EARTH
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第7章「天空の城 過ぎ去れし残影に映る過去と今(10)」
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無駄な物を全て取り除いた体躯。その形容が間違っていない事を彼の着ている戦闘服が物語っている。不気味ささえ感じさせる静か過ぎる足運びで彼は近づいてくる。
彼が漂わせていたのは完璧さだった。
まるで壮大なジグソーパズルの最後の1ピースを入れたように、目の前の青年からは欠落したものがまるでない。脆弱さを失ったその瞳にはそれに付随する優しさも失わせていた。ありとあらゆる弱さを徹底的に排斥した者が目の前にいる彼だと恐怖に縛り付けられた心の何処かが認めていた。
彼の表皮にまるで仮面を被せたように付いている嘲笑。俺の足元にも及ばない、とその瞳が笑っていた。以前の彼にあった優しさと冷徹さを渾然一体とさせた不安定さはどこにもない。しかし、その不安定さに共感を得ていたのに対して、今の彼の瞳から見える完璧さには恐怖しか得られなかった。
ネロはゆっくりと近づいてくる彼――クエイドと呼ばれていた青年――に対して立ち向かう事も不可能だと認めながら、彼が歩を進めるたびに後ろに下がる事しか出来なかった。
そして、それは他の三人も同様なようだ。
老獪という言葉そのものとさえ思えたカイラスでさえ、今は自分達と同様に目の前の青年に対して恐怖を感じている。いや、恐怖の他に激しい憎しみと嫌悪もある事にネロは気付いた。まるでネロと同じ事に気付いたように青年は鼻で笑った。
「オレがNOVAだと知って失望したか?あいつにレイラインを封じられているんじゃ気付けないのも仕方がないがな。」
クエイドだった青年――NOVAの後ろで腕を組んで仁王立ちしているガーランドの頬が僅かに動いたのをネロは見た。だが、その事に考える暇もなくNOVAは言葉を続ける。
「最も、レイラインが使えた所であんた程度の力じゃ、オレがNOVAだと知る事は出来なかっただろうがな。あんたらの盟主だって魔王の力で知った程だ。」
NOVAの後ろで再びガーランドの表情が動いた。今度は頬が僅かに動く程度の物ではなかった。明らかに苦笑していた。だが、その程度の変化など些事だと思えるほどに、カイラスの表情は心情を吐露したように醜く歪んでいた。そして、それを向けたのはNOVAへではなく、ガーランドへだった。
「ガーランド……!!貴様、ここで『本体』を目覚めさせるつもりか?!そのためにわしを使ったのか?!」
怒りを言葉の端々に交えながらカイラスは罵る。だが、何かを感じた様子もなくガーランドは苦笑のまま答える。
「ええ。本当はもっと後のほうがいいのだが個人的な理由でね。何、トリニティ平和維持軍との交戦で問題が浮き彫りにはなったが大丈夫だろう。『本体』を殺すには十分だ。」
「まぁ、そういう事だ。オレは殺されるつもりはないが、あんた達にはすぐに死んでもらわなけりゃならない。人形がいつ目覚めるか分かったもんじゃないからな。」
ガーランドの言葉を継いで語ったNOVAの言葉に四人は自分の命が仲間だと思っていた青年に握られている事を悟った。絶望を告げる言葉だったが、たった一人にとってだけはその言葉は本当に些細な希望のように聞こえた。
(――人形が目覚める?)
クエイドを拒絶した自分自身への嫌悪によって、自暴自棄寸前にまで追い込まれていたサリーナにとって、それは福音だった。
(――クエイドは消えていない?)
その想いがうな変わり果てた青年を見ようともしなかった瞳を青年の体を乗っ取っている悪魔に注がせた。NOVAはもう四人に近づくのはやめ、今はただ立ち尽くしているように見える。その背中にサリーナは視線を注いでいた。

――まだ、クエイドは消えていない。

そう思った時、萎えていた心に力が滾った。折れかけていた心がその淡い希望によって急速に復元されていくのをサリーナは感じた。心の強さは体へも伝染した。開かれ、脱力していた小さな手がきつく握られていた。
だが、その一方でそれを否定する気持ちも確かにある。
人形が目覚めるというのはほとんど言葉のあやで本当はもうクエイドは消えてしまっているのかもしれない。もしも、消えていないとしても容易には戻ってこないのかもしれない。
不安材料は山のようにあった。それでも、絶望の中で見つけた光明を見なかった事にする事は出来なかった。
助けられる。クエイドを助けられる。
その想いが全ての不安の上を優しく覆っていった。彼が与えてくれた想いがどんなに大切だったか、彼をどんなに愛しく想っていたのか、そして彼によっていかに自分が強くなったのかを思い知った。

