A week of Kyouko 第2回
彼を助けてください・・・・・・・・
私のその願いは、結局のところ叶わなかった。手術をした後、三日で彼の意識は戻り、その翌日彼は亡くなった。
私は、心の底から感謝したばかりの神を呪った。
<金曜日>
肌寒い風が吹きつけてくる。雲がちらほらと見える空と心許ない太陽を見て、私はコートの襟を立てた。
「うぅ、寒いわねー。もう冬真っ盛りって感じ。」
隣を歩いている麻弥子が盛大に呟いた。私よりも一回りは大きなダッフルコートを着て、口元にマフラーを巻いている様はまるでマスクを付けているように見える。
「そうね。」
いつもながらの私の気のない返事。麻弥子が気にした様子はない。私がどういう性格か分かっているから、これが特に珍しいことではないと理解してくれているのだ。
お互いある程度まで性格が分かると気を使わなくていいのは良いことだと思う。
「そうそう。この間さ、陽子がおいしいたいやき屋教えてくれたんだ。ここから近いんだけど、食べに行かない?」
「・・・悪いけど、今日はちょっと行くところがあるから。」
前を向いたまま話していた麻弥子が不意にこちらを見る。
「あんた金曜日の放課後は何故かいっつも付き合い悪いわね。バイトでもしてるの?」
「ううん、別に。してない。」
はぁっ、と軽くため息をつくと麻弥子は再び前を向いた。
「まあ、いいけどね。たいやき屋にはあたし一人で行くわ。」
「ごめん。」
「気にしないで。おいしかったら今度は二人で行けばいいわ。」
硬いアスファルトを歩きながら、白くなる自分の吐く息を眺める。風はいつの間にか止んでいた。
「それじゃ、また明日。」
「うん。また明日。」
分かれ道で麻弥子と別れると、私はそのまま歩きつづけて街の方へ出る。家とはもう随分距離が離れてしまった。
そのまましばらく街を歩くと、もう見慣れた貸しビルが見えてきた。そのまま躊躇なく階段を登り、三階まで来ると一つだけあるドアの前に立った。
看板には、”崎宮カウンセラーセンター”と書いてある。白地に黒のシンプルな看板。ドアの向こうには人の気配がする。お客が来ているのだろう。
私はドアを開けた。そこは待合室で、長椅子が二つと本棚と観葉植物が置いてあるシンプルな部屋だ。本棚には色んな種類の本が所狭しと詰めてある。
奥の扉には”しばらくお待ちください”と書いてある看板が取り付けてあった。紐で下げてあって、裏にすると多分”どうぞお入りください”となるのだろう。
部屋の中には私の他にも人がいた。薄い茶色の帽子に同じ色のスーツを着た老人だった。こちらを見るとにこりと会釈してくる。私も慌ててお辞儀を返すが、内心少し驚いた。心理カウンセラーなどに来る人は、大抵がストレスに押し潰されそうなサラリーマンだったり、ノイローゼになった主婦とか、要は他人に対して余裕のない人たちばかりだと思っていたからだ。現に、以前ここに来た時にいた人は、ブツブツとわけのわからない言葉を呟きながらたまに悲鳴を上げそうになる、と見るからに精神的に疲れている人だったのである。
「座らないのかい?」
突然、その人が口を開いた。
「え、あ、はい。すみません。」
私はそそくさと空いている椅子に座る。
その人は、やはり相変わらず余裕たっぷりに、しかし何処か寂しそうに部屋の隅の方を向いて虚空を眺めている。
席につくと私は、何となく手持ち無沙汰になっていた。私は別にカウンセリングを受けに来たわけではなく、別の用事でここに来ている。その用事は別にここで待つ必要のないことなのだが、カウンセリングをしている最中の診察室(?)に突然入るのは気が引けるのでこうして待っていた。
窓の方を向いたが、特に面白い物は見えない。隣のビルの壁と、その端に小さく空が見えるだけだ。
私は目を閉じた。目を閉じると、世界は見えなくなる。彼のいない世界が見えなくなり、私の記憶の中の彼が私の瞼の内側でこちらを見ていた。
”何かしなければと焦ると、かえって気を使うことにもなります。気楽にしていればいいんですよ。”
彼の言葉と顔を反芻している時、私の心は暖かみをとりもどす。これが、今の私の数少ない幸せだった。
「どうも、ありがとうございました。」
