A week of Kyouko 第1回


<日曜日>
 私は遅い朝食を食べていた。
 窓の外はジメジメした霧雨が降っている。
「向こうの家族はもう二人が進路を決めて働いてるのよねぇ。」
「残った一人だって家のことを全部やって、その上スーパーでバイトしているんだから生活力あるわぁ,恭子と同じ高校生なのにねぇ。」
 母と祖母が私の従姉妹の話をしている。なにやら耳が痛い。
 味噌汁を器に移すときに鍋の底に残った味噌の塊を器に入れてしまったらしく、飲んだらやけに辛かった。何とか表情には出さずに食べ終わる。
「ご馳走様。」
 私は小さく呟いて食器を下げた。
「それに比べて家は・・・・・」
 居間を出るときの母の言葉は、”嫌味だな”としか感じなかった。

 私は部屋でデフォルメされたワニのぬいぐるみを抱きかかえてベットに転がった。聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で僅かに音をたてている雨音が私の心を静かにしている。
 気怠げに寝転がったままCDラジカセに手を伸ばし,スイッチを入れると割れるような大きさの音が流れ始めた。慌ててボリュームを落とし,軽いため息を付く。
(そういえば,明日提出の課題があったかな。)
 思い出してもする気にならない。
 日曜日なんてこんなもの。

 昔はこうじゃなかった気がする。
 日曜日って言えば,もっと楽しくワクワクするような気持ちではしゃいでいたような気がする。土曜日の夜に眠れなくなるくらいに。
 何がそんなに楽しかったのか分からなかったけど,今のようなまるで”灰色の気分”にはならなかった。けど,もう今は違う。
 日曜日は,私にとって”灰色の気分”になってしまった。
 いつからこうなのかは忘れてしまった。

<月曜日>
 今日も霧雨が降っている。
「大学受験に受かるためには,努力を惜しんでは駄目だ!!お前らが一分間睡眠をとっている間に受験合格はお前らから一歩遠ざかっているんだ!!」
 教師の言葉は何処か怒っているようで,何処か投げやりだった。
「聞いてる方が気が滅入ってくるわよね。」
 隣の席の子が小声で話し掛けてくる。
「怒鳴るくらいならもう少し分かりやすく教えてくれたらいいのに。」
 その通りだと思ったけれど,何だか返事をする気にはなれなかった。

 教室でお弁当を広げての昼食。昔は楽しかったのに、今は何だか味気ない時間を過ごしているような気分になってしまう。
「麻里ぃ,最近少し押しすぎじゃないの?彼,随分不機嫌になってるみたいだし,嫌われちゃうヨォ?」
「大丈夫。あれで私にぞっこんなんだから,恥ずかしがってるだけなのよ。」
 毎度毎度のお喋りにも,最近は加わる気になれない。
「そう言えば,恭子にはそんな話聞かないわよねぇ。」
「恭子,誰か気になってる人いないの?」
 黙り込んでいる私が気になったのか,会話の矛先がこちらを向いた。
「別に。第一,付き合うったって私何したらいいのか分からないわよ。」
「つきあい悪いわねぇ,この子は。それとも,人に言えない様なことしてるんじゃないでしょうねぇ?」
 言った本人とその隣の子がふざけてキャーッと黄色い声をあげる。
「大体,恭子は元々キレイなんだから。もうちょっと愛想良くしてたら男共がわんさか寄ってくるわよ,絶対。」
「その肌私にも分けてくれればいいのにぃ。」
「私は髪がいいなぁ。」
 他人のことになるとよく回る口。
「暇なら誰か引っかけてみたらぁ?相手がのぼせ上がっておもしろいよ,きっと。」
「それで適当な時に別れようとしたら,相手がストーカーになったりするわけね。」
「うっ。」
 我ながら身も蓋もない言い草だと思う。
 それっきり私が食べることに集中し始めたので,話題は他に移っていった。

<火曜日>
「それでは,お大事に。」
 医師の言葉に軽くお辞儀をすると,私は診察室を出た。
 授業中に突然倒れた私は,保健室を経由して近くの総合病院へ運ばれたのだ。
 大騒ぎをした割には,原因は不明。私は病室で三時間ほど眠ると何の異常もなく意識を取り戻し,医師も精神性の事だろうと言っていた。目が覚めたときには母が側にいたが,医師の言葉を聞くと安心したらしく買い物に行くからと言って病室を出ていった。
 総合病院は広い。患者の精神安定のために至る所に植物が配置してあり,白一色の世界になるのを免れている。
 私は何となく病院の中を歩き回っていた。家に帰ってもベッドで寝るだけだろうから,滅多に来ることない病院をもう少し見てみたかったのだ。

「そこのお姉さん。」
 突然の声に後ろを振り向くと,同い年くらいの青年がこちらを見ていた。
「私?」
「ええ。」
 服装から見て入院しているのだろう,真っ直ぐこちらを見ている瞳が印象的な青年だった。
「何か?」
「暇ならお茶でも。」
「・・・・・・ナンパ?」
「まあ,そんなものです。」
 にこやかな表情のまま,動じた気配もなく答える青年。
 実は,私はこういう誘いを受けたことは幸か不幸か今まで一度もなかった。どう断ろうか迷っていると,相手の方が先に口火を切ってきた。
「そんなに時間は取らせませんから。」
「・・・・・・・・・。」
「僕は早河了といいます。よろしく。」
 結局,断りきれなかった。