――クエイドを助けてみせる。

皆が絶望と狂気の中にあってサリーナだけに、この場所で一番脆弱と思える少女の中だけに希望が意思という灯火を燦々と輝かせた。
それに気付く事が出来たのは願望を力に変える事の出来るガーランドだけだった。
星の悲願が間もなく成就されるという時、恐怖、憎悪、嫌悪、悲哀、狂気等が渦巻くまさに人類の終焉を迎えるには相応しい場にあって、まるで漆黒の闇を溶かす朝日ようにそれ現われた。優しさと強さに満ちた想いが突如膨れ上がるように自身の足元に現われ、それを凝視した。
内の強さとは対照的な脆弱な器。人という人種の中でも決して強くはないはずのその華奢な体にどこから現われたのかと思う程に力強く輝きが溢れていた。
驚愕と同時に恐怖がその顔を覗かせた。魔王として星の意思と願望を体現してきたガーランドにとって、恐怖を感じる対象などありえるはずがなかった。NOVAにしても憎みこそすれ、恐怖を感じた事などなかった。それなのに今自分に恐怖を与えているのはその気になれば造作もなく殺せるはずの脆弱な人間だった。
――何故だ?
恐怖の次に現われたのは疑問だった。自分が疑問を感じるという事も魔王には在り得る筈がなかった。レイラインによって世界のほとんど全ての事象を知る事が出来た。願望を力にする事によって強い想いは知ることが出来た。知る事が出来ない想いがあったにせよ、そんな物は疑問を感じる価値すらない事だった。
だが、彼女の強い願いを目の前にしても疑問は消えやしなかった。知ろうとしなくても彼女の内から発せられる強い想いはガーランドに直接語りかえる。
クエイドを助けてみせる。消えさせはしない。
それが声となり、文字となってガーランドの目の前を覆った。だが、その願いを前にしても理解出来ない。彼女はさきほど自身の手でクエイドを殺したと絶望していたはずだ。それなのに何故――