扉を開ける音と、カウンセリングを受けていたのだろう人の声によって、私の意識はこちらの世界に戻る。私は目を開けた。そこに彼は、いない。当たり前なのだが、私は一つため息をついた。
「次の方、っと。恭子ちゃん、来てたのね。お線香上げるのなら、奥の部屋に入ってちょうだい。あ、お客さんどうぞ入ってください。この子はお客じゃありませんからお気になさらず。」
呼ばれた老人は、私と崎宮さんの会話には特に注意を払った様子もなく、ゆっくりと立ち上がった。私も立ち上がり、扉を開けるとその人が入るのを待ち、閉める。ここが診察室なのだが、私は更にもう一つ奥の扉を開き、崎宮さんの私室にお邪魔した。崎宮さんとさっきの老人は部屋でカウンセリングを始めるのだろう。
私は、崎宮さんの整頓された部屋の一角を占領している仏壇の前に座り、線香に火をつける。手を振って線香の火を消し、煙だけが出る状態にするとそっと仏壇に置いた。鐘を鳴らして、手を合わせる。
仏壇にある写真は、彼のものだった。
彼の葬式のときに、崎宮さんが遺骨の一部を譲ってもらったのだ。遺族が墓まで持っていくのは頭と手と足の一部など、つまり全身ではない。残った骨は、火葬場で処分されるので、崎宮さんが遺族の人に譲ってくれと申し出たときも特に断られもしなかった。
それから、私は一週間に一度ここに線香を上げに来ている。
彼が亡くなってから、一ヶ月が経っていた。
<土曜日>
週休二日制のおかげで私は土曜日に学校に行かなくてもいい。そのことはいいのだが、休日になると何をすると決まっているわけでもないので、その分私は一人でいる時が長くなり、それは彼の死後ちょっと辛い時間になった。
私は、用もなく外出する日が増えた。
「ありがとうございました〜。」
本屋の店員の明るい声を背に、私は公園に向かった。今日は昨日に負けず劣らず寒い日だったのだが、その公園は小高い丘の上にあり、しっかり防寒着を身に付けると昼間は結構日の光が暖かい。風が吹いていない日に限ってのことだったけど。
公園のベンチに腰を下ろすとその冷たさが伝わってきたけれど、気にせず本を開く。本の内容はちょっとしたファンタジーの物語だったけれど、本を読みながらも私はたまに顔を上げて公園の景色を眺める。目を休めるという意味もあるけれど、私はこの景色を見るといつも、彼とキスしたことを思い出してしまう。夜の暗がりと昼の太陽の下では印象は全く違うけれど、あの時のことは目に焼きついたように離れなくなるときがある。そういうわけで、私にとって読書にはあまり適さない場所なのだが、別の場所で読もうとは思わなかった。
鳥の鳴き声を音楽にファンタジーの世界に浸っていた私の心は、何やら奇妙な雰囲気の話し声で現実に引き戻された。
「三郎も駄目だって?ほ、これだ、な。」
「ああ、源五郎ももう四年も前に死んどったそうだ。・・・わし、パスじゃ。」
「長生きはするもんじゃないな。仲間は皆、いなくなってしまう。最後の一人には、なりたくないものだ。ほれ、健三の番だ。」
「まったくだ。・・・ん?わしの番か。」
何やら深刻な話題だが、何処か途中のセリフが滑稽さを出している。私がそちらの方を向くと、いわゆる”珍しい光景”というやつがあった。人を待っているわけでもないのに寒い中ベンチに座って本を読んでいる私が言えた事ではないのかもしれないが、変な光景だった。
砂場の上に老人が四人、向かいあって座ってトランプをやっていた。慣れない手つきでカードを置いていっている。どうやら七並べらしい。
(この寒い中、こんな所で一体何を・・・)
風が吹いたら飛んでいってしまいそうなトランプを見ながら、私はあきれてしまった。すると、向こうもこちらに気がついたらしく、一人が私の方を向く。
「そこのお嬢さん、あんたも一緒にどうかね。」
「おお、別嬪さんじゃないか。」
「本を読むことも大切じゃが、人との交流というのも劣らず大切じゃぞ。」
「理屈っぽいぞ、嘉治。もっとざっくばらんに話さないと最近の若者にはついていけんもんじゃ。」
「えらい小難しい言葉を使うじゃないか、奥津。ざっくばらんとは何じゃ?」
「あ、・・・・・・。何じゃったかのう?」
私は小さく吹き出してしまった。変な人たちかもしれないが、悪人には見えない。