 病院の談話室で,私とその人は自動販売機で買ったジュースを飲んでいた。病院内に喫茶店など見あたらない以上,どう言おうがこういう程度なのだ。いわゆる”今風”のデートであちこち連れ回されるのかと思っていた私は少しほっとしていた。
「すると,恭子さんは何に対してもやる気が起きないと。」
 その人もその人で,ナンパと言った割には悩み事相談の人のようなことばかり質問してきた。聞いてみると,心理カウンセラーの助手をしていたらしく,私に声を掛けたのも何か浮かない顔をしていたかららしい。”変わった人だな”とは思ったけれど,それは悪印象を伴った訳ではなかった。
「やる気が起きないと言うか,無気力なんです。」
「何か,やりたいことはありますか?」
「別に,ないと思います。」
「ではやりたくないことは?」
「それなら,あります。課題とか,授業を受けることとか。・・・・・人と話をすることとか。」
「人と話すのが嫌いなんですか?」
「気を使うから,疲れるんです。」
 不思議に思ったことがそのまま口をついて出た。カウンセラー等という仕事をしているとやはり話しやすい雰囲気というやつをつくれるのだろうか。

 言われるままに話をして,気が付くと日が暮れていた。
 会話をしていただけなのに,随分と気が軽くなったような気がする。その事を聞くと,「恭子さんに必要なのは,親身になって話を聞いてくれる人なんですよ。」と言っていた。カウンセラーの仕事とは,小難しい心理学などより相手の話を聞いてあげることに重点が置かれることも多いらしい。
 最後に,どうして私に声を掛けたのかと聞くと,「そりゃあ,恭子さんが美人だったからですよ。」と実に軽い調子で言っていた。最初のにこやかな表情のままだったけれど,私の目には表情よりも少し暖かなものに映った。

 月明かりの中,家に帰りながら私は「明日もう一度行ってみようかな」などと考えていた。ここ最近の間では随分いい気分になれたし、私もその人の事が少し知りたくなっていたらしい。

<水曜日>
 昼食時。
 病院で”異常なし”と言われたのだから仕方ないけれど,午前中の理解できない授業を聞いていると,”いっそのことどこかに異常でも見つかれば入院して学校に行かずに済むのかな?”と考えたくもなる。
 入院したのなら,昨日の青年ともっと話していられたのかもしれない。
 そんなことを考えていると,いつものごとくテーブルを囲っている同級生が話し掛けてくる。
「恭子,何だかご機嫌だねぇ。」
「え?そ,そう?」
 にやけた顔でもしてたのかな,私。
「何かいいことあったの?」
 言いながら私の顔を覗き込んでくる。
「べ,別に・・・」
「病院にカッコイイ先生でもいたの?」
 話の矛先が再びこちらを向いてしまったらしい。
「そんなんじゃないわよ。」
「じゃあ入院患者の人とか。」
「!!・・・か,関係ないでしょ。」
「へぇーえ。それじゃ今日の放課後は花束を持ってお見舞いね。」
「ち,違うって言ってるでしょ!!」
「あはは,恭子かわいいっ。顔が紅いわよ。」
「そーかぁ,ついに恭子にも春が来たのかぁ。」
 周りから寄ってたかってはやし立てられる。でも,今までとは違ってそんなに煩わしい気分にはならなかった。むしろ,速まった胸の鼓動が何だか心地よかった。