『人に神はいない 自律もしない だが 絶望もしない』

疑問の答えが突然現われたようだった。かつて自分も認めた事だった。人は絶望しない。希望を見つける術には長けていると。だからこれほどまでに純粋で強い想いを紡ぎ出せるとでも言うのか。
途端に目の前の少女がNOVAを越える、おぞましい生物に見えた。しかも、それを殺す事が自分には出来ない。
その考えに到って初めて何故恐怖を感じたのかを理解した。そして、理解すると同時に声も荒く叫んでいた。
「何をしている!!早くそいつらを始末しろ!!」
初めて恐怖の感情を混じらせて放ったガーランドの言葉に、NOVAは怪訝そうに振り返った。彼の言葉通りに実行するよりも、何故彼がそれほどまで狼狽しているのかが不思議でしょうがなかったからだ。
振り返って見たガーランドの形相は恐怖を隠そうともしていなかった。そして、その足元にいたサリーナを見てその意味を知った。
その瞳に宿る強い意志が人形に向けて放たれていたからだ。その強い瞳と視線を交錯させた時、内の奥深くに落ちていったはずの人形が目覚めようとしている事を悟った。彼女が地面を蹴って自分に近づいてくる様がスローモーションで映った。
人形が奥深くから這い上がってくる感覚にまた暗闇の中に戻る恐怖を感じて、彼女から視線を外して四人を見た。サリーナから視線を外せただけでも幸運だった。あのまま彼女に魅入られていれば人形が再び体を支配していた。
この体を明け渡してなるものか。
肉体への執着が人形の現出の時間稼ぎをしている内に事を為さねばならない。一瞬で四人を一瞥して殺す相手を選んだ。
四人を一時に始末すれば確実だが、人形の仲間である三人を殺す事すら今の自分にとっては人形に体を奪われる危険性をはらんでいた。残るのはカイラスのみ。
こんな爺を殺した所で、決定打にはならないかもしれない。だが、殺す事を異常に忌避していた人形を考えればこんな爺でも人形を再び奥深く落とす事は可能だった。確実に人形を消滅させるのはその後でも十分間に合う。
NOVAはその視界にカイラスの憎悪を滾らす瞳だけを捉えようとしていた。彼の瞳だけは明らかにこの体を敵視していたからだ。その視線は駆け上がってくる人形の足かせに十分だった。力を使う事に支障をきたさない事を感じつつ、力の行使をイメージした。人形や魔王、そしてこの爺の言う所の構成とやらだった。『NOVA』の力を用いる事が出来るとは言え、この器では間接的な力の行使には魔法を用いるしかない。構成の展開を感じつつ、発動の鍵を短い言葉に込めて放った。
「死ね、ジジイ!!」
力を持った言葉はそれをきっかけとして刹那の時で暴虐の力を顕にした。
空間を跳躍して現出した力の奔流は熱線でも閃光でも爆炎でもなく、ただの純粋な力としてカイラスの体内に現われた。突然体の中心に手榴弾が現われたと考えればいいだろうか。現われた力の奔流は手榴弾の爆発のようにその力を外に向かって放出した。突然放たれた力は出口を求めて、体の内側を暴れ回る蛇のようにのたくった。内臓を裂き、骨を砕いて進む力はひ弱な体の内部などお構いもせずに力の続く限り暴れ回る。体中の臓器のほとんど全てをその刃によって裂いた力はついには皮下を裂いた。最初は小さな裂け目だったのかも知れない。だが、一度出口を見つけてしまえば後はそこから抜け出そうと力は容赦なく、噴出してゆく。小さな裂け目は見る見るその傷口を広げ、最後には支えていた皮膚さら吹き飛ばす。四肢はおろか、腹部は臓器の名称すらもう分からない肉片を噴出する。首も千切れ、まるでロケット花火のように頭が吹き飛ぶ。体中にまるで水風船の水のように堪っていた血液が大きな花を開くように宙に咲き、地面にその何倍も巨大な花を咲かす。血と同時に肉片が降りしきる雨となってその場にいた物全てを叩きつけた。それは人間にとっても同様だった。
最も悲惨だったのはすぐ近くにいたリーサだった。彼女のすぐ後ろにカイラスがいたために彼女はまるで赤のペンキを被ったように体中を血で濡らした。四散した腸の一部が衝撃と一緒に彼女の肩に巻きつきさえしていた。
ネロやラッグスもリーサ程ではないにしろ、鮮血の雨を被り、肉片を服や皮膚にこびり付かせていた。サリーナは距離が離れていたためにさほど血を被りはしなかった。ただ、首を外れて飛ばされてきたカイラスの頭がすぐ目の前に落ち、その想像を絶する苦痛の表情と顔を合わさなければならなかったが。
狂気の現場に置いて、冷笑を浮かべる事が出来たのはガーランドだけだった。
微かに震えていたリーサは自分の左腕に巻きついた物を視界の片隅でようやく見る事が出来た。むせ返る血臭と血の感触にすぐには絶叫する事が出来なかった。零れる嗚咽がからからに渇いた喉からようやく出てきた。聞き取る事も困難な小さな悲鳴だった。喉は干上がるように渇いているのに舌は確かに唾液の中に血の味を混じらせているのを感じていた。
ブツンと頭の中の線が切れた。それを理解する前にリーサは泣き喚いていた。ラッグスはそのあまりの光景のせいか、カイラスの精神支配が突如としてなくなったのかで気を失ってその場に卒倒した。ネロはただ呆然と立ち尽くしていた。
そして、サリーナは今の現象を引き起こした男――NOVAの背中を光が消えていく瞳で見詰めていた。
自分の中で灯っていた意思の火が水を浴びせ掛けられたように音を立てて消えたのを感じながら。その瞳はNOVAが動いた事を見詰めていたはずなのに、他の感覚神経に何も伝達せずにただ無意味にその感覚だけを行使していた。NOVAは狼狽し、泣き喚くリーサの腹部を一撃で打ち据えるとその意識を一瞬で遮断させた。もしかしたら、その一撃で絶命させたのかもしれない。そう思えるほど彼女の細い体が一瞬宙に浮いてそのまま彼に圧し掛かるように前かがみで倒れ込んだ。その見た目にも軽そうな体を受け止めて、抱きかかえるようにしてネロの方へと歩いた。
彼は呆然としながらも託されたリーサを抱きかかえて、彼女を抱いたまま地面にへたり込んでしまった。まるで腰の骨を砕かれたように。その姿を一瞥してから彼は振り返った。サリーナの方を向いたNOVAの顔にはさっきまで張り付いていた値踏みするような嘲笑が消えていた。その瞳はまるで深海の色のように暗かった。ただ、悲しみで揺れているようにも見えた。瞳の外側を涙の膜が覆っているように見えたのは気のせいだろうか。
彼は手を翳した。それは一瞬自分に向かって向いているようにサリーナには感じられた。
だが、それは自分の後ろに向けられているのだと分かり、サリーナは振り返った。ガーランドが凄まじい形相でNOVAに向かって斬りかかっていこうとしているまさにその瞬間だった。サリーナは思わず瞳をきつく閉じていた。反射的にとってしまった素人の行動に内心で罵りながら何とか瞳を開けようとした時、優しく、それでいて哀しい声が流れるように聞こえた。その声の刹那の前に構成が現われ、その優しい声はその発動を促す効果も秘められていた。
「もうやめよう。」
まるで風船がはじけたような破裂音。それと同時に温かい水のようなものが体に降り注いだ。血臭がまたさらに濃さを増したような気がした。恐る恐る瞳を開けるとガーランドがいたはずの場所はカイラスの時と同様に体の中心から爆発したように木っ端微塵に四散していた。
「……浄化。」
静かに呟いたNOVAの声。その声には全てを見下していた高圧的な印象が消えていた。それどころかまるで聞こえる人全てに謝っているように聞こえた。その声と共に発現された魔法は一瞬にしてそれまでこの場所を地獄にしていた物を綺麗に拭っていた。血溜りも、肉片も、血の臭いも、狂気すら跡形もなく消し去っていた。その様に呆然としながらもサリーナは急いでNOVAの方を向いていた。
彼女の眼差しにNOVAは微かに笑った。嘲笑でも冷笑でもなく、ただ哀しく笑った。
その微笑みでサリーナは理解した。
彼はもうNOVAではなく、クエイドなのだと。