「あの、どうしてこんな所でトランプをやっているんですか?」
「そうそう、それじゃ。聞いてくれよ、お嬢さん。息子や孫が冷たくてな、こうも人数がおると家にいさせてくれんのじゃよ。そこで仕方なく文句をいわれないここで同窓会をしておるというわけじゃ。」
「同窓会をしていたんですか?」
「そうは見えんじゃろう?じゃがな、わしらは別に金をもっとるわけでも人数が多いわけでもない。まあ、昔は多かったがな。この面子なら見栄を張るのもお互いに馬鹿らしいからのう。」
「それでも、公民館とかあるじゃないですか。公民館なら入って悪いことはないですし、少なくとも公園よりは暖かい筈ですよ。そこでは駄目なんですか?」
「ほう、この辺にはそんな便利なもんが建っとるのか。お嬢さん、良ければその公民館の場所を教えてもらえんだろうか。」
こうして私から公民館の場所を聞いたその人たちは揃ってそちらに移っていった。私もどうかと言われたが、そろそろ帰宅しようと思っていたので断った。少し残念そうな顔をしたその人の後姿を見て、私は初めてその人が昨日カウンセリングセンターで会った人だと気がついた。声をかけようとしたが、もう公園を出ようとしているところだったので思いとどまった。
その日私は、何だか奇妙な気分のまま家に帰った。
<日曜日>
「駄目よ。それは商売の上での最も基本的な守秘義務だもの。第三者においそれと話せる事じゃないわ。聞くのなら私ではなくそのおじいさんに聞くのね。」
昨日の人達に興味を持った私がその人について聞いてみた崎宮さんの返事がこれだった。当然といえば当然のことなので何も言うべき事はない。口に出した後で後悔してしまった。
「まあ,例え話したとしても恭子ちゃんにはまだ分からないかも知れないわ。そういう類の問題よ。」
帰り際に言ったその言葉がどんな意味を持つのか,その時の私には分からなかった。
一言で言えば,変な人達である。深刻な話をしているのかと思えば,妙に気が抜けていてその上社交的だ。何が変なのかはわからない。少なくともそれをはっきり言葉にすることは難しい。私には,あの人達の持っている感情はひょっとしたら彼を失った私と共通する物があるのではないかと思えていた。
貸しビルから出た私は,昨日とはうって変わった冷たく強い風に吹かれながら,何となく公民館へ向かっていた。
昨日の人達はそこにいた。しかも,私を覚えていたようで一人が私の顔を見ると声を掛けてきた。
「おお,昨日のお嬢さんじゃあないか。来てくれたのかい?」
「え、ええ。まあ。」
私はすこし慌てた。何となくここに来たが,別にこの人達に会おうとはっきりと決めていたわけではない。そして私は,自分が慌てたことによって私自身が実はこっそり様子だけ見て帰ろうと心の奥で思っていたことに気が付いた。
「お嬢さんのお陰で,わしらは寒い風に吹かれんですんだんじゃ。ありがとう。」
「うんうん,そのとおりじゃな。」
その人達の言葉はあくまで率直で,しかも素直に私の心に響いた。
「あ、ありがとうございます。」
短く呟き,もう少し気の利いた言葉を言えたらなぁ,と私は思った。
「どうじゃ,お嬢さんも。」
そう言って将棋の駒を示して見せた。今日は将棋を指しているらしい。
「でも、ルールを知らないんです。」
「大丈夫。それならわしが教えよう。」
二人づつ対局していた将棋板をあっさりと片付けて、一枚の将棋板が私の前に置かれると向かい側に四人のうち一人が座った。頭が綺麗に禿げ上がって、柔和そうな顔をしている。
「それじゃ、私がお相手しますか。徳光昂進です。どうぞよろしく。」
手を差し出してくる。話し方といい、動作といい実に若々しい。外見は紛れもなく老人なので年齢は誤魔化せないだろうが、下手な若者よりはよほど体力を持ち合わせていそうである。
「水無瀬恭子といいます。よろしくお願いします。」
私は手を握り返す。そのまま席につくと、私の両隣の席に残り三人の内の二人が腰掛ける。
「恭子さんか、いい名前だ。わしは北園健三じゃ。お隣、よろしいですかな?」
二人のうち一人が、もう殆ど座りかけの状態で言った。私が会釈を返すと、そのまま腰をおろし椅子に座る。室内でも帽子を被っているのだが、妙にそれが似合う。