 初めて入った花屋で、「お見舞いに持って行くのに良い花を下さい」と頼んで名前も知らない花を買う。花束を持って歩いていると、少し浮かれた気分になった。

「恭子さん、来てくれたんですか?嬉しいなぁ。」
 少し緊張して開けた扉の向こうで、早河さんは昨日と同じにこやかな表情で迎えてくれた。
「あ、あの。これ、お見舞いの花です。」
 言った後で、”そんなの当たり前じゃない、何言ってるのよ”と思ったけれど、言われたほうは「これはすみませんね。ありがたく頂きます。」と応えて、ベッドの横の花瓶に手際よく花を飾っていった。何だか見とれていると、彼は苦笑した。
「入院して一ヶ月経ってしまいましたから。こういうのにも慣れてしまいましたよ。」
 一ヶ月。その言葉を聞いたとき、早河さんは何の病気なんだろうと疑問がわきあがってきた。聞こうと思ったが、ひょっとすると失礼なことなのかもしれないと考えると少し躊躇してしまう。
 彼はこちらを向いて、私の顔を見ると何を言いたいのか察したようだった。
「すみません。何の病気なのか分からないんです。」
 すると、彼も”原因不明”という奴なのだろうか。昨日の私の診断でその単語を耳にしたばかりなので、「案外そんなことも多いのかな?」と考えてしまう。医学に対しては失礼なのだろうけど。
「原因不明で一ヶ月も入院しているんですか?」
「ええ、おかげで気が滅入ってしまって。」
 だから私に声をかけたのかな?
「恭子さんと話していると、その気分を忘れられるんですよ。」
 殺し文句と言う奴だろうか。
「持ち上げても何も出ませんよ。」
「持ち上げているつもりはありませんよ。私は思ったことを言ったまでです。」
 あくまでにこやかに告げる。私は二の句が告げなくなってしまった。
 昨日までとは打って変わって、今日は気持ちがいい位の晴天である。病室の窓から差し込む日の光は柔らかく、病室のイメージを多少居心地のいいものに変えている。
 ふと、私は何か口を開かなければと思い、彼の方を向いた。彼も勿論こちらを見ていて、私はその目を見ると何を言ったらいいか分からなくなってしまった。それでも、黙っているのは何か気まずい雰囲気のような気がして無理に口を開く。
「あの、えっと、その・・・・・・」
 しかし元々話す事などないのだから、口から出るのは特に意味のない言葉ばかりで私はますます焦ってしまう。
 彼はそんな私の顔を見てまたもや考えが分かったようで、苦笑しながら話し始めた。
「無理に何かを話している必要はありませんよ。その方がかえって双方の精神に負担をかけることもあるんです。会話疲れとでも言いますか、その類のストレスを無理に溜めても仕方がないでしょう。なんならしばらく黙ったままでいましょう。私は、恭子さんと黙って見つめ合っていても気まずい雰囲気だとは思いませんよ。」
 最後のセリフが彼なりの軽口だと気が付いたのは、口を閉じてからしばらくしてからだった。最初は焦ってしまったけれど、そう言った彼が黙ったまま自然に振舞いはじめたので私も何となく黙ったまま彼を見てぼーっとしてみる。
 何となく彼の瞳を見て、何となく窓の外を見て、何となくリンゴを剥いて。殆ど何も(それこそ意味のある言葉は全く)喋らなかったけれど、私の心は酷く落ち着いていた。そして、一人のときと違って、とても暖かみを感じられた。
 こういうのも悪くないなぁと何となく思いながら、帰るまでのしばらくの間私は彼の顔を眺めて、窓から入ってくる日の光を感じていた。

<木曜日>
「恭子、どうしたの?何だか最近良い事でもあった?」
 朝食を食べている私に向かって、母は昨日の友人と同じ事を言った。
「そう見える?」
「ええ。楽しそうに笑いながらご飯食べているんだもの。」
 どうも私は浮かれているらしい。会う人会う人にはっきりと変化が分かってしまう。
「それで?何があったの?」
「別に何も。」
 何故そう答えたのかは分からない。母が,自分の興味のあることなら無差別に首を突っ込む性格だからかもしれないし,私があまりこの感情を外に広げたくなかったからかもしれない。
「今日も遅くなるの?」
「え?」
「今までは日が暮れるまでには帰ってきてたのに,最近帰りが遅くなったじゃない。」
「そ,そう?」
「クラブにでも入ったの?」
 私は今まで授業が終わればすぐに帰宅していたので,高校生にしてはやけに早い時間に家にいることが殆どだった。やることがなかったからだし,学校にいても何だか味気ないからである。もっとも,家にいると楽しいかといえば全くそんなことはなく,何も考えずにベッドに寝転がっているのが日課だった。
 私が”味気ない日常”でない時間が,彼と一緒にいられる間なのだろうか。そう言えばベッドに寝転がっていても彼の事を考える時間が増えたような気がする。
「で?どうなの?」
 返事をしない私に業を煮やした母が詰め寄ってきた。どうも私の様子に興味が向いてしまったらしい。
「別に今更クラブに入った訳じゃないわ。もう三年生なんだから。ちょっと学校ですることが貯まっているだけ。」
「そう?」
 明らかに疑っている目である。ふと私は時計を見て,慌てて席を立った。
「もう時間。じゃ,いってきます!」
「恭子,帰ったら詳しく聞かせてね!!」
 久しく聞いていなかった気がする,母の嫌味以外の言葉だった。

 授業。
 酷く読みにくい字で教師が黒板に何か書いている。しかし,私はノートを取ろうともしていない。しばらく書いては消される黒板を眺め,しばらく窓の外の景色を眺める。
 不真面目な態度だなぁ,と思ってはいても授業は聞かない。
 窓の外の木を眺め,そこにとまっている鳥を眺め,風に揺れる葉を眺める。

 彼の事だけ考えていた。
 にこやかに笑ってばかりの青年。何でも話を聞いてくれる人。私の事を真剣に考えてくれる人。原因不明の病気らしい。カウンセラーの助手をしているらしい。
 そして,どうやら私は彼の事が好きらしい。
 私はこの時,この気持ちが恋愛感情だとはっきり気が付いた。
 彼の事をもっと知りたい。彼ともっと話をしていたい。もっと彼の側にいたい。
 友人同士のお喋りに出てきた浮かれた気持ちも,少し理解できる。今までは,何でそんなことに一々こだわるんだろうって思っていたけれど,今は分かる。

 これは私の中の一つの革命だ。
 変われるかも知れない。
 胸の奥で私も知らないうちに少しずつ溜まっていた何かが,突然全部揃って変質してしまったような気分。
 何もかもが楽しかったあの頃に戻れるのかも知れない。
 それとも,別の新しい何かになれるのかも知れない。