漆黒の闇。
それは何度か体験した事のある闇だった。『あいつ』……NOVAと会うときに現われた闇。肌寒さと血の臭いが充満した戦場の感覚に近い闇。ただ、いつもと違うのは腕も足も視覚、聴覚すらもあやふやだという事。まるでこの空間が自分なのだという感覚だった。それを否定する事すら億劫になるほどここは奇妙に居心地が良かった。かつてあれほど感じた嫌悪感はない。安堵すらある暗闇の中で流れに身を任せているようだった。
何故ここにいるのだろう。そんな疑問が沸いてはくるが、どうでもいい事だと思えてしまう。この安楽の中でなら何も考えずに済む。苦痛も苦悩も恐怖もない。ただどうしようもない安らぎがある。何もしなくていい、何も悩まなくていい、何も傷つかなくていい。時間があるのかどうかさえも疑わしいほどにゆっくりと流され、まどろんでいく。
これでいいんだ……これで……もう、疲れた……
それに……『声』は言ってくれた。
お前は一人じゃないと。全てが手に入ると。
だったら、その全てが手に入るその時まで、この暗闇の中で漂っていよう。誰からも必要とされない、愛されない。だったら傷つけるしかないと『声』は語った。
これでいいんだ……
暗闇しか映さない視界は瞼を閉じているのと同じだろう。それでも、意識をさらに遮断するために瞼を閉じた。まどろみはさらにその効果を増した。沼に全身を浸したように、ずぶずぶと沈んでいく感覚。
どこまでも落ちていく。どこまでも……どこまでも……どこまでも……
「それでいいの?」
その言葉に落下感覚が途切れた。幼く、聞き覚えのない声にもう二度と開かないと思っていた瞼が開いた。
少年というには幼すぎる10歳にも満たない子供が立っていた。金色の髪と蒼い大きな瞳。女の子と間違えそうな可愛い顔をした男の子だった。ただ、その瞳には哀しい色が見えた。儚さと決意を混ぜた悲壮感。まるで死地へ赴く兵士のような瞳の色だった。そう思えたのは瞳のせいだけではなかったのかもしれない。彼が身に纏っていたのは子供が着るとは思えない軍隊使用の迷彩服だった。所々に黒く変色した血の染みが付いていた。
「それでいいの?」
男の子は再度尋ねた。鬱陶しいという想いもあったが、何がと聞いてみた。男の子は苦笑を零した。
「逃げないって決めたんでしょ?」
男の子は疑問には答えないで質問で返してきた。逃げない……男の子の言葉を反芻すると小さく頷く。
「まだ、あの人は戦っている。」
あの人……わからない。
男の子は苦笑を零してから、この人だよと言うと暗闇にまるで連続写真のように少女の様々な表情が映った。どれも同じ少女の表情。だけど、実に様々な表情をする少女。笑って、泣いて、怒って、悲しんで、そしてまた笑う。
胸が痛んだ。知っている……気がした。
「守るんでしょ?」
……守る。その言葉に胸の痛みがまた増した。少女の表情の一つ一つが自分の何かを、どこかを揺さぶる。何処かに消えてしまったと思っていた手をきつく握った。一つ感覚が戻るたびにこの少女に対する想いが蘇ってくる。
「好きなんでしょ?だったら失ったらダメだよ。あの人はまだあきらめていない。」
男の子の言葉で思い出した。どうして忘れていたのかも不思議なくらいだった。いつでも忘れた事がなかった。この少女の事が好きで……本当に好きで、失うのを怖れていた。嫌われるのを怖れていた。
「あの人が好きな人の事……知ってるよね?」
うん……知ってる。
臆病で、誰かを守りたいと思いながら傷つける術しか知らない愚かな青年。それでも、彼女なら自分を受け入れてくれるかもしれないと甘い希望を抱く青年。弱くて、醜くて、救いようがなくて……それでも彼女の事が好きな青年。
男の子は困ったように笑う。苦笑が似合う男の子だと思った。
「本当に自分の事が嫌いなんだね。でも、それじゃダメだよ。そうだな……彼女と話したりした時の事を思い出してみてよ。」
男の子に言われるままに彼女と一緒にいた場面を思い出そうとした。
初めて会ったのは……そう、ルビア村。最初、彼女に会った時は何とも思わなかった。ただどこまでも人が良くて、いつか誰かに裏切られるような、そんな気がする少女だった。その人の良さが自分を守るためだと分かった時、自分と似ていると思った。俺の場合は、無関心の仮面で、彼女の場合は偽りの笑顔の仮面でひ弱な心を隠していた。だから、彼女だけは囚われてほしくなかった。自分のように殺意に飲み込まれるような事にしたくはなかった。
彼女の手を離したくはないと思った。俺のこの手で……この手……

ふっと思い出した。思い出したくはなかった事を。
「……どうしたの?」
少年の言葉に頭を振る。掴みかけていた自分の姿が再びおぼろげになるのを自覚しながら答える。
俺は……彼女に拒絶された。もうこの手に意味なんかないんだ。
呟いた言葉は胸に灯りかけた火をいとも容易く消し去った。まるで蝋燭の火のようだと苦笑まじりに思った。別れと悲しみを思い起こさせる線香の匂いを嗅いだ時のように胸の奥底から脱力感と鈍い悲しみが沸き起こる。無くしたという事実だけを思い起こさせる妄執を。
それに『声』は全てが手に入ると言ってくれた。彼女も手に入るのかな……彼女を手に入れる資格なんてないけど……欲しい。
「……君にとって彼女は『物』でしかないんだ……」
失望のこもった声に暗闇に堕ちかけていた意識が呼び戻された。彼女を『物』と言われて理由も分からずに嫌悪だけが湧き上がった。さっきまで自分は彼女を『物』のように欲しがっていたのにそれさえも嫌悪した。
「『物』でしかないのなら……そうだね。手に入れられるよ。そして、捨て去る事になる。」
少年の声がふいに遠くなった。
すぐ近くにいたはずの少年は遠ざかり、今近くには漆黒の闇から浮かび上がる獣の瞳があった。瞬きすらしない血に飢えた瞳が自分を正視している。
「それでいい。全てが手に入る。少女は直にお前の物だ。」
瞳から語られる声はさっき全てを約束してくれた声だった。どこまでも沈んだ、地獄から響いてくるような声音。残酷な優しさが過分に含まれた声。少年の哀しみに彩られた無彩色の微笑みとは異なった、狂気のまだら模様が瞳の奥からにじみ出てくる。
全て……彼女の体。彼女の心。全てを欲した。
「だろう?手に入れたいのだろう?」
確かめるように呟く声に操り人形のように頷く。ああ……やっぱり俺は人形なのか。出来損ないの木偶人形でしかない。人形が壊れてもそこに中身はない。帰るべき心もない。
これでいいんだ……これで。
瞳が歪に歪んだ。嘲ったのだろう。笑えばいいんだ、こんな俺なんか。
気付けばもう少年はいない。淀んだ空気が滞っている。暗闇よりも濃厚な怨念のようなものがないはずの体に纏わりつく。
これが人形としての俺の最後なのか……そうどこか他人事のように思う自分を感じるのも億劫になる。全部どうでもよくなってくる。彼女が手に入るのも、彼女を失うのも、彼女を殺すのも、彼女を犯すのも、彼女を彼女を彼女を……

