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5月の爽やかな風を受けながら、美しい初夏の聖地をヴィクトールは走っていた。
一定のリズムを刻んでいる鼓動を心地よく感じながら空を仰ぐと、一筋の風が髪を撫でつけていった。 彼がこの聖地へ召喚されてから、はや1ヶ月が過ぎようとしている。 考えていたよりもずっと平和で美しい聖地は、今まで身を置いていた世界に比べ退屈ではあったが、それなりにヴィクトールは今の生活を気に入っていた。 正直言って、このような堅苦しい上位の世界での生活に不安があったという事実は否めなかった。 女王陛下や守護聖といえば、下界の王立軍にいた頃は守るべき、雲の上の人物だった。それが実際顔を会わせ言葉を交わしてみると、庶民である自分と何ら変わる所もなく、ヴィクトールは一気に肩の力が抜けていくのを感じたのだった。 「ヴィクトールさーーーん!」 遠くから自分の名を呼ぶ声が微かに聞こえ、ヴィクトールは速度を緩めて声の主を探したが、やがて手を大きく振りながら自分を目指し走ってくる人物の姿を認め、完全に足を止めると手を振り返した。 「はあ、はあ・・・」 身体を屈め、膝に手を当てながら肩で息をしていた明るい栗色の髪の少年が、大きく空を仰ぐと微笑んだ。 「おはようございます、ヴィクトールさん!」 その笑顔に引き込まれるように、ヴィクトールも微笑み返した。 「おはようございます。ランディ様。」 この少年とは、一週間ほど前に知り合った。正確には教官の即位式の時に顔を合わせてはいたのだが、その後すぐに女王試験の準備に取りかかった為、忙しさにかまけて守護聖達と近づきになるチャンスがなかったのだ。 やがて身辺整理がひと段落した頃ヴィクトールは王立軍にいた頃の日課であった、朝のロードワークを再開する事にし、この少年に出会った。 初日は、守護聖でありながら一般人となんら変わりのない彼の振る舞いにただただ驚かされたが、やがて嫌みのない、気さくで明るい言動に強い親しみを感じるようになるのに、そう時間はかからなかった。 同じ教官仲間であるシニカルな感性の教官セイランに言わせれば、彼には教養がついていないだけで、実際に学習館が必要なのは女王候補よりもむしろ彼の方だ。との事だったが、いずれにせよヴィクトールはこの少年を気に入っていた。 「今日も早いんですね。俺なんかまた寝坊しちゃって・・・ハハ、まあ、いつもの事なんですけど。」 「遅れても、日課をきちんとこなしているのですから、大したものですよ。」 ヘヘ、と嬉しそうにはにかむランディの表情を、ヴィクトールは好ましく思った。 「なんだか一日でもサボると、身体がなまっちゃうような気がして。」 「今日はこれからお仕事なのですか?」 「いいえ。俺、今日はオフなんです。風の力は飽和状態で、お休み。・・・俺、前の女王試験の時もそうだったんですけど、なんだか力が入っちゃって。ジュリアス様にも張り切り過ぎだ。って叱られちゃいました。」 ハハハ、とヴィクトールが声を立てて笑った。 「貴方らしいですね。」 「あっ、ヴィクトールさんまで!どういう意味ですか!」 ランディがブーッと膨れてみせた。 「申し訳ありません。悪い意味ではないんですよ。仕事熱心なのは素晴らしい事ではないですか。」 「・・・なんかうまく丸め込まれたような気がするけど・・・誉め言葉として受け取っておきます。」 腑に落ちないといった表情のランディに、ヴィクトールは再び笑い出した。 「そういえば、学習館ってまだお休みなんですよね。ヴィクトールさんはまだ準備で忙しいんですか?」 「ええ、まあ・・・。そうだランディ様、もしよろしければ、学習館の俺の私室に来ませんか?」 「えっ!?」 ランディが目を丸くし、ヴィクトールはハッと我に返った。 いくら親しみやすい少年とはいえ、守護聖には変わりないのだ。知り合って一週間やそこらだというのに自分の私室に招くなどと、なんと無礼な事をしてしまったのだろう。 「も、申し訳ありません。軽はずみな行動、お許しください。」 「・・・本当に、行ってもいいんですか!」 ヴィクトールのセリフとほぼ同時にランディが言った。 「え、ええ。」 「うわあ、俺、すごく嬉しいです!学習館の中、見てみたかったんですよね。」 興奮したように瞳をキラキラ輝かせながら笑顔を見せるランディに、ヴィクトールは安堵の息をついた。 「そうまで喜んで頂けると、私も嬉しいです。・・・安心しました。無礼な事を言ってしまったと思ったものですから。」 「無礼だなんて、そんな、やめてくださいよ。守護聖って言っても俺、貴方よりずっと年下なんですから、普通にしてください。それに、俺、そんな大した人間じゃないですし、そういうの、やめましょう、ねっ?」 かえって恐縮したようなランディのセリフに、ヴィクトールはますます好感を抱いた。 「ありがとうございます。そう言っていただけると、俺も気が楽です。では、行きましょうか?」 「今度、俺の家にも遊びに来てくださいね。」 学習館へ歩みを向けながらヴィクトールは、自分の後を嬉しそうについてくる少年への不思議な想いが込み上げてくるのを感じていた。 |