 今日は,梨を一つ持っていく。三つくらい持っていこうかとも思ったが,その場で剥いて食べるのだから一つで十分だった。花は昨日持っていったのだから,今日は食べ物。昨日リンゴを剥いているときに,食べ物を持っていこうと思いついた。
 太陽の下から建物の影に移ると,人が幾人も待合い席に座っている。今日もこの病院に来る人は多いようだ。
 病室の位置は覚えていた。広い病院の端にある階段を上がって,三階にある彼の部屋に向かう。病院の窓は閉めてあるために風は入ってこなかったけれど,やわらかな陽の光が廊下を照らしていた。
 しばらくしないうちに病室の前に辿り着き,少し深呼吸をする。
 ドアノブに手を掛けた時,ふと私は中から話し声が聞こえてくるのに気が付いた。
 彼の病室には彼一人しか入院患者はいないはずである。それとも,新しい患者さんが入ってきて彼と話をしているのだろうか。
 そう考えるのが妥当なんだろうと思ったけれど,私は何だか落ち着かなかった。
 このままこの扉を開けずに帰るという考えが喉元まできて,私は首を横に振った。
 そんなことをしても何にもならない。

 私はそっと,しかし音は聞こえるようにコンコンと扉をノックした。
「どうぞ。」
 彼の声がする。
 一瞬、躊躇するがここで帰るわけにはいかない。
「こんにちは。」
「ああ、恭子さん。来てくれたんですね。」
 嬉しそうな彼の声が耳に入って,私は訳もなくホッとした。しかし,次の瞬間、私の心は暖かみのない早鐘を打ち始めた。
 彼のベッドの側に女の人が座っていた。
 二十歳くらいだろうか。長い黒髪を頭の後ろで束ねている。
 綺麗な人だった。
 誰なんだろう。
 この人は彼の何なんだろう。
 短い間に心の中に幾つかの疑問が生まれてくる。
 この時,私の心に何か嫌な感情があった。
「ええと,この人は僕の勤め先の心理学の先生です。」
「崎宮奈留よ。よろしくね。」
 その女の人は,にこやかに私に会釈した。
 その仕草に,私もあわてて名乗る。
「あ、えっと,水無瀬恭子です。こちらこそ。」
「恭子さんも立ってないでこちらに来て座ってください。今,丁度あなたの話をしていたんです。」
 彼の言葉に私は少しおぼつかない足取りで椅子へ向かった。

 それから後どんな話をしたかよく覚えていない。
 彼も私もあの人も楽しく笑って話をしたような気がするけれど,私は何かに打ちのめされてしまった私の心を必死に隠して過ごした。
 私って以外と演技上手だったのかもしれない。こんなに強くおもっていることを顔に出さなかったのだから。
 ふと気が付くと自分の部屋のベッドで枕に顔を押しつけるようにして縮こまっていた。演技をする必要がなくなった私は,何かの感情に任せて枕を叩く。何度も何度も叩き、腕が痛くなってきて、私は強く枕を抱き締めて泣いた。

 私は彼にあの人と一緒に私の話をして欲しくなんかない!
 もっと私と話をして欲しい!!
 私と一緒にいて欲しい。
 他の人なんか見ないで欲しい。

 楽しさを感じなくなってからずっと流していなかった涙は,まるでそのブランクを埋めるように枕と私の心を濡らしていた。

<金曜日>
 窓の外から聞こえる鳥の声に意識が引き戻される。あのまま眠ってしまったらしい。
 眠い目を擦りながら時計を見る。まだ、急ぐような時間じゃない。
 私はベッドの側のカーテンに頭を入れ,窓の外を見る。多少青みがかっているが,未だ暗い空と,私の顔が窓に映っていた。癖のほとんどない長い髪に半ば隠された表情は,浮かない顔つきをしている。
 眠ったお陰か少しは落ち着いたけれど,胸を痛めるこの感情はなくならない。
 私は溜息を一つつくと,着替えのためにパジャマのボタンに手を掛けた。

「どしたの?恭子。今日は元気ないね。」
「しーっ!!無神経ね。ここ最近の様子を見て分からないの?フラれちゃったのよ,きっと。」
「えぇ!?恭子を振るなんて。・・・・・一体何が不満なのかしら。」
「話し相手としてつまらなかったとか,気が合わなかったとか,色々あるじゃない。」
 昼食時。
 小声で話しているつもりなのだろうが,全部聞こえている。
 私はやっぱりすぐ顔に出るタチらしい。母は,今朝の私の顔を見ると何かをはばかるように昨日のことは話さなくなった。気を遣ってくれているのだろう,きっと。
「恭子、気を落とさないで。恭子を振るなんて女を見る目がなかったのよ,その人。」
 私は既に振られたことになっているらしい。
 次々に掛けられる慰めの言葉は,私の心をいたわらず、逆に私はうっとおしく感じる。私はそんな自分が酷くねじ曲がった人間に見えた。
 結局,私は何も変われなかった。
 今日は,あの人のところへ行けない。どんな顔をしたらいいのか分からない。普段通りに振る舞える自信がなくなっていた。他のどんな悩みでも彼に相談できるだろうけど,この悩みだけは相談するわけにはいかなかった。私の気持ちを悟られたくなかった。
 もし彼があの人のことを好きなら,私のこの気持ちは彼にとって重荷になる。そうはしたくなかったから。いや,ただ単に私は怖いだけなのかも知れない
 この気持ちを伝える勇気がない。彼の側にたった一人女の人がいただけで、あった筈のその勇気はあっさりと消えてしまった。
 ・・・・・・・私は,どうしたらいいのだろう。