……彼女を殺す、彼女を犯す?

当たり前のように考えたその想いを反芻する。自分の周りはそれを当然だと訴えているというのに出来損ないの心はそれを否定している。鈍い痛みが警告のように苛む。
どうして殺したらダメなんだろう。どうせ手に入れられないのに。
……手に入れられないなら、殺してもいい?
気付けば数え切れないほどの獣の瞳が見える。その瞳はそれが正しいと言っているのにそれを正しいとは思えないしこりが心を捉えて離さない。
こんなに苦しいのに、求めても手に入らないのにそれなのに……
急に寒くなってきた。肌を刺すような寒さと苛立ちに激しく頭を振る。それなのにその想いは消えない。消し去ろうとしても消えない。
自分を苛ませる想いが目の前にあった。暗闇に浮かぶ仄かな光。吹けば消えそうなのに決して消えないその淡い光に照らされて、暗闇から自分の輪郭が見える。見たくなんてないのに……こんな醜悪な自分の姿なんか見たくないのにそれは照らし出す。
堪らず絶叫した。

俺はもういらないんだ、こんな想いなんか!!
こんな想いがなければ俺は彼女を手に入れられる!!
彼女の全てを手に入れる事だって、飽きたら捨てる事だって出来るんだ!!
それが『全てを手に入れる』事だって言ってくれたんだ!!
俺はもう一人じゃないんだ、周りだって傷つけられる!!

怒りとも悲鳴ともつかない声で罵り、その光を掴んだ。寒さの中で震えながら、その光を消そうと両手で握り締めた。それなのに、寒さで凍えそうなのに、握り締めた手の中だけは温かい。きつく握った両手を開くと光が弱々しい輝きを放っている。

どうして……何故なんだよ……

熱いものがこみ上げてきて突然目頭が熱くなった。滲んだ視界にぼやけた光は尚も弱々しく輝いている。そのくせ絶対に消えたりはしない。消そうとしても消えない。
その光に瞳を凝らした。光の中で俺と彼女が笑っている。本当に楽しそうに、幸せそうに笑っている。まだぎこちない笑い方でも必至で気持ちを伝えようと笑顔を作っている俺と偽りの笑顔を剥ぎ取って、彼女が本当の微笑みを俺に向けている。
その光に向かって、まるで罪の告白のように心を曝け出す。

俺は……彼女を裏切ろうとしたんだぞ?
それなのに……何故、微笑んでくれるんだ?
人間じゃないのに、出来損ないの人形なのに……なんで消えないんだよ?

光は何も答えずに瞬き、そして映し出す。消えたりなんかしない。暗闇しかなくて、孤独で、同質の存在なんてどこにもないのに光は輝く。輝き続ける光は俺を照らし出す。その姿は人間になれない木偶人形だった。血塗れの殺人人形だった。それでも光は照らし続ける。

彼女が与えてくれた、俺と彼女の想い出。それが『光』の正体。

笑いが込み上げてきた。泣きながら、それを両手で抱え込んで笑っていた。
その笑いは嘲笑ではなかった。ただ、自然と込み上げてきた笑みだった。
あんなに無くすのを怖れていたのに、いざ消そうとしたらどんな事をしても消えなかった俺と彼女の想い出。彼女が与えてくれた俺が無くさない唯一の物。
いつだって、それが救ってくれた。彼女を失って、虚無感に襲われた時も想い出はその小さな光で道標になってくれた。どんな時も優しく、そして厳しく接してくれた。
自分の狂気も、醜い姿も、無くしたと思っていた優しさも照らし出す。
『全て』なんかいらない。望んだのは彼女と彼女との想い出だけだったんだ。

