりも。
「あまりいい口実ではなかった。サリーナが牽制に必要なファクター……確かにそれは当たっているが、牽制とは攻勢への糸口を模索しているとも言えるのだよ。つまりはサリーナの存在がすでに騒乱を意味している。カイラス……お前はそれに気付いていながら、真意を隠すためにそんなつまらない事を言ったのだろう。」
白竜の饒舌は捲られるページと同じように滑らかだった。
「暗闇のチェスゲーム。神のイカサマゲーム。それらの表現は確かに現状を簡潔に述べているな。我ら五竜とて駒に過ぎん。キングも駒に過ぎん。お前がこのゲームに勝つためにはこのゲームのルールそのものを書き換える必要があるが……そのためにはこのゲームを行っている者――プレイヤーを明確にする必要がある。プレイヤーが魔王ならどうにかなるかも知れんが……」
初めて、白竜が本から瞳を外した。そして、苦笑を浮かべて優しい声音で呟く。
「プレイヤーがそれこそ『神』だった時はどうするんだ?」
そこで再び本に視線を移す。
カイラスの唯一の駒・クエイド・ラグナイト。A級ギルド派遣員。ドルテカ帝国出身。3年前に帝国陸軍兵士として現N計画に参加、そして負傷。2年前、アザゼル事件に多大な関与。レ軍侵攻に伴う一連の騒乱に関与。
……この程度か。いや、人類側としては確かにカイラスの言うゲームに参加する資格はあるのかもしれなかった。だが、所詮は『この程度』だ。
「この程度の男すら、使わざるを得ないとはな……カイラス、お前に同情するよ。」
口調こそは哀れみを現していたが、その瞳には確かに嘲るような歪んだ感情が見え隠れしていた。

「好きな様にやってみろ。それでもルールは変わらない。NOVAと人類の抹殺。これがこれまでとこれからのルールだ。そして、我々はこのルールを維持しよう。」
 
 