「あれ?あの人誰だろ。」
「え?どの人?」
「ほらあそこ。正門の前に立ってる女の人。」
「綺麗な人。誰かを待っているのかしら。」
 窓際の方が騒がしくなっていた。お弁当を食べ終わった私もついでに窓の外を見る。
 確かに正門の前に一人の女性が立っていた。しかも私が知っている顔だ。この学校の正門にいるということは,私に用があるのではないのだろうか?
 私は最低限の荷物をまとめると,教室を出る。

 その女性__崎宮奈留は,私が来るのを待っていたようだった。
 昨日会ったときとは少し様子が違う。別に急いでいるわけでもないみたいだけれど,何処か余裕というものが感じられなかった。
「こんにちは。」
「どうも,こんにちは。何か用ですか?学校に来るなんて。」
「まあ、ね。・・・・・・ちょっと言っておきたいことがあって。」
 明らかに言い難そうな様子。あの人のことなのだろう,きっと。
 私を牽制するつもりなのだろうか?
 私の思いとは裏腹に,彼女は未だに言い難そうにして何か考えているようだ。何か言いかけては言い淀む。そんなことを何度も繰り返され,私は業を煮やした。
「ここで話しにくいなら,場所をかえましょ。」
 私は崎宮さんを引っ張って歩き出す。
「えっ。ちょっと,あなた学校は?」
「早退します。」
 私はハッキリと不機嫌だった。私のよく知らない感情によって。
 この女性は私から彼を奪ってしまうかもしれない。それなのにこの馴れ馴れしさは何なのだろう。どうしてなのだろう。
 もしそれが余裕から来るものならば,私はこの人を確実に嫌いになる,きっと。
 彼女は私の知らない彼をよく知っているのだろう。その悔しさが私の不機嫌さに一層拍車を掛けていた。

 学校からそう離れていない小さな喫茶店で,私と彼女は向かい合って座っていた。何も聞かずにアイスコーヒーを二つ注文し,彼女の目を見る。
「で、崎宮さんは何を言いたいんです?」
「私,あなたにあんまり好かれていないみたいね。」
 いかにも”はぐらかし”ている口調である。しかし,私は敢えてこの話題に乗った。
「ええ。」
「どうしてかしら?」
「人を嫌いになるのに理由がいりますか?」
「いらない場合もあるわね。でも,あなたのような性格の人は嫌いになる人間は大体条件によって決まるわ。」
 彼女の口調が変わっている。心理学者としての意見なのだろうか。
「条件?」
「聞きたい?」
「・・・・・・・・・」
「まぁ,それはいいわ。私の話とは関係ないし。」
 関係ない話をしたのはあなたの方でしょうが。
「で、話って何です?」
 私の顔を見て、彼女は溜息をついた。
「あなた、彼のことどう思ってる?」
「どう,とは?」
「好きか嫌いかってこと。」
「嫌いな人を見舞いに行ったりはしません。」
「・・・なるほど。」
「あなたにそれが関係ありますか?」
 私にとってあからさまな挑発の言葉。しかし,彼女の返事は意外にも冷静を極めた。
「・・・・・・ないわね。彼はいい人だとは思うけど,恋愛の対象になるにはもう五年はいりそうだわ。」
「なら何故・・・・。」
「あなた,明日彼とデートしてくれない?」
 唐突な言葉。彼女はどうもこういうしゃべり方が癖らしい。彼と違って安心感は感じられないから,カウンセラーの時は話し方を変えているんだろう。
「そういう台詞は彼から言われるのが筋だと思うんですが。」
「彼の性格から考えて,あなたにこの手の台詞を言うのはどんなに短くても二週間はかかるでしょうね。」
「だからといってあなたが彼の代わりをする必要はないでしょう。」
「・・・しないと彼は永遠にあなたとデートなんてできないわ。」
「え?・・・・・二週間でしょう?私は待てますよ,そのくらい。」
「二週間後には彼はもうこの世にはいないわ。」
「え・・・・・・」
 どういう意味。
「彼の病名は不明。原因も不明。でも症状と体力から余命を測ることはできるのよ。その程度には現代医学は進歩しているわ。」
 どういう事。
「彼の症状は突発的に起こる全身の痙攣。体全体の金縛りと言ってもいいわ。内臓、心臓にかかる負担は非常識なほど,あと一回症状が起きたらもう助からないでしょうね。」
 あんなに元気そうにしていたのに?
「症状が起きるまでの彼は健康体そのものよ。でも,症状は彼からあらゆるものを奪っていっている。心臓の耐久性,内臓の健康さ,そして彼の寿命。」
 ・・・・・・もういい。
「医師は一週間以内にもう一度症状が起きるはずだと言っているわ。それが彼の寿命だともね。」
 ・・・・・・もう説明しないで。
「彼はあなたのことが好きみたいよ。あなたも彼のことを好きなのなら、せめて側にいてくれないかしら。」
「そんなこと言われなくたって,私は毎日お見舞いに行きます!」
「そうかしら?あなたが初めて私の顔を見たとき,あなたはもう彼のところに来たくないって顔してたわよ。」
「・・・・・・・・」
「私のことを勘違いして、これっきりなんてあんまりじゃない?私は誤解だけは解いておこうと思ったのよ。時間もないから。」
 彼女はそう言うと,アイスコーヒーを一口飲んで,立ち上がった。
「考えておいて。」
 彼女は勘定を持ってレジに向かい,そのまま外に出ていった。
「・・・・・何よ。何で,どうして・・・」
 私が小さく呟いたその言葉は誰の耳にも留まることなく消えていった。