「わしは高瀬徳之進。将棋ならわしが一番じゃ。わしが教えたなら恭子さんも名人になれるぞ、きっと。」
そう言ったのは、白髪を肩まで伸ばした涼しげな表情の人だ。笑みを消すととっつき難い中々の男前に見えるが、笑っていると人懐っこい好々爺と言うのがぴったりの顔だ。
「やれやれ、両側に座られてはわしは敬之助の口添え人になるしかないか。甲坂敬之助じゃ。よろしく、恭子さん。」
そういって意味深げに微笑んだのは、先日崎宮さんのカウンセリングセンターで出会ったあの人だった。今日は帽子を被っていないので綺麗に真っ白になっている髪が見える。落ち着いた雰囲気の人だった。
簡単な自己紹介の後、ひとときの将棋勝負が始まった。
勝負は二勝三敗で私の負けだったけれど、初めてやったにしては良くできたんじゃないかと思う。高瀬さんは非常に教えるのが上手く、私は一回戦が終るまでに全ての駒の働きを把握することができた。筋がいいと誉めてくれたけれど、私は高瀬さんの教え方が良かったものだと思っている。北園さんは勤めて静かになりがちな対局中の空気を和ませてくれた。私にとって久しぶりに楽しい時間は、夕方まで続いた。
明日は放課後にまた来ることを約束し、私達は解散した。同窓会だというから何処か一箇所に集まっているのかと思っていたけれど、そうではないらしい。北園さんは旅館に部屋を取っているし、高瀬さんは近くの息子の家に泊まっているそうだ。
私は、帰る方向が同じ甲坂さんと共に、静かな広い道の端を歩いている。夕方になっても、剥き出しの頬に当たる風は冷たかった。
聞いてもいいものかどうか散々迷ったが、私は結局甲坂さんに先日のことを聞いてみることにした。
「あの、一つ聞いていいでしょうか?」
「ん?ええ、かまいませんよ。何ですかな?」
「何故、カウンセリングセンターに来ていたんですか?貴方は何か心配事があるように見えませんし、その」
私の話を手でさえぎると、甲坂さんはこころもち歩調がゆっくりになり、静かに口を開いた。
「恭子さんの言いたい事はわかるつもりじゃ。カウンセリングセンターに行くのは、大抵がストレスに負けたような者だというんじゃろう?それはそのとおりじゃ。しかし、ストレスとは別のところで辛いこともあるじゃろう?それが身体に負った傷なら病院へ行くのが道理、しかし心の傷はどうなさる?誰も話を聞いてくれる者がいなかったなら、ああいったところへ行くのも一つの手段じゃあなかろうか。」
「心に負った傷、ですか・・・・・・」
私の脳裏に彼の顔が浮かんで消えた。
「恭子さんくらいの歳だと、失恋かな?無論、わしがあそこへ行った理由は失恋ではない。何というかな、わしらの世代の持病のようなものじゃよ、多分。それ以上は、今は上手く説明できん。言ったとしても、恭子さんに分かってもらえるかどうか分からん。」
甲坂さんの口調はあくまで静かで淡々とした物だった。
「じいちゃん!!」
突然正面から声がかかって、前を見ると若い男性が立っていた。私と同年代か、それ以上に見える。呼び方からすると、甲坂さんの孫のようだ。色を抜いたのか、髪の毛は薄い金色、耳が夕日を反射しているのはピアスかイヤリングをしているのだろう。あからさまなチンピラ的な表情をしている。
「何処いってんだよ、ったく。俺、探して来いって言われたんだぜ。」
実の祖父(多分)に向かってまるで絡むような態度である。甲坂さんは特に態度を変えた様子もなく、落ち着いた様子だ。
「隆夫には言っておいたはずじゃが・・・・」
「父ちゃんは会社だよ。家にいる奴に言ってくれよな。」
「そうか、すまなかったな。明日からはそうしよう。」
ふと、何かに気が付いたようにその人の表情が変わる。私に気付いたのだ。
「え?あ?・・・じいちゃん、誰だよこの人。」
「わしの友人だ。」
小声で言っているつもりなのだろうが、内緒話という奴をしたことがないのか、丸聞こえである。
「あ、えーっと。俺、この人の孫で甲坂啓次っていいます。何か祖父がご迷惑をかけなかったでしょうか?」
表情も口調も大した変わりようである。さすがに髪の色までは変わらなかったが。もっとも、私はこの手の反応にはなれている。