俺は立ち上がる。光は暗闇から自分の姿を照らし出す。
血塗れの戦闘服に包まれた体。金色の髪。氷のような蒼い瞳。無表情が似合う顔。自分の真実の姿を。狂気、殺意、不器用な優しさ、俺を構成する全てを映し出す。
一歩を踏み出す。足に絡み付く暗闇は泥のように纏わりつくがそれでも精一杯前に進もうとする。道は暗闇の中で光が指し示してくれている。
「どこにいく?!全てを手にいようと誓ったはずだろう?!」
背後から響く声に振り返らずに答える。空間に溶け込んでいた想いは自分の喉を伝ってはっきりと言葉となって現われた。
「俺はやっぱりサリーナの事が好きなんだ。だから彼女には死んで欲しくない。」
「拒絶されてもなおあの女を求めるというのか?!」
声には焦りが混じっていた。まるで引き止めるように足元の暗闇は足首に何本もの指を絡ませるように歩を遅らせる。それでも歩みを止めようとはしない。暗闇の指を引きちぎり、一歩一歩確実に光を追い求めて歩く。
「無くそうと思ってもなくせない想いがあったから……だから、俺は……一人じゃないんだ。彼女が俺を拒んでも……いいんだ。俺にはこの想い出がある。」
「下らない!!そんな物のために『全て』を捨てるのか?!あの女の全てが手に入るんだぞ?!その想い出さえさらに増えるんだぞ?!」
「……増えないよ。」
苦笑を零しながら、それでも歩を止めない。永遠に続く常闇の深淵を目指して歩き続けながら声に答える。
「『全て』なんて手に入れたら……きっと彼女との想い出はたくさんの中に埋もれてしまう。埋もれて、きっと見つける事も出来なくなると思う。だから、出来損ないの心のままでいい。彼女が与えてくれた想い出を受け取る事の出来たこの出来損ないのままで……」
「お前はすでに我々と盟約を交わしたのだ!!ここから抜け出たとしてもすぐに『あいつ』がその体を乗っ取るぞ!!そしてお前はその存在が消えるのだ!!我々と同化する事も出来ずに!!それでいいのか!?今引き返せばまだ消滅は免れるのだぞ?!」
焦りと勝ち誇ったような声が交じり合って不協和音を奏でて響き渡った。今、その事を聞いてももう戻ろうとは思わなかった。
そして、初めてネロに語った自分の覚悟がどういうものなのか分かったような気がした。
だから、初めて振り返った。どれほども距離は進んでないと思っていたのに、常闇は遥か彼方に遠ざかっていた。憎悪と嫌悪と狂気が渦巻く闇の中心にある瞳を見据えながら微笑む。笑う事が出来たのは自分が出来損ないだと受け入れる事が出来たからだと思った。
俺にとっての覚悟は――誰かを殺す事でも、死ぬ事でもなかった。
「……ありがとう。あんたのおかげで分かったよ。俺は出来損ないの人形だって。」
そう――自分は出来損ないの人形だと認める事だったんだ。
笑いながらそう呟くと足元に絡み付いていた闇が幾分弱くなった。そして、もう二度と振り返る事無く、想い出の光が照らし出すままに歩き続けた。
彼女との想い出の光は狂気や憎悪、殺意までも照らし出す。それが俺の姿だから……今でも殺意は嫌っている。でも、出来損ないだからなんて言い訳はしない。出来損ないでも彼女との想い出を築き上げる事は出来た。そうやって築き上げたのは『全て』じゃないし、『ゼロ』でもない。だから、出来損ないの人形のまま……進んでみようと思えた。
漆黒の闇を照らし出す光が誇らしく思えた。暗闇だらけのこの出来損ないの中で決して消えないその光を信じて進み続けた。それで自分が消えたとしても、この光だけは消えないような気がした。それは幻想なのかもしれない。でもそれでも良かった。
前を歩く力になるならそれでいいと思えた。そんな力をくれた少女にただ一言「ありがとう」と伝えたくて歩き続けた。
この想いを彼女に伝えたい、その想いが道標となり、力となった。光は――ほんの少しだけその輝きを増したようだった。



心の奥底から出来損ないが這い上がってくるのを『NOVA』は感じていた。その歩みは遅々としていたがそれでも確実に進んでくる。自分を目指して。
恐怖がこみ上げてきていた。もうあの暗闇の中に戻りたくはないと思った。
外の世界はこんなにも刺激に満ち溢れている。望むがままに力を振るう事が出来るのに、またあの暗闇の中で出来損ないの機嫌を伺いながら細々と過ごすのは耐えられなかった。
だから目の前の老人を殺す事にした。そして、実際にたった今殺した。悲鳴と鮮血が緋色に染まった美しい光景を作り出す。これで出来損ないは再び暗闇の底に消えていくはずだった。
それなのに……
何故、消えない?!
声に出したはずなのにそれは喉から迸る事はなかった。それで暗闇に飲み込まれつつあるのは自分である事を悟った。腕の感覚、足の感覚、全てが消え去っていくのを感じながら暴れながら絶叫した。
いやだ!!もうあの暗闇に戻るのはいやだ!!
狼狽して声を荒げるのに、それはまるで感触がない。沸き起こってくる嗚咽を止める事も出来ずに泣き喚いた。
いやだ!!いやだ!!いやだ!!
全てから拒絶された事を再び自覚した。自分自身のために生み出した出来損ないにすら拒絶され、あの木偶人形の姿をしているのにも関わらずあの女にも拒絶された。何故これほどまでに自分は世界に拒絶されなくてはならないのだろう。
悲しみが憎悪を駆り立て、迸るほどの殺意になって暗闇を深める。
殺してやる……全てを殺してやる……全てが俺を認めないのなら……全てを殺してやる。
『殺してやる』を呟きながら、酷く憔悴した笑みのままNOVAは暗闇に堕ちていった。