 いつも,事実が私を置いていく。

「また,置いて行かれるのかな,私。」

 <土曜日>
 結局,私はあの後で彼に会いに行った。彼は私が来てくれたことを喜んでくれた。彼は元気そうだった。
 医師が一日仮退院を許可してくれたようで,今日はデート。
 私は嬉しい。でも悲しい。
 思いっきり甘えて,そして甘えて貰いたい。でも,その一方で何もしたくない気持ちもある。
 私は迷っていた。迷いながらも,服を選び,身だしなみを整えていると嬉しさがこみ上げてくる。今日は初めてのデート!!
 昨日の話は今日は忘れる。覚えていたら多分楽しいデートなんてできないから。
 忘れられないことも分かりきっているけど,それでも忘れる。
 鏡を見る。少しはまともに見えるようになったみたい。

「おはようございます。」
「おはよう。ねぇ早河さん,今日はデスマス口調は無しにしない?」
 開口一番の台詞がこれでは何やら情けないようではあるが,この際他人行儀は無しにしたかった。
「え、でも,僕のこれは地ですよ。」
「それならせめて私のことは呼び捨てにして。」
「・・・・じ,じゃあ行こうか,恭子。」
 彼は少し困った顔をしていたが,結局は私を名前で呼んでくれた。
 自分で言ったことながら,何処かこそばゆい感じだ。でも,嬉しかった。
「うん,行こう。了君。」
 本日は晴天。良いデート日和だ。少し肌寒い風が吹いているが,文句は付けない。そのうち風の所為にして腕でも組もう。

 デートの王道その一,遊園地。
 人も随分多く、私達のようなカップルも多い。
「え,ええと。恭子,何処に行きたい?」
 彼はまだ何処か私の名前を呼ぶのに恥ずかしそうな様子だ。
「そーねぇ,やっぱりここはジェットコースターかしら?」
「恭子は絶叫物に強そうだね。」
「そうでもないわよ。」
 私達は手近なジェットコースターの列に並ぶ。並んではいるが,定員が多いらしくすぐに前に進める。
 再びジェットコースターが帰ってきて,列は大幅に人数を減らす。幸か不幸か,私達の目の前で定員が来た。
「あ、惜しかったなあ。」
「こっちの方がいいわ。」
「?・・・・何で?」
「先頭に座れるじゃない。」
「・・・・・・」
「怖い?」
「・・・・・恭子,やっぱり絶叫物に強そうだ。」
 出発したジェットコースターは,多くの絶叫を客から引き出した後,しばらくで戻ってくる。感想を言い合う人で一時ざわめくが,係員の指示でテキパキと私達を座席に導いていく。やはり,というべきか先頭だった。
 ベルの音が鳴り,ゆっくりと動き出すジェットコースター。
 誰かがごくり,と喉を鳴らす音が聞こえたような気がした。鉄でできたレールをゆっくりゆっくり上っていく間に,乗客で声を出す人は誰もいなくなっていた。
 ふと,彼の表情が気になって横を向いたときに,ガタンという音がした。滑り出す直前に鳴るあの音だと私が気付いたのは,スピードが出始めた後。
「ひっ!!」
 殆ど本能的と言ってもいいくらいに私は彼にしがみつく。傲然と音をたててジェットコースターは走り始めた。
「きぃゃぁぁぁあああぁぁぁあぁ!!」
 結局,乗客の中で一番大きな悲鳴を上げたのは私だったみたい。