「水無瀬恭子です。甲坂さんには良くしていただいて、ご迷惑をおかけしたのはこちらの方ですよ。」
「え?あ?そう、いやそうなんですか?」
慣れない口調なのか、しどろもどろである。
「もうよかろう。啓次、帰るんだろう?」
甲坂さんが出した助け舟で、孫の啓次君もようやく落ち着いて、一緒に帰っていった。啓次君の後姿を見ると、先程までのぎすぎすした雰囲気はなく、甲坂さんも満更ではなさそうである。こういう姿を見ていると、仲の良い家族の姿という感じがする。
「私も、帰ろう。」
小さく呟くと、なるべくうつむかないようにして歩き始める。私は祖父の顔さえ知らない。祖母と母は、話をすれば私の皮肉しか言わない。私は家に帰るのが嬉しくない。
冷たい風を頬に感じながら、道を一人、歩く。彼と共に歩いた記憶は、私の宝物。でもその時の幸せと全く同じものを感じることはできない。もうできない。
雲が流れていく空を見上げながら、私は家路についた。
<月曜日>
私は寝るときにベットの傍の窓のカーテンを開けてから寝る。ベッドの傍の窓は東側なので朝日が差し込んできて目覚まし代わりになるからだ。何年も同じ目覚し時計を使っていると、耳が慣れて体が反応し目が覚める前に止めてしまう。カーテンを開けておくだけで済むのは楽だし、私の家の東側には川があって近くに高い建物もない。開けておいてもあまり害がないのだ。しかし、無論のこと曇りや雨の日は効果がない。
今日、月曜日はそんな曇りの日だった。
「文句言うくらいなら起こしてくれてもいいのに。」
鞄と傘を抱えて通学路を走りながら、私は心の中でぼやいた。
今朝の天気は曇り。今にも雨が降ってきそうな重たい感じの雨雲が空全体を包み込んでいる。例によって開けていたカーテンの効果がなかったためぐっすり寝過ごし、慌てて二階の部屋を出て居間に下りるといつもよりも五割増の音量で小言を聞かされた。”時間がないから”と途中で小言を切り上げて朝食を取らずに玄関を出て、私は学校への道を急いでいる。
アスファルトの固い地面から来る感触が未だはっきりしない頭を軽く小突いているように感じられる。鞄もいつもより重く感じる。
「あ、おはよー。恭子じゃない。珍しいわね、こんな時間に。」
横手から掛かった声に足を止め、息を整える。麻弥子が私とは対照的なゆっくりとした歩調で歩いている。
「おはよ。そんな歩き方で間に合うの?」
「恭子、あんたはいつもたっぷり余裕持って登校してるから知らないだろうけど、このくらいでも一時限目のベルには間に合うの。まあ、最後は走らなきゃいけないけどね。」
それを聞いて、私も抱えていた鞄を片腕に持ち替え、麻弥子と同じ歩調で歩く。
「焦って損しちゃった。」
ぼんやりと窓の外を眺めていた私は、教師がヒステリックに黒板を叩く音で我にかえった。周りを見ると、ぼーっとしていたのは私だけでなく生徒の三分の一くらいが机に突っ伏している。無論、机にかじりついて勉強しているわけではなく、寝ているのだ。
「最近お前らたるんどるぞ!!何のために学校に来ているんだ!?受験はもう目の前なんだぞ!!分かっているのか?」
教師のヒステリックな声が私の耳には遥か遠くに聞こえる。教師の声で渋々上体を起こしたのは二、三人といったところだった。
それを見て何かに耐えるような表情をした教師は、背を向けて授業の続きを始めた。
「えー、そして、当時の大日本帝国は、満州鉄道の爆破を中国側の行った行為として戦争の口実にした。いわゆる、満州事変だ。これに対し国際連盟、国際連合じゃないぞ、当時は連盟だったんだ。国際連合はリットン調査団を派遣し、その結果連盟はこの事件を日本側が引き起こした狂言だと結論付けた。そして、国際連盟で日本が出した満州国設立案は却下された。日本以外の国は皆反対し、日本は連盟から脱退。日中戦争が始まった。」
黒板には、ごく短く文が書いてあるのみなので、足りない分は自分で書き足さなければならない。シャープペンシルを動かしながら、私は聞いた事を短く走り書きする。ぼーっとしていた分、授業が終ってからまとめなくてはいけないだろう。
「この戦争の開始は皆も知ってのとおり、第二次世界大戦の前半だ。第二次世界大戦は悲惨な戦争だった。そして、それを二度と繰り返してはならないことを私達は覚えておかなくてはならない。その中で日本がやった過ちと共に、な。」