腕時計をちらりと見る。針は9時を回っている。
誰に咎められた訳でもないが、何となく腕時計を凝視出来なかった。自分がクエイドを待っていて、時間を気にしている事を認めたくなかったのかもしれない。
サリーナは嘆息した。
もう彼に言ったはずの待ち合わせの時間が過ぎている。まだ、10分程度のはずなのにもう何時間も待っているようだ。
空を見ればまだ高くはない太陽だけど、白い光が目に刺さって眩しい。まだ、朝も早いから人通りもそんなには多くない。でも、制服を着ている学生やスーツ姿の会社員が足早に自分の前を過ぎ去っていく。
(……もしかしたら、来てくれないのかな……)
何度も思った事がまた頭をもたげて来た。そのたびに頭を振って自分を励ましてきた。でもそろそろ限界も近い。そんな早い限界に嘆息が出る。
(……呼びに行った方がいいのかな。中にはいるだろうし。でも、それも何か未練がましいし……)
そしてまた一つ嘆息。
「……クエイド……」
自分の声ながら、少し情けないと思った。その事に苦笑を浮かべそうになった時、肩に何かが触れた。
その感触を肌で感じた瞬間に体が動いた。振り向くとそこにはクエイドが立っていた。
「その……遅れてごめん。」
クエイドはなかなかサリーナと視線を合わせようとしなかった。
「……怒ってる?」
クエイドは少し覗き見るようにサリーナの様子を伺った。その姿が少し滑稽でサリーナは思わず微笑を零した。そして、今までの不安とかがその微笑みに解けて消えた事を理解した。
「怒ってないよ?」
その言葉でクエイドはようやくサリーナの瞳を見る事が出来た。
「あの……なんて言うか……」
クエイドは少し間誤付きながらサリーナの様子を見ているようだった。サリーナはクエイドが何をいいたいのか分からずにキョトンとしている事しか出来なかった。
「……その服、似合ってる。」
「え?」
思ってもいなかった言葉だったから思わず声を上げてしまった。そして、俯く。体が震えてくる。我慢しようとしてもその度に衝動が強くなっていく。
「サリーナ?」
クエイドに声を掛けられてもう我慢出来なくなった。だから――思い切り笑った。
「アハハハハハ!!」
とにかく可笑しくて堪らなかった。今までの不安が嘘だったみたいに声を上げて笑っていた。そんな自分が可笑しくてまた笑っていた。クエイドの呆気に取られている表情が可笑しくて笑ってもいた。後は……そう、嬉しくて笑っていた。
「クエイド、それ、反則だよ。真面目な顔してそんな事言うんだから……」
可笑しくて言葉も上手く喋れなかった。
「そうかな……?」
クエイドは曖昧な表情を浮かべながら、頭を掻いていた。クエイドにして見れば何がそんなに可笑しいのかさっぱり分からないと言った感じだった。
笑いが一通り収まって、笑い過ぎで瞳から零れそうだった涙を拭く。
「ごめんね。突然笑い出しちゃって。でも、クエイドが変な事言うから。」
「変な事かな?正直に思った事だったんだけど。」
クエイドは当たり前といった感じでそう呟いた。
「どの辺が?」
サリーナの言葉にクエイドは外していた視線をサリーナに戻した。自分の事をじっと見ているクエイドに何か照れるけど、クエイドの答えが気になった。
「その茶色のジャケットとか黒のスカートとか。何か、大人っぽいから声かける時別人かと思ったんだ。」
有触れた褒め言葉かもしれなかった。でもサリーナはすごく嬉しかった。
幼い顔立ちや、身長が低い事、女性としての発育が不足している事もあってサリーナは子供っぽく見られる事が多かった。だから、常日頃から大人っぽく見られたいという願望を持っていた。だから、クエイドに大人っぽいと言われた事を自然と喜べた。
「あ、ありがとう。凄く嬉しい。私って、ほら……子供っぽいでしょ?」
「うん。」
クエイドが即答してきた事が少し感に障ったけど、構わず話を続けた。
「だから、大人っぽく見られたくって。クエイドは大人っぽいよね。そう言えばクエイドの歳っていくつ?」
「19歳。」
クエイドの言葉にサリーナの笑顔が凍りついた。自分と大して変わらないだろうその歳に少し眩暈がした。
「絶対にそう見えないよ。」
サリーナが半眼でそう呟く。クエイドは苦笑でそれを認めた。
「ところでこれからどうする?買い物に行くんだろ?」
「うん。ここから歩いて少しの所にショッピングモールがあるから。」
そう言ってサリーナは歩き出した。クエイドもそれに習ってサリーナの右隣を彼女の歩調に合わせて歩き始めた。
いつも歩いている道だった。
落葉樹が等間隔で植えてあって、レンガ造りの車が走るには不便な道路。決して高くない家々が道路の両端に連ねている。
でも、そんないつもの景色でも今は綺麗だと思えた。隣にクエイドがいるだけで景色が全然違って見えた。
(現金だなぁ……)
そう自分に対して呟いてみるけど、それが無駄な事だという事をすぐに理解した。そう自分をたしなめてみた所で嬉しいものは嬉しいからだ。
「部屋の中から見てても思ったけど……」
「ん?」
独り言のような出だしだったから最初自分に言われていると思わなかった。でも、クエイドの視線はまっすぐに自分に向かっていた。
「カイデリカ市って、パラシア様式の街並みなんだな。」
「うん。車での移動にはちょっと不便だけどね。でも、歩く分にはいい街だと思うよ。適度に広くてそんなに高いビルもないし。買い物も出来るし、映画とか娯楽施設もそれなりに充実しているし。」
確かにサリーナの説明は間違ってはいなかった。
カイデリカ市は連邦国内の都市としては極めて異例な都市の形容をしている。ジャベルン王国の何処かの市と姉妹都市を結んでいる事が大きいらしい。景観を第一に考えられ、巨大ビル群などを極力建てなかったために都市としてはさほど大きくはない。人口10万人くらいといった所だろう。だが、その美しい景観のおかげで観光地としては比較的人気のある所だった。そのため、ショッピングモールや娯楽施設などは充実している。ここに住んでいる者にとっては極めて居心地のいい都市だろう。大都市から離れている事もあって時間が緩やかに流れ、人々は皆のんびりと歩いている。
「そうだ。映画見ない?私、見たい映画があったんだ。」
「構わないよ。俺、映画なんて随分見てないから。」
「いつくらいから?」
クエイドは思案してから、呟いた。
「2年前くらい……かな?」
「2年前か……クエイド、その時どんな感じだった?」
「どうして?」
クエイドの疑問の声に一瞬、言おうか言うまいか迷った。だけど、かえって隠したりなんかして、この楽しい時間を褪せさせたくはなかった。だから、正直に答えた。
「ほら、私って記憶ないから。2年前に何してたとか、どんな事考えてたとか、全然思い出せないから。それに……」
陰っていたサリーナの頬にほのかな赤みが帯びた。
「クエイドの事、興味あるから……」
クエイドがサリーナを見ていた。
さっきまでの笑顔ではなく、真顔で。でも、その表情は冷たいものではなく、温かくって、穏やかだった事を感じていた。
そして、サリーナははっとして、顔を真っ赤にして両手をばたばたと目の前で振りながら、しどろもどろになっていた。
「えっと……興味があるっていうのは、好きとかそういうんじゃなくって、やだ、私、何言ってるんだろう。」
その様子を見ていたクエイドは笑みを漏らしながら、無理やり想い出を掘り起こして話始めた。
「確か、ギルド派遣員になったばかりの頃だったかな。経験もないし、能力もないから、とにかく大変だったな。早く一人前になりたいって……そればっかり考えてた。」
「私と一緒だね。私もまだあんまり仕事覚えてないし、慣れてないから……早くテキパキと仕事をこなせたらって良く考えるよ。」
クエイドの言葉にサリーナはうなずきながら応えた。クエイドの言った二年前の話はまるで今の自分自身のように思えた。クエイドの話はとても興味深かった。
「クエイドってギルド派遣員なんだ。だから、短剣を持ってたんだね。」
何気なく言ったその言葉にクエイドの浮かべていた微笑みが一瞬消えた。
「ああ……そうだよ。」
クエイドはすぐに笑顔を取り戻したけど、その笑顔はそれ以上聞かないで欲しいと言っているように思えた。だから、サリーナはそれ以上ギルド派遣員について聞こうとは思わなかった。自分にも出来れば聞かれたくない事だってあるし、何より今の楽しい時間を壊したくないと思っていたからだ。
「それからね……」