「あー,怖かった。」
「恭子さん,乗るまでは強そうに見えたのに。」
「さん付けはしないで。」
「あ、ごめん。」
「ま,いいけどね。実は私,遊園地なんか殆ど来たことなかったんだ。ジェットコースターも今日が初めて。見るのと乗るのとじゃやっぱり違うわね。」
 彼はちょっと真面目な表情になり,私の方をのぞき込んでいた。
「遊園地,行きたくなかったんですか?」
「ううん。ただ,私って結構いい子だったのよ,親にとって。」
 答えになっていなかったけど,彼は黙って聞いてくれていた。
「だから,なのかしら。手が掛からないって思われたらしくって,時々優しくしてくれたり,時々叱ったり,時々小言を言ったり。あんまり親に何かをねだったことなんかなかったから,余計に距離が開いていったみたい。良い事をした時には褒めてくれたし,悪い事をしたときにも,あんまり怒鳴らなかったけど真剣に叱ってくれた。」
 再び肌寒い風が吹いて来た。私は隣を歩いている了君の腕をとって抱きしめた。
「でも,いつからか,私は何もしなくなった。なんでそうなったかは分からないけど,私は良い事も悪い事もしなくなった。そうしたら,親との距離は一層離れたような気がしたわ。掛けられる言葉は小言だけになってきて,いつの間にか私は親に皮肉を言われるようになっちゃった。私は,私が何もしなくても認めてくれる人が欲しかった。・・・・・これって甘えなのかな,やっぱり。」
 組んだ腕を照れくさそうにしながら彼は応えた。
「例え甘えだったとしても,僕は恭子さんの側にいたいですよ。恭子さんが何もしなくても,ね。せっかく生きているんですから,甘えや我が儘をしてもいいんですよ。僕らは機械じゃありません。相手にされなくちゃ寂しいし,甘えさせてくれる人だって欲しい。僕もそう思っていますよ。」
「さん付けは止めてっていったでしょ。・・・・でも,ありがと。」
 涼しい中でのアイスクリームは体を冷やすみたいで,私は一層彼にくっついて歩く。
「さて,それじゃ次に行きましょうか。」
 結局,彼はいつの間にかいつものデスマス口調に戻ってしまっていた。

 その後,私達は正午まで遊園地の中を回り,お昼を食べると今度は映画に行った。デートの王道である。映画を見ている間も,私はずっと彼の腕を抱いていた。まるで大事な玩具を取られまいとする子供のように。
 映画は可もなく不可もなく,といったところだったけど,彼と見た映画だから,多分忘れない。でも私としては,映画館を出ると既に辺りが暗くなっていたことの方が意外だった。しかし,遊園地と映画館は離れているし,昼食を取った時刻も実は遅かったから別に不自然ではなかった。
 そのまま少し暗い路地を二人っきりで歩く。まるで夢の中のように現実感がなかった。当たり障りのない会話をしながら,病院の近くの公園に来た。私の家と病院はここから分かれ道になっている。
「さて,今日はここでお別れですね。」
「・・・・・・うん。」
「楽しかったですよ。今度は僕の方から誘っていいですか?」
「・・・・・うん。」
「それじゃ,また会いましょう。」
 ぼんやりとした電灯の下,彼が背を向けて歩き出す。
 私の胸に,無理矢理忘れていたあの事がよぎった。
 ”いつ死んでしまってもおかしくない”
 もう会えないのかも知れない。
 私は,彼の後を追うと背中から抱きついた。
「あ、あの,ちょっと,待って。」
 行動と台詞がずれているような気がしたけれど,気にはしない。私の言葉を待っているのか,それとも恥ずかしいのか,彼は無言。
「あの,さ。今日は何だか私ばっかり甘えちゃって,そのごめんなさい。」
 自分でも何を言いたいのか要領を得ていない。おまけに今私は彼に抱きついているわけだからちっとも様にならない。
 彼は,こっちに向き直った。闇の中,驚くほど近くに,彼の顔がある。
「謝らないでください。僕は嬉しかったんですよ。・・・・恭子ばかり甘えていたというのなら,僕は今甘えさせて貰います。」
 そういうと,向き合ったまま彼は私をぎゅっと抱きしめてきた。
 正直苦しいほどだったけど,彼の方から私を必要としてくれてるんだと思うと,凄く幸せな気分だった。涙が出そうなくらい嬉しかった。
「また,明日来て下さい。待ってます。」
 そう呟いて,彼は私に優しくキスをした。暖かく柔らかい唇。私にとって初めてのキスの味は”幸せ”だった。

 手を振って,彼が去っていく。ぼんやりとした月明かりの中,彼の背中が少しずつ小さくなっていき,病院の門に消えてしまった。
「私も帰るかなぁ。」
 呑気に呟いた一言が,この忘れ得ぬ日の締めくくりとなった。

 <日曜日>
 私はやっぱり器用な人間なのかも知れない。彼の病気のことを聞いていてもデートは楽しかった。もう会えないかもしれないと思いながらも,結局はあっさりと家に帰った。
 私の想いとは別に,物事を冷静にのみ進める自分がいる。朝、起きてぼーっとしていながらも,今日の予定を立てている自分がいる。
 うっすらと青い空が見えてきている。太陽が出てくるのにもうほとんど時間は必要としないだろう。
「今日は何を持っていこうかな。」
 ぽつりと呟いた時,携帯電話が鳴った。
 ”次の発作が起きたら”
 私の心に嫌な予感がよぎる。
 ”それが彼の寿命”
 落ち着け。落ち着かなければ。
 あの人に電話番号を教えた?
 教えた。初めて会ったときにあの人の事務所の電話番号と引き替えのようにして。
 他の電話の可能性は?
 低い。私に電話をかけてくる人は全くと言っていいほどいないし,今は六時半。女子高生のお喋り電話としては時刻が違う。
 ”一週間以内に”
 落ち着かないまま,私は電話をとった。
「はい,もしもし・・・・・」