珍しく詩的なことを言うと思っていたら、チャイムが鳴り響いた。残り時間との辻褄を合わせるために洒落てみたのだろう。
「さて、次回は日中戦争の中身と太平洋戦争についてだ。じゃあな。」
授業道具をまとめると、そのまま教室を出て行く。それがスイッチになったかのように教室の中は喧騒に包まれた。さっきまでの睡眠授業が嘘のような活気である。
私は小さく吹き出した。
「なーに?随分余裕ね。次回の日本史の課題レポート、もう済んだの?」
それを見た隣の席の麻弥子が話し掛けてくる。麻弥子の表情は苦虫を噛み潰したようである。
「あ、忘れてた。」
「でしょう?あの教師、皆が忘れてることを期待してさっき何も言わなかったのよ、きっと。腹立つわねぇ。」
「身近な人の戦争体験とそれについての感想、だったっけ?」
「感想じゃなくて意見だけどね。きっとディベートでもさせる気なんだと思うわ。」
話していると、麻弥子の表情が少し緩んできた。他人に話したことで少しは溜飲が下がったのだろう。
「身近な人に戦争体験者なんていたかな?」
呟いた私は、再び窓の外を見る。あの人達に聞いてみるのもいいかもしれない。
「青春ねぇ、恭子。誰のこと考えてるの?」
「は?」
私は思わず間の抜けた声を出してしまった。麻弥子は”分かってるわよ”といわんばかりの表情をしている。
「とぼけちゃってぇ。誰かいい人のことを考えていたんじゃないの?」
「・・・ひょっとして、私が外を見るたびにそう思ってたの?」
「違うの?」
「違うわよ。」
「なぁーんだ、期待して損しちゃった。」
私の冷静、というより冷めた対応に麻弥子はあからさまに気の抜けた顔をした。
放課後、公民館で私が甲坂さん達にそのことを聞くと、丁度やめる機会をうかがっていたのか将棋板を片付けて私と向かいあう形で席についた。
「戦争か・・・・・」
そう呟いた甲坂さんの口調は重く,表情は疲れに似ていた。私は聞くんじゃなかったと思ったが,どうしようもない。空気が重くなりかけた時突然,北園さんが底抜けに明るい声を出した。
「あの頃は楽しかった!!」
え?,と北園さんの顔を見ると,心底楽しそうな表情をしている。
「皆で毎日のようにやった戦争ごっこは忘れられん。家の仕事を手伝えとうるさく言ってきた親には”立派な兵隊になる訓練だ”と言って出かけて,日が暮れるまで遊び回ったもんじゃ。」
それを聞くと徳光さんがすかさず相づちを打つ。
「おお,そう,そう。グループ同志で喧嘩もしたし,共同で”兵糧確保作戦”なんと言って畑に盗みに入ったりもした。懐かしいなぁ。」
「あれは楽しかったなあ。普段から威張りくさった金持ちの畑に潜り込んで,追っ手用の罠なんかを仕掛けながらせっせと畑泥棒をしたもんじゃ。」
そう言う高瀬さんの顔は,無くした宝物を見つけたときのような無邪気な笑みを浮かべていた。私は一息付くと,甲坂さんの表情を見る。甲坂さんの顔も,先程落ち込んでいたのが嘘のような笑顔だった。
「わしらはあの時はほんの子供じゃったからなあ,無邪気に毎日遊びほうけておったよ。食べ物は少なかったから腹は減ったが,その分は畑泥棒でしのいだ。今と比べると不自由ばかりの時代だったが,不自由は皆で遊びながら笑い飛ばしたものさ。不自由なのは,皆同じ。その中で思いっきり遊んで,夢中になって,必死だった。あの頃は楽しかった。今になっても,わしはあの頃はよかったと思う。」
私の顔を見て言った徳光さんのその言葉は,私に何か言い知れない感情を与えた。
その後,私が二、三の話を聞いた後,解散した。高校生の放課後の時間はそんなに多くないものなんだなぁ,と今更ながら私は少し残念に思った。
話しているときの甲坂さん達は本当に楽しそうで,私もその楽しい雰囲気に溶け込まれていた。暖かく,懐かしい日々。私が持っているそれは,勿論甲坂さん達とは量では比べものにならないだろうが,心の中でとても大事にしているという点では共通するものがあるような気がした。
今日は,帰り道は少しいい気分。
雨も結局降らなかったみたい。
続(申し訳ありません。凍結しました。次回掲載はいつになるか不明です。)