魔法の解放と共に肉片や、鮮血が綺麗に消し去られた。充満していた血臭すらもう感じる事は出来なかった。埃っぽい広間の匂いが戻ってきたのをサリーナは頭の隅で感じながら、クエイドを見詰める事だけで精一杯だった。
何か言わなければならないと思いながらも、彼の一段と悲しさを含んだ瞳がそれを押し留めていた。
クエイドは優しくサリーナの名前を呼んだ。その声に心が疼いた。
「……俺は『NOVA』との合成品。旧N計画生体コードNUX−048・μ−048だ。」
彼の紡いだ言葉が心を冷たい手で撫でる。彼は少し苦笑してから呟いた。
「俺は……『クエイド・ラグナイト』じゃない。……ごめん。」
少しだけ頭を垂れると、金髪で彼の表情が隠れた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。そう思えるほど、クエイドの体が小さく見えた。掛ける言葉が見つからず、見つかったとしても声にならない事を悲しく認めていた。
彼はふっと笑みを漏らした。悲しみが若干増したような気がして彼に駆け寄ろうとした時、構成が彼の周りから溢れ出してくるのを感じた。
「……すぐにドラゴンの精鋭達が来る。方舟は――多分、消滅する。だから、これからサリーナ達を地上に戻す。」
彼の言葉が終わると、サリーナの足元から碧色の淡い光が漏れ始めた。それはサリーナの周りを踊るようにゆっくりとまわりながら彼女の周囲を包んでいく。
「クエイド!!クエイドはっ?!」
ようやく言えた言葉にクエイドは首を左右に振った。その仕草で彼の言葉を待つまでもなく悟った。
「俺は……『出来損ないの人形』のまま死ぬ。NOVAの本体を復活させたくないから……」
クエイドの言葉に頭の芯が急に重くなった。足元がぐらりと揺れたような気になって危うく倒れそうになる。そして、彼の表情の所に暗い斑点がいくつも現われる。まるで立ちくらみのように視界が暗くなっていくのを感じながら、彼の悲しい微笑みを見ていた。それがどんどん暗闇に飲み込まれて消えていく。クエイドがいなくなっていくのを物語っているように。
弾けたようにサリーナは駆け出した。魔法の淡い光を航跡として残しながら、彼女はクエイドに向かって走った。そして、そのままクエイドにしがみ付いた。さっきまで声が出なかった事が嘘のように大声で叫んでいた。
「やだ!!クエイドが死ぬなんて絶対にやだ!!クエイドも一緒に戻ろうよ!!」
駄々をこねる子供のように彼の胸を何度も何度も叩いた。されるがままにクエイドはそんなサリーナを悲しい眼差しで見詰めていた。
「ごめん……クエイドじゃなくて……ごめん。サリーナの事、好きになって……ごめん。俺は……逝かなくちゃならないんだ。もう、サリーナにしてやれる事はこのくらいなんだ。」
「聞きたくない!!そんな事、聞きたくないよ!!」
泣きながら、クエイドの言葉を掻き消すようにサリーナは泣き喚いた。拳に込められた力は弱まる事無く、彼の胸を叩き続ける。その感触だけが彼がそこにいるという証明だった。消え去ろうとしている彼を引き止める唯一の手段だと思った。それなのに、その感触がいつしか消え去っている事を痛切して、彼にそっと触れた。
腕の輪郭がぼやけて、そこから透けて彼の体が見えた。震える手で彼の胸に触れようとしても何の感触もなく突き抜ける。涙さえ地面に触れても濡らさない。サリーナの腕から力が失われる。サリーナはその場に崩れ落ちた。ただ瞳だけはクエイドから外さずに泣きながら彼を見上げていた。
サリーナの涙に濡れた碧眼を見ながら、心の奥底で彼女を泣かせてばかりいる事を悔やんだ。そんな自分達の姿はまるで殉教者と偶像のように思えた。偶像に涙しながらその答えを求める殉教者。なのに、神は答えない。信仰心が殉教者にないからではない。ただ、『神』がいないから――いや、もしかしたらそんな殉教者をせせら笑っているのかもしれない。
でも、今の自分は偶像ではない。だから、彼女に声を掛ける。彼女を悲しませるだけかもしれないけど、それでも何もしないという選択だけはしたくはなかった。
本当に伝えたかった「ありがとう」という言葉は呟けずにただ謝罪の言葉だけが口から溢れ出てくる。だけど、それでも話し続けたかった。もう、サリーナを見るのもこれが最後だと思うと彼女と話し続けたかった。その想いだけでとにかく話していた。
「……本当はもっと話したかった。もっと抱き締めたかった。でも、俺は……化け物なんだ。サリーナに嫌われても……」
「嫌ってなんかない……」
独白めいた言葉に被せるようにサリーナは呟いた。微笑む事も出来ずにサリーナは彼の瞳を見詰めながら自分の本当の気持ちを確かめるように言葉を紡ぎ出す事が出来た。その気持ちに正直に話そうと思ってサリーナは浮かび上がる言葉をすぐに声にした。
「クエイドの事……好きだよ、大好きだよ。今でも……好き。クエイドがガーランドの言うような存在だって知って……本当にショックだった。クエイドが一番苦しい時にクエイドを拒絶して……本当にごめんなさい……ごめんなさい。でも……でも……好きなの、本当にクエイドの事が好きなの……だから……許してくれなくてもいいから……だから…………死なないで…………一人にならないで…………一人に……しないで……」