 十分後,私は病院に辿り着いた。
 崎宮さんが入り口で待っていたらしく,私が中に入るとすぐに緊急治療室に案内してくれた。といっても走り出したので私は後を必死に追いかけていたのだが。
「了君は!?」
 聞くまでもなく,彼はそこにいた。
 全身が小刻みに震えていた。口を半開きにしたまま,目は宙を見つめて。
 私は彼の手を握った。
 震えている彼の手は冷たかった。
「どうにかならないんですか!?」
 私はヒステリックに叫ぶ。
「今,手術の準備をしているわ。」
 崎宮さんの声は押し殺したように弱く,震えていた。その目を見て,私は自分の最初の直感が正しかったことを知った。私の想い同様,何の役にも立たないことだけれど。
「了君・・・・・・」
 握った手を私は自分の胸に当てる。私の命を分け与えようとするかのように。
 彼の手は震えたままだ。
「手術の準備ができました。」
 冷静な声は,医師の一人のようだった。
 手術を行うからと,私と崎宮さんは治療室の外に出された。

 ”手術中”のランプが光っている。
 私と崎宮さんは廊下の椅子に座っている。他に人は見当たらない。
「了君の家族の人はどうしたんですか?」
 崎宮さんの溜息が聞こえた。
「連絡はしたわ。驚いていたみたい。ただ、病院と自宅が離れているからもうしばらくかかるかもしれないわね。」
「お見舞いに来たときも,家族の人には一人も会いませんでしたよ。」
 どうしたんだろう。私,やけに口数が多い。こんな時なのに。
「離れているし,忙しいのよ。」
「だからって,こんな時まで一人にしておくなんて!!酷いじゃないですか!!」
 分かった。喋っていないと気がおかしくなりそうなんだ。不安に押しつぶされそうで,だから喋ってるんだ。
「彼ね。私の助手を始めたときから,不思議な子だったわ。」
 崎宮さんの口調が少し,変わっていた。落ち着いたようで,それでいて何か頼りなげな口調。
「待合室の患者の人とよく話していたわ。何でもないことを話して,相手の緊張を和らげて,カウンセラーを受けなきゃいけないくらいまで疲れ切った心を落ち着かせていたわ。私のやることを見て覚えたのかも知れない。中には彼と話をしただけでカウンセリングをせずに帰った人もいたんだから,商売あがったりだったわ。仕事はきちんとしていたから文句を言う筋ではないけどね。」
 いつの間に自動販売機から買ってきたのだろう。彼女はホットココアの缶を私に手渡した。崎宮さん自身もお茶を飲んでいる。
 暖かく甘いココアを飲むと,少し落ち着いた。
 ココアの湯気を見ていると,何故か涙が溢れてきて,とまらなくなった。
「いつの頃からか,私も彼と話す時間が長くなっていたわ。心理カウンセラーなんて仕事はね,やってる方も何か心に傷を負っていることが多いのよ。心の傷の痛みを知らない人間に他人の心の傷を癒すことはできないわ。いえ,そういうことも実際にはあるけど,それじゃ何だか不公平じゃない?」
 彼女の口調は淡々としている。
 ”手術中”のランプは,ついたままだ。
「彼の側にいると,心が安らいでいたわ。でも,私は駄目ね。彼に甘えるだけで,彼に甘えさせてあげられなかった。彼にとっては私も患者の一人だったのかもしれないわ。」
 私は何も言わない。何も言えない。何も言いたくなかった。
 ただ黙ってココアの缶を握りしめた。
「彼の家族はね,何の変哲もない普通の人達よ。でも,彼は救いを求めるが故に周りに優しくしていた。普通っていうのは残酷ね。私の目には,彼は家族から家族であるから愛されているように見えた。分かる?」
 私は,まだ黙ったまま。
「あなたは私の息子だから愛してあげる。ってね。例えば,彼が勘当でもされたなら彼の家族は彼に何の関心も持たなくなるんじゃないかしら。彼がもし彼の家族の一員でなくても受け入れて貰えたか。こんな問は馬鹿げているわね。受け入れて貰えるはずないわ。でも彼はそれが悲しかったのね。だから,あんな・・・・・自分の得にならないことでもやっていた。」
 また、溜め息。崎宮さんは続ける。
「彼,笑いながら言ってたことがあったわ。”僕は恋愛というものに最後の望みを持っているのかもしれない”って。あんまり使い古された台詞だから言うのは気が進まなかったみたいだけどね。」
 私の知らない彼。でも,彼はやっぱり私の好きな人。
 私は耳を傾けたけれど,彼女の話はそれで殆ど終わっていたようだった。
「だからね。彼は最近は幸せだったと私は疑っていないわ。だって,あなたが彼の側にいたんだから。」
 私は空になったココアの缶を握りしめる。
「それでも!!でも私は了君に死んで欲しくない!!私は了君と生きていたい!」
 想いが強くとも,私の叫びは,やはり何も生み出しはしない。
「ええ,私もよ。」
 彼女の呟きも,何も生み出しはしない。
 私は自分でも知らないうちに祈っていた。

 しばらくすると彼の家族らしき人達が集まってきた。
 ざわざわと騒がしくなってきたけれど,私は気にせず祈り続ける。
 もう,一日一日がつまらないなんて思わない。彼がいれば無気力感なんて忘れていられる。私が私の人生を生きることができる。

 彼がいれば。

 神様,私には彼が必要です。
 都合のいいときだけですけど祈らせて下さい。

 どうか,彼と私に一緒の時間をもっと下さい・・・・・・・




  了




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