サリーナの口は閉じる事はなかった。そして、その笑顔も決して曇る事はなかった。それはクエイドも同様だったかもしれない。ただ、クエイドの瞳にはサリーナに気付かれない様、器用に隠してはいたが憂いと警戒の色が宿っていた。
 
 

本来、ニルヴァーナ機関は諜報組織ではない。
だが、緊迫の世界情勢で表立って行動を取る事の出来ないニルヴァーナ機関は情報戦を挑まざるを得なかった。しかも、プロジェクト・ノアを遂行する実行部隊は実際の所ニルヴァーナ機関以外に存在しない。それを利用したのがガーランドだった。
レイラインという情報ネットワークを用い、その情報がガーランドによって譲渡される事で、ニルヴァーナ機関は陸軍情報部と互角以上の情報戦を演じる事が出来た。IIAの協力も善戦に繋がった。
しかし――ガーランド、IIAともに完全に信用出来ない今の状況では独自に行動を起こすしかない。だが、そのための経験も技能もニルヴァーナ機関は持ってはいなかった。
そのため、カイデリカ市でついにクエイドをロストしてしまっていた。
その間にIIA、陸軍情報部、国家公安調査庁、そしてCITがカイデリカ市に集結してしまう。これによって、ニルヴァーナ機関は行動を制限されてしまう。
そして、陸軍情報部の精鋭によって、ついにカイデリカ市騒乱は現実の物になる。
 