それだけ言うとサリーナは震える手で顔を覆った。もう、彼に伝えるべき言葉が浮かんではこなかった。後は涙だけが後から後から沸いて出てきた。視界は涙で滲んで、ぼやけた輪郭しか映し出せない。彼がどんな表情でいるのかも見えない。
言葉を失った口から嗚咽だけが小さな悲鳴のように漏れた。もう二度とクエイドに触れる事が出来ない事を認められずに震えた。
「……サリーナ……」
小さな弱々しい声が聞こえた。そして、ふいに右肩が仄かに温かく感じられた。熱を帯びた肩を覗き見ると彼の手が触れていた。
掌の感触はないのに、温かさだけは伝わってきていた。クエイドの顔を見た。彼の蒼い瞳が輝いているのが分かった。
「……俺、クエイドじゃないけどいいのか?」
彼の右手が目の前に差し出された。
サリーナはその手を見詰めた。いつも自分を助けてくれた手……その手がいつも支えてくれていた。彼を助けたいと思っていたのに、助けられる時にその手を拒絶した。でも……今度は違う。きっと今度は手を取り合える。
サリーナは感触のないその手を掴んだ。まるで感触はないのに温もりだけは伝えてくれる。
それは肉体の繋がりではなく、心の邂逅なのだと漠然と理解した。その手はいつものようにサリーナの体を支える事は出来なかった。でも、サリーナの心に力を与え、自らの力で立ち上がらせる事は出来た。
ずっと望んできた関係が今築き上げられつつある事をサリーナは感じた。
互いに支えあい、二人で手を取り合っていく事が出来る事が証明できた気がした。
「……いいよ。私にとっての本当のクエイドは君だから。」
微笑みながら彼の前に立った。ボロボロの戦闘服の光沢に淡い光が映し出される。二人を包む光が二人を裂こうとしているのが真実なのに、サリーナには祝福のように感じられた。
「……サリーナの事、好きでいいのか?」
クエイドの声音がいつになく優しかった。それに答えるようにサリーナは小さく頷いた。涙で濡れた自分の微笑みが彼の蒼い瞳に映っているのを見ながら。
それを見て、涙で笑顔を曇らせたくはないと思った。彼の好きな私の本当の微笑みを彼の瞳に映し出したかった。
彼の手がサリーナの頬を優しく撫でた。親指で彼女の涙の軌跡を拭う仕草をサリーナは心地よく感じた。感触はなくても自分が彼に大切に想われている事は伝わる。肉体の感覚を失って、鋭敏に心の動きを感じられた。
もう、その手をおぞましく感じる事はなかった。愛しい彼の手がなくならないで良かったと思えた。また、手を繋げる日が来る事を嬉しく想った。
「……俺、戦ってみるよ。サリーナが好きな、出来損ないの人形のまま……サリーナの知っているクエイドのままで。だから……今度はサリーナが見つけてくれないか?俺がサリーナの本当の笑顔を見つけたように、今度はサリーナの知っている俺を……。」
「うん……見つける。別れても、離れ離れになっても、あなたを……見つける。」
どちらが最初に抱き締めたのかは分からなかった。ただ、自然とお互いの背中に腕を回していた。いつもとは全く違う感触のない抱擁。温もりは伝わってはこないのに、心の中は温かかった。サリーナは彼の体がいつまでも目の前にある事を祈っていた。いつ消えてなくなるのか分からないその不安に戦うように彼の胸に顔を埋めながら決して瞳を閉じなかった。彼の体が隠す闇がいつまでも闇であり続ける事を祈っていた。
だけど、クエイドは直にサリーナ達がこの場所から消えるのを知っていた。
だから最後に「ありがとう」と伝えたかった。そして、「愛している」と。
そこまで考えてある事実を思い出した。
「愛している」という言葉を彼女に呟く事は、彼女の失われた記憶を呼び覚ます事を意味している事を。躊躇する想いに縛られそうになって彼はそれを否定した。
彼女は言ってくれた。俺を見つけてくれると……
だから、俺の想い出は彼女を縛り付けたりしない。悲しみの海に溺れさせはしない。俺にとって、彼女との想い出が道を照らし出す道標となったように、彼女にとっても暗闇の中で小さく、でも決して消える事のない光となる事を確信して、万感の想いをその言葉に込めた。



ありがとう 愛している



その言葉はサリーナの胸の奥深くまで到達した。そして、閉じられていた記憶の扉の鍵となって扉の奥に閉じ込められていた想い出を一気に溢れ出させた。広がった想い出は彼に抱く恋慕の想いと絡み合って、彼女の心を揺さぶった。愛しさと切なさが混ざり合って、体を満たしていく。その想いが止めていた涙をほんの一筋だけ流させた。その涙は、悲しみから出た涙ではなかった。彼への想いが詰まった涙だった。

涙が頬から落ちた時、目の前を覆っていた闇は消えて、白日が瞳を貫いた。
抑えていた、彼と別れたくはないという想いが突然暴れ出していた。それでも、サリーナは泣かないために歯を食いしばった。
今度泣くときは、クエイドに出会った時――本当の自分を彼が探してくれたように――私が知っているクエイドを見つけた時だと自分を戒めた。

私は見つける――本当のクエイドを。

他の誰でもない、彼を好きな自分自身に誓ってサリーナはもう見えなくなった彼を想って、彼と同じ蒼い色を流している空を見詰めた。








(Continue)
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