二日前

「ニルヴァーナ機関がカイデリカ市アイビック地区を動こうとしない?」
リーザはその情報に眉根をよせた。彼女の丹精な眉が奇妙に形を変える事すら、まるで芸術のようである。そんな事を考える余裕すらない程、彼女の美しさに陸軍情報部の若いカードは魅了されていた。
「は、はい。カイデリカ市に入るまでニルヴァーナ機関の実行部隊と思われる部隊はローグィン市から南下し続け、ルドラン連邦への侵入すら辞しませんでした。しかし、その南下行動はここ数日認められません。」
「目標をロストしたって事?」
「恐らく。」
サユリの言葉をカードは肯定した。リーザは静かに嘆息した。
「動いていないという事は目標……『ギルティノア』はまだここにいるという事よ。」
その疲れきった言葉にサユリは正直驚いていた。彼女の憂鬱な姿など想像もした事なかった。いつも未熟な自分を引っ張り、支え、そして任務を成功に導いてきた彼女にはらしくない姿だった。
「……大丈夫?」
サユリは心配そうにリーザに声をかけた。その言葉にリーザははっとさせられた。弱気になっていた自分自身に叱責したい気持ちだった。しかし、それは意味を成さない。それよりも向けるべき事は決まっている。
「大丈夫よ。心配いらないわ。」
リーザはとびきりの笑顔でサユリに応えた。その笑顔を見て、くったくない笑顔を向けるサユリをリーザは心の底から頼もしい部下だと思う。
そして、開いた窓から入ってきた風がリーザの金色の髪をそっと揺らした。
ホテルの3階に取ってある部屋はパラシア様式の調度品でまとめられていた。ドルテカ様式とは違い、悪戯に豪華な訳ではなく、気品と質素を併せ持った居心地良く、そして美しい内装だった。
「素晴らしい街ね、ここは……」
リーザの零した言葉と笑みにサユリは童心に返ったように幼い微笑みを浮かべて、同意する。
「そうね。仕事じゃなかったら観光したいな。長期休暇がとれたらまた来ようかな。」
サユリの言葉にリーザはくすりと微笑んだ。その気持ちには完全に同意したかった。こんな気の進まない任務よりも断然心躍る提案ではあった。
「……あの……」
女性同士の会話に場違いな感じを覚えていたカードは恐る恐る声を出した。そして、当然二人の美しい女性の視線に晒される事になって、カードの表情はまた硬くなった。
「これが、ここ数日のカイデリカ市アイビック区で撮影した写真です。一応、陸軍情報部のデータベースに検索をかけてみましたが、最重要監視対象者とは合致するものはありませんでした。一応、お二人にお渡しします。」
そう言われて、鞄から取り出した分厚い封筒にサユリは思わずため息をついていた。その封筒を受け取ったリーザも、サユリの方を向くと苦笑を見せた。
 

その夜、電気の明かりに照らされながら、リーザは昼間カードから渡された写真をテーブルの上に広げ、一枚一枚丹念に見ていた。
シャワーを浴び、湿った黒く長い髪をタオルで拭きながら現われたサユリは真剣に写真を見ているリーザを見つけて、苦笑を漏らした。
「リーザ、もうその辺にすれば?陸軍情報部のデータベースで検索して、引っ掛からなかったのよ?もし映っているとしたら、幽霊くらいだよ?」
サユリの言葉にリーザはくすりと笑みを漏らした。
「確かにそうかもね。でもね、もしかしたら手違いだってあるかもしれない。自分の目と耳で確かめる。それが情報士官には必要な事なの。」
サユリの髪を拭く手が止まった。そして、一つ息を吐くとリーザの近くの椅子に腰を下ろすとまだ調べていない写真を封筒から取り出して、調べ始める。
その様子に満足そうに微笑みを浮かべてから、リーザも作業に取り掛かった。
一枚の写真に写っている複数の人々。その容姿と記憶の中にある陸軍情報部の最重要監視対象者と照らし合わせていく。
「……まただ。」
サユリは嘆息と同時に呟きを漏らし、一枚の写真をリーザに見せる。その写真に写っているピンぼけの人物を見て、彼女の嘆息の理由を知った。
「ニルヴァーナ機関ね。確かにカイデリカ市にはニルヴァーナ機関が大勢いるという事ね。」
「ニルヴァーナ機関だけじゃないけどね。」
何度目かのサユリの小言にリーザは同じく何度目かの苦笑を返す。
「IIA、CIT、国家公安調査庁、そして私達。世界でも最高峰の諜報機関が集結している。まるで、諜報員達のオリンピックね。」
ジョークとしては二流かも知れないが、頭が固くなっていたサユリにはこの程度のジョークが丁度良かったらしく、屈託のない笑みを浮かべる。その笑顔に同じく、リーザも笑顔で返す。それが、この二人の良好な関係を築く上でのコミュニケーションなのだ。
「諜報員の祭典かぁ。じゃ、金メダルは何だろうね?」
サユリはクスクス笑いながら、何の考えもなくそう呟いた。リーザは笑顔のままだったが、内心では正直、今の言葉が痛かった。
祭典。金メダル。言葉は平和的だが、実情は実に血生臭い。
金メダルは諜報員にとっては勲章かも知れないが、それはこの状況では直接的な騒乱を意味する。金メダルはギルティノアの特定だ。そして、その表彰式に登場するのは黒ずくめの戦闘集団、特務遂行群だ。そして、祭典は戦場と化す。
(そんな事態は――起きないに越した事はない。それは間違いない。でも……私達はそれを起こそうとしている。)
リーザは不安と葛藤を表情に出す事はなく、笑顔の裏に巧妙に隠した。
そんな彼女の手がある写真を手に取って――そして、止まった。
写真に写っているのはただの街並みだ。人が行き交っている日常の一コマ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな写真だった。だが、奇妙な違和感を覚えた。
それが何か分からずにその写真を凝視する。映っている人物で各国の諜報員と思われる人物は映っていない。だが、何か重要なものが映っているような気がしてならなかった。
そして、一人の少女に目が止まった。
サユリ以上に幼い容姿の少女。可憐という言葉が似合う可愛らしい少女。国家の思惑とかそんな事とは無縁と思えるその少女をリーザの瞳が捉えた時、ドクンという心臓の鼓動――慟哭を覚えた。
その慟哭は久しく感じていなかったものだった。とてつもない事実を知った時、それを見つけた時、そんな時に感じるものだった。
「――そんな――」
声にならなかった。その驚いた――いや、そんな生易しい表現ではなく、絶望したかの様なリーザの様子にサユリは彼女にかける言葉すら失っていた。
リーザの手が小刻みに震えていた。その意味を知ることすら出来ずに、ただリーザを凝視するのみだった。
「そんな……『彼女』が生きているはずがない。確かに死体を確認し、死亡を確認したはずなのに……」
リーザの薄い唇から漏れたその言葉が諜報員としての勝利であり、人としての罪悪への葛藤の始まりだった事をサユリは後になってから知る事になる。

写っていたのはサリーナだった。
『マルタイS』は生きていた。この情報が陸軍情報部から軍上層部に昇った時、特務遂行群に任務が与えられた。

諜報員の祭典は終わり、戦争――いや、虐殺が始まろうとしていた。
リーザはその鍵を握り、それを使ってしまった。彼女が情報士官としてではなく、人としての行動を取り始めるきっかけになる事件になろうとしていた。
 
 
 
 
 

(Continue)
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